教養の歴史社会学 ドイツ市民社会と音楽 : 宮本直美





 
  
 
 宮本直美 著(岩波書店)
   
 
 
ドイツの教養問題については、その中身と担い手をめぐってこれまでも様々な議論が展開されてきた。おそらくそこには、アメリカ亡命中に行った講演「ドイツとドイツ人」において、ナチズムの悲劇・罪過の根源にはルターから始まるドイツ的内面性の伝統が存在すると明言したTh.マンの指摘が強く影を落としている。カントとゲーテとベートーヴェンの国がなぜナチズムという途方もないモンスターを生み出してしまったのかという素朴な疑問は、マンの言葉を介して、むしろカントやゲーテを生んだ国だからこそナチズムが生まれたのではないか、という屈曲した問いへと置き換わらざるをえなかったからである。そして教養概念こそはこうしたドイツ的内面性の伝統が社会的次元において現実化される媒体に他ならなかった。ドイツ近代の歴史のいわば通奏低音ともいうべきドイツ的内面性の伝統は教養概念を通じて社会化されつつナチズムという破局へと至りついたのであった。

  教養問題について考えようとするときこうした経緯を無視することは出来ない。じっさいこれから書評に取り上げようとしている本書(A5判・330頁・6600円・岩波書店)の中でも引かれているビーレフェルト大学の教養研究プロジェクトの中心メンバーであったユルゲン・コッカの著作はもとより、この分野における古典ともいうべきヘルムート・プレスナーの『遅れてきた国民』((邦訳 名古屋大学出版会)やフリッツ・リンガーの『読書人の没落』(邦訳 同)および『知の歴史社会学』(同)、さらにはわが国においてこの分野の研究に先鞭をつけたといってよい野田宣雄の『教養市民層からナチズムへ』(同)や田村栄子『若き教養市民層とナチズム』(同)などに共通してみられるのは、教養概念を軸に形成された19世紀以降のドイツ市民層(いわゆる「教養市民層」)がなぜナチズムへと向かおうとする歴史のれに対して無力だったのか、いなむしろ彼らはそれに積極的に加担しようとしたと見るべきなのではないかという問いであった。ここにはおそらくドイツ近現代史をめぐるもっとも深刻な問いの次元が潜んでいる。

                 
 ところで教養概念について考えようとするときやっかいな問題がすぐに浮上してくる。それは、教養概念が制度概念なのか、それとも逆に非制度的な、というよりもむしろ制度に対する反逆概念なのかという問題である。教養概念がとくに社会階層としての市民層の形成と結びついてとらえられようとするとき、そこにもっとも深く関わっているのは大学制度であった。ベルリン大学を嚆矢とする19世紀のドイツ大学制度は、なによりも国家に奉仕する官僚層の養成という課題と結びついていた。教養概念はこうした官僚層、そしてそれを取り巻く大学やギムナジウムの教員、医師、弁護士などの知識層に共通するいわば階層的ステイタスに他ならなかった。では本書で著者の宮本直美もいっているように大学を出ていれば教養は制度的に与えられ保証されるのだろうか(本書第1章第2節参照)。ここで教養概念の土台となっているドイツ的内面性の核心をなす「デモーニッシュ」(dämonisch)という言葉を想い起こしてみよう。この言葉は、とくに優れた芸術作品が与えてくれる、現世的な秩序や規範、価値をはるかに凌駕するような強烈な衝迫力を表している。ドイツ的内面性の伝統はこのデモーニッシュなものに収斂する傾向を強く持っていた(マン参照)。その意味ではドイツ的内面性は基本的に反制度的であったといってよいだろう。このことはシラーの『美的教育論』や「ドイツ観念論最古の体系計画」断片に出てくる「美的国家」の問題、すなわち美の高次な統合作用によってのみ機械的結合にすぎない世俗国家の下等性が克服されうるという、その後の美的革命論ないしは美的救済論と呼ばれるドイツ近代の特有な政治的審美主義の言説の系譜とも照応しながら、教養概念に制度的次元には回収しきれない錯綜した陰影を付与することになるのである。大学で学ぶことはたしかに教養を身につける=教養市民層の一員になることの前提条件になるかもしれないが、もしそのことが国家=世俗社会の制度的に確立された規範や価値に無批判にのみこまれてゆくことへとつながるならば、たちまちそれは教養市民層からの脱落へとつながっていってしまうのである。大学という制度は教養の保証基盤、十分条件にはなりえないのだ。

  
 ところでもう一点ここで言及しておかなければならない問題がある。それは教養概念の非政治性である。美的革命あるいは美的救済への志向はなるほど世俗社会への反逆という性格を持っているが、それは市民革命のような制度や社会構造そのものの変革を目指しているわけではいない。むしろそうしたものの美的なものの次元を通した理念的な全否定というある種のユートピア志向というべきである。だがこの非政治的な美的革命――その核心をなすのがデモーニッシュなものである――が唯一具現化される場がありえた。それは美的=デモーニッシュなものを共有する教養市民による教養共同体という場である。繰り返すようだがこの教養共同体は制度的なものではない。したがって層としての市民はストレートには教養共同体の担い手にはなりえない。教養の原義である「形成Bildung」が不断にその担い手である市民の一人一人の内面性を通して主体的に推し進められることによって初めてこの教養共同体は可能となるのである。そして19世紀のドイツにおいてこの教養共同体は、ヴァーグナーのバイロイトが典型的に示しているように、一方において美的=デモーニッシュなものという柱を有しつつ、他方でこれまた現実の制度に回収することの出来ない想像的次元における民族=国民共同体――Nationとしてのそれではなく、Volkとしてのそれ――への志向を柱として持つことになる。そして美的革命のモティーフをはらむ教養共同体への非政治的回路は、世俗国民国家Nationに対する民族=国民共同体Volkの次元にもとづく反逆という回路と明らかに同調しながら、最終的には保守革命からナチス「革命」へと至る19世紀後半以降のドイツのプレ・ファシズム的精神土壌を準備するのに大きく貢献したのであった。
                  

 教養概念が抱えているこうした問題状況は、無批判な形での教養概念の移入の結果、「教養主義」と呼ばれるメンタリティの下で天皇制国家への翼賛と埋没に終始してきた日本のドイツ文化受容の歴史と相即する。この教養問題については最近でも高田珠子の『グロテスクな教養』(ちくま新書)や、直接には日本語によるドイツ語翻訳の問題点を指摘しながら教養主義を批判してみせた鈴木直の『輸入学問の功罪』(同)などの優れた著作が刊行されているが、今回公刊された宮本の著作もまた間接的ながら日本の教養主義的なドイツ文化受容、とりわけドイツ音楽の受容のあり方がいかに偏ったものであったかを浮かび上がらせている。そのポイントはバッハ問題である。

 宮本はすでに指摘したように大学という制度に対応する形で教養概念を定義するだけでは不十分であることを指摘した上で次のようにいう。「ドイツの法律家たちが〔大学教育に対して〕同一視することも割り切ることもできずにいたということは、彼らが、制度化された大学教育を内面の陶冶として十分なものと納得していなかったこと、さらには、「真の」内面性を希求していたことを示唆している。つまり、教育と資格試験による教養の証明が、実は破綻していることを嘆いているのであり、その破綻を当然のものとして受け止めることができずに、どこかに「真の」、「本来の」内面性があることを、それがあると信じていることを、浮かび上がらせているのである」(本書75頁)。

 ではいったい何が「「真の」内面性」を保証してくれるのか。宮本はそれを「フェアアイン(協会)運動」に求める。「フェアアインは、一九世紀の市民たちが相互に社交生活を繰り広げた点で注目されることが多いのだが、そこでは社交と並んで、一般的で目的を持たない教養の獲得と普及という目標が掲げられ、その活動を通して文学・芸術・学問が実践的に形づくられていったという結果に目を向けるべきであろう」(32頁)。

 この自発的なアソシエーションとしてのフェアアインはまさしく教養共同体といってよいだろう。多くの官吏や教員その他の知識層の人間たちがこのフェアアインに加わり、そこで制度を超えたところにある教養の高みを目指そうとしたのである。とくに宮本がそうしたフェアアイン運動の中で注目しているのがバッハ復興運動であった(第3章参照)。バッハはじつは生前からすでに「時代遅れ」の作曲家であった。ヘンデルやテレマンたちの高名に比べればライプツィヒの片田舎の教会楽長を務めるバッハは地味な上に、その対位法の手法は18世紀の中葉へと向かう時代にあってはもう古臭いものだった。何よりバッハには当時のロココ・初期古典派の音楽にあった感情の自在なEmpfindsamkeitが感じられなかった――この点ではバッハの次男のカール・フィリップのほうが遥かに評価が高かった――。したがってその死後バッハが急速に忘れられていったのはある意味当然であった。そのバッハを忘却の淵から救ったのが1829年ベルリンで行われたメンデルスゾーンによる『マタイ受難曲』の再演であったというのがこれまでの音楽史の常識だったのだが、宮本はゲーテの友人でもあったツェルターも参加し指導にあたっていたベルリン・ジングアカデミーという合唱フェアアインの活動を中心に音楽雑誌の活動等も丹念に追いながら、バッハ復興がメンデルゾーン一人の功績ではなく、極めて多面的かつ複合的な諸要因の競合の中で実現したことを明らかにする。それはバッハという「市民的天才」の発見(じつは創造)のプロセスに他ならなかった。一方において教養共同体に対応する市民性が確保されつつ、他方で永遠に到達不能な天才の深奥性・本質性が設定されることによって、またさらにはドイツ国民芸術の導きの星としての地歩を与えられることによってバッハは教養概念のもっとも理想的な範型となりえたのであった。

  まだ日本におけるドイツ音楽受容に残る教養主義の影が一番濃いのがバッハ崇拝であることを想い起こすとき、宮本のバッハ復興運動の分析と意味づけの作業は大きな意味を持つ。バッハもまた「グロテスクな教養」とは無縁でありえないのである。そしてこうしたドイツ教養概念の特異性がたんなる特異性にとどまらずドイツ近現代史の最大の暗部であるナチズム問題と深く関連していることにあらためて思いを致すとき、ドイツ近現代史に関わることのしんどさを痛感する。    (2007.8)

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