定本 柄谷行人集2 隠喩としての建築 :柄谷行人





柄谷行人 著(岩波書店)


今月は柄谷行人の仕事がひさびさにクローズアップされた月であった。まず『文学界』(文藝春秋)の3月号に「帝国とネーション」と題されたかなり長い論文が発表されている。これはNAM(ニュー・アソシエーション・ムーヴメント)解散後の柄谷の政治思想上の総括と見なすことが出来よう。この論文で柄谷は、国家(ステート)やネーションもまた交換という視点から把握すべきであるといっている。つまり商品交換の次元にねざす資本の運動とは質を異にするにせよ、国家やネーションもまた交換の所産と見なければならないということである。では国家やネーションの次元における交換とは何なのか。柄谷は次のようにいっている。「ネーションが感情的な基盤をもつということは、それが経済的でない上部構造あるいは精神的問題だということを意味するのではない。たんにそのことは、ネーションが商品経済とは違ったタイプの交換、すなわち互酬的交換に根ざすということを意味するのである」(『文学界』3月号23~24頁)。
 こうした柄谷の認識は二つの問題意識が含まれている。一つは、今引用した直後の文章に現れている、資本=商品交換の次元と国家およびネーションの次元のあいだの対立的であると同時に相補的な関係についての視点である。「ネーションとは、商品交換の経済によって解体されていった共同体の「想像的」な回復にほかならない。それゆえに、ネーションは根本的に、国家や資本主義的市場経済に対立する要素を持つのである」(同)。こうした認識は柄谷のなかで、明らかにNAMの運動を通して捉えられたアソシエーションの契機と深く関連している。事実そのことは二つ目の問題意識である、「収奪―再分配」的交換(封建社会)「互酬制」(共同体)「商品交換」(都市)という三つの交換タイプに続く第四の、これまで交換とは見なされてこなかった交換モデルへの問いにつながってゆくのである。「しかし、ネーションは共同体の想像的回復であるとしても、共同体とは基本的に異なっている。それについて考えるためには、国家、共同体、市場経済とも異なる、第四のタイプを見なければならない」(同)。柄谷はこれを「アソシエーション」と呼ばれる交換モデルとして捉えようとする。ここに柄谷の問題意識の核心が現れていることはいうまでもない。つまりアソシエーション交換モデルは、相互に補完・補強しあう「ボロメオの環」となっている「資本制経済、国家、ネーション」の閉じた関係に対して真に外部に立つこと、言い換えれば19世紀後半の先進資本主義国において確立された極めて強靭な「資本=ネーション=ステート」の環に対する真の抵抗となりうる――柄谷はこの環への抵抗を試みたのが、「レーニン主義」と「ファシズム〕であったと指摘するが、前者は「国家」による「経済」の抑圧によって国家の肥大化を招いただけであり、後者は「ネーション」の想像性のなかでの国家―資本の乗り超えをもたらしただけである(27頁参照)――根拠を定立するという課題にとっての本質的契機となるのである。私は、柄谷の問題意識の中核に依然としてアソシエーションの問題が置かれていることを確認するとともに、この論文の後半部で論じられている「ネーションと美学」の問題とこうしたアソシエーション問題が柄谷のなかでどうつながるのかに関してある種の疑問というか当惑を感じたことを率直にいっておきたい。というのも、今月柄谷をめぐって生じたもう一つの出来事、すなわち『定本 6判・240頁・2600円・岩波書店)であったことを考え併せたとき、この「ネーションと美学」の部分における「感性化=美学化」の問題は、まさに80年代初頭『隠喩としての建築』とともに始まった――正確にいうと、70年代における『マルクスその可能性の中心』(講談社学術文庫)『日本近代文学の起源』(講談社文芸文庫 『定本 柄谷行人集』第1巻にも所収予定)からすでに始まっていたが『隠喩としての建築』とそれに続く『探求』Ⅰ・Ⅱ(講談社学術文庫)においてはじめて明確なかたちで定式化された――「形式化」のモティーフと矛盾するのではないかと思われるからである。
                   
 形式化をめぐる柄谷の問題意識は、例えば『隠喩としての建築』のなかの次のような文章から覗える。「デリダは、これら先行者とちがって、何が哲学者に残されているかというような問いを発しない。その逆である。なぜ哲学はいつまでも生き延びるのかと問うだろう。だが、それこそが哲学的問いなのだ。哲学そのものの形式化をふくむ、あらゆる形式化の中で、われわれが問わずにいられないのは、この形式はあるのか、どこにあるのか、あるいはこの形式の「外部」はあるのか、といった問いである」(42ページ)。柄谷は、この「形式化」という概念によって、ある言説やそうした言説を含む空間・場の生成の徹底した内部化を図ろうとした。この内部化は、もちろん伝統的な形而上学の意味におけるイデア的な内在性やそれを投射する主観の意識的内面性のことではない――具体的な要素としてはそうしたものを含むにせよ――。むしろこうした徹底した内部化、あるいはそれをもたらす形式化によって明らかにされようとしたのは、あたかも絶対的な自律性や完結性を帯びているように見えるこの内部化された世界がそれ自体としては無根拠であること、それゆえに内部化のはてに見えてくるものがその無根拠性の反転の結果としてのある絶対的な外部性であるということだった。「建築〔この概念はほとんど「形式」に置き換えられる〕を徹底しようとする姿勢自体が、その無根拠性を示すのであり、「生成」を露呈するのであり、建築化=形式化を徹底することによってしか「外部」には出られない、と私は考えたのである。「建築主義constructivism」に対する批判は、たんに「生成」を持ち出すことによってはなしえない。逆に、「生成的=自然成長的」なものは、見かけのように混沌としたものではなく、形式的に解明しうるものである」(8~9頁)。
 ここで柄谷行人が問題にしようとしているのは、形式化を通して内部/外部の截然たる区別が可能になったとき、内部と外部はけっして同等な二極としてではなく、むしろそうした二極化(分節化)が起こる手前のところにある「生成」の次元において、二元的、あるいは「弁証法的」なかたちとはまったく異なったかたちで問われることになるという事実である。そのとき、柄谷が「生成」の概念もまた形式化の視点から捉えられねばならないとしているところに注目する必要がある。
                     
 今引用した「英語版への序文」の文章の少し前で柄谷は、「構造」をディコンストラクトしようとした例としてロマン派をあげているが、「生成」を形式化するという視点はちょうどロマン派的なディコンストラクトの対極にあるものといえるだろう。というのものそれは、ロマン派における生成と感性的(感情的)=美学的なものの接合とはまったく逆な、あえて言えば数学的なものだからである。こうして形式化は感性的=美学的なものの切断をとおして得られる徹底した内部化のはてに見えてくる外部への問いの基点となる。

 だがおもえばこれは極めて抽象的な、意地悪い言い方をすれば不毛な問題設定なのではないだろうか。つまりこうしたかたちでの内部から外部への問いにおいて、外部のリアリティは何によって保証されるのかが見えてこないということである。事実このことは柄谷の本書における作業の進捗に重大な影響を与え、『隠喩としての建築』はいったん中断することになる(9頁以下参照)。この危機を柄谷が克服してゆく過程のドキュメントとして本書の第三部「教えることと売ること」を読むことが出来る。

 「教えること」と「売ること」において外部は「他者」として現出する。このとき他者としての外部はある絶対的な共約不能性を、言い換えれば「非対称性」を帯びることになる。なぜなら「教える―学ぶ」関係においては、もし教える内容に関してある先行的な了解が成立していなければ、つまりあらかじめ「知って」いなければその関係は成り立たない。ということは「教える―学ぶ」関係は先行了解の共有された内部性の中でしか成立しないことになる。だがこれはおかしくないか。そもそも先行的に知っているなら教える必要は何処にあるのか。言い換えればゼロから無前提なかたちで教えることが「教える」の本当の意味であるにもかかわらずそれは不可能であるということなのである。これは外部が不可能であると言い換えてもよい。だが繰り返していえば、この不可能な外部においてしか「教える―学ぶ」関係は本来成立し得ないはずである。ここに解決不能なパラドックスが生まれる。このパラドックスのなかから柄谷は、ヴィットゲンシュタインに拠りながら他者としての外部への問いを執拗に追求しようとする。「売ること」も同じである。マルクスが「命懸けの飛躍」といったようにものが売れることには何の論理的理由もない。あるのは売れるという事実だけである。その偶発的な事実から価値=貨幣の体系が生まれるが、いったん体系が生まれそこに内部が生じると、この「命懸けの飛躍」の無根拠性が消える。つまり外部が見えなくなるのである。

 紙数が尽きてきたので『隠喩としての建築』の問題についてこれ以上詳述するのは控えるが、最初にもどって『文学界』三月号論文のなかの「ネーションと美学」の問題にかえると、今柄谷が形式化とそこから問うべき外部の問題をどう考えているのか気になる。ネグリたちの議論でも明らかなように、もし現在の世界を「帝国」として捉えるならば、このトランスナショナルな秩序(脱ネーション=ステート化)のもっとも大きな特徴は「もはや世界は外部を持たない」という点に求められる。このことに対応して「感性化=美学化」の問題が出されてくるとき、とくにそれがドイツの文脈で帯びた内部性の契機が気になるのである。それは、柄谷が「社会民主主義的」と呼んだ傾向とも重なるのではないか。
2004.3

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