完全なるワーグナー主義者 :バーナード・ショー





バーナード・ショー 著/高橋宣也 訳(新書館)


リヒャルト・ヴァーグナーが創り出した壮大な楽劇の世界については、無数といってもよいほどのテクストがすでに書かれている。ブライアン・マギーというイギリスの批評家は半ば冗談めかしてヴァーグナーに関する文献数はキリストとナポレオンに次ぐといっているが、それがあながち冗談とは思えないほどその数が多いことも事実である。そうした大量のヴァーグナー文献のなかでも、とりわけそれぞれの時代や社会におけるヴァーグナー受容のあり方に決定的ともいえるような影響を与えたいくつかのテクストがある。たとえばニーチェの、『悲劇の誕生』に始まり『反時代的考察』の第四書「バイロイトにおけるリヒャルト・ヴァーグナー」を経て、後期の『ヴァーグナーの場合』『ニーチェ・コントラ・ヴァーグナー』に至るテクストはそのもっとも早い例の一つである。その他にもボードレールが1861年のパリにおける『タンホイザー』公演をきっかけにして書いたヴァーグナー論やグラーゼナップ、アーネスト・ニューマンらの浩瀚なヴァーグナー伝などがあるが、なかでも20世紀後半におけるヴァーグナー解釈、とくに1976年のバイロイト祝祭劇場創設100周年の年にプレミエが行われたパトリス・シェローの演出による衝撃的な『ニーベルングの指環』の舞台以降顕著となった「19世紀劇としてのヴァーグナー」という解釈のあり様に大きな影響を与えた、イギリスの劇作家であり、同時に熱烈なフェビアン社会主義者でもあったG・バーナード・ショーの異色のヴァーグナー論『完全なるワーグナー主義者』は際立った一冊というべきであろう。そのバーナード・ショーのヴァーグナー論が今回はじめて日本語に訳された(B6判・270頁・2400円・新書館)。本書の原書が刊行されたのは1923年だから80年後にようやく翻訳が行われたことになるが、一読するとまったく古びたとか時代遅れとかといった印象を感じさせないことに驚かされる。そしてあらためて本書が持ちえた影響力の淵源に触れた思いがするのだった。
                   
岩波書店など人文・社会科学系出版社8社でやっている「書物復権」という共同復刊事業の一環として昨年の6月再刊されたピーター・コンラッドの『オペラを読む』(富士川義之訳 白水社)に次のような一節がある。「ショーは『指環』が産業主義的権力の寓意(アレゴリー)であると信じたが、それはまた、そこに描かれている過程の、終末的、破局的な具体物、つまりヘンリー・アダムス(・・・)の場合に、その大聖堂観を混乱させてしまったあの「極限のエネルギーの象徴」の一つである大聖堂、と言うよりはむしろ発電機(ダイナモ)としての、巨大で自己燃焼的な機会でもありのだ。しかも『指環』は、バイロイトに、つまり博物館でもある寺院のなかに設置された発電機(ダイナモ)なのである」(31頁)。このコンラッドの叙述自体がある面からいえばショーの影響の証左といってよいだろう。つまりヴァーグナーの楽劇の世界に「産業主義的権力」の痕跡や文脈を読み取ろうとするコンラッドの所論――ちなみに彼は19世紀のオペラ、とりわけヴァーグナーの楽劇の世界を一般的な意味での「演劇」ではなく、19世紀市民社会の言説としての「小説(ロマン)」に対応させている――は、まさにショーの議論を前提として始めて成立するのである。
 こうした「19世紀の芸術としての」ヴァーグナーについて考えようとするとき、避けて通れないのがヴァーグナーの芸術の背景にある思想的文脈の問題である。しかもその問題は1849年のドレスデン蜂起への参加を頂点とする「革命家」ヴァーグナーの実践的思想のあり方と深く結びついている。こうしたヴァーグナーの思想的文脈の問題についてはすでに彼の在世当時からいろいろな議論があった。ただヴァーグナーの根深い嗜癖とい
ってよい自己韜晦による正確な事実の隠蔽――そのドキュメントが彼の自伝『わが生涯』である――、とくにルートヴィヒⅡ世の知遇を得、バイロイトに各国貴顕を迎えるに至った後半生のヴァーグナーにとってある意味ではやむをえない仕儀であったのかもしれない自分にとって都合の悪い過去の抹殺、さらにそれに加えもっとも親密な「戦友」でもあった妻コージマによる亡夫ヴァーグナーの生涯の隠蔽と仮構の結果、かなり早い時期からヴァーグナーの思想と芸術の関係をめぐるある種の神話化が進んでいた。そしてそれがヴァーグナーの思想を正確に把握することを難しくしたのである。前に名前を挙げたヴァーグナー伝の作者ニューマンは、コージマがバイロイトのヴァーンフリート館に所蔵されているヴァーグナーの蔵書のうち都合の悪いものを隠してしまった結果ヴァーグナーが同時代人であるマルクスの著作を読んでいたかどうか確かめようがなくなったことを嘆いているが、3月前期(フォアメルツ)以降の1830年代から40年代にかけてマルクスとともにヘーゲルとフォイエルバハの思想的影響圏のうちにいたもう一人の「ヘーゲル左派」であったヴァーグナー――このことを正面から指摘したのは第二次大戦後になって刊行されたハンス・マイヤーの著作が初めてである――の側面こそが、1848年革命との関わりにおいて見えてくるヴァーグナーの思想的契機の最深奥であるといってよいだろうと思う。そしてその際のヴァーグナーの思想的契機を具体的に規定づけていたのが、「貨幣の論理」としての資本主義による社会の全面的包摂の結果生まれつつあった産業社会のあり方への根深い憎悪・嫌悪に他ならなかった。もちろん後代から見てこのヴァーグナーの反貨幣=反資本主義感情は必ずしも肯定的なものとしてだけ評価されるわけではない。この感情がヴァーグナーのなかで反ユダヤ主義の口実にもなったからである。つまりナチズムによるヴァーグナーの濫用と悪用に道を開く契機となったのもまた反貨幣=反資本主義感情であったともいえるのである。
 こうした肯定・否定の両義性を含むヴァーグナーの思想、あるいはその思想と実際の芸術創造の関係を把握すること――、先ほどもいったようにこの課題は出来上がりつつあったヴァーグナー神話の支配力の強さを前にしたとき極めて難しくなる。ところがこの課題に1923年――その少し前に第一次世界大戦の惨禍があったことを思い起こしてほしい
――ほとんど独力でいとも容易くやってのけたのが本書の著者バーナード・ショーに他ならない。
                    
例えばこのような一節がショーの本書における姿勢をよく示しているといえるであろう。「そうはいいっても、ワーグナー本人による説明は極めて興味深いものだ。第一に、《指環》のかなりの部分、とくにニーベルング族の奴隷状態とアルベリヒの専制という形で産業資本主義体制を社会主義的視点から描写しているところは見誤りようもない。これは人間の知的意義がカヴァーする領域の相当に内側で起こっている人間特有の活動をドラマ化している。それはおしなべて、いわば内務省が管轄するような具体性のある事柄であり、ワーグナーにとっても我々にとっても同じように明らかに見えることだ」(173頁)。
 このショーの指摘が、神々の長ヴォータンがフロックコートを着て現れ、ラインの乙女たちは巨大なダムを住処とし、ジークフリートは溶鉱炉でノートゥングの破片を溶かし鍛えなおすという衝撃的なイメージに満ちたシェローの『指環』演出の出発点になっていることは明らかであろう。それはまさしく「19世紀の市民-貨幣(資本)劇」としての『指環』の解釈の典型例であり、シェローと相前後して現れるJ・ヘルツ、G・フリードリヒ、H・クプファーらの演出にも共通して見られる要素に他ならない。
 ただここでショーが先に引用した箇所の先で、ショーペンハウアーのヴァーグナーへの影響に言及しながら、知的なものを逸脱する盲目的な生命の意思の問題があること、そしてそのことがヴァーグナーにおける「死と諦念」の契機からくるある種のペシミズムにもつながっていることを指摘しているのを忘れてはならない。この指摘を先の引用箇所とあわせて検討するとき、ヴァーグナーのドラマの構造に関する極めて重要な指摘が浮かび上がってくる。それは、ヴァーグナーのドラマを構成する二つ(二重)の要素、すなわち登場人物がその現在性においてドラマの凝縮された「今-ここ」を演じている瞬間の要素(生命の意思の発露)と、過去に遡って「なぜドラマの現在はこのようなのか」の説明を行う部分=要素(貨幣=資本に凝縮する歴史)である。この二つの要素はヴァーグナーのなかで、感情=音楽(音言語)と悟性=言葉(概念言語)の二重性としてつねにからみあっている。現在性としての『神々の黄昏』からしだいに『ジークフリート』「」ヴァルキューレ』『ラインの黄金』へとドラマ上遡行していったわけはここにあったといえるだろう。こうした点からもわかるようにショーのヴァーグナー論は極めて刺激的な示唆に富んでいる。私個人としてはベンヤミンの『パサージュ論』でおなじみの「ファンタスマゴリー」という用語が出てきている(89頁)のが驚きだった。ちなみにこの言葉はベンヤミンの盟友であったといってよいアドルノのヴァーグナー論のキーワードにもなっている。
 本書を訳した高橋宣也は故高橋康也の息子で同じ英文学者である。かつて高橋康也はシェローの後に登場したRSCのピーター・ホールによる『指環』演出の分析と擁護を行ったことがあるが、その子が同じイギリス人であるショーのヴァーグナー論の翻訳を行うことは何か運命の糸のようなものを感じる。ともあれ多くの人、とりわけ自称ヴァグネリアンにはぜひ読んでもらいたい本である。(2004.2

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