現代日本哲学への問い :勝守 真




勝守 真著(勁草書房)




先月に引き続き日本の哲学者の著作を取り上げたいと思う。近年、物理学者のニールス・ボーアについてのおそらくはわが国で初めての科学哲学の分野からの本格的なアプローチとなる博士論文を完成させた勝守真の新著『現代日本哲学への問い』(B6判・241頁・2800円・勁草書房)である。とはいえ本書は勝守の本来の専攻分野である科学哲学に関する著作ではない。そこには、廣松渉・大森荘蔵・永井均・高橋哲哉という、1960年代から現在に至る日本哲学の流れにおいてもっとも中心的な役割を果たしてきた4人の哲学者についての論考がまとめられている。ではなぜ今勝守はあえて自らの専攻分野をはみ出す形で本書を刊行したのだろうか――念のために申し添えておくと、高橋を除く3人の哲学者は科学哲学者としても優れた仕事も残している――。それについて勝守は次のように言っている。「この国の哲学・思想界において、相互の率直な対話や、思考の原理的な対決を回避する姿勢がいまだに強く、また――それと密接に関連するのだが――思考の成果を根づかせることなく流行の<衣装>として消費する傾向が支配的であるとすれば、本書のテーマ設定は、そのような状況へのささやかな抵抗という意味を帯びることになる」(まえがきⅰ頁)。勝守が本書で目ざしているのは、対話や論争もなしに哲学・思想が徒に消費され忘れ去られてゆくこの国の状況に対して楔を打ち込むことである。例えば、勝守自身もいっているように戦後日本のもっとも重要な哲学者の一人である廣松の仕事は、今「<敬して遠ざける>」か「時代遅れのもの」と見なされて、「今日の言説状況との直接的な呼応関係をなかば閉ざされて」(3頁)しまっている。もちろんそれは廣松一人にのみ当てはまる現象ではない。本書で取り上げられている大森もそうだし、まだ亡くなって二年にしかならない今村仁司の仕事ですらそうなりかけている。ただそこには勝守が指摘する日本の哲学・思想界の問題に留まらないより深刻な事情も伴なっているように思われる。
 
 私は本書を読みながらやや奇妙な感慨にとらわれていた。ひさびさにカッコ抜きの哲学書に出会ったという感慨に、だ。いうまでもなく現在でも――出版事情が悪化しているとはいえ――多くの「哲学書」、「思想書」が出版されている。先月の熊野の『和辻哲郎』のように啓発される本も少なくない。にもかかわらず、そうした本を読みながら何かが欠けているという思いにかられることがままある。それはおそらく、そこに真の意味での思考が欠けているというもどかしさに由来している。もう少し具体的に言えば、情報や知識、事例などにとらわれず、あくまで思考そのものの過程に即しながらそこで胚胎されたモティーフを最後まで徹底的に考え尽くすという意味での思考――ひと昔前なら「思弁Spekulation」と呼ばれたものだ――の欠如である。そうした思考が誘う観念の堅牢な構築物と出会う喜びが哲学書を読む醍醐味ではなかったか。今そのような意味での哲学書に出会うことは極めてまれなことになっている。そこには現在の社会の深部に底流する思考拒否、批判拒否の傾向が反映されているといってよい。その裏返しが世界経済危機を生み出した新自由主義的な功利主義であったことはいうまでもない。だが本書はそうした時代にまっこうから対峙するまぎれもない哲学書である。最低限のデータを除けば、本書から手っ取り早く情報や知識を得ることなど望むべくもないだろう。代わりに本書に充溢しているのは勝守の徹底的に「考え尽くすdurchdenken」姿勢である。本書の読者はそうした勝守の姿勢そのものと付き合い通すことを要求される。率直に言って今の時代傾向に慣れた読者にとってそれは骨の折れる作業であろう。本書は決して普通の意味で「楽しい」本ではない。にもかかわらずもしそれに耐えぬけば、本書からまぎれもない真正の哲学的思考の世界が浮かび上がってくるのに出会うことが出来る。繰り返しになるがそれは現在の状況の中ではまれな、そしてとても貴重な体験となるはずである。そしてそれとともに、勝守が一見ランダムに見える形で4人の哲学者を選んだ理由も見えてくる。廣松・大森・永井・高橋はそれぞれ立場や思想内容は違っていても現代の日本哲学の世界においてまさしくdurchdenkenの姿勢を貫き通した思考者という点では共通しているからである。その意味で本書は何よりもdurchdenkenの呼応の所産に他ならない。
                    
さて内容をみていこう。今述べたように本書で取り上げられている4人の哲学者はそれぞれ立場や視点に大きな差がある。にもかかわらず勝守が本書でこの4人を同時に取り上げた理由、根拠は何なのだろうか。それは、今述べたこの4人の思考者に共通するdurchdenkenの姿勢と密接に関連している。例えば廣松は、近代における「もの」的世界像に対して物象化論の視座に立ちつつその錯視的性格を批判的に抉り出し、関係の第一次性に定位する四肢構造論に基づいて「こと」的世界観を提示する。大森は、過去の実在性の自明視の上に成立する過去知覚の考え方を否定し、過去が現在における想起であるという視点を提示する。永井は、デカルトによって一般化・普遍化される中で失われてしまった「この私」の唯一性・代替不可能性に基づいて世界の実定的な定立の手前に位置する「私」の絶対性を提示する。そして高橋は、記憶が失われ証言が不可能となる極限状況=語りの不可能性の状況(「アポリア」としてのアウシュヴィッツ)においてなお「語ることが不可能なことについて語る」可能性を探ろうとする。これらの仕事に共通しているのは、何の疑いもなく実定的・実体的な起源や根拠を立てて――それは具体的には近代的世界観や人間観、時間観を支える「憶断」、すなわちドクサである――、そこから因果論的に思考を展開してゆくような姿勢が陥る倒錯、物神性を徹底的に暴き解体した上で、あらためて起源の場所から思考を出発させてゆこうとする姿勢である。それゆえにこそ彼らの仕事は貴重であり、私たちの思考を触発して止まないのである。しかしそうした彼らのdurchdenkenにおいてすらも錯視や物象化・物神性が生じない保証はないのだ。それは、無前提・無条件という出発点そのものが実体化されない保証はないということであるし、そこから出発した思考がその構築物そのものの中で倒錯した実定性・実体性によって逼塞させられる可能性が存在するということでもある。勝守が彼らの思考との対話を通して目ざしたのは、物象化や物神性をもっともラディカルに否定しようとしたこの4人の思考者においてすらもある種の盲点が存在し、その盲点によって物象化・物神性が再帰してくる可能性を明らかにすること、したがってそうならないための創造的な再解釈や、彼らの仕事に潜在している、ひょっとすると彼ら自身も気づかぬままに放置していた「可能性」を掘りおこすことだった。
 
 廣松の、認識する主体の側も認識する対象の側もそれぞれ「以上の或るものetwas mehr als」という構造によって二重化された上で関係づけられるという四肢構造論は、それを構成している「主体」と「客体」の側の各要素が「現相的所与-意味的所識/能知的誰某-能知的或者」という形で二重化=差異化された上で関係づけられているがゆえに、同一性ではなく非同一性としての差異性によって規定されており、したがって各要素がこの関係性から切り離されて独立自存視(同一化)されたときには、非同一的なものが同一なものへと顛倒され固定化されるという物象化的錯視が生じる。したがって四肢構造論は廣松において物象化批判の要となっている(第1章第1節参照)。その一方この四肢構造は私たちに対して世界が現れるあるがままの所与相としても規定されている。するとそこに一つの問題が生じる。すなわち四肢構造は認識批判的な概念であると同時に世界の記述概念でもあるという矛盾の問題である。廣松はこの矛盾を周知のように「当事主体für es」には物象化された相があるがままの世界として現われに対し、それを批判的に打破する力を持った「学知的主体für uns」において初めて四肢構造があるがままに現れる、という形で克服しようとした。だがこの四肢構造がたとえ学知的主体に対して現出するものとはいえ、それが記述概念である限りは再び同一化=物象化とならない保証はないはずである。それは勝守が第2章で取り上げている「通用的geltendと妥当的gültig」の関係においてより明瞭に現れる。ある通用性が成立している時、それを覆そうとするものとしての妥当性は自らを新たな通用性となしえたとき初めてそれ以前の通用性を覆すことに成功する。だがこれはまさしく新たな物象化の成立を意味しないだろうか。つまり同一性の否定がもう一つの同一性の定立を招くということである。

このような問題は、大森が過去知覚を否定して過去を想起によって規定しようとするときにも現れる。すなわち、過去を過去という時間相を前提にした実在性によって捉えようとする態度を否定するために現在性に根ざす想起を対置したとしても、そもそも想起と知覚の違いを知っていなければ、つまり過去知覚というものをあらかじめ知っていなければ過去の想起が何かを語ることは出来ないのである。つまり大森の過去想起説はじつはあらかじめ過去知覚の存在を前提として初めて成立いうるということである。つまり同一化された知覚と同一化された想起との差異に基づく区別関係を通して初めて過去想起説は成立するということである。この区別関係を忘却したまま過去想起説を掲げるとき、過去想起説もまた一種の物象化の相を帯びてしまうといえるであろう。物象化とは、関係の中でのみ成立する各項・要素を独立自存的に同一化することだからである。だとすれば、廣松の場合も大森の場合も、物象化批判の立場に立ちつつその行論の過程に暗黙裡のうちに同一化=項・要素の固定化の論理を忍び込ませていることになる。ここに勝守の両者に対する批判的な読解の要諦が存在する。永井の場合、それはむしろ逆転した相で現れるということが出来るだろう。すなわちいっさいの関係を否定する絶対的な唯一性としての「私」が、じつは暗々裏のうちにこの「私」と一般化された私および他者との関係性を前提として初めて定立されうることが、より正確に言えば言説の対象となりうることが――したがって永井の場合、「かけがえのないこの私を、他者も了解しうるような言説の対象にする=語る」というところにそもそも思考上の矛盾の出発点が存在することになる――問題とされねばならないのである。高橋の場合であれば、一見政治的実践の側から一挙にアポリア問題の解決を図っているかに見える高橋の姿勢の中に、理論哲学者としての高橋と実践に関与する高橋のあいだの葛藤が勝守によって詳細に検証されている。「語りえないものについて語る」というアポリアにおいてもまた、語りえない主体とは誰か、それに呼応する語りの主体とは誰かという同一性と非同一性のあいだの屈曲した関係が問われねばならないのだ。
本書における勝守の姿勢には、自らの思考の根拠を自ら壊してしまうこと抜きには先へと進むことの出来ない心の意味での思考のラディカリズムがみなぎっている。繰り返しになるが、それは現在の状況において極めて貴重なことである。率直にいって多くの読者が期待できそうにもないスタイルで書かれた本だが、だからこそ多くの読者が本書の真摯な思考に触れられることを切望する。(2009.11)

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