ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」を読む :細見和之




細見和之 著(岩波書店)

ベンヤミンのテクストは基本的にどれも難解だが、わけても1925年に書かれた『ドイツ悲劇の根源』に至る初期のテクストは群を抜いて難解である。私自身今大学の講義で、1921年に書かれた「ゲーテの『親和力』」を学生たちと読んでいるのだが、読解の困難さに正直途方にくれるときがあるほどである。じつはゲーテ論に入る前には、今回取り上げる細見和之の『ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」を読む』(B6判・278頁・2900円・岩波書店)のテーマとなっている「言語一般」論文についても触れたし、ゲーテ論と同じ年に書かれた「暴力批判論」にも言及したが、まるで底の見えない古井戸のように汲んでも汲んでも汲み尽くせないその内容の底知れなさ、その核心への到達しがたさに講義の最中しばしば絶句せざるをえなかった。これは本書で細見も言っていることだが、これまでのベンヤミン論は、ともすれば一定のテーマについて論じるためにベンヤミンをだしに使うだけだったり、粗雑な概念的要約に終始するだけだったりする傾向が強かった。これ何も人のことを言っているのではない。私自身がこれまで書いてきたベンヤミンに関する文章もそうだったという忸怩たる思いを踏まえて言っているのである。こうしたやり方が含んでいる最大の問題は、ベンヤミンのテクストが持つ本質的な難解さに正面から向き合っていないことである。
ベンヤミンの思考の核心を、ベンヤミンの用語を用いればベンヤミンのテクストのはらむ「真理内容」をつかむためには、テクストの「事象内容」を形づくっている難解さという要素との徹底した格闘がどうしても必要なのだ。それは「親和力論」冒頭の言い方を踏まえるならば、テクストの「事象内容」に対応する「注釈」をかいくぐりつつ「真理内容」に対応する「批評」へと向かう道をきちんと辿ることを意味する。とくにこれはベンヤミンの初期のテクストを読む際に必要な方法的態度といえるだろう。

今回取り上げる細見の新著は、詩人としての言語創造活動と平行して、表現と思考論理の関わりのほとんど秘教的ともいえる稠密さゆえに、ベンヤミンに勝るとも劣らぬ難解さを帯びているアドルノについて優れた著作を書いている細見が、まさに注釈から批評への道を丹念に辿る形でベンヤミンの初期の論文の中でも際立って難解な「言語一般」論文に取り組んだドキュメントである。本書で細見は、さほど長くはないとはいえ「言語一般」論文の全ての文章を取り上げてそれに対する詳細な注釈を行い、さらにそれを通して批評の領分、すなわち「言語一般」論文の真理内容にまで踏み込んでゆく。まさしく本書はベンヤミンのより深い読解のためにもっとも必要とされてきた著作といってよいだろう。
                  
「言語一般」論文の難解さにはいくつかの要因が重なりあっている。その中で最大の要因といってよいのが、この論文におけるベンヤミンの言語を扱う基本的な姿勢である。ベンヤミンはこの論文で、言語をその意味伝達的側面を完全に捨象した形で論じようとしている。言語の意味伝達的側面が捨象されるとき、当然にも言語の指示性やその裏づけとなる記号としての機能性も捨象される。ではいったいそうした諸要素の捨象の後に残る言語の性格とはどのようなものなのだろうか。このとき現れてくるのが、この論文の難解さの第二の要素というべきベンヤミンの言語の基本的な枠組みについての認識である。ベンヤミンは、言語をいったんその現実的な担い手としての人間から切り離し、「言語一般」という人間以外の全存在物、つまり事物にとっての言語をも含む言語の枠組みを設定する。そこには「事物の言語」と呼ばれる特異な言語のあり方が帰属している。それは、文字通り事物の存在そのものとしての次元における言語のあり方であり、通常の意味での言語の枠組みにはとうてい収まりきれないものである。ベンヤミンは、そうした事物の言語にもまた、言語に固有なある種の精神的本質が宿されていると考える。だがこの精神的本質は言語を手段として伝達されるものではなく、文字通り言語そのものにおいて伝達されるべきものである。こうして、言語は言語そのものを伝達するのであり、言語の精神的本質は言語的本質である限りにおいて伝達可能なものとなるという、「言語一般」論文におけるベンヤミンの根本的な認識が提示され、それが事物の言語に対しても適用される。

このような「事物の言語」の本質についての認識を踏まえてベンヤミンは、「事物の言語」をさらに二つの言語と関係づけてゆく。すなわち「事物の言語」を創造する「神の言語」と、「事物の言語」に対して「表現」や「翻訳」というファクターを通じて関与する「人間の言語」とに、である。この「事物の言語」/「神の言語」/「人間の言語」という三つの言語のあいだの関係がベンヤミンの言語認識の基本的な枠組みとなる。その背景をなしているのは、『創世記』において展開されている神の天地創造および人間(アダム)の創造の過程と論理である。より正確に言えば、事物に対しては「生じよ」という命令を与え、創造を実行し、さらに名づけを行う一方で、人間に対しては名づけを拒否し、代わりに名づけを行う言語を与えるという、神の創造=絶対的肯定の過程、言い換えれば神が存在をあらしめる創造の過程をそのまま言語創造の過程と重ねあわせる独特な神学的論理である。この論理によって人間の言語に、窮極的な「名づけ」の主体であるがゆえに唯一「名づけえないもの」である神に代わって、「名づけるもの」として「名づけられるもの」である事物(事物の言語)の創造の瞬間を、表現・翻訳を通して反復し模倣することが許されるようになるのである。人間の言語の本質とはこのような意味での命名に他ならない。それに対して事物の言語の本質は、それがいまだ自らを語りえない沈黙のうちにあることなのである。人間の言語は命名する言語である「語」によって事物の言語の沈黙を破り、それが語り始めるという事態をもたらす。

とはいえ人間の言語は決して神の言語の完全性を持つことは出来ない。この不完全さは、知恵の実をかじって創造の絶対的な肯定性が支配する「楽園」世界から追放されたアダムとエヴァ以降の人間、すなわち「堕罪」のうちにある人間において、命名する語の持つ創造性の喪失とそうした語に代わるたんなるがらくた・おしゃべりとしての言語を生み出す。それが、「言語一般」論文の内容と深い類縁関係にある「翻訳者の使命」(1921年)で問題にされているバベル以後の言語の性格なのである。このとき言語は肯定に代わって否定的な裁きを司る裁きの言葉となる。それは創造の非創造的な模倣としての認識の言語でもある。こうした言語のもとで存在=自然は悲しみのうちにふたたび沈黙する。だがこうした人間の言語の堕罪的な性格のうちにも、微かにではあるがふたたび存在の言語に語ることを取り戻させる潜勢的な可能性が含まれている。それは、依然として人間の言語を含めた全言語に伝達しえないもの(名づけえないもの)としての神との連続性が残存していることによる。
                  
かなりはしょった不正確な要約でしかないが、おおよそ「言語一般」論文の要旨はこんなふうに再構成されうると思う。だがこうして要約してみてもこの論文の内容がただちに理解されるわけではない。それどころか疑問や問いがただちに生じてくる。言語の精神的本質とはなにか?それと言語的本質とはなにか?ベンヤミンの神とはどのようなものなのか?なぜベンヤミンの論理は神学的な姿を取るのか?などの問いである。

細見はまず「はじめに」のところで、章立てを持たない「言語一般」論文の論旨の流れを、前半の論旨と後半の論旨のあいだの反転的な関係を軸に、原理論的部分、『創世記』に基づく言語のアレゴリー的解釈の部分、まとめの三部構成に再構成し直してこのテクストの事象内容を細見自身の読解にそくして確定する。そしてそこからこの論文を読み解く上で基礎となる6個のテーゼを抽出する。すなわち「(1)それぞれの言語は自分自らを伝達している(2)事物の言語的本質とはその事物の言語である(3)したがって、人間の言語的本質とは人間が事物を名づけることである(4)名前において人間の精神的本質は自らを神に伝達している(5)ただ人間のみが普遍性からしても集中性からしても完全な言語を有している(6)言語の内容といったものは存在しない。言語は、伝達として、ある精神的本質を、すなわち伝達可能性そのものを伝達している」(92頁)というテーゼである。

ここに現れているのは、神と事物、人間のあいだの垂直的な関係を軸としつつ、バベル以降の人間の言語に生じた事物と精神、精神と言語、言語と内容、伝達と伝達されるもの
等々の分離、さらにはそうした分離を前提として可能となる機能主義的な――ベンヤミンの言葉を使えば「ブルジョア的な」――記号言語に対するラディカルな否定の姿勢である。そしてとくに重要なのは、最後の(6)のテーゼから導き出される「媒質Medium」としての言語という視点である。細見はこの媒質としての言語を、明確な目的語(動作の被対象)を持つ他動詞的な言語のあり方と自らの動作を生成的に提示する言語の自動詞的なあり方の中間に立つ「中動相的なものdas Mediale」として捉える。この把握はベンヤミンの言語観、あるいはそれにとどまらない存在観、歴史観の認識との関わりでたいへん重要な意味を持っている。言語において何かが語るとき、それは何かが語らせるということを一義的に意味するわけではない。そこでは同時に、ちょうど花が自然に開花するように自ずから語るという事態もまた生じているのである。この「自ずから」においては、たとえば言語の精神的本質と言語的本質は区別を含みつつも一体的に絡みあいながら言語へと結実してゆく。それはベンヤミンにおいて、楽園以前の言語における「象徴」と楽園追放以後、バベル以後の言語における「アレゴリー」とを一貫して貫いている言語のもっとも固有な性格に他ならない。そして重要なのは、言語がこうした性格を帯びていることにこそ、人間を含む全存在物の神という絶対的普遍性との繋がりの根拠、証しが存在しているということである。それは同時にこの世界における本質的な意味での解放への「希望」(ゲーテ論)の証しでもある。
 別な角度から細見も触れているが(171頁)、この問題は、完全に閉ざされた内部において極限的な沈黙を強いられたアウシュヴィッツの死者たちの存在がふたたび「語る」ようになること、死者たちの証言が真に伝達されることとは何かという課題を私たちに突きつけているように思える。内部が語り出すためには、外部から語らせることや記号的言語による情報伝達とは根本的に異質な、存在それ自体が語り出す瞬間がどうしても必要なのだ、たとえそれが物理的に不可能であったとしても。周知のように映画「ショアー」はそれを主題としていた。後に自らホロコースト=ショアーの犠牲者となるベンヤミンはすでにこの論文を書いた1916年の時点でそのことを予期していたのだろうか。(2009.7

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