聖パウロ 普遍主義の基礎 :アラン・バディウ 







アラン・バディウ著/長原豊・松本潤一郎訳
(河出書房新社)



1970年代から80年代にかけて言語・記号論やポスト構造主義理論がある種の行現象となるなかで、現代フランスの思想家たちが次々と日本に紹介された。レヴィ=ストロース、ロラン・バルト、ジャック・ラカン、ルイ・アルチュセール、ミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズ、ジャック・デリダという「マイスターデンカー」はもとより、リュシアン・ゴルドマン、ジャン=フランソワ・リオタール、モーリス・ゴドリエ、ピエール・マシュレ、ジョルジュ・バランディエ、ピエール・クラストル、ジャン・ボードリヤールといった人たちまで、その顔ぶれはじつに多彩である。だがそうしたなか、一部ではその名前が囁かれながら一向に翻訳紹介が行われない一人の思想家がいた。それが今回取り上げるアラン・バディウである。

 1937年モロッコで生まれたバディウは、1969年からヴァンセンヌで哲学を講じている大学教師であると同時に、68年を頂点とする形で噴出した青年・学生叛乱の季節のなかで最もラディカルな毛沢東派(マオイスト)マルクス主義者の集団フランス共産主義者同盟を創設したのであった。そしてバディウ思想的な急進性は、70.歳近くなった現在においてもいささかも衰えを見せていない。特筆すべきなのは、多くの「左翼」が89年のベルリンの壁崩壊後の東欧社会主義体制の解体以降、マルクス主義は終ったという雰囲気にのみこまれて批判意識を失っていった中で、バディウはまったくといっていいほどマルクス主義者として出発したその基本的な立場を揺るがすことがなかったという事実である。それどころかバディウは、さらに一層先鋭なかたちでその批判の(やいば)を磨いていったのである。

こうしたバディウの思想の持つ順応や屈服を知らない急進性は、「変化」や「フレキシビリティ」というような口実のもとでエスタブリッシュされた支配体制を結局は肯定してゆくようになったかつての「左翼」たちにとって、とりわけ「新しい社会民主主義」という名によって擬似的に「左派」を標榜しつつ社会主義崩壊以後の支配イデオロギーである新自由主義的なグローバリズムにすりよっていったイギリスのブレア労働党政権に象徴されるような傾向にとってはひどく煙たいものであったろうことは容易に想像しうる。これは、「ポストモダン」気分の中で急速に脱批判的な非政治化へとひた走っていたバブル直前の日本の論壇・思想界においても同様であった――そうしたれを正当化するものとして「現代思想」ブームが生み出されたともいえるのではないかとさえ思う――。こうした状況が、バディウの翻訳紹介の著しい遅れを招いたといってよいだろう。そのあたりはもう一人の急進主義者アントニオ・ネグリを取り巻いていた事情とよく似ている。
 
だが明らかに状況は変化してきた。今一足先に訪れたネグリの集中的な翻訳紹介に続く形でバディウの著作が次々に翻訳されつつある。そして、藤原書店から刊行された『哲学宣言』を例外としてバディウの翻訳は河出書房新社からすべて刊行されているが、その翻訳作業の中心にいるのが現在の日本において最もユニークなマルクス主義者――あえてそう呼ばせてもらってよいだろう――の一人といってよい長原豊であり、さらには長原よりも一世代若い、ドゥルーズについての犀利な論文を『情況』誌に発表する一方、あのデリダの『マルクスの息子たち』(岩波書店)の翻訳を行った松本潤一郎である。長原は農業経済学から出発しながら、ラカン派精神分析の世界へと分け入り、その文脈にたってスラヴォイ・ジジェクの理論を視野に収めつつ、さらにネグリ、そしてバディウの思想にまで触手を伸ばしてゆくという驚異的ともいえるような思想的容量の大きさを私たちに提示しているのだが、大切なのはそうした翻訳を中心とする作業――それを支えている長原の英仏にわたる卓抜な語学力を見落としてはならない――の根底に潜む長原のラディカルで非順応的(ノンコンフォーミスティック)姿勢である。長原と松本のチームで最初に刊行されたバディウの著作『倫理 <悪>の意識についての試論』に付されている訳者たちによる解説対談のなかで、長原は次のように言っている。「率直にいっちゃうとね、こんな人〔バディウのこと〕が身近にいたら僕はあまり好きになれないだろうとか感じます。嫌いというんではなくてね。でも不思議なことに、近しい感じを同時に持つ。・・・」。

 この長原のバディウへの共感の基底にあるのは、例えばネグリのなかにもあったある種の異例性(アノマリー)の感覚なのではないかと思う。2001911日以降ますます加速されつつある、世界大の強制的画一化(グライヒシャルトゥング)を暴力的に推し進める「帝国」グローバリズムは、異例な存在の場所を奪うというところにいちばん大きな特色を持っていた。すべてを均質な透過性のもとにおくという窮極的ともいえるような支配=権力欲望が現実になりつつあるのである。だからこそというべきか、にもかかわらずというべきか、そうした状況と真っ向から対決しようとする「異例な」思想への切実な関心が高まっている。だがそれはたんなる行ではない。繰り返しになるが、長原の言葉に現れているようにこれは好き嫌いの次元を超えるある種の「責任―応答可能性」の問題、すなわちこの「帝国」グローバリズムの支配する世界のなかで異例であることを強いられる存在からの微かな声に耳を傾け、誠実に応答責任を果たすという「倫理」的課題なのである。
                    
 さて大分前置きが長くなったが、そのバディウの新しい翻訳が『聖パウロ 普遍主義の基礎』(A5判・210頁・2500円・河出書房新社)である。それにしてもなぜパウロなのだろうか?先頃ネグリ『ヨブ 奴隷の力』(仲正征樹訳 世界書院)が翻訳されたが、ネグリとバディウという二人のラディカルなマルクス主義者が旧約と新約という違いはあるにせよ、共通して聖書というユダヤ・キリスト教的な世界に分け入っていったことにある象徴的なものを感じる。ただネグリの『ヨブ』の場合、ヨブが神から被った理不尽ともいえるような苛酷な状況をイタリア政府から追求を受ける自分の身に重ね合わせながら、「受苦から反逆へ」の論理を紡ごうとするネグリのモティーフは比較的伝わりやすかったように思うが、パウロの場合だとそうはいかない。周知のようにキリスト教の歴史の中でもっとも重要な使徒であり実質的な教会の創始者でもあったパウロは、ある面において「権力」の側の存在であった。このことは60年代から70年代にかけての全共闘運動の歴史のなかで極めてユニークな位置を占めた東京神学大学や青山学院大学神学科などのキリスト教系大学・学科における闘争――地味ではあったが思想的には極めて深い意味を持ったこれらキリスト教系大学における闘争についてはきちんとした記憶と理解が必要である――のなかでも議論されてきた。とくに「律法への服従ではなく神の義への信仰によって人は救われる」としたいわゆるパウロ「義認論」の持つ意味についいては様々な批判や疑問が提示された。こうした論理は結局は奴隷の論理なのではないか、その受動性によって人は神への絶対的かつ無条件な服従を迫られるのではないか等々。とくにルターがこのパウロ義認論を、信仰の徹底した内面化を梃子にした世俗権力への迎合の口実に用いたことがこうした批判や疑念の大きな根拠となったのである。

 だがバディウはそうしたパウロの義認をおもいもかけない方向へと読み替える。バディウがパウロに着目する点は、その宣教の内容上のポイントが「主は復活した」という言表にあることと、宣教の対象をユダヤ人という閉ざされた共同体の枠を超えて異教徒である非ユダヤ人にも及ぼしたことである。前者についてバディウは、「主は復活した」という言表が途方もない「寓話=物語」であり、到底信じ得ないものであることを踏まえたうえで、イエスという一人の人間の生と死に潜む一個の異例な出来事性として復活の意味を牽き出す。「キリストが死ぬのは、端的に、死を発案できる〔死という発案を耐え凌ぐ〕人間が生を発案できる〔生という発案を耐え凌ぐ〕ということを証すためなのだ。〔……〕それ〔キリストの死〕は神自身と平等になるための手段なのだ」(1234頁)。

 死と復活の寓話はけっして神の存在証明とそこから導かれる義認の物語へと回収されてはならない。それは出来事であり、そのかぎりにおいて本質的に異例なものであり、その異例性のなかからこそ、人間の生=存在の根源的な異例性を捉えることが出来るようになるのだ。私はこのくだりを読みながらレーニン廟に朽ちないミイラとして保存されているレーニンのことを思い出した。あのレーニンの不死性はちょうどこのバディウのいうイエスの死と復活の出来事の異例性の対極にあるものである。ひょっとするとあのレーニンの不死性こそがロシア社会主義の崩壊を招いたのではないだろうか。とするならばバディウが異例性の視点からイエスの復活を捉えたことの意味が自ずと見えてくるような気がする。
 
さて後者の宣教の対象の拡大についてはどうか。バディウはこういっている。「パウロの未聞の挙措とは、人民、都市、帝国、領土、あるいは社会階級といったことを問題にする共同体主義(コミュニタリアニズム)の企てから真理を引き去ることである。真であること(あるいは正義…)は、その原因あるいは帰結(もくてき)によっては、いかなる客体的集合にも送り返されるがままに任されることなど決してないのである」(14頁)。
 ここでも問題は異例性にある。つまりこうである。異例なものとは共約不能なものであるが、それは決して特殊ではない。もしそれが特殊であるならば異例性は自らの内部にある同一性を生み出し、その同一性の論理に屈服してしまうだろう。むしろ逆に異例性を普遍に向かって開かねばならないのだ。どこにも「場所を割り当てられることのない」異例性は「特異的普遍性」(松本によるあとがき参照)となる。ここにバディウの思想の核心が見出される。「帝国」グローバリズムの強制的画一化と社民的「文化共同体主義(カルスタ・ポスコロ)」の差異という名の同一性礼賛の循環構造のなかで逼塞する異例性の真の救抜――バディウのこうした思想的モティーフを今後も注視していきたいと思う。(2005.4)

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