貨幣と精神 生成する構造の謎 : 中野昌宏



 
 




中野昌宏著(ナカニシヤ出版)



 
古代ギリシアにおいて哲学が生まれて以来、「私たち」を含むあらゆる存在者とそれらを総体として包含する世界の成り立ち、様態、根拠への問いは、世界の始元(アルケー)への問いというかたちを取りながら、つねに哲学における中心的な問題であり続けた。よく知られているように、記録に残る最初の始元の定義者であったイオニアの自然哲学者ターレスはこの始元が具体的な物質である「水」であるとした。だがターレスに続くアナクシマンドロスになると始元は「無限定なるもの(ト・アペイロン)」というかたちで早くも具体的な物質性を離れる。おそらくそこにはヘシオドスやアポロドーロスが描いた神話的な世界――自然の物質性と自然自身に宿る「精霊(プシケー)」が融合されるアニミスティクな論理の世界――と哲学の世界――自然の物質性と論理性がはっきりと区別される世界――との本質的な分離という事情があったのだろうが、このアナクシマンドロスによる始元からの物質性の剥奪はその後の哲学における始元への問いのかたちと性格に大きな影響を与える。一言で言えば哲学的な意味での始元はアナクシマンドロス以降、それ以上論理的に遡行しえない思考論理の絶対的な出発点としての意味を、同時にこの世界、この存在者という個別性や遇有性が「ある」ということにとっての普遍的な根拠、アリストテレスに即せば基体(ヒュポケイメノン)としての、原理(アルケー)としての意味を持つことになる。

 
 このようなかたちで捉えられる、それ以上の遡行が不可能なものとしての絶対的原理=始元は、だがそうした定義ゆえにその核心において極めてやっかいな矛盾というかアポリアを抱えこむことになる。そもそもこの原理=始元は、あらゆる個別的な存在者に絶対的なかたちで先行するものである。その場合原理=始元は当然にも個別的な存在者の帰属する世界には帰属していないことになるはずである。つまり原理=始元はあらかじめそうした世界の生成のはるか手前に自らの定位されるべき位置を有していなければならないということである。

 
 このとき一つの問いが生じる。ではいっさいの存在者性を持たないかたちで存在者の世界のはるか手前に位置しているこの原理=始元はいったいなにによってその存在を証明されるのか、という問いである。それはもう少し哲学的議論の文脈に引き寄せて言えば、「原理=始元といえどもそれを思考し対象化する「何か」がなければその存在を明示的なかたちで証明することは出来ない。にもかかわらず、その思考し対象化する「何か」もまたすべてに先行する原理=始元によってその存在を根拠づけられているはずである。そうであるとすれば、その「何か」が原理=始元に先行するかたちで――先行することと思考し対象化することは事実上同一な事柄である――原理=始元を自らの思考対象とすることは権利上許されないことになる。だとすればいったい何によってこの原理=始元はその存在証明を行えばよいのか」、という問いになるだろう。この問いは、原理=始元の問題が素朴な存在一元論的世界を離れて、文字通り思考論理の次元における「はじまり」の論証の問題となるとき完全な循環論理のわなに陥る。というのもここでは原理=始元の論証に、どうしても思考し対象化する「何か」として、「思考する主体」という媒介項(エージェント)を必要とするようになるからである。しかもその「思考する主体」は、原理=始元の有するすべての存在者とその世界を創出・産出するという役割に自らを同化しなければならない。つまり原理=始元の絶対的な創始としての確証が、「思考する主体」の絶対的な創始としての定礎・確立を通して遂行されるということである。デカルトの「コギトー・エルゴー・スム」の論理はまさにその例証に他ならない。だが、そうだとしても次のような問題が依然として残ってしまう。ではこの「思考する主体」はどのように確証されるのか、という問題である。するとそこで問題が二重化されていることが明らかになる。

 
一つは「思考する主体」の具体的な存在様態を規定する思考作用、あるいはそのさらに遡行的な規定性としての意識作用が、それ自体としては原理=始元によって創出・産出されるこの世界、この存在者の個別性・遇有性の側に属するものであるということである。つまり「思考する主体」をめぐって「創出・産出するもの」と「創出・産出されるもの」のあいだの完全な循環関係が生じてしまうのである。ではこの循環をまぬかれるために「思考する主体」を存在者の個別性・遇有性から完全に切り離してしまうとしよう。たしかにそうすれば原理=始元と「思考する主体」のあいだの矛盾はなくなる。だが矛盾がなくなった瞬間問題は完全にもとに戻ってしまう。そもそも「思考する主体」という媒介項が要請されたのは、原理=始元を外から思考し対象化する「何か」によって原理=始元を確証するためだったのだ。その媒介項がまったきかたちで原理=始元と同一化されてしまうのなら、あらためて「では何によってその確証は可能になるのか」という問いが再帰してきてしまうことになる。この第二の問題によって、原理=始元の確証という問題は循環論理のわな・袋小路のなかで完全に暗礁に乗り上げてしまうのである。これこそがカントの『純粋理性批判』における「物自体」(原理=始元としての「何か」=いっさいの根源でありながら名指し得ないもの)と、「超越論的主観性」(思考する主体=媒介項)およびそれが妥当する「現象世界」のあいだの絶対的な乖離というアポリアに他ならない。原理=始元の探求がついに不可知論的な無底性(アプグルト)に陥らざるを得ない所以をカント以上に精緻なかたちで論証してみせた思想家はいなかったといってよい。
                  

 
長々と前置きめいたかたちで書いてきたが、じつは以上述べたような原理=始元をめぐるアポリアが今回取り上げようと思った中野昌宏の新著『貨幣と精神 生成する構造の謎』(A5判・250頁・3000円・ナカニシヤ出版)の主題なのである。私は本書を何気なく店頭で取り、貨幣論への問題関心から購入したのだが、読み進めるうちに上記のようなアポリアをめぐって中野の論が展開されていること、そして貨幣問題はそのアポリアの結節点として扱われていることに気づき、俄然本書への興味と関心をかきたてられたのだった。というのも原理=始元を立てる=明示することから導かれるプリミティヴな意味での整合的体系論理の定礎――例えば経済学においてそれをやったのが労働価値説のリカードゥだった――が、ある根源的な理論的倒錯につながるということこそ、マルクスの『資本論』第一巻第一章「商品」における価値形態および貨幣の生成(ゲネシス)についての洞察の持つ核心問題だったからである。あるいはスピノザの『エチカ』第三部における「大衆(マルティテュード)」問題にも同様な問題が潜んでいた。マルクスにせよスピノザにせよ、原理=始元からストレートかつリニアーなかたちで体系――中野に即せば「構造」――を引き出し、その体系に基づいて説明のための言説を組み立てたとき、そこにとんでもない倒錯が生じてしまうことを、裏返して言えばこの倒錯をまぬかれるためにはある根本的な言説構造の編成替えを行わなければならないことを明確に指摘した点で、その思想家としての際立った卓越性を見ることが出来るのである。では言説構造の根本的な編成替えのためのポイントおよび条件とは何か。中野が本書において問おうとしているのはまさにそのことに他ならない。
その焦点となるのが、言説が編成される際の「事前」と「事後」の関係である。中野は、まず社会全体の秩序がどのように形成されるのかという問題をめぐって、「傾性論」と「懐疑論」という二つの立場を提示する(19頁参照)。前者が、社会を構成する諸要素にはあらかじめ秩序に向かう傾性が備わっている、つまり秩序という「結果=事後」はあらかじめ「原因=事前に」よって決定づけられているという考え方に立つのに対し、後者はそうした秩序がじつは虚構にすぎず、実態は個々ばらばらな諸要素の偶然的な集まりにすぎない、言い換えれば「事後」と「事前」には何の必然的な関係も存在しないという考え方に立っている。だが中野によれば、この二つの立場は、そもそも社会秩序の構造としての全体性がなぜあるのか――少なくとも遂行的にいうならば、私たちが何らかの社会秩序に属していることは自明な事実である――という問いの消去しか意味していない。私の言い方に即せば、前者は極めて単純なかたちで秩序(世界)を原理=始元からリニアーなかたちでひき出すその言説のあり方ゆえに、秩序成立の問いそのものを無意味にしてしまうからであり、後者は遂行的に見れば、つまりそのつど個々の要素がランダムな動きをするにもかかわらず事後的に見るならば、そこに一定の秩序が成立しているという事実を否定する言説のあり方ゆえに、秩序成立の場面そのものを問題として消去してしまっているのである。つまり両者とも、事前と事後の関係の捉え方に関する基本的な視座を決定的なかたちで欠いてしまっているのである。

例えばマルクスが『資本論』の価値形態論においてもっとも理論的に苦しんだのは、価値形態が成立するためには、事前に何らかのかたちで二つのもの(商品)間の交換を可能にする「何か」―一それは一般的にいえば交換の尺度(メジャー)だが、事前にはまだ権利上そう名づけることは出来ない――がなければならないにもかかわらず、この「何か」は事後的にしか、つまり交換の結果としてしか見出されえないという点であった(第三章参照)。この事前と事後のねじれた関係こそがまさに、あらゆる原理=始元を明らかにしようとする言説のあり方にとって問われねばならない普遍的な問題であるのだ。「わたし=自我」の定立においても、言葉の「意味」の確定においても、つねにそれは事後的にしか見出されないにもかかわらず権利上は事前に、つまり原理=始元であるような「何か」として定礎されていなければ言説は構成されえないのである。

この事前と事後のねじれと言う視点に立つとき、観念論対唯物論、要素論対全体論といった伝統的な二項対立はすべて無効になる。中野に従えばこれが「貨幣」の問題に他ならない。貨幣的なものこそは事前と事後のはざまに立つ名づけ得ない何かであるとともに現象する存在者、世界だからだ。そして中野の本書における卓見は、この「貨幣」問題の核心をラカンの論理を通して解きほぐしてゆこうとしたところにある。つまり同一的な起源、原理=始元のはじまりにはつねに、ラカンが見た鏡像段階(第一次ナルシシズム期)を脱する段階で起こる「私」と「他者」の否定性を含んだ相互関係――いうまでもなくそれは閉じ・完結した関係ではりえない――がはりついていることを私たちは見抜かなければならないのである。

最近中野も含め、若い世代のややアロガントな香りのする、だが極めて意欲的な言説や理論の根本的な編成替えに向けた試みが見受けられるように思える。とくに関西からそうした試みが多く出てきている印象があるが、一つは神戸にあの郡司ペギオ幸夫がいるせいだろうか。そうした仕事を読み内在的に理解するのはなかなか大変だが一面たのもしさと期待も大いに感じる。(2006.7)



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