再発見 日本の哲学 埴谷雄高 ―― 夢みるカント :熊野純彦





熊野純彦 著(講談社)

あらゆる思考にはその根底に「構成不可能な問い」(E・ブロッホ)が潜んでいる。「構成不可能な問い」とは、この世界のいっさいの現実性、形象性の手前にあっていかなる意味でも表象することの不可能なものへの問いである。ではなぜそのような構成不可能なものへの問いが行われなければならないのか。それは、すべての思考、より精確に言えば思考する存在が成立する過程にはつねにこの構成不可能なものからの促しが働いているからであり、それなしには思考が作動することはありえないからである。だがこの構成不可能なものによって可能となる思考はけっして自らを可能にしてくれる構成不可能なものを表象化することは出来ない。思考はつねに自らの真の起源については思考しえないという背理を負っているのである。だがもし今思考があえてこの構成不可能なものについて、思考不能なものについて思考しようとするならばいったい何が起こるだろうか。おそらくそのとき思考は思考可能な表象性の内部で思考していたときとはまったく異なる異貌の世界、精確には「反世界」に出会うことになるだろう。そして思考が、いっさいの表象性、言い換えればふだん思考が頼っている概念や論理の有効性が完全に失われる世界としてのこの反世界に出会う瞬間、思考の内部で何かが途方もない炸裂を起こすだろう。そしてそれはありきたりな世界についての思考の枠組みを破砕し、まったく未知な思考の領土を解き放つであろう。「構成不可能な問い」は思考にそれを求めてやまない何ものかへの問いに他ならない。そして思考がこのような悪魔の問いとも言うべき構成不可能な問いにとり憑かれたとき、思考は必然的にこの世界からはてしもなく逸脱していかざるをえなくなる。だがこの逸脱なしに思考が真に思考たりうることはありえないのだ。

日本の哲学的思考においてこのような「構成不可能な問い」に出会うケースは極めて稀である。それはおそらく哲学は近代とともに移入された輸入学問のひとつだったことと関係している。哲学が輸入学問であるかぎり、輸入された中身の知解に重点が置かれざるを得なくなるからである。結果として日本の哲学はほとんどが哲学研究となっていった。その典型が和辻哲郎であろう。和辻の天才的ともいえる知的咀嚼能力は西欧の哲学知識を次々にのみこみ整然たる体系へと仕立て上げていった。だがそこには「構成不可能な問い」は存在しえなかった。「構成不可能な問い」にとり憑かれるためのデーモンが和辻には決定的に欠けていたからだ。おそらくこの問いにとり憑かれるためのデーモンをもっとも大量に抱えていたのは西田幾多郎であったろう。だからこそ西田の哲学は通常の論理的知解を拒絶する隔絶した晦渋さに陥らざるをえなかったのだ。

ところで眼を文学に向けると、同じように「構成不可能な問い」にとり憑かれたひとりの晦渋極まりない文学者の存在に行き当たる。『死霊』の作者埴谷雄高である。『死霊』こそは日本の近代文学が生んだ「構成不可能な問い」の領域へと踏み込もうとする唯一無比の作品といえるだろう。そして言及される機会の多さにもかかわらず、これまで『死霊』が読み解かれたという決定的な瞬間に出会うことが出来なかったのは、そこに潜む「構成不可能な問い」の中身が解き明かされてこなかったからに他ならない。なるほど幾多の埴谷論が書かれ、「自同律の不快」という言葉は人口に膾炙した。だがそもそも「自同律の不快」とは何なのか、それはしばしば埴谷自身が語る獄中のカント体験とどう結びつくのか、一時埴谷が惑溺した悪魔学とそれはどのように関連するのか、革命は?コミュニズムは?といったん自問が始まると、これまでの埴谷についての読解の試みが、埴谷における「構成不可能な問い」の認識にとってほとんど何の役にも立たないことに思い至る。じつは埴谷の『死霊』はほとんど読まれてこなかったというべきである。それは西田の哲学の受容がたどった経路とよく似ているともいえる。ともに構成不可能な問いの前で真に内在的な、だが同時に徹底して外部に向かい解放的でもありうるような読解への途が閉ざされてきたからだった。西田に関しては近年そうした方向へと踏み出そうとする読解の試みが登場してきている。その先鞭者はなんといっても小林敏明であろう。それに続き檜垣立哉らが登場してきている。埴谷に関してはどうだろうか。かろうじて名前を挙げることができるのは世代的にまったく対照的といってよい鶴見俊輔と鹿島徹であろうか。

だが今私たちはついに『死霊』のこれまでなかったほどに周到な、そしてはじめて埴谷における「構成不可能な問い」へと内在的に踏み込んだ読解に出会うことになった。熊野純彦の埴谷論である。熊野が明らかにする埴谷の「構成不可能な問い」とは、存在と意識が真にひとつとなる地点に向けた問いだった。だがそれを問うためには存在自身も、また意識自身も、「現にある」という事態からはてしなく「ありえなかったもの」へと逸脱していかざるをえない思考の動きを通して無限に分解されなければならなかった。それは、いわば思考が無限大の宇宙にまで拡大することがその極点において無限小、すなわち思考の零度へと反転せざるをえないような根本的な矛盾を負った過程であった。熊野はこの問いの過程がカントによって「仮象の論理学」と名づけられた「誤謬推理」の過程と対応していることを指摘する。だが誤解がないようにいっておかねばならないが、それはカントがこの「構成不可能な問い」を解消してしまったことを意味しているわけではない。それどころか熊野の埴谷/カント読解を通じて私たちは、「構成不可能な問い」の真の意味でも先鞭者がカントであったことに今さらながら気づくのである。それはカントによって定式化された「私たちのうちにあって表象と呼ばれているものが対象と関係するのは、どのような根拠にもとづいてのことなのか」(本書11頁)という問いの意味であった。ここでカントのいう「対象」が「物自体」であることはいうまでもない。とすれば表象と表象に関係づけられている意識にとって対象は、「名づけ得ないもの」としての「超越論的な主語X」である他なくなる。まさにそれは表象不可能でありながら表象可能性の裏側につねに張りついた究極的な可能要因である。だがそれを思考することは不可能なのだ。たしかにカントはそれを思考することを仮象として斥けた。だがそれは問いが消滅したことを意味するわけではない。それどころかカントとともにこの「超越論的な主語X」への問いは執拗に表象可能な思考を背後から脅かし続けるのである。

思えば埴谷がカントにおけるこの問いに出会ったのが周囲を壁に囲まれた独房だったことは極めて象徴的である。先ほどいったようにこの問いは無限大(宇宙)が無限小(零)と一致し循環する場においてのみ成立する。独房とはまさにそのような場ではなかったか。周囲を壁に囲まれこの世界が失われる意識の零度としての独房においてこそ思考ははてしない拡張を開始し、その結果存在が自同律を逸脱して別なもの、ありえなかったはずのものに向かってざわめき始めるのではなかったか。霧がたちこめ夢魔が跳梁する闇の世界もまた埴谷にとってそのような逸脱が始まる場所だった。とりあえず逸脱の極点にあるこの別なもの、ありえなかったものを埴谷は「虚体」と呼ぶ。そう、埴谷における「構成不可能な問い」とは「虚体」に向けた思考の問いに他ならなかったのである。ただそこでもう一点おさえておかなければならないのは、こうした問いがすぐれて倫理的なものであるということだ。この熊野の指摘は埴谷を読む上で今後決定的ともいえる意義を持つだろう。現にあるものに向かって座を譲り消えてゆくありえなかったものとは端的に死者のことであった。だとすれば構成不可能な問いとは同時に死者を問うことを意味するであろう。この経緯はどこかアガンベンの証言不可能性の問題を想起させる。もはや語りえなくなったものしての死者に対する倫理がはじめて『死霊』の根本モティーフとして熊野によって明らかにされたのである。

熊野の埴谷論は埴谷の『死霊』の読解の試みとして画期的であるのと同時に、日本の哲学的思考の可能性に対し一個の新しい道筋を示したという意味でも画期的である。おそらく今後私たちは吉本隆明や谷川雁などについてもこのような読み方を試みることが出来るし、またしなければならないはずである。日本の哲学的思考の振幅が一気に広がったのである。なによりも哲学者としての熊野自身にとって本書は画期的だったといえよう。そして今度は埴谷に向けられた「構成不可能な問い」が熊野の哲学に向かって逆流してくることになるはずである。それがどのような結果をもたらすかをぜひ見届けたいと思う。(2011.3)

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