Th.W.アドルノ著
龍村あや子 訳(平凡社)
アドルノの音楽学者としての仕事のうちもっとも重要なものが『新音楽の哲学』であることは衆目の一致するところであろう。周知のようにアドルノはフランクフルト大学で哲学を学び1924年に学位を取得した後、翌1925年にウィーンへ赴き、アルバン・ベルクの下で作曲法を学んでいる。もともとオペラ歌手だった母やピアニストだった叔母の影響で音楽に早くから親しんでいたアドルノにとって音楽は彼の人生にとって不可欠なものだったが、このベルクとの出会いはアドルノのその後の生涯において思想の問題と音楽の問題が不可分な形で一体化する直接的な契機となった。ベルクは、20世紀の初頭のウィーンにおいて近代ヨーロッパ音楽の歴史を根底から覆す「新音楽」の創造にたずさわっていたA・シェーンベルクの弟子であり、そのベルクを通してこの「新音楽」に出会ったアドルノはたちまちそのもっとも熱烈かつ戦闘的な支持者となったのである。アドルノはベルクの下で学ぶかたわらウィーンで発刊されていた「新音楽」の理論誌『アンブルッフ』の編集スタッフに加わり、その誌面を通じて音楽学者としての本格的な活動を始めたのであった。
ここで「新音楽die neue Musik」という言葉について触れておこう。アドルノは20世紀に現れた音楽を表すのに使われる「現代音楽」という一般的用語を避け、その代わりに「新音楽」という言葉を用いる。その背景には一つの明確な態度決定がひそんでいるように思われる。20世紀の音楽といってもそこには多様な傾向が含まれるが、その中でも中心的な存在といえるのがシェーンベルク、I・ストラヴィンスキー、そしてB・バルトークだったことはおおかた異論のないところであろう。「現代音楽」という言葉は、この三人の存在を軸に多様に展開される20世紀の音楽状況全体を客観的な形で総称する言葉であるといってよい。だがアドルノはこうしたニュートラルな見方を厳しく斥ける。20世紀の音楽状況において真に「新しい」(=創造的)といいうるのはシェーンベルクによって創設された傾向のみであり、ストラヴィンスキーやバルトークの音楽によって代表される傾向はむしろある種の退歩をしか意味していないとアドルノは考えるのである。すなわち20世紀の音楽の全体が新しい=現代的なのではなく、唯一シェーンベルクの音楽のみが真の意味で「新しい」のである。したがってアドルノの用いる「新音楽」という言葉は、20世紀の現代音楽全般を表す言葉というよりも、20世紀の音楽状況に対するアドルノの価値判断を含む言葉、より端的にいえば、20世紀の音楽はシェーンベルクに始まる「新音楽」の流れにおいてのみその歴史的、時代的本質を明らかにしうるというアドルノの明確な立場を示す言葉ということが出来る。
こうしたアドルノの音楽学者としての立場がもっとも明確かつ原理的に示されているのが本書『新音楽の哲学』(B6判・349頁・3200円・平凡社)に他ならない。もし本書に現代音楽全体の概観やその背景についての解説を求める読者がいたとすればただちに失望するであろう。本書において取り上げられているのはシェーンベルクとストラヴィンスキーだけであり、しかもストラヴィンスキーは批判と否定の対象としてのみ取り上げられているにすぎないからである。さらにいえば本書は通常の意味での音楽書ではない。本書では、アドルノがベルクとの出会い以来温めてきた20世紀音楽のあり方、その本質にをめぐる認識と思考が、その源泉というべきシェーンベルクの音楽にそくして原理的に展開されているが、その認識と思考には音楽という領域をはるかにはみ出す諸要素が同時に含まれている。本書が最初に刊行された1949年という年に注目してほしい。この本書の刊行年は、本書の執筆された時期がナチズムと戦争の脅威から逃れてアメリカに亡命していた時期であること、それゆえに本書の執筆時期が亡命期の体験をスプリングボードとして産み出されたあのホルクハイマーとの共著『啓蒙の弁証法』やアドルノの思考のもっとも純粋な結晶体というべき断章集『ミニマ・モラリア』の執筆時期とほぼ重なることを指し示している。本書において展開されている認識と思考には明らかに『啓蒙の弁証法』や『ミニマ・モラリア』の内容と通底する要素、すなわち後期産業社会の現実とファシズムの暴力が時代に対してのしかかってくる状況の中で何が人間存在の、そしてそのもっとも重要な要素としての文化・芸術の存在の証しの最後の拠り所となるのかをめぐるぎりぎりの臨界的な思考要素が含まれているのである。こうした意味でも本書は稀有な音楽的思考の書、より正確に言えば「音楽を哲学する」書というべきであろう。
本書は初訳ではない。本書の最初の翻訳はすでに1973年渡辺健の手で音楽之友社から刊行されている。ちなみこの時期アドルノの音楽書が、同じ音楽之友社から『不協和音』(三光長治・高辻友義訳)、『音楽社会学序説』(高辻・渡辺訳)、さらには白水社から『楽興の時』(三光・川村二郎訳)、法政大学出版局から『マーラー』(竹内豊治訳)と立て続けに刊行されている。今から振り返るとちょっとしたアドルノの音楽書の翻訳ブームだったのだがその割に反響は少なかったように思う。まだ十分にアドルノの受容のための基盤が出来ていなかったせいだろう。それには翻訳自体の問題もあった。訳者から分かるようにこの時期のアドルノの音楽書の翻訳にあたっていたのはおおむね独文学者たちだった。なかには優れた翻訳もあった――とくに『不協和音』と『楽興の時』――が、音楽の専門的な知識の不足と難解をもってなるアドルノのドイツ語の壁のために残念ながら日本語としては到底読むに耐えないものも見受けられた。今回本書を翻訳した龍村はドイツに留学し、戦後ドイツ最高の音楽学者の一人であるカール・ダールハウスの下で学んだ経歴を持つ優れた音楽学の専門家であり、ドイツ本国でアドルノ音楽哲学論によって学位を取得している。その意味で龍村は本書の訳者として望みうる最高の適材といえるだろう。龍村はすでに『マーラー』の改訳を刊行しており高い評価を得ているが、やはり本書の翻訳が彼女のアドルノの音楽思想への取り組みにおいて重要な里程標になるであろうことは想像に難くない。
ここで具体的に旧訳と新訳を比較してみよう。本書の序論でアドルノの視座として目に付くのがヘーゲルの『美学』への言及である。それは直接的にヘーゲルの思惟の内容そのものへの関心というよりは、例の「芸術の終焉」やロマンティクへの批判に現れているヘーゲルの時代(歴史)意識に対する関心によっていると考えられる、そしてそれが、アドルノにおけるシェーンベルクによって代表される「新音楽」の歴史的意味の解明にとっての大きな示唆となっていたのである。それに関連する箇所をまず渡辺の旧訳で見てみよう。「新音楽の硬直は、絶望的な非真理になりはしないかという形成物の不安である。形成物は自己の法則への沈潜によって非真理を逃れようと懸命に努めるが、この沈潜が同時にまた非真理をも確実に増大させる。たしかに、今日の偉大な絶対音楽、つまりシェーンベルク派のそれは、ヘーゲルが、おそらくは当時はじめて解きはなたれた器楽の名人芸を横目で見やりながらおそれた、あの「無思想かつ無感情なもの」の反対である。しかしそのかわり、一種の、より高い秩序の空無を告知している。それは、「だがこの自己はその空虚さによって内容を逃してしまった」とヘーゲルが言う「不幸な意識」に似ていなくもない」(31頁)。
これに対して龍村の新訳は以下のようになっている。「新音楽の硬化したありさまは、絶望的な非真理に対する形象自身の不安である。その形象はおのれの法則に沈潜することによって非真理から死に物狂いで逃れようとするのだが、そのことはまた同時に、整合性をとることによって非真理を増殖させてしまうことにもなる。/たしかに、今日の偉大な絶対音楽であるシェーンベルクの楽派の作品は、ヘーゲルが、おそらくは当時初めて解き放たれた器楽の名人芸を横目で見ながら心配したところのあの「思想や感情を欠くもの」とは正反対である。しかしながら、そのかわりに、一種のより高次の秩序の空虚さが存在を告げていて、それはヘーゲルの語るところの「不幸な意識」に似ていなくもない。――「しかし、その自己は、空虚さによって内容を手放してしまった。」(本書36頁)。
両者を比較すると、龍村の新訳がより深くアドルノの思考文脈を踏まえたものになっているのが感じられる。例えば渡辺がそっけなく「確実に」と訳している箇所は、原語では「mit der Konsistenz」となっているが、龍村は「整合性をとることによって」と訳している。アドルノの思考においては、同一性へと帰着する整合的な思考はそれ自体本質的な虚偽性をはらむという認識が重要な意味をもつが、渡辺はこの表現の背後に潜むそうした問題を十分に認識していなかったというべきではないだろうか。つまり龍村のように「Konsistennz整合性」という言葉をたんなる修辞表現の要素としてではなく内容を伴った言葉として捉えるとするならば、首尾一貫した形で自己固有な法則にそくしながら自らを同一的な形象=作品へともたらそうとする努力そのものが、作品の非真理の源泉となってしまうという事態がここで問題とされていることが明らかになるのである。これは19世紀ヨーロッパの作品美学の最大の問題に他ならなかった。アドルノは『美学理論』の中で、ボードレールを引き合いに出しながら、作品そのものに刻み付けられた時代(社会)の傷(非同一性)こそが作品の真理の証しの重要な一端であるという認識を示しているが、このくだりはまさにその問題を想起させる。とするならば、古い作品美学に対置されるシェーンベルク派の作品は何においてその真理性を告げるのか。ここでも解釈上微妙な表現が問題になる。すなわち原語では「eine Art Leere höherer Ordnung」という表現である。渡辺は「より高い秩序の空無」と訳し、龍村は「一種のより高次な秩序の空虚さ」と訳している。この「Leere」は端的に高次な秩序の不在を意味するのではないだろうか。ここでアドルノがヘーゲルの「不幸な意識」を引き合いに出していることからもそれが窺える。自らのうちに分裂(アンチノミー)を抱え、たえず高次な統一を望みながらそこから追放されている状態が「不幸な意識」の意味するところだからである。それはまさにアドルノの見立てるモダニズム以降の芸術の本質に他ならない。
いずれにせよアドルノの主著である『新音楽の哲学』が優れた新訳で刊行されたことの意義は大きい。同時期に刊行された若きアドルノの研究者竹峰義和の力作『アドルノ、複製技術へのまなざし』(青弓社)などとともに、70年代のアドルノ翻訳の時期やその後の現代思想ブームの時期に十分な形で果たされなかった本格的なアドルノの受容・研究がいよいよ始まったのを強く感じさせる。(2007.9)
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