テクストはまちがわない :石原千秋




石原千秋 著(筑摩書房)



今月は、気鋭の近代日本文学研究者である石原千秋の新著(A5判・393頁・4300円・筑摩書房)を軸としながら文学研究、あるいは文学批評がはらんでいる問題について考えてみたいと思う。
本書における考察の土台および出発点をなしているのは、優れた漱石研究者として小森陽一とともに研究誌『漱石研究』(現在16号 翰林書房刊の編集にあたるとともに、漱石のテクスト解釈をめぐって行われた論争にも何度か関わってきた石原の、漱石のテクストとの様々なかたちでの格闘の過程のなかからつかみとられたテクスト読解の戦略が提示される「小説とは何か」の章に収められた諸論考であろう。そしてそこに提示されたテクスト読解戦略は、漱石だけではなく、徳田秋聲、江戸川乱歩、島崎藤村からはじまって柄谷行人、吉本ばななにまで至るまさに多種多様な文学的テクストにも向けられながら豊饒なテクスト読解の時空間を拓いてゆくのである。このような本書の展開を踏まえるとき、本書における石原のテクスト読解戦略の要諦として浮かび上がってくるのが本書のタイトルにもなっている「テクストはまちがわない」というテーゼに他ならない。
                    
後で、私の見るところ本書中の最大の問題作といってよい「『夢十夜』における他者と他界」について触れる際にあらためて述べることになろうが、研究者としての石原は、実証的手法で収集されたデータや資料に依拠して自らの研究成果をまとめるタイプではないし、自らの読解の核にある客観化不能な実感や感想から出発する旧派の批評家タイプでも、もちろんない。そしてそれ以上に重要なのは、少なくとも先に言及した「小説とは何か」を踏まえる限り、石原が、テクスト読解にあたってはテクストの外部に読解のための準拠枠を設定してはならないという格率を立てているように思える点である。それは裏返していえば、テクスト読解にあたってはまず何よりもテクストそれ自体の自律性が前提とされねばならないことを、そしてその自律性の内部においては限りなく自由な、ある面から見ればトリッキーとさえいえるような多様な読解実験が行われねばならないことを意味している。つまり自身の言葉を借りれば「資料や情報量ではなく、文学テクストの「読み」で勝負するタイプの研究スタイル」(3頁)ある石原にとってテクスト読解戦略上何よりも重要なのが、読解の無限の自由さと多様さを保証してくれる条件としてのテクストの自律性であるということなのである。それを告知しているのが「テクストはまちがわない」というテーゼである。

このテーゼに関して石原は二つの意味次元を設定しているように思われる。一つは、「小説テクストでは、ほんの細部にこそ、また一見錯誤と見えるような表現にこそテクストの可能性が秘められているという信念」(4頁)という言い方に現れている次元である。これは主としてテクストそれ自体の側の問題といってよいだろう。つまりテクストはそれ自体として「まちがい」という言い方や評価をはねつけるだけの自律性の強度を持っているということである。一見矛盾した内容や事実誤認がテクストに含まれ、読み手がそれをテクストの「まちがい」の根拠にするなら、その瞬間テクストの自律性は壊れテクストの外部に「事実」という準拠枠が設定されることになってしまう。それは「「読み」の放棄でしかない」(同)のだ。これに加え石原は「テクストはまちがわない」根拠としてもう一つの次元を提示する。それは、「文学テクストにおいては「テクストはまちがっている」という「事実」があるのではなく、解釈の結果「テクストはまちがっている」と判断できるにすぎない」(同)といような言い方に現れている次元である。そこでは今度は、テクストそのものではなく、テクストを読む側の問題が浮かび上がってくる。つまり「解釈」という形で現出する読み手の読解行為の過程のなかにしかテクストの事実性は存在しえないということである。とするならば、もし「テクストはまちがっている」と読み手が指摘したとしても、その「まちがい」は自己言及的に読み手の「読み」のなかにしかないことになる。これは奇妙な背理である。まるでこれは「クレタ人はうそつきだとクレタ人がいった」というあの有名な命題の含んでいる自己言及的背理のようではないか。テクストの事実性の前提にあるのは、読解の無限の相対性をものみ込んでしまう読解行為の自律性と多様性に他ならないのである。
                    
以上のような石原の視点は本書の中で、例えば漱石の『こヽろ』におけるテクスト構造の分析を通して論証されている。石原によるならば、『こヽろ』というテクストには「①手紙の数の矛盾、②先生はKへの墓参りに静を連れて行ったのか否か、③静が何を知っているのか決められないこと」(43頁)という「三つの疑問点」が存在する。これらの疑問点は、しかしいうまでもないことだが、テクストの事実性としての矛盾に還元されてはならないのだ。その根拠として石原は次のように言う。「いま『こヽろ』を読むということは、『こヽろ』というテクストを、男たちの物語としてでもなく、男の読者としてでもなく、読むことのセクシュアリティにおいて、男と女との主体をめぐる闘争の物語として読むことでなければならないだろう。その時、このテクストの細部や差異や決定不可能性は、意味ある痕跡として雄弁に語りかけてくるだろう」(49頁)。つまりこうである。テクストに現れる上記のような疑問点は、テクストにはらまれている別種の、より正確に言うならば、従前の「読み」のポリティクスの場において抑圧され隠蔽されてきた「読み」の可能性を示唆する、いわば既成化された「読み」に穿たれた亀裂の痕跡としてこそ読みとられねばならない、ということなのだ。大変説得的な論旨なのだが、ここで同時に私はかすかな疑問にとらわれたのである。それは、おそらくは石原自身が本書にこめているもう一つの重要な主題である「研究」と「批評」の関係の測定という問題、とりわけ次のように石原が指摘している「たとえば、日本近代文学会が商品価値のない言葉のキャッチボールをしているだけで成り立ってしまう閉じられた世界を形成しているからこそ、外部の枠組を密輸入しただけの「安易」な論文があたかも批評性を持つかのような評価を受ける―― 一見そう見える。だが、それは錯覚にすぎないのではないだろうか」(32頁)というような言い方に現れている問題に関連している。

20世紀の文学批評言語の布置を想い起こしてみる。すると二つのもっとも典型的なトポスが浮かび上がってくる。一つのトポスは、ジョルジュ・プーレ、あるいは彼に代表されるジュネーヴ学派の「主題批評(クリティク・テマティク)」の言語である。例えばプーレの『人間的時間の研究』や『円環の変貌』、あるいはジャン・スタロバンスキーのルソー論『透明と障害』に典型的なように、この批評言語においては文学テクストに対してある意味では超越的なかたちで「主題」――たとえば宇宙=世界の表象としての「円環」――が設定され、その主題にもとづいてテクストに隠されている多様な精神史的コンテクストが明るみに出されてゆく。つまり「隠蔽されていたものの発見」というスタンスに立つ読解の多様性がそこからは引き出されるのである。こうした多様性が、石原の言及するカルチュラル・スタディーズ的手法のなかでの「読み」の多様性につながっていくことはいうまでもない。ただ注意しなければならないのはこの多様性の根拠があらかじめ石原の禁じているテクストの外部における読解準拠枠の設定を意味するのではないかという点である。そこでもう一つの批評言語のトポスが浮かび上がる。それは、レヴィ=ストロースとローマン・ヤコブソンが共同で行ったボードレールの詩「猫」の分析に典型的に現れている言語である。その分析の精密さで読者を驚倒させたこの批評言語には二つのファクターが含まれている。一つは、作者という条件さえも排除するリゴリスティックなまでのテクストの自律性への固執の姿勢である。「猫」はいわば一切の外部を持たない純粋かつ自律的な言語=テクスト構造に還元されるのである。もう一つは読解の一義性というファクターである。レヴィ=ストロースとヤコブソンの分析はテクストの自律性の根拠を、テクストが構造としての客観的に自存することに求めるがゆえに、読解は最終的に客観的に決定されうる一義的な形式に帰着せざるをえない。つまりそこではテクスト読解の多様性が排除されるのである。一見すると対立的な関係に見える吉本隆明の『言語にとって美とは何か』の批評言語と「猫」分析の批評言語はこの点で一致する。

石原の問題に戻ろう。石原の引用箇所に感じた疑問は、この「主題批評」的な読解の多様性とテクストの自律性がもたらす読解の一義性のあいだのねじれた関係において、石原が実際の読解実践においてじつは「テクストはまちがわない」というテーゼを踏み越えているのではないかという点にある。たとえば先ほどふれた『こヽろ』に関するセクシュアリティの視点の提示には明らかにカルチュラル・スタディーズ的な手法の影がうかがえる。そしてその問題をもっとも強く感じさせるのが漱石の『夢十夜』を扱った論考に他ならない。ただあらかじめ誤解がないように言っておきたいのだが、それはけっして石原を貶すためではなく、むしろ石原の本書における言語の力動性を指摘したいためなのだ。つまり研究手法の視点をはみ出す石原の本書における批評言語としての可能性、言い換えれば石原のテクストに刻まれた断層、裂け目の所在から見えてくる本書の言語にはらまれた「可能性の中心」(柄谷行人)がそこからは見えてくるということである。

内容の問題にふれておこう。石原は『夢十夜』に関して、「<関係>の物語としてとらえ、その心的な世界の基本構造を抽出する」(151頁)という視点に立って考察を進める。その読解は精密であり極めて説得的である。第一夜の物語について「感情」というファクターにおける時間と空間の関係性から分析をすすめるくだり(160頁参照)は本書の白眉といってよいだろう。ただそうした分析の枠組みとして提示されているのが吉本隆明の『心的現象論』という外部の準拠枠であるところに先ほど言ったようなねじれというか、一種の自家撞着を禁じえないのだ。繰り返しになるがそれはけっして本書の欠陥ではない。もしそうしたねじれがまったくなかったとすれば本書はつまらない研究書に堕していたろうからである。方法と方法を逸脱するもの、内部の自律性とそこから内破する外部のあいだの不定形な関係のなかにしか批評言語の力動性はありえないのである。(2004.6

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