救済の星 :フランツ・ローゼンツヴァイク著




フランツ・ローゼンツヴァイク著
村岡晋一・細見和之・小須田健 訳(みすず書房)



ついに、という言葉がもっとも相応しい著書が刊行された。ローゼンツヴァイクの『救済の星』の邦訳(A5判・695頁+索引15頁・9500円・みすず書房)である。原著の刊行が1921年だから約90年たってやっと邦訳が出たことになる。この時のへだたりの大きさが本書の翻訳の困難さを端的に物語っているといえよう。本書の名前だけは、少しでもベンヤミンやE・ブロッホなどの仕事に触れたことのある人間ならば誰でも知っているはずである。だが実際に本書を手に取ればただちにわかるだろうが、本書にはおよそ読解など不可能なのではないかと読者に思わせてしまうような根源的難解さが内包されている。正直なところ私は、本書の翻訳などとうてい不可能なのではないかとずっと思っていた。古代ギリシア以来の膨大なヨーロッパ哲学の伝統、ユダヤ=キリスト教の神学的伝統、とりわけユダヤ教神学という日本人にとってもっとも馴染みの薄い世界などがごく当然のように前提とされ、しかも全篇がローゼンツヴァイク独特の強靭な思弁的思考に裏打ちされたドイツ語文体によって貫かれている本書は、なまなかなアプローチなど全面的にはねつけてしまう手強さ・厳しさに満ち満ちているのである。
 
 本書の難しさの理由はそれだけに尽きない。本書の原著が刊行された1921年という年をあらためて想い起こしてほしい。第一次世界大戦の敗北から間もないこの時期のドイツ社会は、敗戦に伴なう社会的混乱、とりわけ巨額の賠償金の重圧や破滅的ともいえるインフレの進行、革命運動の勃発に伴なう左右間の対立の激化などにより危機の極みともいうべき状況にあった。それはある種の終末論的状況といってもよいかもしれない。そうした中から、第一次世界大戦とそれに続く社会危機という「破局(カタストローフ)」へと至りついた近代ヨーロッパ文明の歴史性、さらにはそれを根底において支えてきた理念や思想に対するラディカルな問い直しをはらむ営為が次々に登場してくる。同じ21年にはベンヤミンの「暴力批判論」および「翻訳者の使命」が、さらにはすでに18年に『ユートピアの精神』を刊行していたブロッホの『トマス・ミュンツァー』が発表されている。前年の20年にはルカーチの『小節の理論』が、そして2年後の23年には『歴史と階級意識』が公刊される。やや遅れるが、そこに27年に刊行されたハイデガーの『存在と時間』を加えることも出来るだろう。あるいは本書のあとがきに挙げられているカール・バルトの『ロマ書講解』(1918年)も加えてもよい。もっともこの時期には、シュペングラーの『西欧の没落』(1918年)やヒトラーの『我が闘争』(19235年)も刊行されている。戦争後の社会危機はドイツにおける全体主義(ナチズム)への道をも育んだのであった。
 
 このような禍々しさをもはらむ危機的=終末論的状況の中から登場してきた上記のような営為に共通していたのは、既存の、というよりも世の常識として通用してきた様々な価値や規範に対する徹底した問い直しの姿勢であり、より端的にいうならばそれらへのラディカルな異議申し立ての姿勢であった。法=支配の暴力と滅罪の暴力としての革命の暴力の緊張に満ちた葛藤関係を抉ったベンヤミンの「暴力批判論」、宗教改革ラディカルズの代表格であったミュンツァーに仮託しながらユダヤ=キリスト教的伝統に底流してきた終末論のモティーフを革命のエネルギーとして再生させようとするブロッホの『トマス・ミュンツァー』などはその典型であった。だがこうした危機的=終末論的状況にあってもっとも根底的・本質的な思考の射程をはらんでいたのはなんといってもローゼンツヴァイクの『救済の星』であったといえよう。あらゆる既存の価値や規範をあらいざらい問い直さずにはおかないラディカルな思考が、これまた既存の言語体系や文体を根底から覆そうとするようなラディカルな表現スタイルと直裁に結びついてゆくという点において、本書はまさしく同時代の危機的=終末論的状況の定点、言い換えれば「星」としての位置を占めており、同時にそこにこそ本書の類を見ないほどの難解さのより根本的な理由が存在するのである。
                     

率直にいって本書の内容を短時間のうちに書評することは不可能に近い。したがって本稿の以後の内容が、まだ十分とはいえない本書に対する私なりの読みのレポートのレヴェルにとどまることをどうかお許し願いたい。
 本書に関して誰もが真っ先に取り上げるのは有名な冒頭の文章であろう。「<すべて>についての認識はすべて死から、死の恐怖から始まる」(本書3頁)。この文章において注目すべきなのが「死」の意味への着目であることはいうまでもない。だが最初のかっこに入れられた「<すべて>」という言葉にも目を向けることが、本書の理解において「死」の意味に劣らず重要であると思われる。というよりも、この「<すべて>」という言葉の意味との関連抜きには「死」の意味もまた捉えることは出来ぬであろう。

 人間が抱く死への恐怖の核心にあるのは、個人の死がいかなる代替も代行も許さないという事実である。言い換えれば個人には、つねに単独者として死んでゆくことしか許されていないということである。こうした死の単独性は当然にも個々人の存在、生の単独性を遡行的に照射する。個人の存在、生の共約不能な単独性が死の単独性、代替不能性を通して浮かび上がるのである。
 だが古代ギリシア以降のヨーロッパ哲学はこうした死の単独性、代替不能性とそれに基づく死への恐怖を「無」に向かって解消してしまった。「だが哲学は、すべての生のこの暗鬱な前提〔死は<無>ではなく、排除できない冷厳な<なにか>であること〕を否定することによって、つまり死を<なにか>とは認めず<無>にしてしまうことによって、みずからをまるで無前提であるかのように見せかける」(6頁)。この少し前で、「<無>の一にして普遍的な夜」という言い方をしていることを踏まえるとき、ローゼンツヴァイクのいう「無」の核心的意味が浮かび上がってくる。この「無」こそが「<すべて>」の本質に他ならないのである。言い換えれば西欧哲学が一貫して目ざしてきた普遍性、一般性の水位の真の起源とは、この「無」としての「<すべて>」なのである。西欧哲学は。本来「<なにか>」としての単独性、代替不能性を帯びた死を、「<すべて>」としての「<無>」に回収することによって、死と本質的な意味で向き合い対峙する道を放棄したのだった。だが「<無>」の意味はそれにとどまらない。ローゼンツヴァイクの「<無>の一にして普遍的な夜」という表現がレヴィナスの「イリヤの夜」を想起させることは、レヴィナスが「イリヤの夜」を人間から固有な死の意味―それは同時に生の意味でもある―が失われる瞬間として捉えていたことと併せて考える時まことに興味深い。レヴィナスの「イリヤの夜」がナチスの強制収容所という「死」の世界の体験から生じたように、本書の着想は第一次世界大戦という最初の大量殺戮戦争のさなかに塹壕の中で得られている(訳者あとがき参照)。この事実の符合は、死が名前を持たない普遍的運命として、すなわち「無(名)」として個々人の存在に降りかかってきた20世紀という時代におけるもっとも根源的な課題の所在を示しているといえよう。
 
 だがローゼンツヴァイクはこうした「無」を前にして次のようにいう。今のところ私が本書の中からつかみ得たもっとも本質的な内容を含んだ文章といってよいだろう。「哲学は、死の不安の叫び声に耳をふさぐ一にして普遍的な<無>、それだけが一にして普遍的な認識に先行すると哲学がみなしたがる<無>のかわりに、この叫び声に耳を傾け、戦慄すべき現実に眼を閉ざさないだけの勇気をもたねばならないであろう。この<無>は<無>ではなく<なにか>である。世界の暗鬱な背景には、その汲みつくしえない前提として、何千という死が控えている。<無>がただひとつであれば、ほんとうに<無>というものであろうが、控えているのはただひとつの<無>ではなく、何千という<無>であり、それはまさに多数であるがゆえに<なにか>なのである」(6頁)。
 ここにおいて極めて重要な思考上の分節線が見えてくる。それは従来の哲学における「唯一性(一)-普遍性(すべて)-<無>」という思考文脈と、ローゼンツヴァイクが展開しようとする「単独性-多数性-<なにか>」という思考文脈の対照から浮上してくる分節線である。この分節線は、そのまま「<なにか>」を具体的に名指す「名」をめぐる分節線に接合される。「それ〔個々人の意識が宇宙(コスモス)に解消されること〕が不可能だというのは、たとえこの意識に属するものが普遍的なものに翻訳されえたとしても、それが姓名をもつという事実、ことばのもっとも厳密でもっとも狭い意味での<自分だけのもの>は残るからであり、そして、そうした経験をした人びとが主張したように、ほかでもないこの<自分だけのもの>こそが問題だったからである」(9頁)。
 このくだりもいろいろな思考を触発してやまない箇所である。「名」の問題、とくに固有名の問題は、ベンヤミンの、先月取り上げた「言語一般および人間の言語について」や「翻訳者の使命」などの言語論の要諦でもあった。またアーレントがいう、多数性に対してそのうちにはらまれる「違い」を許容しながらオープンな共通性=公共性を保証しようとする議論もまた、それぞれの個人が持つ「名」の問題と深く関連している。「名」こそは単独性と多数性をつなげる環に他ならない。そしてこのつながりのうちに、唯一性と普遍性=一般性の結合を通して個々人から「名」を奪い、無名としての「無」へと追いやる西欧哲学の「暴力」へのもっとも根源的な対抗軸が存在するのである。

 とはいえこの対抗のためのより本質的な条件を明らかにする道筋はけっして平坦ではない。というのも以上述べてきたような問題は全三巻からなる本書の第一巻の内容に該当しているからである。そして窮極的な単独者としての「メタ倫理的人間」に帰着する第一巻のみの内容からはいまだ本質的な対抗の道筋は見えてこないのである。そのためには第二巻の主題である「対話」の問題、すなわち単独性と多数性の接合が、複数性として、すなわち他者-自己関係の問題として新たに捉え返されねばならない。いうまでもないがそれは単純な意味でのコミュニケーション理性の賞揚などを意味しているわけではない。問題は個々人が自己の存在を外部からの到来として、言い換えれば贈与として受け止めることである。ここには色濃く神学的な課題が絡んでくる(例えば「啓示」)。そしてこうした対話的構造を保証する「永遠性」の問題を問おうとする第三巻と併せてようやくローゼンツヴァイクの思想的射程の全貌が明らかになる。残念ながら今回はそこまでつぶさに検討する余裕がなかったため書評としてはなはだ不十分なものにしかならなかったことをお詫びしたい。
 
 それにしても本書を訳した訳者たちの労苦にはただただ感謝するしかない。とくにかつてベンヤミンの『パサージュ論』の翻訳で苦労を共にした村岡、細見の両君には心よりご苦労様と申し上げたい。もちろんもう一人の訳者である小須田に対しても同様である。本書が単純な意味で読みやすい日本語になっているわけではない。だが名のみ知られながら、その内容の知られることの少なかった本書が日本語で読めるようになったことの計り知れない意義はいくら強調しても強調しすぎることはないだろう。(2009.8)

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