『吉本隆明の時代』 : 絓 秀実



秀実著 (作品社)



私はかねがね絓秀実を、小林秀雄から始まり、中村光夫、平野謙、吉本隆明、江藤淳、磯田光一、柄谷行人と続いてきた昭和期文芸批評の系譜の最終点に位置する批評家であると考えてきた。西欧文明のもたらす外圧と日本という場が内発的に形づくる磁場とのはざまにあって宿命的ともいえる偏曲を帯びざるをえなかった日本近代の精神のあり様を、自らの存在の内在性の水位において一個のモノドラマとして演じてみせようとしたのが小林とともに始まる昭和期文芸批評だった。したがって昭和期文芸批評は、つねに西欧的なものと日本的なものの両極のあいだに生じる落差、空隙そのもののうちに自らの存在根拠を見出さざるをえなかった。たんなる印象記でも分析研究でもありえぬ批評の固有性とは、こうした落差、空隙に自らの存在を投げ込み、いわば自らを宙吊り状態にすることによって演じられるドラマでのうちにしかありえなかったのである。そして批評がドラマである限り、批評はそうした危うい場に置かれた批評家の偏曲した精神に共鳴してくる「事実」の具体的な手触りのうちにしか棲みつくことは出来なかった。「事実」を欠いた理論や概念はドラマたりえないからである。だからどんなに抽象的理論から出発しても批評はこの「事実」の具体的な手触りへと還ってゆかざるをえなかったのである。そしてこの「事実」の具体的手触りは批評においては、ある種の「ゴシップ」的要素として現れる。ここでいう「ゴシップ」とは、表立った建前の論理の奥に隠されているドラマの楽屋風景を指している。真実としての「事実」の手触りを保証してくれるのはこうした楽屋風景だけなのである。だから批評は最終的にこうした「ゴシップ」の詮索、言い換えれば資料発掘を通した「深読み」や「裏読み」による楽屋風景としての「真相」の暴露というスタイルへと帰着する。昭和期文芸批評の主要ジャンルである作家論が、中村や平野に典型的なように「ゴシップ」詮索的なある種の「探偵ドラマ」に帰着する所以はここにあった。だが批評にはそうした自らの境位に必ず満足しなくなる瞬間が訪れる。この「探偵ドラマ」は作家の側がまがりなりにも持っている「作品」の自律性にはついに及ばないからである。かくして小林が時評という批評の主戦場を捨て天才のドラマの世界へと没入していったひそみに倣い、中村は小説へと、江藤や磯田は歴史へと、吉本や柄谷は思想原理へと向かったのであった――不思議なことに平野だけはそうならなかったが、それはあるいは平野の無類の探偵小説好きと関係があるのかもしれない――。昭和期文芸批評はそうした行程において自らの批評の生理学のサイクルを完結させてきたのである。

今こうした昭和期文芸批評のあり様は完全に死滅しようとしている。ドラマとしての批評はほぼ消滅し、作家論は研究者の手に委ねられてしまった。「ゴシップ」は週刊誌、テレビを経て今やブログの世界に占有されている。そんななか絓だけはその死滅しつつある批評と行程をともにしながらその行き着く涯を見届けようとしているように思われる。そのことは、絓が今述べた批評の「ゴシップ」的要素に固執し続けている点に現れている。このような批評を今なお書き続けているのは私見では絓一人である。それは、絓において批評の行程と生理学が依然として探偵ドラマとして形象化されていると言い換えることも出来る。

今回出た『吉本隆明の時代』はその意味で批評家としての絓の代表作になるのではないだろうか。絓の探偵批評ぶりがこれほど見事に、より正確に言えば「見事すぎるほどに」発揮されている著作は他に思い当たらないからである。そしてそれは、本書の探偵批評の対象が吉本を中心とする60年代の政治的・思想的状況であるがゆえに、読んでいてある種の困惑というか、「居心地の悪さ」を喚起することにもつながっているように思われる。
絓の批評家としての出発点が「1968年」体験にあることは、絓のこれまでの著作、特に『革命的な、あまりに革命的な』や『1968年』を読めば明らかである。この「1968年」体験は、先ほど触れた昭和期文芸批評の終焉を告げる画期となった。では何が昭和期文芸批評の終焉をもたらしたのか。本書における絓の議論を踏まえるならば、「1968年」とは一瞬「革命的知識人」の全面的な覇権が成立しながら、次の瞬間「革命的知識人」(「呪われた部分」としての知識人)そのものが解体していった時代であった。この「革命的知識人」の覇権と解体の二重性の背景をなしていたのは、戦後革命期から60年安保闘争をへて60年代末へといたる戦後の「革命」理念をめぐる長い葛藤の歴史であった。

上記の過程と並行する戦後言説空間を当初支配していたのは、論壇、文壇、大学に拠点をおきつつ戦後啓蒙を主導した丸山眞男や第一次戦後派の文学者だった。そして実質的にはこの言説空間から退いていった小林や河上徹太郎ら昭和期文芸批評第一次世代に代わって中村や平野たちの第二世代がこの言説空間へと登場してくる。この世代交代をもたらしたのは「戦争責任」問題であったといってよいだろう。だがこの問題もまた単純ではなかった。というのも「戦争責任」問題は、たんに戦争遂行勢力の責任問題だけではなく、戦前の革命運動を主導してきた日本共産党に属していた、ないしは協力者であった左翼知識人の転向問題を含んでいたからである。「戦争責任」問題は、大枠において戦前の天皇制ファシズム体制を否定し戦後啓蒙(平和と民主主義)の実現をめざすという流れに沿って形成されていった戦後言説空間――そこには再建された日本共産党に属する知識人たちもかつての転向者たちを含めた形で合流していった――に対し、転向→戦争協力というコースをたどった知識人たちの「戦争責任」をめぐる欺瞞的態度(自らの戦争責任を不問にふしたまま戦争遂行勢力の告発にのみ戦争責任問題を限定しようとする態度)に対する批判、告発という対抗言説を生み出す。そしてこのことが戦後言説空間内部の二極分化、対立へとつながってゆくのである。

この「戦争責任」問題をめぐる対抗言説のトップランナーが昭和期文芸批評の第三世代に属する吉本隆明と武井昭夫に他ならなかった。そして彼らの登場は、昭和期文芸批評の枠組みをはるかに超える根本的な戦後言説空間の変容とその担い手としての知識人の役割転換をもたらしたのである。それは一言でいうならば、啓蒙型の普遍的知識人から上記の「革命的知識人=「呪われた部分」としての知識人」への移行がもたらした転換である。その背景のはふたつの知識人の極をめぐる幾重にも重なり合う対抗・対立構図が存在する。(2008)


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