聖パウロ 普遍主義の基礎 :アラン・バディウ 







アラン・バディウ著/長原豊・松本潤一郎訳
(河出書房新社)



1970年代から80年代にかけて言語・記号論やポスト構造主義理論がある種の行現象となるなかで、現代フランスの思想家たちが次々と日本に紹介された。レヴィ=ストロース、ロラン・バルト、ジャック・ラカン、ルイ・アルチュセール、ミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズ、ジャック・デリダという「マイスターデンカー」はもとより、リュシアン・ゴルドマン、ジャン=フランソワ・リオタール、モーリス・ゴドリエ、ピエール・マシュレ、ジョルジュ・バランディエ、ピエール・クラストル、ジャン・ボードリヤールといった人たちまで、その顔ぶれはじつに多彩である。だがそうしたなか、一部ではその名前が囁かれながら一向に翻訳紹介が行われない一人の思想家がいた。それが今回取り上げるアラン・バディウである。

 1937年モロッコで生まれたバディウは、1969年からヴァンセンヌで哲学を講じている大学教師であると同時に、68年を頂点とする形で噴出した青年・学生叛乱の季節のなかで最もラディカルな毛沢東派(マオイスト)マルクス主義者の集団フランス共産主義者同盟を創設したのであった。そしてバディウ思想的な急進性は、70.歳近くなった現在においてもいささかも衰えを見せていない。特筆すべきなのは、多くの「左翼」が89年のベルリンの壁崩壊後の東欧社会主義体制の解体以降、マルクス主義は終ったという雰囲気にのみこまれて批判意識を失っていった中で、バディウはまったくといっていいほどマルクス主義者として出発したその基本的な立場を揺るがすことがなかったという事実である。それどころかバディウは、さらに一層先鋭なかたちでその批判の(やいば)を磨いていったのである。

こうしたバディウの思想の持つ順応や屈服を知らない急進性は、「変化」や「フレキシビリティ」というような口実のもとでエスタブリッシュされた支配体制を結局は肯定してゆくようになったかつての「左翼」たちにとって、とりわけ「新しい社会民主主義」という名によって擬似的に「左派」を標榜しつつ社会主義崩壊以後の支配イデオロギーである新自由主義的なグローバリズムにすりよっていったイギリスのブレア労働党政権に象徴されるような傾向にとってはひどく煙たいものであったろうことは容易に想像しうる。これは、「ポストモダン」気分の中で急速に脱批判的な非政治化へとひた走っていたバブル直前の日本の論壇・思想界においても同様であった――そうしたれを正当化するものとして「現代思想」ブームが生み出されたともいえるのではないかとさえ思う――。こうした状況が、バディウの翻訳紹介の著しい遅れを招いたといってよいだろう。そのあたりはもう一人の急進主義者アントニオ・ネグリを取り巻いていた事情とよく似ている。
 
だが明らかに状況は変化してきた。今一足先に訪れたネグリの集中的な翻訳紹介に続く形でバディウの著作が次々に翻訳されつつある。そして、藤原書店から刊行された『哲学宣言』を例外としてバディウの翻訳は河出書房新社からすべて刊行されているが、その翻訳作業の中心にいるのが現在の日本において最もユニークなマルクス主義者――あえてそう呼ばせてもらってよいだろう――の一人といってよい長原豊であり、さらには長原よりも一世代若い、ドゥルーズについての犀利な論文を『情況』誌に発表する一方、あのデリダの『マルクスの息子たち』(岩波書店)の翻訳を行った松本潤一郎である。長原は農業経済学から出発しながら、ラカン派精神分析の世界へと分け入り、その文脈にたってスラヴォイ・ジジェクの理論を視野に収めつつ、さらにネグリ、そしてバディウの思想にまで触手を伸ばしてゆくという驚異的ともいえるような思想的容量の大きさを私たちに提示しているのだが、大切なのはそうした翻訳を中心とする作業――それを支えている長原の英仏にわたる卓抜な語学力を見落としてはならない――の根底に潜む長原のラディカルで非順応的(ノンコンフォーミスティック)姿勢である。長原と松本のチームで最初に刊行されたバディウの著作『倫理 <悪>の意識についての試論』に付されている訳者たちによる解説対談のなかで、長原は次のように言っている。「率直にいっちゃうとね、こんな人〔バディウのこと〕が身近にいたら僕はあまり好きになれないだろうとか感じます。嫌いというんではなくてね。でも不思議なことに、近しい感じを同時に持つ。・・・」。

 この長原のバディウへの共感の基底にあるのは、例えばネグリのなかにもあったある種の異例性(アノマリー)の感覚なのではないかと思う。2001911日以降ますます加速されつつある、世界大の強制的画一化(グライヒシャルトゥング)を暴力的に推し進める「帝国」グローバリズムは、異例な存在の場所を奪うというところにいちばん大きな特色を持っていた。すべてを均質な透過性のもとにおくという窮極的ともいえるような支配=権力欲望が現実になりつつあるのである。だからこそというべきか、にもかかわらずというべきか、そうした状況と真っ向から対決しようとする「異例な」思想への切実な関心が高まっている。だがそれはたんなる行ではない。繰り返しになるが、長原の言葉に現れているようにこれは好き嫌いの次元を超えるある種の「責任―応答可能性」の問題、すなわちこの「帝国」グローバリズムの支配する世界のなかで異例であることを強いられる存在からの微かな声に耳を傾け、誠実に応答責任を果たすという「倫理」的課題なのである。
                    
 さて大分前置きが長くなったが、そのバディウの新しい翻訳が『聖パウロ 普遍主義の基礎』(A5判・210頁・2500円・河出書房新社)である。それにしてもなぜパウロなのだろうか?先頃ネグリ『ヨブ 奴隷の力』(仲正征樹訳 世界書院)が翻訳されたが、ネグリとバディウという二人のラディカルなマルクス主義者が旧約と新約という違いはあるにせよ、共通して聖書というユダヤ・キリスト教的な世界に分け入っていったことにある象徴的なものを感じる。ただネグリの『ヨブ』の場合、ヨブが神から被った理不尽ともいえるような苛酷な状況をイタリア政府から追求を受ける自分の身に重ね合わせながら、「受苦から反逆へ」の論理を紡ごうとするネグリのモティーフは比較的伝わりやすかったように思うが、パウロの場合だとそうはいかない。周知のようにキリスト教の歴史の中でもっとも重要な使徒であり実質的な教会の創始者でもあったパウロは、ある面において「権力」の側の存在であった。このことは60年代から70年代にかけての全共闘運動の歴史のなかで極めてユニークな位置を占めた東京神学大学や青山学院大学神学科などのキリスト教系大学・学科における闘争――地味ではあったが思想的には極めて深い意味を持ったこれらキリスト教系大学における闘争についてはきちんとした記憶と理解が必要である――のなかでも議論されてきた。とくに「律法への服従ではなく神の義への信仰によって人は救われる」としたいわゆるパウロ「義認論」の持つ意味についいては様々な批判や疑問が提示された。こうした論理は結局は奴隷の論理なのではないか、その受動性によって人は神への絶対的かつ無条件な服従を迫られるのではないか等々。とくにルターがこのパウロ義認論を、信仰の徹底した内面化を梃子にした世俗権力への迎合の口実に用いたことがこうした批判や疑念の大きな根拠となったのである。

 だがバディウはそうしたパウロの義認をおもいもかけない方向へと読み替える。バディウがパウロに着目する点は、その宣教の内容上のポイントが「主は復活した」という言表にあることと、宣教の対象をユダヤ人という閉ざされた共同体の枠を超えて異教徒である非ユダヤ人にも及ぼしたことである。前者についてバディウは、「主は復活した」という言表が途方もない「寓話=物語」であり、到底信じ得ないものであることを踏まえたうえで、イエスという一人の人間の生と死に潜む一個の異例な出来事性として復活の意味を牽き出す。「キリストが死ぬのは、端的に、死を発案できる〔死という発案を耐え凌ぐ〕人間が生を発案できる〔生という発案を耐え凌ぐ〕ということを証すためなのだ。〔……〕それ〔キリストの死〕は神自身と平等になるための手段なのだ」(1234頁)。

 死と復活の寓話はけっして神の存在証明とそこから導かれる義認の物語へと回収されてはならない。それは出来事であり、そのかぎりにおいて本質的に異例なものであり、その異例性のなかからこそ、人間の生=存在の根源的な異例性を捉えることが出来るようになるのだ。私はこのくだりを読みながらレーニン廟に朽ちないミイラとして保存されているレーニンのことを思い出した。あのレーニンの不死性はちょうどこのバディウのいうイエスの死と復活の出来事の異例性の対極にあるものである。ひょっとするとあのレーニンの不死性こそがロシア社会主義の崩壊を招いたのではないだろうか。とするならばバディウが異例性の視点からイエスの復活を捉えたことの意味が自ずと見えてくるような気がする。
 
さて後者の宣教の対象の拡大についてはどうか。バディウはこういっている。「パウロの未聞の挙措とは、人民、都市、帝国、領土、あるいは社会階級といったことを問題にする共同体主義(コミュニタリアニズム)の企てから真理を引き去ることである。真であること(あるいは正義…)は、その原因あるいは帰結(もくてき)によっては、いかなる客体的集合にも送り返されるがままに任されることなど決してないのである」(14頁)。
 ここでも問題は異例性にある。つまりこうである。異例なものとは共約不能なものであるが、それは決して特殊ではない。もしそれが特殊であるならば異例性は自らの内部にある同一性を生み出し、その同一性の論理に屈服してしまうだろう。むしろ逆に異例性を普遍に向かって開かねばならないのだ。どこにも「場所を割り当てられることのない」異例性は「特異的普遍性」(松本によるあとがき参照)となる。ここにバディウの思想の核心が見出される。「帝国」グローバリズムの強制的画一化と社民的「文化共同体主義(カルスタ・ポスコロ)」の差異という名の同一性礼賛の循環構造のなかで逼塞する異例性の真の救抜――バディウのこうした思想的モティーフを今後も注視していきたいと思う。(2005.4)

権力と抵抗 フーコー・ドゥルーズ・デリダ・アルチュセール :佐藤嘉幸










佐藤嘉幸 著(人文書院)





ある意味で「懐かしさ」が漂う四人の名前が副題についた著作が刊行された。佐藤嘉幸の『権力と抵抗』(B6判・329頁・3800円・人文書院)である。もっとも著者である佐藤は1971年生まれであり、まだ30代のかなり若い世代に属する研究者である。

いわゆる「ニューアカブーム」が起こった80年代前半には彼はまだ小学生か中学生にしかなっていなかったはずである。私が本書に興味を抱いた第一のポイントは、今や一つのサイクルが終わり完全に過去のものになってしまったと現在の日本ではみなされがちな「構造主義-ポスト構造主義」の思想に対して、それが「ブーム」という形で受容されていた時期よりはるか後の世代に属する著者がどのようなアプローチを行っているのかという点にあった。もちろん簡単にある思想を時代遅れになったとか、もうブームは終わったというように裁断して顧みようとしなくなるのは、日本のこれまでの外来思想受容史の悪しき習癖であった。本来思想の受容は、それが受容しようとする人間のまるごとの存在を賭けた対決を通して行われる限り、行などに左右されるはずはないし、まして衣装を脱ぎ捨てるように簡単に別な思想へと乗り換えることなど出来ないはずである。とはいえ日本の習癖というべき思想のモードからモードへのアクロバティックな乗り移りにもそれなりの理由がなかったわけではない。たとえばかつてのサルトルの実存主義の受容においても、あるいは様々なマルクス主義理論の受容においてすらもそうなのだが、思想の受容の主戦場がいつのまにか煩瑣な解釈学の競い合いに収斂してゆき――これは長い漢学の伝統のなかで育まれた訓古注釈の技法の名残ではないだろうか――、思想がその起源と生成の場において帯びていた語の真の意味における現実的な条件が見失しなわれてしまうという問題が、そこには潜んでいるよう思われる。煩瑣な解釈学の袋小路に迷い込んでしまった思想は、当然ながら社会の現実や人間が日々生活のなかで味わう喜怒哀楽を含んだ実感との接点を失っていわば思想の剥製となってしまう。そんな思想の剥製に魅力などあろうはずがない。したがってある思想の受容においてそうした解釈学化=剥製化が進んで魅力が失われると、その思想は容赦なく捨て去られ別な思想への乗り移りが行われることになる。それは思想の消費化と呼ぶことも出来るだろう。多くの外来思想がこうした思想の消費化の過程のなかで浮かんでは消え浮かんでは消えしてきたのが近代日本の思想受容史ではなかったか。

こんなことを今更おさらいするのも馬鹿馬鹿しいことだが、もう一点だけ、とくに「構造主義-ポスト構造主義」に関してこうした受容の問題との関連で触れておきたいことがある。それは、思想の解釈学化=剥製化が思想の「非政治化」を生んできたという問題である。わが国における「構造主義-ポスト構造主義」の受容には、マルクス主義理論と結びついた過剰なまでに「政治的」であった状況――もっともこの「政治的」についてもある種の留保が必要なのだが――に対する解毒剤の導入という傾向が強かった。フーコーにしても、デリダにしてもその思想の受容がまず「文学」の領域、さらには言語-言説理論や記号論の領域において進行していったことはその証左である。その背景には、消費社会化のなかで社会的な決定審級の脱中心化・重層化が急速に進んでいったわが国の現実が、より正確に言えばそうした現実によってもたらされたある種の浮遊感(「差異の戯れ」)があったと思われる。このことが資本の力動化や動化として現れつつあった70年代以降のエコノミーのあり様に深く根ざしていたのはいうまでもない。やや乱暴にいえば、マルクス主義的な左翼的政治性が、「構造主義-ポスト構造主義」の持つ、差異性を通して脱構築された言説世界の布置を通して解体され、資本の新たなエコノミー運動と本質的に親和的な非政治的「サヨク」性へと置換されたということである。だが本来「構造主義-ポスト構造主義」と呼ばれた思想、とくに佐藤の本の副題に並ぶ四人の思想家たちの思想は、そうした非政治性とは根本的に異質なものであった。むしろそれは、たとえ通念上のマルクス主義的政治性・左翼的党派性とは異なるものであったにせよ、極めて本質的な意味で「政治的」であった。なによりも彼らの思想は「権力」への抵抗の思想であったからである。この点を脱色してしまったなら彼らの思想の本質的な意味が失われてしまうということに、わが国における彼らの思想の受容の仕方は驚くほど鈍感であったという気がしてならない。その意味で佐藤が本書に『権力と抵抗』というタイトルを付したことは、私の関心を強くそそってやまなかったのである。
                    
本書の序論で佐藤はまず、「構造主義的思考は主体を否定した」という周知のテーゼに対する反駁から議論を始める。佐藤によれば、構造主義的思考は「主体の依存」を、すなわち「真の意味で基本をなす何ものかに対する主体の依存」(9頁)を問おうとしたのであった。佐藤はその「何ものか」を、フロイト=ラカンの精神分析に文脈にそくして「シニフィアン」と呼ぶ。この「シニフィアン」は、主体にとって依存すべき何ものか、別な言い方をすれば主体にとって内面化されるべき何ものかでありつつ、主体が統御しえない何ものかでもある。この依存=内面化と統御不可能性(主体の脱中心化)の循環のなかに主体の位置が組み込まれるとき、主体の服従化のメカニズムが作動し始める。それは明らかに、フーコーの主体化=服従化の二重性として現れる「サブジェクション」に対応する。つまりこの主体化=服従化としての「サブジェクション」メカニズムにこそ主体に対して作用するミクロな権力作用の起源が存在するといってよいだろう。
ではこの「何ものか」としての「シニフィアン」、「サブジェクション」メカニズムを作動させる起源としてのそれは具体的にどのようなものなのだろうか。それはなによりも、主体を「経験的-超越的」に二重化(分化)するメカニズムの起源として捉えられなければならない。すなわち「サブジェクション」メカニズムは、自我の内部に「理想」と「現実」の乖離・ギャップを生み出し、その乖離・ギャップをてことしながら上位審級としての「超自我」(自我理想)による下位審級としての「自己」に対する暴力・非難・批判という形で、主体を「自己」に対応する経験的次元と「超自我」に対応する超越的次元に分化=二重化するのである。より正確にいえばこの二重性を前提として初めて可能となる倫理や道徳という形をとった自己内統整(自己の自己に対する服従)のメカニズムとして実現されるのである。

こうした「サブジェクション」メカニズムの核心をなしている「シニフィアン」とは、本質的にはフロイトのいう「タナトス」、つまり「死への欲動」である。だがここには「死への欲動」をめぐって、フロイト=ラカン的精神分析の文脈において生み出された一個の重大な意味組み換えのメカニズムの問題が同時に存在することを見落としてはならない。それは、なぜドゥルーズ=ガタリの『アンチ・エディプス』が精神分析批判を本質的課題としなければならなかったかという問題につながる。そしてそれは、精神分析理論を源泉としながら形成されつつも、精神分析理論と訣別しなければならなかった「構造主義―ポスト構造主義」的思考の本質的な意味、位置に関わる問題でもある。
ドゥルーズ=ガタリは、周知の通り『アンチ・エディプス』に「器官なき身体」というアントナン・アルトーに由来する奇妙な概念を登場させる。この「器官なき身体」は、ドゥルーズ=ガタリによれば「非生産的なもの、不毛なもの、消費しえないもの」である。言い換えればそれは、「死の本能」に他ならない。そして「器官なき身体」はこの「死の本能」に促されてたえず「死を欲望する」のである。それはちょうど「生の諸器官」(器官を持つ身体)が「生を欲望する」のと同様にである。このように「器官なき身体」を通して再生産される「死への欲動」は、いっさいの器官的な実定性を持たない、言い換えれば主体のなんらかの対象性には決して還元しえない非対象的な力動性として規定される。つまり「死への欲動」は、「快原理」と結びついた主体の実定的な存立に関わりえないものとして本来捉えられねばならないのである。

だがフロイト=ラカンの精神分析理論はこの「死への欲動」をエディプス・コンプレクスという装置を通して自我形成-主体形成(経験的-超越的主体の二重性)のプロセスへと接合し、「超自我」による「自己」の統制メカニズムに組み込むのである。このときフロイト=ラカンの精神分析の文脈における主体は、「死への欲動」を超越論的な起点としながら、生から死への軌跡を歩むことを宿命化された有機的・生物学的存在として、より正確にはそうした有機的・生物学的存在であることを基底に持つ自己統制的な存在として、「死への欲動」としての「シニフィアン」をめぐる「依存」と「統御不能性」のあいだの循環のうちに内属化されることになる。これが主体の服従化メカニズムに他ならない。
もし「構造主義-ポスト構造主義」的思考が権力への抵抗の思想でありうるとするならば、こうした精神分析理論の文脈のうちで定式化され根拠づけられている主体の服従化メカニズムを「開く」こと、つまり主体を服従の閉域から解き放つことが第一に求められるはずである。そのためにはまず「死への欲動」の核心である「シニフィアン」をエディプス・コンプレクスから切り離して外在化しなければならない。それは、主体をエディプス・コンプレクスによる有機化・器官化の回路から切断すること、あるいはエディプス・コンプレクスをへて主体へと向かうという回路に対する本質的なオルタナティヴを提起するという課題として捉えられる。『アンチ・エディプス』における「機械」という概念は、そうした抵抗の提起のひとつのケースと見なすことが出来よう。あるいは晩年のフーコー(いわゆる「最後のフーコー」)が、ドゥルーズと並行する形で見出した「魂」(意識、精神)という「牢獄」から解放された「身体」の特異性の位相もまたそうした提起のひとつのケースということが出来る。

時間がなかったために佐藤の犀利な議論を細部にわたって詳細にたどることが出来なかったのが残念だが、バリバールの指導のもとで執筆され、バリバール自身やジュディス・バトラー、ピエール・マシュレらの審査を受けて受理されたフランス語による博士論文がもとになっている本書は、若い世代がかつての日本における「ブーム」から完全に自由な立場で「構造主義-ポスト構造主義」の再政治化を、すなわち「構造主義-ポスト構造主義」の抵抗の理論としての読み換えを試みた文字通りの力作であることは間違いないといえよう。若い世代の研究者を取り巻く環境は劣悪さの度合いを増しているが、こうした仕事が今後も続くことを切に祈りたいと思う。(2008.12)

一九三〇年代のアジア社会論 「東亜協同体」論を中心とする言説空間の諸相 :石井知章・小林英夫・米谷匡史







石井知章・小林英夫・米谷匡史 編著(社会評論社)








「アジア社会論」という耳慣れない言葉が気になって本書(A6版・393頁・2800円・社会評論社)を読み始めたのだが、一読してその内容の多様さと問題の奥深さに圧倒される思いを感じた。ところで『情況』の20104月号は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』批判を軸に帝国主義戦争としての日露戦争の世界史的意味についての検討を行っている。私はこの特集に編集委員として関わったのだが、その際に中国の「アジア主義」研究者である李彩華氏へのインタビューを行い、日清・日露以来の近代日本の対アジア関係、さらにはそこで生まれた「アジア主義」と呼ばれる思想について李氏から多くのことを教えられた。不勉強なまま、「アジア主義」を日本帝国主義のアジア侵略正当化のための御用イデオロギーくらいにしか考えていなかった私に、李氏は、「アジア主義」が侵略イデオロギーの側面を持ちつつも同時に、とりわけその当事者の主観性においてはアジアとの連帯、さらにはアジア解放への志向をはらんでいたこと、また一言で「アジア主義」といってもいろいろな立場や視点がそこには含まれており、画一的に捉えることは不可能なことを懇切に教示してくれた。私は李氏の話を聞きながら、竹内好が「アジア主義」の再評価を提唱した理由がようやく分かった気がした。竹内はアジア・太平洋戦争というアジア侵略戦争の過程で客観的には侵略に加担した「アジア主義」のなかの「解放」の契機を救抜したかったのだ。この「アジア主義」のなかの「解放」の契機を救い出すこと抜きには、西欧近代化の模倣に終始した近代日本の歴史の根本的な転轍、言い換えれば真の意味での日本革命、さらにはアジアの根源的な解放と自立は不可能であると竹内は考えていたのだと思う。

本書を読むと、そうした竹内の思いを裏付けるように、「アジア主義」と重なりつつ、いわばその発展形態として登場する1930年代の「アジア社会論」がより複雑な、そして現在においても日本の対アジア関係を考える上で避けることの出来ない論点を含んでいることが明らかになる。1930年代の「アジア社会論」は、「アジアを侵略し、占領地を拡大しつつある日本が、同時にアジア諸民族の解放・共生を唱えるという総力戦期の巨大な矛盾の中で」(本書12頁)展開されていったのだった。
                  
こうした「アジア社会論」は、30年代後半の主として近衛内閣の時期に現れる「東亜同盟論」や「東亜協同体論」に凝縮してゆくが、その背景には、今までの日本における一国主義的かつ単眼的な30年代論や日本ファシズム研究などでは見えてこなかったより大きな世界史的枠組み(同時代性)の問題が潜んでいる。例えば本書第10章で、海軍をバックに設立された知識人たちの研究機関「海軍省綜合研究会」について考察している辛島理人は次のように述べている。「綜合研究会で一貫して議論されている主題は日本の帝国編成がどうあるべきかという問題である。(中略)大東亜共栄圏などの地域秩序は「植民地なき帝国主義」の一つの形態であった。第一次大戦以降の戦間期は植民地の新たな獲得が否定された時代であった。すでに植民地や従属国であった地域で反帝国主義闘争やナショナリズムが勃興し、アメリカとソビエトという新興の大国からそれを正当化するウィルソンやレーニンの民族自決原則が打ち出され、第一次大戦後の帝国に一つの問題を突きつけた。植民地主義が少なくとも公式には否定された時代にいかにして帝国を維持・編成するか、各帝国はポスト植民地主義時代の帝国像構築をせまられることになる。そして、1920年代後半の世界的な恐慌の対応策として、各帝国がニューディール・ファシズム・福祉国家・社会主義といった体制を選択するなか、第二次世界大戦には国民国家/ナショナリズムの超克と広域圏理論/広域秩序の模索が様々な学知で展開されるようになる」(376頁)。

こうした戦間期の世界史的動向をふまえ、トランスナショナルな枠組みの中で当時の日本国家・社会のあり方を考察してゆく視点が、これまでのこの時期をめぐる研究および議論には決定的に欠けていたように思われる。しかもそこには構造論的かつ純理論的な問題設定の射程をはるかに超えるダイナミックな葛藤・矛盾(構造変動)の契機が含まれている。その重要な要素の一つが、辛島の文章にもある「広域圏(広域秩序)」の問題である。例えば偽「満州国」建国とともに始まる日中戦争の過程は、単純な意味での侵略に留まらず、そうした「帝国」日本の側からする広域秩序形成の試みとしても捉えることが出来る。第4章で取り上げられている、三木清らの「東亜協同体論」とは異なる方向性――もちろん重なる部分もある――において「東亜協同体論」を展開した加田哲二などは、そうした広域秩序形成に関わる問題意識をもっとも強く抱いていた論者といえよう。この章の筆者石井知章によれば、加田は「英・仏・米・ソ連などが世界地図の現状維持を主張している」に対して、「新しい国家と国家、民族と民族の関係が設定されねばならない」(145頁)と考えていた。それは「英米本位の平和主義を排す」――この場合、「平和主義」のもとになる広域秩序は国際連盟になる――という加田の言葉に現れているように、欧米中心的な帝国主義的旧秩序に対する対抗を通して確立されるのである。このあたりの加田の議論はカール・シュミットを髣髴させるところがあるが、ともかくもこの延長線上に日中戦争を欧米列強からのアジア解放の戦いと位置づけるような発想も可能となってくるのである。しかもすでに触れたようにこの過程は静的に構造化された過程ではなく、とくに中国で燃え上がりつつあった抗日戦とそれを支える民族解放ナショナリズムのダイナミックな力が働く矛盾に満ちた動的な過程としてあった。

ここにもう一つの重要な契機が結びついてゆく。それは、日本のイニシアティヴによるアジアの新たな広域秩序の形成には、当のアジア(とくに中国)から民衆レヴェルにおける抗日の戦いを突きつけられている日本国家・社会自体の根本的な変革が求められるという問題である。そしてこの問題には従属国としての立場を強いられている中国自身の変革がどのように行われるべきかという問題が正確に照応する。この問題に関してもっとも鋭い考察を残したのが第1章で扱われている尾崎秀実であった。第1章の筆者米谷匡史によれば尾崎は、日中戦争が欧米やソ連を巻き込む世界戦争へと発展する中で、軍事的には敗
北した中国が「社会革命」へと向かい――尾崎によればその環は農業革命である――、一方の日本もまた長期戦による消耗過程の中でやはり不可避的に社会革命へと向かうことによって、総体として「日・中・ソ提携によって社会革命と民族解放をめざす「東亜新秩序」のヴィジョン」(56頁)が可能になる、という構想を抱いていた。それは、「アジア社会論」(東亜協同体論)が、客観的には日中戦争からアジア・太平洋戦争へと向かう過程における「総力戦体制」の形成を領導する帝国主義イデオロギーとしての役割を果たしながらも、その裏面にじつはきわどく危うい形で反帝国主義・民族解放を目ざす革命的イデオロギーとしての契機を密かに忍び込ませようとしていたことを意味するといってよいだろう。こうした「アジア社会論」の両義性をもっとも包括的な形で体現していたのが三木清であったことはいうまでもない。そして三木の議論、あるいは三木の協力者であった船山信一らの議論からは、「アジア社会論」のさらに錯綜した思想的背景が浮かび上がってくるのである。
                    
 本書を読み進める中で強い驚きを覚えたのは、「アジア社会論」の展開の過程に多くの転向(偽装転向)マルクス主義者たちが関わっていたことである。尾崎や中西功、平野義太郎らはもちろんだが、これまでほとんど無名であった、裏返して言えば本書によってほぼ初めて考察の俎上に載せられたといってよい満鉄調査部周辺の大上末廣、佐藤大四郎らもまた総力戦の思想としての「アジア社会論」に社会主義や民族解放を目ざす変革のモティーフを忍び込ませようとした人間たちだった。第5章の筆者大澤聡は、本書の編者である米谷の議論を紹介しつつ以下のような視座を提示する。「米谷は、従来「転向」として理解されがちだったその思想動向の意味を、国民国家の枠を越えた東アジア全体の構造変動・相互作用のなかに位置づけなおす。「日中関係の変容と国内の社会変革とを連動させ、立体的にとらえる視座」を構築することにより、一国内部に閉じた「協力/抵抗」という尺度では捉えきれない当時の社会変革構想を甦生させているのである」(171頁)。

 ここに本書のもっとも基本的な視点が現れている。大澤はこの後で米谷の文章を引用しているが、そこでは転向マルクス主義者たちを中心とする「アジア社会論」の展開、しかもたんに理論上の問題だけにとどまらずにすぐれて実践的な要素をも含んだその展開過程には、「あえて参戦をつうじて時局に介入し、戦時下の構造変動を変革にむけて転換させようと試みる」(172頁)モティーフがこめられていたのである。大上による、「半封建半植民地」的な中国の変革を農業協同組合運動による封建制打破の方向性に求めようとした発想にしても、佐藤の「合作社(協同組合)」運動にしても、まさに米谷の指摘するような変革のモティーフをうちに秘めた試みに他ならなかった。こうした問題圏に光をあてたという意味で、小林英夫が担当する本書第7章「満鉄調査部の思想」、福井紳一が担当する第8章「佐藤大四郎の協同組合思想と「満州」における合作社運動」は本書の中でも際立って印象的な部分といってよい。それとともに大上、佐藤がともに国家権力による弾圧を受けて獄死したことは――ゾルゲ事件に連座して処刑された尾崎や敗戦後まもなく獄死した三木を含め――、30年代から40年代への推移の過程で、こうした「アジア社会論」内部の変革のモティーフが当時の軍部を中心とする支配権力による苛烈な弾圧の中で急速にしぼんでゆき、代わりにそうした問題意識が希薄になった分だけいわゆる「総力戦の思想」としての性格を強めていった高山岩男、高坂正顕ら京都学派の「世界史の哲学」が提唱され、さらには「近代の超克」という痴呆めいたスローガンが呼号されるに至った事情を物語っている。このあたりをめぐっては昭和期知識人論ないしはこの時期の知識社会学な考察の問題としても捉えることが出来る。

 この過程において理論的には、「アジア的生産様式論争」、あるいは「アジア的停滞」の問題や講座派史観の問題が、さらにはK・ヴィットフォーゲルの「中国(支那)水利社会論(東洋的専制論)」などの問題が複雑に絡み合っている。そしてそれらの理論的諸問題の焦点は、三木の協同主義哲学における「革新」の二重性という考え方、すなわち封建制を脱する近代化の必要性と、同時に近代主義を超える原理の模索の必要性を重ね合わせて捉えようとする考え方に収斂するとともに、日本およびアジアにおける近代化の意味と方法の根本的な見直しへもつながってゆく。最後に、これは李氏へのインタビューでも教示されたことだが、こうした「アジア社会論」の展開において「忘れられた思想家」の一人である橘撲が非常に重要な役割を果たしたことをあらためて本書を通して確認することが出来たことをつけ加えておきたい。先にあげた大上や佐藤の立場は橘の影響抜きにはありえなかったからである。ともあれ多くの刺激と触発に富んだ好著である。(2010.4)

哲学のアクチュアリティ 初期論集 :テオドール・W・アドルノ 









テオドール・W・アドルノ著・細見和之訳
(みすず書房




20004月から担当してきた本ブックハンティング欄も今回が最後となった。足かけ11年にわたって一回あたり10枚という長文の書評を月一回のペースで続けなければならない本欄の仕事は正直いってきつかったが、多くの新刊本の中から一冊を選び、自分なりの読み方、解釈を踏まえて書評にまとめるという作業は大変貴重な勉強の機会でもあった。何より一冊の本を通してそのつどの世界や時代の状況を論じたり、その本が扱っている分野や主題に関して理論的・歴史的反省を行うとともに今後の展開を展望することは、自分自身の思想的道筋を確認するための大切な作業となった。

 私が本欄を担当するにあたって心がけたのは、まず第一にたんなる内容の要約にとどまらず、必ず一個その本から引き出すことの出来る論題を示し、それについての自分なりの議論を含めることであった。10枚という長文書評にはどうしてもそれが必要だと考えたからである。第二には、思想・哲学の分野を中心にしつつ出来るだけ多様な分野の本を取り上げることだった。とくに通常の書評では取り上げられる機会の少ない音楽関係の本を出来るだけ取り上げようと心がけてきた。第三には、とくに後半の時期においてそうだったのだが、若手の博士論文を中心とする業績を積極的に取り上げることだった。ここ5年あまり大学では若手研究者が博士論文を執筆するのはほとんど義務となってきている。言い換えれば若手研究者の優れた仕事は彼らの博士論文にこそもっとも凝縮されているはずなのだ。今若手研究者の仕事が世に出る媒体としても博士論文がもっとも重要となっているのは。出版事情の悪化もあって書き下ろし単行本や論文集でデビューすることがほとんど期待出来ない状況であることと深く関係している。

 今も少し触れたが私がブックハンティング欄を担当した10年は、出版事情が急速に悪化した時代だった。とくにそれは人文・社会科学書において顕著だった。だからこそこれから世に出ようとする若手研究者の業績を中心に、その分野における貴重な著作の紹介を行うことが本欄の重要な役割であった。もとよりそれは大河にそそぐ一滴のように微力なものではあったろう。ただ悪化しつつある出版事情の中であえて旗を立て続けようとする著者や出版社の志に共感と連帯の意志を示すことは本欄を担当する者の義務であったと確信する。
                   
 さて本欄の最後に取り上げるのは、詩人であり、アドルノ、ベンヤミンの優れた研究者として著作および訳書を次々に刊行してきた細見和之によるアドルノの新しい翻訳(B6判・193頁・3000円・みすず書房)である。アドルノの仕事は同じみすず書房から昨年刊行された『文学ノート』1・2を含め主要著作の翻訳がほぼ終わっているが、なぜかアドルノの思想を理解する上で極めて重要な意味を持つ初期の二つの講演「哲学のアクチュアリティ」「自然史の理念」は、雑誌に翻訳が掲載されたことはあるとはいえ単行本としては未刊だった。この二つの講演は、アドルノが教授資格論文「キルケゴール論」に取り組んでいた時期である1931年から31年にかけて行われ、その後のアドルノの、『啓蒙の弁証法』を経て『否定弁証法』や「美学理論」へと至りつく思想的軌跡の起点に位置するものである。そのことは細見自身が彼の著作『アドルノの場所』(みすず書房)で述べていた通りである。その意味で今回両講演と、それに加えて執筆時期が1924年頃と推定される極めて早い時期の草稿「哲学者の言語についてのテーゼ」、これまた1920年代後半から30年代にかけて書き継がれた「音楽アフォリズム」が細見の翻訳によって一書にまとめられたことは、今後の日本におけるアドルノ解釈にとって貴重な一里塚となるであろう。 
   
 「哲学のアクチュアリティ」においてアドルノは自らの哲学の出発点を極めて明快な形で述べている。冒頭の文章を引用しておこう。「こんにち哲学研究を職業として選択する者は、かつてさまざまな哲学的企ての出発点に位置していた幻想、すなわち、思考の力によって現実の総体を把握することができるという幻想を、放棄しなければなりません。現実の秩序と形態があらゆる理性の要求を打ち砕いているのですから、正当化をこととする理性がそのような現実のなかで自分自身を再発見することなど不可能でしょう。認識する者に対して理性がまったき現実として自らを提示するとすれば、それはひとえに論争的な仕方においてのみであって、自分がいつかは正しく公正な現実にゆきつくだろうという希望を、理性は痕跡と破片の姿でのみ認めることができるのです」(2頁)。

 少し大げさな言い方に聞こえるかもしれないが、引用した文章から私たちは、あらゆるアドルノのテクストを通して執拗に鳴り続けている彼の思想の基調低音(ゲネラルバス)ともいうべきものを聴き取ることが出来る。アドルノは大学の学位論文でフッサールの現象学を論じているが、この文章の背景にあるのも現象学の問題であるといってよい。というのも現象学はアドルノにとって最後の観念論ないしは形而上学だったからである。ここで観念論、形而上学という言葉は唯物論の対立項としての観念論を意味しているわけではない。それはむしろ伝統的な意味での哲学そのものを意味しているといってよいなぜならアドルノがいっているように哲学の問いはつねにその思考によって現実の総体、言い換えれば全体性を把握するという要求、つまり哲学的思考の根幹をなす理性によって存在の全体性を完全なかたちで捉えようとする要求に根ざしているからである。観念論、形而上学とはまさにこうした要求によって規定された哲学のあり方そのものに他ならないのだ。

 アドルノはそうした哲学の要求に対して敢然とその断念を要求する。もはやわれわれの哲学的思考の前には哲学をつかさどってきた理性とおあつらえ向きな形で対応するような全体性など存在しえないのだ。言い換えれば思考(理性)と現実(存在)の幸福な一致など今や不可能なのだ。アドルノはそう主張する。そしてアドルノが対案として提示するのは、もし哲学的思考にとって「正しく公正な現実にゆきつく」ことが可能であるとすれば、それは「理性は痕跡と破片の姿でのみ認める」という形でしかないという考え方である。
 「痕跡や破片」という言い方に後年のアドルノにおける「非同一的なもの」の契機の現われを看て取ることはある意味容易い。とはいえ問題はこの時点でアドルノがなぜ、またどのようにこうした思考へと至りついたかという点にある。恐らくその背景にあるのは、一つは先輩であるベンヤミンからの影響である。「痕跡や破片」という言い方には明らかにベンヤミンの『ドイツ悲劇の根源』の「認識批判的序論」における言葉づかいが影を落としている。初期アドルノの思考圏はベンヤミンのいわゆる「アレゴリー」的思考の圏域に属しているといってもよいだろう。そのベンヤミンの思考圏が第一次大戦後の「ヨーロッパ文明の没落・終焉」ともいうべき時代状況と深く関連していることを思い返すならば、初期アドルノの思考圏もまたこうした時代状況との関連の中で形成されていったと考えてよいだろう。

 このときそれとの関わりでもう一つの問題が浮上する。それは、この時代状況をやはり引き受けながらベンヤミンやアドルノとはまったく対蹠的な方向へと向かった一人の思想家との対決という問題である。その思想家が現象学から存在論へと向かったハイデガーであることはいうまでもない。このハイデガーとの対決というモティーフは「哲学のアクチュアリティ」においてもつねに明滅しているが、より明確な形で展開されているのが「自然史の理念」においてである。
ここでアドルノは「自然」と「歴史」という二つの概念を結合して「自然史」という「理念」を作り出す。このときアドルノの念頭にあったのは恐らくこの「自然史」という言葉をすでに用いている二人の先行者、すなわちマルクスとニーチェであったに違いない。そしてこの二人の先行者が、この言葉を通して理性による全体性の要求を観念論という究極的な認識の倒錯形態として厳しく斥けようとしたこともまた思い浮かべていたに違いない。つまり「自然史」という「理念」は、自然(=存在)を全体性という名の倒錯的な物象性にではなく、個別性だけがあたかも「痕跡や破片」のように配置されている歴史に向かって解き放つことを表す理念なのである。それは存在と存在者の区別から出発しながら最終的には存在をふたたび神秘的な全体性へと回収し、あまつさえその全体性をナチス的な国家=民族共同体の全体性へとすりかえっていったハイデガーに対するラディカルなアンチテーゼとしての意味を持つ。

 と同時に私たちが見ておかねばならないのは、アドルノがこうした非同一的なものへの志向を通して歴史の「アレゴリー」的配置へと入ってゆこうとすることが、たんに認識論的モティーフからのみ行われているだけではなく、哲学と並んでアドルノの思考の重要なもう一つの柱である音楽によって象徴される芸術(=美)の問題と深く結びついていることである。それは自然という概念を「神話」として捉え返そうとする志向にはっきりと現れている。この場合芸術(=美)の問題は具体的には「仮象」の問題となるのだが、それを「神話」の文脈に置き換えると、神話的思考に底する存在と理性の根源的な和解・宥和への志向の問題になる。それは後のアドルノの用語を使うならば「ミメーシス」の問題である。それが後年アドルノの遺著となる『美学理論』の中心課題の一つとなるのは周知の通りである。こうした点からも両講演がアドルノの思想的軌跡を考える上で極めて重要な意味を持つことは明らかであろう。

 「哲学者の言語についてのテーゼ」と「音楽アフォリズム」に触れるスペースが少なくなってしまったが、前者に関していえば「哲学のアクチュアリティ」でも言及されているアドルノの「エッセイ」への志向の問題が重要となろう。形式と内容が、理念と事象が、つまりは自然と歴史がつねに「痕跡や破片」という非同一的な境位のなかで交錯する地点において思考することが「エッセイ」的思考の神髄であるとするならば、アドルノの思考はつねに「エッセイ」への志向に貫かれていたといってよいだろう。また後者に関しては、個々の作品や楽節の微細な要素から思いがけない洞察を引き出すアドルノの後年の音楽社会学におけるミクロロギーの手法が早くも現れていることに注目すべきである。リゴリスティックな認識批判者としてのアドルノと繊細なエステートとしてのアドルノの二重性がここにも現れている。(2011.12)

和辻哲郎 ―― 文人哲学者の軌跡 : 熊野純彦








熊野純彦 著(岩波新書)



今や日本の哲学界を代表する存在になりつつある熊野純彦が和辻哲郎に関する新著を公刊した(新書判・241頁・780円・岩波書店)。まず、これまでレヴィナス、ヘーゲル、カント、メルロー=ポンティなどの西欧の哲学者についての著作を主として執筆してきた熊野が、和辻という近代日本を代表する哲学者を取り上げたことに興味をそそられる。とはいえ現在東京大学の倫理学の正教授である熊野は文字通り和辻の後継者というべき立場にあること、そしてしばらく前から熊野が日本哲学・思想に並々ならない関心を払ってきたこと(菅野覚明との共同編集による『再発見 日本の哲学』シリーズ 講談社など)を考えあわせれば、本書はまさしく出るべくして出た著作というべきなのかもしれない。
 
 私自身にとっては和辻は何よりも『古寺巡礼』の作者であった。中学生から高校生にかけて奈良・大和の仏像にひどく惹かれ、毎年の如くかの地を訪れては寺めぐりをしていた時期があった。当然古寺巡礼にまつわる本もずいぶん読んだ。それらの中でも亀井勝一郎『大和古寺風物詩』、会津八一『鹿鳴集』、堀辰雄『大和路・信濃路』などと並んで、和辻の『古寺巡礼』はもっとも繰り返し読んだものの一つだった。とはいえ正直いってこの本にはある距離感を感じていた。熊野は本書のあとがきで、熊野の北大時代の講座主任だった宇都宮芳明のことに触れているが、それによればやはり奈良の仏像が好きだった宇都宮は和辻の『古寺巡礼』を嫌っていたそうである。私はそのくだりを読み「なるほど」と思った。私が和辻に感じた距離感は、例えば信仰の問題を土台に据えながら一挙に対象へと没入してゆく亀井のような仏像への接し方とはおよそ対照的な和辻の「鑑賞」的態度に直接的には根ざしていた。そしてそれは、刊行されるやただちに大正教養主義のひとつのモードとなったこの本の受容のされ方への違和感にもつながっていた。ただこの本の受容のされ方には、『古寺巡礼』も含めた和辻の著作の独特な雰囲気が作用している気がする。それは、本書の副題を踏まえていえば和辻の「文人」性である。もう少し具体的に言えば、哲学者にしておくのがもったいないほどに鋭敏な感性、とくに形の持つ感覚的な具象性に対する感応能力やそこから超越的な思考へと橋渡ししてゆく想像力ののびやかな働きなどの要素が、和辻の著作に否応なく文人的性格・雰囲気を与えているということである。ただそれが同時に和辻の「臭み」ともなって和辻への距離感・違和感につながって面もあるように思える。

 だが今回、熊野の新著を読むのと平行して久しぶりに『古寺巡礼』を読み返し、昔気がつかなかったこの著作の魅力、というか、これはまさに熊野の新著からの触発によるというべきなのだが、和辻の思想を底流する基本的なモティーフにつながる要素に気づくことが出来た。そして重要なのは、それが和辻の哲学全体、とくに和辻の主著というべき『倫理学』の主題にまでつながっていることである。それは本書のキーワードというべき「間柄」(あいだ)という言葉が示唆している問題である。

                   
 今回『古寺巡礼』を読み返しながら感じたこの著作に内在するある種の矛盾、亀裂から出発してみたいと思う。というのも、この矛盾、亀裂の先に和辻の思想のもっとも根本的なモティーフが見えてくるのではないかと思うからだ。
『古寺巡礼』には、一方において強いギリシア志向が存在する。例えばこの本の冒頭に、アジャンターの壁画のことが取り上げられている。また天平の伎楽面の印象から始まって、インド、ペルシャ、ギリシアへとその起源を次々に遡ってゆく奔放な考察の行われている箇所もある。そこでは和辻は明らかに西欧文明の起源としてのギリシア文明・芸術の賛美者という立場に立っている。逆に言えば、日本の仏像の美がそうしたギリシアという規範・尺度をもとにして測られているのである。このあたりがかつてこの本の感じた距離感の淵源といってよいだろう。だがその一方、熊野も引用しているこの本の末尾を飾る有名な中宮寺弥勒菩薩像――熊野も触れているように、この像を観音としたのは和辻の誤りである――をめぐる叙述には、この像を「日本的なるもの」の精髄として礼賛しようとする和辻の姿勢が表現されている。この一見すると矛盾するふたつの姿勢、態度には、だが単純に矛盾だと片付けるわけにはゆかない問題がはらまれている。というのもそこからは、和辻の思想の根本的な問題ともいうべき「他(異)への志向」と「自(同)への志向」の二重性が見えてくるからである。やや結論先取的にいえば「間柄」という言葉が指し示しているのはこの「他(異)-自(同)」の二重性を通して織りなされる関係性のあり方に他ならない。そしてこの二重性をはらんだ関係性のあり方を、例えば感覚性と思弁性の関係としてみるならば先ほど述べた和辻の「文人」性につながるだろうし、より包括的な歴史性・社会性の次元でみるならば、ある面でマルクスとの親近性をも含んだ和辻の主著『倫理学』(および『人間の学としての倫理学』)の主題の問題につながるであろう。さらにいえば、アジア・太平洋戦争期における和辻の日本国家や日本精神の捉え方に潜む極めて微妙なスタンスの問題もここから来ているといえるかもしれない。熊野の新著はまさにこうした和辻の思想的な核心を鮮明にあぶり出してゆく。
                    

 「他(異)-自(同)」の二重性をうちにはらむ「間柄」としての関係性には、極めて微妙な和辻の思想的スタンスが賭けられているように思える。おもえば哲学者としての和辻のデビュー作が『ニイチェ研究』であり、それに続く著作が『ゼエレン・キェルケゴオル』であったことはまことに象徴的であったといわねばならない。なぜならこのふたりは、ヘーゲル的な同一性の論理にまっこうから異=他性の契機をつきつけた思想家だったからである。しかしニーチェとキルケゴールから出発しながらも、和辻は単純に異=他的な非同一性の側へと突き進むことはなかった。和辻には時間・空間の両面にわたって共同性と連続性へと回帰してゆく志向もまた存在していたからである。それを証明しているのが『日本古代文化』から始まる日本精神史・文化史研究の系譜であり、さらには『風土』である。しかも熊野は本書でそうした和辻の中に潜む対蹠的な契機が決して別々に生じたのではなく、ほぼ同時に芽生えていることを証立てている(83頁参照)。そしてそれらをいわば総合する著作として『倫理学』が書かれていることも熊野の論述を追ってゆく中で納得させられる。そのひとつの焦点となるのが、カントの考察を通して提起される自己の空=無としての認識である。「カントの語る「本来的自己」「本体人」とはむしろ「一切の現実性の主体的な根源としての「空」」にほかならない(…)。――存在は、存在者ではない。存在は、存在者としてはである。本来的な自己と呼ばれるものも、対象的には無なのであった。それは、みずからを否定する否定性、なのではないだろうか」(106頁)。こうした認識がさらに和辻倫理学の根本的な発想にもつながってゆく。「人間存在の「個と全の二重構造は、全の否定によって個が成立し、個の否定によって全が全に還帰するという、二重の否定運動」を介して開示される。その否定運動は、しかも、和辻が「空」と名づける「絶対的否定性」、「本来的な絶対的全体性」が自己を実現する運動である」(127頁)。この「空」としての「否定性」がポジティヴに定立される同一性の否定を、したがって非同一的なものの契機の発出を意味することはいうまでもないだろう。だが和辻がそれを「絶対的全体性」と言い換えるとき、そこには別種の問題が同時に生起するのである。それは、否定性が非決定性の契機をはらむ異=他性のあり様を消去することによって、結果的に全体性という名のもうひとつの同一性の枠組みを定立してしまうという問題である。このことは直接的には和辻の中にある共同性・連続性への志向の意味の問題へとつながってゆく。例えば「清明心」に日本古代文化の真髄を見ようとした和辻は、戦争後の憲法改正過程で起こった天皇制をめぐる議論においてその「清明心」を象徴天皇制擁護の論拠としたのだった。象徴天皇制は明らかに和辻のいう「絶対的全体性」の証明であった。その「絶対的全体性」の根拠が「清明心」として現れる絶対的な肯定性なのだが、この肯定性は位相において否定性の完全な逆転写と考えてよいだろう。「何もない=空」であることが「すべてが肯定される」ことの根拠となるのである(85頁参照)。

 こうした和辻の姿勢をどう考えたらよいのだろうか。熊野は和辻のいう日本精神が異質なものに向かって開かれた、いかなる意味でもファナティックな日本主義イデオロギーとは無縁なものであったことを指摘する(84頁、151~2頁参照)。たしかにこの点を踏まえれば、和辻に日本主義イデオロギーとの共犯関係という疑惑を投げかけることは難しいといえるだろう。だが空=無を根拠として成立する絶対的全体性へと天皇制の性格を読み換えることを通して、天皇制超国家主義イデオロギーに彩られた戦争遂行国家体制へと一定のコミットメントを行ったこと、さらには象徴天皇制論による天皇制の存続(連続性の担保)を図ったことの責任まで免除出来るのだろうか。実際和辻の象徴天皇制論はもっともソフィストケートされた戦争責任否定論としての側面を持っているのである。
                    
どうも私自身の中にある和辻へのアンビヴァレントな感情が本書を通して全面的に触発されてしまったようだ。熊野は本書でじつにていねいかつ犀利に和辻のテクストを解きほぐしながら、和辻の思想的アンビヴァレンツを浮上させている。そして私自身がそうであるように、ときに抒情的に過ぎるほど和辻の「文人」的魅力への共感も語っている。だからこそなのだが、本書を読み終えたときにもなお和辻に対する理解をめぐって残る澱のようなものが気にかかるのである。その澱は、おそらくは橋川文三が日本にける真正保守主義の典型とみなした柳田國男の理解の問題などにもつながってゆくであろう。
ところで最後に一つだけ指摘しておきたいことがある。熊野の描き出す和辻像はその問題機制においてある別な哲学者のイメージと著しく重なり合っている気がするのだ。その哲学者とは熊野の――じつは私自身の、でもあるのだが――旧師である廣松渉に他ならない。熊野は本書であるいは間接的に廣松のことをも論じようとしたのだろうか。(2009.10)

『<死の欲動>を読む』 : 小林敏明








小林敏明 著(せりか書房)




評者 : 宇波 彰(明治学院大学名誉教授)


ジャック・ラカンは1964年に行なった『セミネールXI 精神分析の四基本概念 』において、精神分析の四つの基本概念が「無意識・反復・転移・欲動」であると述べた。精神分析の概念としての「欲動」の重要性がラカンによって認識されていたと見なければならない。フロイトの孫の「いないいないばあ遊び」(Fort-Da)も論じられている「快原則の彼岸」(1920)においては、「生の欲動」とともに「死の欲動」(Todestrieb)の概念が示されている。本書は、その「死の欲動」の概念についての綿密な考察である。

 著者はまずこの「死の欲動」の場である「無意識」の前史についてシェリング、ショーペンハアー、ニーチェなどに遡って検討する。次にフロイト自身の思想形成の過程で、「無意識」という考え方がどのように展開していったかを明らかにする。この二つの「前史」には、われわれの知らない思想家・科学者も登場するが、著者はわれわれにはなじみの薄いものもある彼らの著作にもいちいちあたって、どういう考えがフロイトの思想の背景にあるのかを子細に解明していく。そして、フロイトの思想がいかに「自我/意識中心主義」というパラダイムの転換であったかを論証する。これはフロイトの考えを「思想史的に」捉え直そうとする試みと理解できる。「不断に練りなおされるフロイトの基本構想において<死の欲動>を想定することが、いかに大きな転換を強いることになったか」(p.141)が著者にとっての問題である。この「転換」もしくは「転回」こそ、フロイト論の重要なテーマの一つであるというべきであろう。

 「快原則の彼岸」において、「死の欲動」を中心に位置させ、そこにフロイトの思想の一種の「転回」を見ようとするのは著者だけのものではない。「快原則の彼岸」も収められているフロイトの論文集"Das Ich und das Es"の解説で、マックス・ホルダー(Max Holder)は「快原則の彼岸」においては、それまでの快原則と現実原則という対立関係に代わって、生の欲動と死の欲動という新たな対立関係が考えられたと指摘している(S.21)。また、邦訳のあるクセジュ文庫『フェティシズム』の著者ポール=ローラン・アスンの『精神分析文献事典』の「快原則の彼岸」の項を見ると、死の欲動という問題設定が「重要な革新性」(innovation majeure)を持つものであると指摘されている(p.225)。すでにアスンは『精神分析』(1990)においても、フロイト思想の「1920年の転回」(le tournant de 1920)について論じているが、それは「死の欲動」の概念が提示されたことである。

 また、三原弟平は、『ベンヤミンと精神分析』において、フロイト自身が「死の欲動」の概念が「いまだ確立していないことを認めていた」と指摘し、次のように述べている。「いや、確立どころか、この著作(「快原則の彼岸」)は、<死の欲動>という素材をはじめて思考の俎上の提出しただけの、まったくの準備段階、助走段階のものにすぎない」としている(p.58)。「死の欲動」は、「はじめて思考の俎上」に乗った新たな概念として位置づけされているのであり、これはアスンの考えに通ずるものである。なお、三原弟平の『ベンヤミンと精神分析』によると、ベンヤミンは「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」において、「快原則の彼岸」に言及しているが、「死の欲動」には触れていない(p.26)。著者は現代生物学の成果をも検討し、「フロイトの生の欲動と死の欲動との二元論仮説」が「かならずしも時代遅れの妄想などではない」と説く。

 著者が強調するのは、「欲動を核とする無意識」についてのフロイトの考えは、あくまでも仮説であり、Spekulationであるという見方である。アスンもSpekulationという用語を特に重視し、「以下はSpekulationである」というフロイトのことばを引用している(p.225)。ポール・リクールのフロイト解釈は、ラカンの解釈と徹底的に対立しているといわれているが、そのリクールも『フロイトを読む』において次のように述べている。「『快楽原則の彼岸』はフロイトの著作のなかで最も解釈学的でなく、思弁的である。つまりその著作では、極限にまでおしすすめられた仮説や、発見のための理論的構成などが占める部分が極度に大きいのである。」(p.308)(ここで「思弁的」と訳されているもとのフランス語は、speculatifであり、「思弁的」という訳語ではカバーしきれないものがあることはいうまでもない。)このSpekulationにも関係することであるが、評者にとって最も印象に残るのは、著者がフロイトの論文のなかから「勇気」(Mut)ということばを見いだしてくるところである。「死の欲動」を支えるものは「反復強迫」であるが、フロイトにとってはこの概念はあくまでも「仮説」である。著者もまた「フロイトの死の欲動という仮説概念はみかけほど強い実証的根拠の支えられちるわけではない」と断言する。フロイトは「実証的根拠」を欠いたその仮説を主張する「勇気」(Mut)が必要だと説いた。フロイトは次のように書いている(小林敏明の訳による)。「われわれは次のような仮説を立てる勇気を見いだすことだろう。すなわちそれは、心的な生のなかには快原理を超え出るような反復強迫が本当にあるという仮説である。」(p.106) 仮説もしくは概念を示すときに「勇気」が必要だという考えがここに明白に示されている。仮説とは、当然と見なされていたことを否定したり、いままではなかったような新しい考え方んことであるが、それを真なるものとして提示するためには「勇気」が必要だというのである。フロイトのテクストにある「勇気」ということばを見いだしてきたのは、著者の卓見である。

 この論点に関連して想起されるのは、ジャック・ラカンが『精神分析の四基本概念』で次のように述べていることである。「実際概念は、それが把握すべき現実への接近によって形作られるとしても、概念が実現化を達成するのは、極限におけるある飛躍、ある乗り越えによってでしかありません。」(邦訳p.24)ラカンがいう「飛躍・乗り越え」(saut,passage)は、勇気がなければ行われない。これはラカンがこのセミネールで語った「学者(フロイト)のよく知られたこの勇気」(邦訳p.43,Seuilp.35)のことであろう。真理の確実性、あるいは「確信」を支えるものは、この「勇気」にほかならない。
 著者は「フロイトを徹底的に読み直す」(p.217)を目標としたと書いている。それはけっして容易なことはない。たとえば著者はフロイトの「自我とエス」で示されている「死の欲動」についての説明が「すべて接続法第二式」で書かれていて、それによって「述べられている内容のすべてが仮定であることが明示されている」(p.191)と説いている。このように、本書は「死の欲動」に関してなされた綿密な解読の報告である。その難しい作業の報告が、きわめてわかりやすい文章で記されていることに評者は感銘を覚えた。

引用文献

小林敏明『<死の欲動>を読む』,せりか書房、20126月刊

S.Freud,Einleitung von Max Holder,Das Ich und das Es,Fischer Taschenbuch Verlag,1992
ジャック・ラカン、小出浩之他訳『精神分析の四基本概念』、岩波書店、2001
J.Lacan,Quatre concepts fondamentaux de la psychanalyse,Seuil.1973
Paul=Laurent Assoun,Dictionnaire des ouvres psychanalytiques ,PUF,2009
Paul=Laurent Assoun,Freudisme,PUF,1990
三原弟平『ベンヤミンと精神分析』水声社、2009
ポール・リクール、久米博訳『フロイトを読む』新曜社、1982

再発見 日本の哲学 折口信夫 ―― いきどほる心:木村純二









木村俊二著講談社)




最近折口信夫への関心がふたたび高まっているように思われる。少し前になるが、若き日の折口の性愛関係を掘り起こすとともに、「恋人」藤無染の影響による折口の英語文献への関わりを明らかにすることによって従来の一国主義的な折口観に大きな転機をもたらした富岡多恵子の『釈迢空ノート』(岩波書店)、そしてその成果を受ける形で折口学とアジアとの関わりを論じ、さらに包括的な折口観の転換を推し進めた安藤礼二の画期的な折口論『初稿 死者の書』(国書刊行会)、『神々の闘争』(講談社)の刊行がそうした動きをもたらすきっかけになったのではないかと思う。辰巳正明の大著『折口信夫 東アジア文化と日本学の成立』(笠間書院)もまたそうした系統に連なる新しい折口研究として注目される。さらに近刊の中沢新一『古代から来た未来人折口信夫』(ちくまプリマー新書)は、青少年向けの新書という枠組みのなかではあるが、折口の思想・学問が持つ根源性、真の意味での「新しさ(未来性)」を鮮烈に描ききっており、これまた注目すべき折口研究の成果というべきであろう。なお未読だが上野誠『魂の古代学 問いつづける折口信夫』(新潮選書)も刊行されたばかりである。

 こうした折口への関心の再度の高まりの背景にあるのは、常民文化の空間的アイデンティティと祖先崇拝の時間的アイデンティティによって支えられている柳田民俗学の同心円的な同一性の構造に対し、折口の思想・学問がある根源的な逸脱・非同一性を含んでいるという認識であろう。そうした逸脱、言い換えれば折口学の持つ、柳田民俗学に対する根本的な異端性が、例えばポストコロニアル批評のもたらした文化内部の非同一的な非連続性や亀裂の認識を折口学の内在的な読み換え可能性につなげてゆこうとする問題意識や、従来ややもすれば柳田の方法の持つ「科学性」に対し低く見られてきた折口の実感・直観志向を、むしろ積極的に折口学の持つ近代科学主義を超えるアクチュアリティの契機として見直してゆこうとする志向へとつながっていると考えることが出来る。ようするに柳田民俗学へと連なる国学や日本学の系譜が暗黙のうちに前提としている「日本」の一国的なアイデンティティを根源的に脅かしかねないラディカルな非同一性の契機(異端性)を折口学が孕んでいることに、ようやく多くの人が気づき始めたということではないだろうか〔詳論は差し控えるが、私見ではこうした折口の読み直しの先駆となったのが吉本隆明の『共同幻想論』であり、さらには「アジア的なもの」をめぐる議論や『母型論』を中心とする起源論である。『現代思想』臨時増刊号「吉本隆明」のなかの拙論参照〕。

 そうした中、若き日本思想史の研究者である木村俊二の新しい折口論が刊行された(B6判・278頁・1400円・講談社)。本書は、昨年から刊行が始まった「再発見 日本の哲学」シリーズ(菅野覚明+熊野純彦責任編集)の一冊である。本シリーズは、これまで上記のような一国性を核として形成されてきた「日本」イデオロギーに肯定・否定の立場を問わず制約されることの多かった日本思想研究を根本的に転轍させようとする野心的な試みといってよいだろう。とくにそれぞれの思想家が内面において抱えていた精神のドラマを掘り起こしながら、思想の成立平面を公式的な図式を超えてヴィヴィットに描こうとする姿勢が特徴的である。

 本書においても著者の木村はそうした折口の精神のドラマに内在しながら折口学の思想的契機を抽出しようとする。では木村によって捉えられた折口の精神のドラマの核心、言い換えれば折口の思想の起源の場・風景とはどのようなものだったのか。
 冒頭の序章で木村は、折口の処女歌集『海やまのあひだ』から「いきどほる心すべなし。手にすゑて、蟹のはさみを もぎはなちたり」という歌を引いて、折口の精神の核にあるものを「いきどほる心」という形で取り出す。それは折口の心の奥底にたゆたっている「憤り」の情念に他ならない。この「噴り」は、折口学の公的な論理の側面においては、本居宣長が掲げた自らの国学の根本姿勢である、「あはれ」という心の動きに忠実であること、言い換えれば悲哀を特権的な中心とする人間の感情の動きに素直に従うという姿勢と会い通じるものを含んでいる。折口の学問における実感や直観の重視の根源にあるものはこの「いきどほる心」であるといってよいだろう。同時にそれは、理性の手前にある感情こそが彼の学問の出発点であることを指し示している。

 だが木村はこの「いきどほる心」の基底をなすものを、単純に折口の学問世界の問題に解消しようとはしない。序章でまず一個の概念的構図として提起され、第四章「罪、恋、そして死」で実証面も含め詳論されている折口の個としてのドラマに、この「いきどほる心」は深く関係づけられているのである。
 木村も引いている岡野弘彦の優れた評伝『折口信夫の晩年』の中にあるように、教え子との関係、あるいは交友関係において、折口はしばしば激しく怒りを爆発させている。その怒りは相手を徹底的に追い詰め相手の精神を粉々に打ち砕いてしまうまでやむことがない。ではこうした折口の怒りの根源にある物は何なのだろうか。木村は次のようにいう。「憤る折口の姿が見る者に感動を与えるのは、その憤りが心の奥深くからまっすぐに発せられているからであり、そしてみずからの置かれた状況も顧みず、瞬時に怒りを発することができるのは、折口が、常に高い緊張度で、周囲のひとびとに「まこと」をもって臨もうとしているからであろう。あるいは、その怒りが、深い孤独に裏打ちされているからだと言ってもよい」(16頁)。

 折口の「憤り」の核にある「まこと」と「孤独」は、いわば個としての折口の内面と折口学の公性をつなぎ蝶つがいのごときものである。言い換えれば、折口の「自我」に刻まれている深い傷――その傷が孤独をもたらす――から発するとともに、その傷ついた自我を回復させ「まこと」をもたらす力ともなるのが、この「憤り」に他ならないのである。というのも折口の「憤り」は、「何の為に生まれたのか」「わが命のもとは何か」という生の根源への問いと結びついた深く個的なものであると同時に、個的なものを超えて深く折口学の基底をなす「日本」なるものの起源・根源の認識に関わっているからである。
                   
 第一章「国学者折口信夫」において、木村は折口の目指したものが「国学」であったことを踏まえた上でその国学が、江戸期から明治近代へと受け継がれていった正統派の国学の伝統とは根本的に異質なものであることを明らかにする。もう少し具体的にいえば折口の国学は、国学の伝統を通して生み出された明治以降の近代国民国家形成のプロセスと対応する国家神道のあり方、とりわけその「道徳化」のプロセスと大きく隔たっているということである。いな、隔たっているというよりも、闘うべき相手としてそれはあったというべきである。

明治近代国家はそのネイションとしての実体を、天皇を同心円的中心とする家族=民族共同体のイデオロギー的擬制によって代補しようとしたが、その際に重要なのは、天皇制が近代現象をも含めながら無限抱擁的にすべてを自己のうちへと包摂しうる構造を持っていたことである。そのことをイデオロギー的に根拠づけようとしたのが国家神道に他ならない。そしてそこでイデオロギーの核心をなしているのがある種の道徳的因果律に他ならない。この道徳的因果律は、平田篤胤によれば、「記紀の冒頭に現れるタカミムスビ・カミムスビの二柱の神は、男女の対の神であり(……)、イザナギ・イザナミが国土を生むことができたのも、男女のムスビの神の「御徳(ミイツ)」を賜ったからである(……)。それゆえに、イザナギ・イザナミによって生み成されたものは、天地人物を始め、国・山・草木に至るまで、「男女の真理」「自然に具はる」のだという(……)。その帰結が、右に見たような、「妻子を恵みて、子孫を多く生殖」することこそ「我が皇神の道」である、という神道論」(40~41頁)の形で具体化される。そこからは、折口の国学との関連で二つの問題が浮かび上がる。一つは、男女の性愛関係が「生殖」(産出)と結び付けられていること、より端的にいえば「生むこと=善」という倫理的・道徳的目的因の設定から逆に性愛関係が規定され、その結果「生むために・生むがゆえにまぐわう」という因果関係が成立することである。性愛はこうして産出の倫理に従属することになる。さてもう一点は、生むことが親と子の系譜を軸とする祖先崇拝の構造を同時に作り出すということである。タカミムスビ・カミムスビから始まる皇統譜は、いわば「日本」をすっぽりと祖先崇拝の倫理・道徳の中へと包摂するための媒体となるのである。

木村によれば、折口はこうした神道道徳論に激しく抗ったのであった。その根拠となったのは、一つには、起源としての神が善のみをもたらす肯定的な性格だけでなく、まさに「憤る神」として、一挙に天地も人物をも破壊し去る「邪悪な」、否定的性格をも持っていることであった。そして折口は神も持つこのような善悪を超えて「憤る」破壊的側面をこそ神の本質として見なければならないとしたのである(第二章参照)。そしてこのことは、本書の重要なテーマである折口の神道宗教論の核心と関わってくる。つまり神を道徳的因果関係の内部での善として位置づけることに宗教としての神道は根ざしてはならない、という折口の独特な認識につながってゆくのである。このことは、第二の、そして本書の最大の主題といってよいスサノオの問題をさらに導いてゆく。スサノオは高天原というパンテオンから追放された神である。そこにはスサノオの「罪」(天つ罪)の問題がからんでいることは周知の通りである。だが木村は周到な読解を通じて、折口が「スサノオは罪ゆえに追放された」という因果律を否定していることを明らかにする。そして折口が、スサノオの罪を、いわば天皇族によって征服された民であるこの国土に土着してきた民衆の「罪」――この「罪」は基本的には征服されたことの同義反復であり、強いていうならばその聖痕(スティグマ)に他ならない――と、非因果的に結びつけようとしたことも。

 私見ではこのことは、起源としての共同幻想がその彼岸に宗教・法・国家として制度=権力化される第二の共同幻想を生み出す転轍点としての意味を持つ(吉本『共同幻想論』「罪障論」参照)。本来因果性の存在しないところに罪を起点とする因果性を設定することが、天皇=国家の起源であるとすれば、折口の思想には極めてラディカルな国家否定の契機がはらまれていることになる。このことに木村が激しく迫ろうとしたことこそが本書の最大の眼目といえよう。と同時に、その背景にはスサノオの罪(哀しみ)を自らの哀しみとして受け止めようとする折口の内面のドラマが存在することを明らかにしようとしたことも。さらにいえば、このことと折口の、生殖から切り離された純粋な性愛(恋)という認識が深く関わっていることを木村は明らかにしているのだが、もはや紙数が尽きた。ともあれ力作である。(2008.9)