思想としての翻訳 ゲーテからベンヤミン、ブロッホまで :三ツ木道夫 編訳










三ツ木道夫 編訳(白水社)





ドイツ文学あるいは思想の歴史を考えるうえで、翻訳の問題がたいへん重要な意味を持つことはよく知られている。17世紀のドイツ・バロック文学においてもっとも重要な作家と見なされていたのはスペインのカルデロンであり、その後彼の作品はほとんど「ドイツ文学」として扱われてきた。またシェイクスピアもつねにドイツ文学におけるもっとも重要な存在として受け止められてきた。そもそも近代に入っていわゆる「ドイツ文学」と呼ばれるもの、すなわちドイツ語で書かれたドイツ固有の文学が誕生したのは18世紀になってからといってよいだろう。このようなドイツ文学の後発性は、ドイツ文学のあり方や存在根拠に対してつねに、先行する外国文学(外国文化)に対する関係の意識化を強いた。当然そこに翻訳の問題が介在してくる。少し乱暴な言い方になるが、ドイツ文学はそれ自身がある種の「翻訳文学」であったともいえるだろう。
 
 ただ翻訳が外国語で書かれたテクストのドイツ語への移し変え、あるいはテクストの内容の翻案と紹介に留まっているうちは、翻訳問題はさして大きな意味を持たなかった。それは、わが国における幕末期から明治初期にかけての開化の時代には翻訳問題が存在しなかったのと同じである。そこでは出来るだけ正確かつ迅速に「進んだ」文化を取り入れることだけが問題であった。もう少し具体的にいえば、翻訳は一種の記号にすぎず、固有な表現としての意味を持たなかったということである。だがドイツ文学がその固有性に目覚め始めると表現としての翻訳の問題が登場してくることになる。それはちょうどゲーテの時代のことであった。
                   

ゲーテとともに始まったドイツ文学および思想の歴史における表現としての翻訳をめぐる問題に関しては、これまでほとんど研究がなされてこなかったが最近相ついで二冊の著作が刊行された。一冊は、昨年2月にみすず書房から発刊されたアントワーヌ・ベルマンの『他者という試練 ロマン主義ドイツの文化と翻訳』(藤田省一訳)であり、もう一冊は昨年末刊行され、今回取り上げる『思想としての翻訳』(B6判・251頁・3400円・白水社)である。これまでの研究史の穴を埋めてくれるこうした著作の刊行は、今後のドイツ文学・思想の研究にとって大きな意義を持っているといえるだろう。
 
 本書は副題にもあるように、先ほど提示したゲーテとともに始まる表現としての翻訳の問題を真正面から取り上げている。「読書案内―編訳者あとがきに代えて」において編訳者の三ツ木は次のように述べている。「文学・思想で用いられる言語表現は、具体的な個物を単純に代理しているわけではない。詩の一節に代えて個物を提示するわけにはいかない。むしろシュライアーマハーも語るように、文学・思想においては言語表現が具体的個物との対応関係から解放され、それ自体として自律している。翻訳においても、こうした自律的表現を対象とする場合には、さまざまな方法が検討されねばならず、翻訳文自体も自律した表現でなければならない。文学・思想の翻訳者には、言語表現に関して、〔オリジナルの原文=外国語のテクストとしての自律性と、翻訳文=自国語のテクストとしての自律性という〕いわば自律性への配慮が二重に要求されていることになる」(242頁、〔 〕内書評者)。
 
 表現としてそれぞれ自律的であるところの二つの異なる言語表現間の出会い・交通が翻訳であるとするならば、三ツ木がいうように翻訳には、それぞれの言語表現の持つ自律性をどのように配慮すればよいのか、あるいはそれぞれの自律性を尊重しながらも表現としての翻訳自体の自律性の力点をどちらに置くのか、さらには言語表現を構成する二大要素といってよい個々の語と全体の文脈のどちらに即しながら翻訳を行うべきか、等々の「方法」の問題が必然的に生じてくる。本書は、そうした翻訳の「方法」の問題を軸にしながら、ゲーテの他、19世紀ドイツにおける解釈学の創始者フリードリヒ・シュライアーマハー、ベルリン大学の創立者であり政治家、言語学者だったヴィルヘルム・フォン・フンボルト、古典文献学の最高権威といわれたヴィラモーヴィッツ=メーレンドルフ、19世紀後半から20世紀前半にかけてのユダヤ系ドイツ人作家・翻訳家ルートヴィヒ・フルダ、若くして戦場に斃れたヘルダーリン研究の先駆者ノルベルト・ヘリングラート、後に挙げるベンヤミンの翻訳論にその名が引用されていることで知られる哲学者のルドルフ・パンヴィッツ、ゲオルゲ・クライスのメンバーだったカール・ヴォルフスケール、20世紀ドイツ最高の散文家といってよいヴァルター・ベンヤミン、『ヴェルギリウスの死』などの作品で知られるオーストリアの作家ヘルマン・ブロッホという10人の文人の翻訳論を収録し、最後に三ツ木の「あとがき」を加えた形で構成されている。
 
 まずゲーテから見てゆこう。ゲーテは翻訳には二つの原則があるという。一つは、「異国の作家を私たちの側へもたらすこと、しかもその作家を自国の作家と見なすことができる程に」という原則であり、もう一つは「私たちが自ら異質なものの側へ赴き、異質なものが置かれている状況やその言語用法、その特性に身を置くべきなのだ」(16頁)という原則である。早くもゲーテにおいて翻訳という言語表現、その自律性の力点が、原文の側にあるのか自国語の側にあるのかという本質的な問題が提示されている。これに対するゲーテの立場は、基本的に前者の原則の側にあったと考えてよいと思うが、同時に翻訳をめぐるさらに根源的な問題へとつながる言葉も残している。それは、「ギリシアとローマの言語こそが、今日に至るまで私たちに貴重な賜物を伝えてきたのだ」(17頁)という言葉である。このゲーテの言葉は、自国語か原文かという単純な二者択一を超える問題の圏域の所在を示唆している。
 
 シュライアーマハー、フンボルト、ヴィラモーヴィッツ=メーレンドルフ、そしてヘリングラートが取り上げているヘルダーリンらの例をまつまでもなく、ドイツにおける翻訳の中でとくに重要な意味を持っていたのがギリシア・ローマの古典の翻訳であったことはよく知られている。この古典翻訳はドイツの文学・思想のあり方にとって二重の、あえていえば相互に矛盾する課題を投げかけているように思われる。一つの課題はいうまでもなくギリシア・ローマの古典世界へのあくなき接近という課題である。ヴィンケルマン以来ドイツでは、ヨーロッパ文明の源流であり最高の範型であるギリシア・ローマ古典世界を正しく知ることはほとんど自明といってよい必須な課題であった。だがこの課題の持つ意味は見かけほど単純ではない。たとえばフンボルトは、彼の手になるアイスキュロスの悲劇『アガメムノーン』のドイツ語訳の序文で次のようにいっている。「近代語の中にあってただ一つドイツ語だけが、この〔古代ギリシア・ローマの韻文の〕リズムを模倣できるという長所を備えているように思える」(83頁)。
 
 このフンボルトの言葉は、ギリシア・ローマの古典世界への接近、その忠実な再現という課題が、その裏にもう一つの、それとは相反する認識と課題を潜ませていることを示している。すなわち、ギリシア・ローマの古典世界を正しく再現し継承できるのはドイツ語(ドイツ文学・思想)だけであるという認識であり、そこから導き出される、ドイツはギリシア・ローマの古典世界の唯一かつ最良の継承者である・あらねばならないという課題である。つまりドイツ語における言語表現、あるいはその背後に存在するドイツ文化の伝統が正統化されるのは、ドイツ語がもっともギリシア・ラテン語に近い言語であるという「事実」によってであり、だからこそドイツ人はギリシア・ラテン語によって体現される古典精神を正しく再現するためにこそドイツ語そのものをより一層彫琢し高次なものにしてゆかねばならないという自国語主義へと到りつくのである。こうして古典翻訳は、じつは単純に古典世界の忠実な再現という意味だけではなく、むしろ逆にドイツ語表現の自律化と正統化の根拠を提供するのである。しかもそこでは自国語であるドイツ語の優位性を主張するのに、ギリシア・ローマの古典世界はヨーロッパ文明全体の源流であり最高の範型であるがゆえに、その唯一の継承者であるドイツ語・ドイツ文化こそが現代におけるヨーロッパ文明の基軸であり範型であるという手の込んだ正統化と普遍化のメカニズムが働いているのである。
 
 こうした視点に立って見てゆくと、論旨にヴァリエーションはあるにせよ本書に収録された論考の多くがそうしたドイツ語表現の正統化と普遍化に組みしているのが感じられる。
 その中で例外となるのが、ヘリングラートの論考に登場するヘルダーリンの翻訳論と、ヘルダーリンから大きな影響を受けたと考えられるベンヤミンの翻訳論である。そして本書の翻訳論において真に創造的でありうるのはこの例外の側なのである。
ヘルダーリンとベンヤミンの翻訳論に共通しているのは「逐語訳」という「方法」意識である。では「逐語訳」とは翻訳にどのような問題をもたらしているのだろうか。ヘリングラートは。逐語訳のためほとんど理解不能であると揶揄されたヘルダーリンのピンダロスの翻訳について次のように言う。「偉大な詩人にとって言語とは創造すべきものであり、その言語と法則には限界がない。(……)かく形成された言語は一種の有機的統一体になる」(152頁)。ヘリングラートがいう「有機的統一体(コスモス)」の真の意味を捉えるためには、ベンヤミンの次のような言葉を踏まえる必要がある。「諸言語の歴史を超えた親和関係は次の点にある。すなわち諸言語が一つの全体をなしていると考えるなら、どの言語においても一つのこと、しかも同じことが言われているという点である。むろんこれには個別の言語は到達できない。到達できるのは純粋言語、相互に補完しあう諸種の志向性の総体なのである」(194頁)。
 
 ヘリングラートのいう「有機的統一体」の核心をなすのがベンヤミンのいう「純粋言語」に他ならない。そしてベンヤミンにおいては、純粋言語に個別の言語が不断に接近しようとする試みとして翻訳が位置づけられるのである。このとき翻訳において出会う二つの言語は、いわば純粋言語への志向性を内在させる断片、ベンヤミンの用語を借りれば暗号=割符(シンボロン)としての「アレゴリー」となる。翻訳とはこの暗号=割符としての諸言語、言い換えれば断片としての諸言語を、そこから純粋言語への志向性を掘り起こしながら組み合わせる作業に他ならない。これもベンヤミンに倣っていえばそれは、個々の星から天空に「星座(コンステラツィオーン)」を描き出す作業といってもよいだろう。「逐語訳」とは、こうした断片としての諸言語の組み合わせ作業である翻訳を通して純粋言語を「星座」として浮かび上がらせる方法を意味するのである。その背後にあるのがメシア論的ユートピアニズムを内包するベンヤミン固有の歴史哲学(「根源」をめぐる思考)であることはいうまでもない。
 
 原文の収集・選択、翻訳にいたる骨の折れる作業を続けてきた三ツ木の労苦は想像に余るものがある。きちんとした訳文の出来映えともども三ツ木の努力に読者として深く感謝したい。(2009.2)

0 件のコメント:

コメントを投稿