高橋順一 著(社会評論社)
評者 小林敏明
(ドイツ・ライプツイヒ大学教授)
高橋順一の頭の抽斗のなかには何でも入っている。大げさに言えば、そのなかにはただ「知らない」という言葉が入っていないだけである。だが、それがこれまで彼の書き物を不幸にしてきたことも確かな事実であると思う。しかし、本書はそういう博覧強記の高橋にしては例外的な著作と言わねばならない。なぜならここであつかわれる対象はそのまま彼の代替不可能な一生を左右した事柄であり、それゆえに彼はいやおうなく肉声で告白気味にも語らなければならなくなっているからである。あのがむしゃらに書かれた、二十数年前のほぼ処女作といえるヘーゲル論『市民社会の弁証法』(弘文堂)と並んで、私が本書を高橋の重要な著作に数え入れたいと思うゆえんである。
旧友どうしであることからくる馴れ合いを避けて、忌憚のない感想を述べてみたい。共有した体験を含めて論じてみたいことはつぎつぎに湧いてくるが、ここでは本書に直結してもっとも重要と思われる二点だけにしぼって論ずることにする。
第一点は初期吉本のキーワードとも言うべき「関係の絶対性」という概念をめぐってである。私にはこの概念はかつてから一貫してわかりにくかったし、今でも相変わらずわかりにくい。あっさり言うと、なぜ吉本はこれをたんに「客観的現実」と表現しなかったのか、その「意図」が本人からも、また彼を解釈する者たちからも明確に説明されてこなかったからである。それは廣松渉の一見よく似たテーゼ「関係の一次性」に当初から著者による綿密な理由づけがなされていたのと対照的でさえある。本書のなかでも高橋はこの概念が自明であるかのようにあつかっているが、それは吉本ワールドの読者にしか通用しない「黙契」にすぎない。
では吉本はなぜ「現実」ではなく「関係」という表現を選んだのか。思想史のコンテクストから見ると、これはマルクスの有名なテーゼ「人間は社会的諸関係のアンサンブルである」に発していると思う。ただし、吉本はこれをたんに「社会」の次元だけにとどめることなく、そこに同等の重みをもって「自然」との関係を読もうとしたがゆえに、たんに「関係」と表現したのである。言い換えれば、彼にとって「人間疎外」という「関係の絶対性」は社会からの疎外だけではなく、自然からの疎外でもあらねばならなかった。じじつ若きマルクス自身がそういう論議をしている(『経済学哲学草稿』参照)。そして同時にそれは当時の硬直した唯物論の唱える「物質」「現実」「実践」といった概念に対するアンチ・テーゼでもあった。「客観性」を「絶対性」に置換したのもおそらく同じ動機に発している。
同様に当時の唯物論に対するプロテストは、もうひとつの吉本用語「逆立」にも如実に現れている。周知のように、唯物弁証法なるものにとっての動力源は「否定」ないし「矛盾」である。これがなければ、弁証法は動くことができない。だが、吉本はこの「否定」「矛盾」をあえて「逆立」と表現する。高橋の明快な説明によれば、「逆立」とは「一方の側に立つとき、他方が消去される関係のあり方」である。このかぎりではこの概念は論理的に「矛盾」と変わらない。注意されなければならないのは「消去」という表現である。関係としての現実が観念を「消去」する、というのは当時流布していた俗流唯物論の反映論の考え、すなわち現実としての「物質」こそが「観念」に先行し、後者は前者の「反映」にすぎないという素朴な考えと同じ方向のことを言っている。ところが吉本=高橋の「逆立」を一貫させれば、逆に観念もまた関係の側を「消去」できるのだ。ここには明らかに「観念」や「思想」はけっして「物質」に還元しきれるものではないという信念がはたらいている。その意味でそれは通俗唯物論への根本的なプロテストなのである。これは梅本克己など当時の「主体性」論者や吉本の「宿敵」だった丸山真男などにも共有されていた信念である。
この「関係の絶対性」に関連して高橋のおもしろい「持論」がこぼれ出た例外的に長い脚注がある。それは恋愛における「嫉妬」の解釈である。高橋はこう述べる。「吉本風にいうと嫉妬とは「観念の絶対性」が無媒介な「観念の恣意性」へと変容し、そのまま「関係の絶対性」に入り込んでいったとき生じる感情といえるだろう」。おもしろいというのはこの先である。高橋はここに自らの体験に基いて、「関係の絶対性」の側に立って嫉妬として現れる「観念の恣意性」を滅却することこそが「恋愛関係の理想形」だとつけくわえる。高橋はさらにこの論理をもとにして、かつての新左翼運動の負の遺産「内ゲバ」を説明しようとしていて、そのアレゴリーに従うかぎりでは納得できなくはない論理なのだが、しかし後に述べる「対幻想」の原点とも言える恋愛論としては、これはいささかお高くとまりすぎている。恋愛とは、むしろおたがいが「恣意性」にも陥ることのある「観念の絶対性」のなかで足掻き、悶えることのなかにしかありえないものだからである。「関係の絶対性」の側についた恋愛とは、ほかならぬ恋愛の消滅以外のものではなかろう。そもそも「逆立」はその対立項を「消去」するはずではなかったか。この関連で「絶対性」と「恣意性」はどのような関係にあるのかを物象化やイデオロギー化の文脈で論ずることもできるが、すでに言い古されている話なので、ここでは立ち入らない。
第二点は本書の中心テーマ「共同幻想」をめぐってである。題名どおり本書の最大の力点もここに置かれている。吉本の有名な個体幻想、対幻想、共同幻想の幻想トリアーデは、もともとヘーゲルの家族、市民社会、国家に着想を得たものであろうことは、これまでにもよく指摘されてきた(ちなみにエンゲルスの家族、私有財産、国家も同列に加えてよい)。しかし日本には彼よりずっと以前に同じところから着想を得た者に「種の弁証法」を唱えた田辺元がいる。だからこの吉本のトリアーデが田辺の個、種、類を連想させるのは不思議ではない。つまり、吉本の共同幻想論の骨格は思われているほど特異なものではないということだ。
特異だったのは、吉本がこのトリアーデのもつダイナミズムの源泉を対幻想に求めたところにある。言い換えると、高橋も強調しているように、国家論の成立過程にフロイト的エロースないしリビドーの論理を持ち込んだところにある。それは当時画期的だった。とはいえ、この対幻想はたんなる男と女のペアないし夫婦をモデルにした対幻想ではない。吉本=高橋によれば、なかでも「兄弟姉妹」の対幻想こそがそのポイントになるという。この対幻想は「起源としての共同幻想」に外部に向けた空間的拡大をもたらすがゆえに、そこから「国家としての共同幻想」への移行を可能にする結節点となる。だから高橋はこの結節点に着眼して「共同幻想の解体と無化の戦略的ポイントは原理的には、この「兄弟姉妹」関係として現われる対幻想のベクトルを逆向きにすることにある」と言う。詳論はしないが、この観方はさまざまな観点を含んでいて、『共同幻想論』のなかでももっともおもしろいところかもしれない。高橋は言及していないが、これまで吉本のなかにこういう視点を読み込みえ、それをさらに展開しえたのは、おそらく小説家の中上健次ただひとりだけであっただろう(『枯木灘』『風景の向こうへ』参照)。
さらに高橋の共同幻想論の解釈で興味深いのは、「根源としての共同幻想」と「国家としての共同幻想」のさらなる「彼岸」に「像=イメージとしての共同幻想」を想定し、そこに後期吉本を位置づけしようとしている点である。この三段階は、ありていに言ってしまえば、原始共同体から国家の形成を経て、さらにそれを超えたマス・イメージの支配する時代へと変遷する時代変化に対応している。ある意味でこれは、吉本を含む日本人が戦前から今日にかけて歩んできた時代の変遷でもあり、そのプロセスの後追い的説明としてはそれなりの説得力があるだろう。だが、問題はこの先にある。吉本が一貫してその思想の拠点としてきた「大衆の原像」は、本当にこの浮遊した個からなるマス・イメージなるものに賭けられるものなのだろうか、また賭けてよいものだろうか。この問いは吉本のマス・イメージ論と並行して進んだ、いわゆるポスト・モダン論議を今日どう総括するかとも直結する問題と思われるが、本書を読むかぎり、この点に関する高橋の判断は保留になったままである。それはまた本書のあとがきが二〇一一年四月二八日の日付で書かれているにもかかわらず、私にはもはや判断停止としか思われない、この間の吉本の原発に対する発言について、高橋自身があえて自らの発言を封じていることにも象徴されている。その決断に踏み切ったとき、高橋はようやく自らの「自立の思想」を打ち立てることになるだろう。
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