一九三〇年代のアジア社会論 「東亜協同体」論を中心とする言説空間の諸相 :石井知章・小林英夫・米谷匡史







石井知章・小林英夫・米谷匡史 編著(社会評論社)








「アジア社会論」という耳慣れない言葉が気になって本書(A6版・393頁・2800円・社会評論社)を読み始めたのだが、一読してその内容の多様さと問題の奥深さに圧倒される思いを感じた。ところで『情況』の20104月号は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』批判を軸に帝国主義戦争としての日露戦争の世界史的意味についての検討を行っている。私はこの特集に編集委員として関わったのだが、その際に中国の「アジア主義」研究者である李彩華氏へのインタビューを行い、日清・日露以来の近代日本の対アジア関係、さらにはそこで生まれた「アジア主義」と呼ばれる思想について李氏から多くのことを教えられた。不勉強なまま、「アジア主義」を日本帝国主義のアジア侵略正当化のための御用イデオロギーくらいにしか考えていなかった私に、李氏は、「アジア主義」が侵略イデオロギーの側面を持ちつつも同時に、とりわけその当事者の主観性においてはアジアとの連帯、さらにはアジア解放への志向をはらんでいたこと、また一言で「アジア主義」といってもいろいろな立場や視点がそこには含まれており、画一的に捉えることは不可能なことを懇切に教示してくれた。私は李氏の話を聞きながら、竹内好が「アジア主義」の再評価を提唱した理由がようやく分かった気がした。竹内はアジア・太平洋戦争というアジア侵略戦争の過程で客観的には侵略に加担した「アジア主義」のなかの「解放」の契機を救抜したかったのだ。この「アジア主義」のなかの「解放」の契機を救い出すこと抜きには、西欧近代化の模倣に終始した近代日本の歴史の根本的な転轍、言い換えれば真の意味での日本革命、さらにはアジアの根源的な解放と自立は不可能であると竹内は考えていたのだと思う。

本書を読むと、そうした竹内の思いを裏付けるように、「アジア主義」と重なりつつ、いわばその発展形態として登場する1930年代の「アジア社会論」がより複雑な、そして現在においても日本の対アジア関係を考える上で避けることの出来ない論点を含んでいることが明らかになる。1930年代の「アジア社会論」は、「アジアを侵略し、占領地を拡大しつつある日本が、同時にアジア諸民族の解放・共生を唱えるという総力戦期の巨大な矛盾の中で」(本書12頁)展開されていったのだった。
                  
こうした「アジア社会論」は、30年代後半の主として近衛内閣の時期に現れる「東亜同盟論」や「東亜協同体論」に凝縮してゆくが、その背景には、今までの日本における一国主義的かつ単眼的な30年代論や日本ファシズム研究などでは見えてこなかったより大きな世界史的枠組み(同時代性)の問題が潜んでいる。例えば本書第10章で、海軍をバックに設立された知識人たちの研究機関「海軍省綜合研究会」について考察している辛島理人は次のように述べている。「綜合研究会で一貫して議論されている主題は日本の帝国編成がどうあるべきかという問題である。(中略)大東亜共栄圏などの地域秩序は「植民地なき帝国主義」の一つの形態であった。第一次大戦以降の戦間期は植民地の新たな獲得が否定された時代であった。すでに植民地や従属国であった地域で反帝国主義闘争やナショナリズムが勃興し、アメリカとソビエトという新興の大国からそれを正当化するウィルソンやレーニンの民族自決原則が打ち出され、第一次大戦後の帝国に一つの問題を突きつけた。植民地主義が少なくとも公式には否定された時代にいかにして帝国を維持・編成するか、各帝国はポスト植民地主義時代の帝国像構築をせまられることになる。そして、1920年代後半の世界的な恐慌の対応策として、各帝国がニューディール・ファシズム・福祉国家・社会主義といった体制を選択するなか、第二次世界大戦には国民国家/ナショナリズムの超克と広域圏理論/広域秩序の模索が様々な学知で展開されるようになる」(376頁)。

こうした戦間期の世界史的動向をふまえ、トランスナショナルな枠組みの中で当時の日本国家・社会のあり方を考察してゆく視点が、これまでのこの時期をめぐる研究および議論には決定的に欠けていたように思われる。しかもそこには構造論的かつ純理論的な問題設定の射程をはるかに超えるダイナミックな葛藤・矛盾(構造変動)の契機が含まれている。その重要な要素の一つが、辛島の文章にもある「広域圏(広域秩序)」の問題である。例えば偽「満州国」建国とともに始まる日中戦争の過程は、単純な意味での侵略に留まらず、そうした「帝国」日本の側からする広域秩序形成の試みとしても捉えることが出来る。第4章で取り上げられている、三木清らの「東亜協同体論」とは異なる方向性――もちろん重なる部分もある――において「東亜協同体論」を展開した加田哲二などは、そうした広域秩序形成に関わる問題意識をもっとも強く抱いていた論者といえよう。この章の筆者石井知章によれば、加田は「英・仏・米・ソ連などが世界地図の現状維持を主張している」に対して、「新しい国家と国家、民族と民族の関係が設定されねばならない」(145頁)と考えていた。それは「英米本位の平和主義を排す」――この場合、「平和主義」のもとになる広域秩序は国際連盟になる――という加田の言葉に現れているように、欧米中心的な帝国主義的旧秩序に対する対抗を通して確立されるのである。このあたりの加田の議論はカール・シュミットを髣髴させるところがあるが、ともかくもこの延長線上に日中戦争を欧米列強からのアジア解放の戦いと位置づけるような発想も可能となってくるのである。しかもすでに触れたようにこの過程は静的に構造化された過程ではなく、とくに中国で燃え上がりつつあった抗日戦とそれを支える民族解放ナショナリズムのダイナミックな力が働く矛盾に満ちた動的な過程としてあった。

ここにもう一つの重要な契機が結びついてゆく。それは、日本のイニシアティヴによるアジアの新たな広域秩序の形成には、当のアジア(とくに中国)から民衆レヴェルにおける抗日の戦いを突きつけられている日本国家・社会自体の根本的な変革が求められるという問題である。そしてこの問題には従属国としての立場を強いられている中国自身の変革がどのように行われるべきかという問題が正確に照応する。この問題に関してもっとも鋭い考察を残したのが第1章で扱われている尾崎秀実であった。第1章の筆者米谷匡史によれば尾崎は、日中戦争が欧米やソ連を巻き込む世界戦争へと発展する中で、軍事的には敗
北した中国が「社会革命」へと向かい――尾崎によればその環は農業革命である――、一方の日本もまた長期戦による消耗過程の中でやはり不可避的に社会革命へと向かうことによって、総体として「日・中・ソ提携によって社会革命と民族解放をめざす「東亜新秩序」のヴィジョン」(56頁)が可能になる、という構想を抱いていた。それは、「アジア社会論」(東亜協同体論)が、客観的には日中戦争からアジア・太平洋戦争へと向かう過程における「総力戦体制」の形成を領導する帝国主義イデオロギーとしての役割を果たしながらも、その裏面にじつはきわどく危うい形で反帝国主義・民族解放を目ざす革命的イデオロギーとしての契機を密かに忍び込ませようとしていたことを意味するといってよいだろう。こうした「アジア社会論」の両義性をもっとも包括的な形で体現していたのが三木清であったことはいうまでもない。そして三木の議論、あるいは三木の協力者であった船山信一らの議論からは、「アジア社会論」のさらに錯綜した思想的背景が浮かび上がってくるのである。
                    
 本書を読み進める中で強い驚きを覚えたのは、「アジア社会論」の展開の過程に多くの転向(偽装転向)マルクス主義者たちが関わっていたことである。尾崎や中西功、平野義太郎らはもちろんだが、これまでほとんど無名であった、裏返して言えば本書によってほぼ初めて考察の俎上に載せられたといってよい満鉄調査部周辺の大上末廣、佐藤大四郎らもまた総力戦の思想としての「アジア社会論」に社会主義や民族解放を目ざす変革のモティーフを忍び込ませようとした人間たちだった。第5章の筆者大澤聡は、本書の編者である米谷の議論を紹介しつつ以下のような視座を提示する。「米谷は、従来「転向」として理解されがちだったその思想動向の意味を、国民国家の枠を越えた東アジア全体の構造変動・相互作用のなかに位置づけなおす。「日中関係の変容と国内の社会変革とを連動させ、立体的にとらえる視座」を構築することにより、一国内部に閉じた「協力/抵抗」という尺度では捉えきれない当時の社会変革構想を甦生させているのである」(171頁)。

 ここに本書のもっとも基本的な視点が現れている。大澤はこの後で米谷の文章を引用しているが、そこでは転向マルクス主義者たちを中心とする「アジア社会論」の展開、しかもたんに理論上の問題だけにとどまらずにすぐれて実践的な要素をも含んだその展開過程には、「あえて参戦をつうじて時局に介入し、戦時下の構造変動を変革にむけて転換させようと試みる」(172頁)モティーフがこめられていたのである。大上による、「半封建半植民地」的な中国の変革を農業協同組合運動による封建制打破の方向性に求めようとした発想にしても、佐藤の「合作社(協同組合)」運動にしても、まさに米谷の指摘するような変革のモティーフをうちに秘めた試みに他ならなかった。こうした問題圏に光をあてたという意味で、小林英夫が担当する本書第7章「満鉄調査部の思想」、福井紳一が担当する第8章「佐藤大四郎の協同組合思想と「満州」における合作社運動」は本書の中でも際立って印象的な部分といってよい。それとともに大上、佐藤がともに国家権力による弾圧を受けて獄死したことは――ゾルゲ事件に連座して処刑された尾崎や敗戦後まもなく獄死した三木を含め――、30年代から40年代への推移の過程で、こうした「アジア社会論」内部の変革のモティーフが当時の軍部を中心とする支配権力による苛烈な弾圧の中で急速にしぼんでゆき、代わりにそうした問題意識が希薄になった分だけいわゆる「総力戦の思想」としての性格を強めていった高山岩男、高坂正顕ら京都学派の「世界史の哲学」が提唱され、さらには「近代の超克」という痴呆めいたスローガンが呼号されるに至った事情を物語っている。このあたりをめぐっては昭和期知識人論ないしはこの時期の知識社会学な考察の問題としても捉えることが出来る。

 この過程において理論的には、「アジア的生産様式論争」、あるいは「アジア的停滞」の問題や講座派史観の問題が、さらにはK・ヴィットフォーゲルの「中国(支那)水利社会論(東洋的専制論)」などの問題が複雑に絡み合っている。そしてそれらの理論的諸問題の焦点は、三木の協同主義哲学における「革新」の二重性という考え方、すなわち封建制を脱する近代化の必要性と、同時に近代主義を超える原理の模索の必要性を重ね合わせて捉えようとする考え方に収斂するとともに、日本およびアジアにおける近代化の意味と方法の根本的な見直しへもつながってゆく。最後に、これは李氏へのインタビューでも教示されたことだが、こうした「アジア社会論」の展開において「忘れられた思想家」の一人である橘撲が非常に重要な役割を果たしたことをあらためて本書を通して確認することが出来たことをつけ加えておきたい。先にあげた大上や佐藤の立場は橘の影響抜きにはありえなかったからである。ともあれ多くの刺激と触発に富んだ好著である。(2010.4)

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