ビフォア・セオリー 現代思想の<争点> :田辺秋守



 田辺 秋守著(慶應大学出版会)


「現代思想」という言葉があまり使われなくなってだいぶ経つ。もう「ポスト・モダン」なんか古いよ、とか、今さらデリダやフーコーでもないでしょ、などと軽薄な調子で口走る輩などは黙殺すれば足りるが、89年の冷戦終焉と01年9/11の事態によってもたらされた偏狭なナショナリズムへの志向と野放図な新自由主義的グローバリズムの跋扈が野合する状況の中で、「現代」という時代の意味を歴史認識の文脈に立ってきちんと把握すること、あるいはそれを時代状況と正面から対峙するための「思想」へと凝縮させてゆくことはますます困難になりつつある。それは、この時代を見通し、そこに内在するアクチュアルな課題を明確に浮かび上がらせる作業と、その課題の意味を本質的な次元にまで遡って検証し深化させた上で時代に対してもう一度投げ返してゆく作業を同時におこなうことの難しさといってもよい。この困難さのゆえに「現代思想」という言葉が使われなくなっていったのだとすれば、それだけ私たちの時代を覆う混迷の度は深まっているといわねばならない。とはいえ、拡散する時代の表層をただ上滑りにすべってゆくことを以って時代がわかったつもりになるような言語道断な仕儀へと逃避することは許されない。そうした困難さにたじろぐことなくぶつかってゆくことが「現代思想」の核心だとするなら、依然として「現代思想」という言葉には私たちにとって重要な意味が存在するはずである。
 
 そうした中、かつての「現代思想」ブームの担い手たちよりはるかに若い世代に属する田辺秋守が、あらためて「現代思想」の意味についての果敢な問い直しを試みた野心的な著作『ビフォア・セオリー 現代思想の<争点>』(A5判・254頁・2400円・慶應大学出版会)をこのほど刊行した。本書の特徴はまず、「現代思想」という概念の幅を広く柔軟に取るために、「思想」という言葉の変わりに「理論(セオリー)」という言葉を持ってきたところにある。田辺によれば「現代思想」とは、「現代/の/についての/のための/理論」(2頁)以上でも以下でもない。そしてそこから浮かび上がってくるのは「(1)アクチュアリティー(2)脱領域性(3)ラディカリズム(4)論争的性格」(同)という契機である。こうした「理論」としての「現代思想」の性格を踏まえる形で、田辺は「争点」、つまり「現代思想」と呼ばれる思想的=理論的営為の文脈の中で、「現代」という時代に固有な課題・問題性をめぐって生起してきたポレミークの(トポス)から「現代思想」の意味を問い直そうとする。ちなみに本書のタイトル「ビフォア・セオリー」は、田辺自身も言及しているようにテリー・イーグルトンの『アフター・セオリー』のもじりだが、「争点」となる場は同時に「理論」以前に属する、いわば「理論」の生成のための前段的条件が準備される場でもあることを示唆しているように思える。
                    
本書において田辺が設定した「争点」は、「モダンとポストモダン」「主体と他者」「イデオロギー論」「理性と非理性」「アクチュアリティーの所在」である。この五つの「争点」にそれぞれもっとも中心的に関わる「人」が配されている。「モダンとポストモダン」では、T.A.アドルノ、P・ビュルガー、F.ジェイムソン、J=F・リオタール、J・ハーバーマス、T・イーグルトンであり、「主体と他者」ではA・ルノー/L・フェリー、E・フッサール、E・レヴィナス、ハーバーマス、J・ラカンであり、「イデオロギー論」では、イーグルトン、マルクス、ハーバーマス、L・アルチュセール、S・ジジェックであり、「理性と非理性」ではM・フーコー、J・デリダであり、「アクチュアリティーの所在」では、フーコー、デリダ、I・ウォーラスティン、A・ネグリである。ただここからはさらに、もっともトピカルな存在としてマルクス、フッサール、アドルノの名を、そしてその三人を星座状に囲む形でレヴィナス、ラカン、アルチュセール、フーコー、イーグルトンの名を抽出出来るように思える。同時に本書が「現代思想」の書であることを念頭におけば、ここにニーチェとハイデガー、ドゥルーズの名がないこともまた留意すべきであるように思われる。つまりこの「人」の配置に、本書における田辺の周到な戦略が窺えるということである。
 
 田辺はまずアドルノに関連して、「現代」の原義である「モダン(モデルネ)」の位置づけを行う。それは、美的な意味での現代性である「モダニズム」の美学を通して行われる。すなわち自律性を帯びた芸術の持つ社会的な次元でのモダンへの抵抗と批判の機能こそが「モダン(モデルネ)」の位置を決定づける契機となるのである。より立ち入って見るならば、この「モダン(モデルネ)」の持つ社会的なモダンへの対抗・批判機能は、社会的なモダンが帯びている物象性・物神性に向けられる。そしてこの社会的なモダンの帯びている物象性・物神性の起源には資本主義的生産様式のメカニズムが存在しているという意味で、この抵抗・批判の機能はマルクスの「政治経済学批判」と通底してゆく。またその「政治経済学批判」の内容は、資本主義的生産様式によって産出される近代市民社会の支配的な日常意識、より正確には近代市民社会の支配的日常を自然性、永遠性として受け入れるための正当化の意識のメカニズムを暴くという課題にもつながってゆく。それが「イデオロギー批判」の問題であることはいうまでもない。

 興味深いのは、こうしたアドルノ―マルクスラインにおいて浮上してくる「モダン(モデルネ)」の抵抗・批判機能、より普遍的にいえば「イデオロギー批判」の機能との対比で田辺によって捉えられている「ポストモダン」の契機と意味である。この「ポストモダン」概念が一頃の「現代思想」談義の土台となっていたことはいうまでもない。田辺は、イーグルトンによる「ポストモダン」評価を援用しつつ、「ポストモダン」における「差異」「個別性」「異質性」「多様性」「文化相対主義」などの契機が、最終的には「共同体主義(コミュニタリアニズム)」と「自由主義(リベラリズム)」の最悪の継承者としての「ポストモダン」の性格を浮かび上がらせると指摘する。すなわち「ポストモダン」は、「モダン」をめぐる内在的な論議を深化させる代わりに、上記のような諸契機を通じて消極的な逃避形態としての相対性(共同体主義)と無制約な自由(自由主義)のお粗末なアマルガムを捏造したに過ぎないというのである。
 このあたりの「ポストモダン」評価は、一つにはドゥルーズ問題を省いたことに由来する面があるように思える。というのもドゥルーズのラインを踏まえて「ポストモダン」を捉えるとき、前に書評した岡本裕一朗の『ポストモダンの思想的根拠』(ナカニシヤ出版)において指摘されていたように、「ポストモダン」は批判的な政治性を帯びるからである。とはいえ田辺の視点が明確な一個の選択に貫かれていることは踏まえておかねばならないだろう。田辺の「現代思想」の「争点」をめぐる視座は、あくまで「ポストモダン」において生じた「差異の戯れ」式の没批判的な非政治性を許さないというところに根ざしているからである。だからこそ田辺は本書で、思想それ自身の内在的な評価は別としてそうした「ポストモダン」の非政治性の淵源となったニーチェ―ハイデガーラインをあえてオミットしたのだと思う。そうした田辺の姿勢は本書の締めくくりに現代の最もラディカルなマルクス主義者の一人であるネグリを持ってきているところにも現れている。
                    
全体の枠組みについての検討に思わず紙数を費やしてしまったが、本書の魅力はむしろ「争点」と「人」をめぐって繰り広げられる議論の細部にある。本書の魅力の背景をなしている最大の要素は、マルクスにはじまりジジェク、ネグリまで及ぶ広範なディスクルスの圏域を縦横に走破する田辺の思想的膂力の驚くべき高さにある。それを支えているのが、田辺のこれまで続けてきたテクスト読解作業の質の高さであることはおそらく間違いないだろう。田辺が読んできたテクストの量と範囲の広がりはいうまでもないが――それは後ろについている文献表で分かる――、それ以上に瞠目すべきなのは田辺の読みの正確さと鋭さである。種雑多なテクストを雑駁な形でしか読んでこなかった私などにとって、大量の文献を丁寧かつ正確に読破してゆく田辺の読解力の精密さは驚異以外の何ものでもない。例えば「理性と非理性」の章におけるフーコーの『狂気の歴史』をめぐる論議には、とりわけそれを強く感じた。フーコーにおける理性と非理性の分割(パルタージュ)の問題の文脈、とりわけ非理性と狂気がずれながら前者が監禁の対象に、後者が治療の対象になってゆくこと、さらには理性と帰責主体としての法的主体の関連が分割の問題の帰着点として問い返されてゆくことには大いに学ばせてもらった。そしてこの『狂気の歴史』におけるフーコーの議論を批判した『エクリチュールと差異』の中のデリダの論文「コギトと『狂気の歴史』」についても実に正確にその内容をダイジェストしてくれている。昔翻訳で読んでその難解さに頭をひねったのを思い出してしまった。またスロヴェニア出身の異能思想家ジジェクについて、イデオロギー論の文脈との関連で論じた箇所も唸らされた。とくにラカンの「象徴界」の概念を援用しながら物象化のメカニズムが二重の機能、すなわち人間関係の物どうしの関係への転化という「第一の物象化」に加え、それをもう一度幻想的な次元における人間関係への再還元する「唯名論的な還元」(132頁)が行われ、「象徴的」な代用物――「崇高な対象」――がイデオロギーの対象として定立されるというジジェクの『イデオロギーの崇高な対象』の議論に関する叙述は、ジジェクの理論を日本の読者へ橋渡しする上で重要な意味を持つと思われる。ここには廣松渉の物象化論に先にある理論的可能性の地平が展望されるからである。それに加え田辺が、ジジェクの指摘する反ユダヤ主義を象徴的事例とするような「強制収容所」という20世紀に固有な政治支配の構造との関連で、「ラディカルな政治的創造力に対する<思考禁止>」(136頁)という問題を取り上げ、それがジジェクのいう「ラディカルな政治的試みをすべて「全体主義」――「テロリズム」?――というレッテル貼りで封殺しようとする現代のイデオロギーの一傾向」(同)の現われであり、それこそがジジェクの警戒するところであると述べているのは、昨年『情況』誌でジジェクも参加したエッセンのレーニン・シンポジウムを中心にレーニンの別冊特集を出したことを想いおこさせた。レーニンが再び最も現代的な思想家になってもおかしくない時代状況がたしかに今あるのだ。こういう文脈をあらためて想起させてくれるところに本書の最大のポイントがある。(2006.6)

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