今村仁司著(岩波書店)
─暴力と贈与の視点―
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今村仁司の死の約2ヵ月後に遺著『社会性の哲学』(岩波書店)が刊行された。この著作で今村はその思想者としての歩みの柱であった暴力と贈与の問題を改めて論じている。
今村の社会哲学的思考においては、「なぜ社会は存在するのか」「いかにして社会は生成するのか」という、それ自体としては実証的に記述することの不可能な問いの境位がつねに根本的なモティーフとなっていた。そのとき今村の問題意識を支えていたのは、一見静止的に対象化=実体化されているように見える社会の下層には、その表層次元の静止作用によって見えなくされてしまっている流動的・力動的な葛藤や闘争の契機が隠されているという認識だった。そうした認識を踏まえ、今村は歴史の表層の下方へと埋もれてしまって見えなくなってしまったアルカイックな根源の領域に迫ろうとしたのである。
そこで見えてきたのは、暴力と贈与の契機がからみあいながら対象化=実体化された社会的実定性を不断に揺さぶり続ける一種の永久運動のごとき層位に他ならなかった。社会のもっとも核心的な「内部」にありながら同時に社会が産み出す実定性のもっとも根源的な「外部=他者」としての意味を持つこの暴力と贈与の契機のからみあいの領域・層位を露わにさせることこそが今村の社会哲学の根本課題となっていったのである。そのことをはっきりと私たちに伝えているのが『社会性の哲学』に他ならない。
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人間存在はある「過剰なもの」、あるいはその「過剰なもの」に起因する根本的な不均衡性を宿命的にはらんでいる。そしてこの「過剰なもの」とそれがもたらす不均衡性は、人間存在の根源的な層位に深い亀裂をもたらす。この亀裂はいわば人間存在に穿たれた裂け目といってよい。「過剰なもの」から絶えず備給される「なにものか」、さしあたりは「それes」としか呼びえないものが人間存在の根源的な層位に裂け目を穿つのである。
この亀裂・裂け目は別な言い方をすれば、人間存在の不連続性の証しといってもよい。人間存在が宿命的に負う亀裂、裂け目、言い換えればその根源的な不連続性の契機が問題とされる次元は、世界や社会・歴史の存立以前の、決して哲学的・科学的な言説によっては対象化=実体化されえない次元、いわばそうした実定性の底を打ち破ることによって初めて浮上してくる次元なのである。この実定性が無底化される次元において露わになる人間存在の根源的な不連続性、不均衡性に促されて発動される人間の非対象的な存立機制を明らかにすることこそが、「なぜ社会は存在するのか」「いかにして社会は生成するのか」という問いにとっての出発点となる。
「過剰なもの」は極めて危険なものである。なぜなら「過剰なもの」はそれがそのまま放置されるとき、「過剰なもの」にさらされている存在の定常性・均衡性を脅かし、ついにはその存在そのものの破壊へと至りつくからである。社会性の次元を繰り込んでいえば、人間存在はこの危険な過剰性を解消し存在の定常性・均衡性を回復させるための様々な手段を生み出してきた。それらは共通して供儀や犠牲・いけにえの儀礼と呼ばれるものであった。そしてこの供儀や犠牲・いけにえの儀礼の基本的なファクターをなしているのが贈与と死の暴力なのである。神に捧げられる供物にせよいけにえにせよ、それらは対価を求めない贈与であり、同時に儀礼空間という日常の定常的な秩序を引き裂き、そこに不連続性をもたらす瞬間の顕現において、また犠牲・いけにえを殺戮する行為において暴力としての性格を帯びる。ではこの犠牲という形に凝縮する贈与と暴力の契機の持つ意味、その機制を、先に言及した社会性の生成以前のより根源的な人間存在の次元・層位に遡って解明しようとするときどういったことが見えてくるのか。それに対する答えを模索しようとしているのが『社会性の哲学』の第一部第一篇「存在の贈与論的構造」である。以下その内容を追っていってみよう。
まず「はじめに」のところで今村は「社会性とは、さしあたり友好と闘争のあらゆる関係づけの集合である」と言った上で、それは「客観的観察の立場からいえる」(『社会性の哲学』5頁。以下本書からの引用は頁数のみを記す)ことに過ぎないと記す。ここで今村がいう「客観的観察の立場」が、社会をすでに記述可能なものとして自明化している立場を意味することはいうまでもない。今村はそれに対して次のようにいう。「当事者の個人の立場に立っていえば、個人とは社会性を拒否し、外部に対して閉じた宇宙を作り上げていると感じている」(同)。ここで今村は、個人としての人間存在の持つ「存在感情」(8頁)がいわば社会性の成立以前の段階に属しているという認識を示している。
さてではこの社会性以前の個人の次元において贈与と暴力の契機はどのように問われ、かつ、それがどのような形で社会性の形成へと結びついてゆくのだろうか。「個人間には飛び越し不可能な深淵があることを、人間に内在する原理的な交通不可能性とよぶことにしよう。原理的に、すなわち「生得的に」あるいは本性的に、個人間の交通(関係)が不可能であるなら、社会なるもの、および社会から派生するあらゆる現象はありえない。にもかかわらず、経験が教えるように、社会は事実的に存在しているし、家族と市民社会を統制する国家なるものも事実的に存在している。社会や国家は、どのようにして原理的不可能性を乗り越えたのか。あるいは何が原理的不可能性を飛び越すことを許したのか。これこそが社会哲学の本来の課題である」(6~7頁)。
この問いに対し今村は贈与と暴力の契機をはらんだ犠牲の論理とメカニズムを社会性の平面・次元の形成の原動力であるという答えを示す。「交通の原理的不可能性は、複数の「人間」が社会以前的な「群れ」をなして生きている状態のなかで、突如として特定の個人または少数者を排除し犠牲にするとき、乗り越えられる。社会的交通の原理的不可能性という深淵は、犠牲形成をもって跳び越すことができるようになる。犠牲とは、抑圧や差別に関わるすべての現象を包括する行為であり、それは究極的に殺害に至る。この意味での犠牲を作ることが社会なるものを成立させるのである。要するに、犠牲制作が社会性を可能にするのである」(7頁)。
犠牲の論理はすでに言及したように「過剰なもの」の解消の論理である。だがそこには「過剰なもの」を解消しようとして新たに「過剰なもの」の契機を呼び込んでしまうという逆説が含まれる。それは、「過剰なもの」の暴力性・危険性を解消しようとしてあらためて異質な暴力性を生み出してしまうという逆説に他ならない。犠牲の論理が社会性の平面を形成する論理でありうるのは、犠牲の論理のうちにそうした逆説が含まれるからである。言い換えれば、犠牲の論理とは人間存在の根源に横たわる「過剰なもの」の暴力性を社会性の平面で動き出す暴力性へと転轍させるメカニズムに他ならない。つまり犠牲の論理は暴力の反復と累乗の論理でもあるのだ。その中核をなしているのが、一者ないしは少数者をいけにえとする「全員一致の暴力」(ルネ・ジラール)としての犠牲制作の暴力の行使なのである。あるいはここで犠牲の論理のうちに自己保存と自己破壊の循環を見通そうとした『啓蒙の弁証法』の「オデュセウス論」におけるアドルノの考察を想い起こしてみてもよいかもしれない。
だが依然として問いはそこでは終わらない。「しかしなぜ人間は犠牲をつくることなしに社会または共同体をつくることができないのだろうか」(同)という問いがさらに生じるからである。今村はこの問いを究明するために、自ら「長い迂回路」と呼ぶ、「この原初的事実〔犠牲や排除の具体的事実〕の人間学的由来」(8頁)を明らかにするための考察へと進んでゆく。
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今村がまず問おうとするのは、人間存在の原初的な「存在感情」(同)である。それは次のように捉えられる。「身体を媒介にした人と環境との関係は、なによりもまず「感じる」(感情)によって結ばれる。人のこの世への出現ないし到来は「生誕」とよばれるが、この到来としての生誕は「環境世界へ投げ入れられている」ともいえる。しかしこの投げ入れは、投入するものが存在しないところの投げ入れである」(同)。
今村が社会性を無底化する個としての人間存在の存在感情の次元を問おうとするときいっさいの世界性をエポケーするまさに過剰性――根源的な他者=外部性――と呼ばれるべき存在論的層位が浮かび上がってくるのである。そしてこの過剰性のあり様を表現しているのが、「投入するものが存在しないところの投げ入れ」という今村の言葉に他ならない。
投げ入れる主体=主格が存在しない以上そこに現出しているのは、いかなる超越(論)的な能動-受動構造も構成されえない、あえていえば純粋な受動性の、つまり「純粋贈与」の境位なのである。
こうした純粋贈与にもとづく存在感情が社会的なものの形成に向けて一歩動き出す境位を、今村は二つの契機を通して解明しようとする。一つは「自己贈与」の契機であり、もう一つは「負い目」の契機である。その両者に関係について今村は次のように言っている。「原初の場面では、社会関係はまだ問題にならない。人は自己の存在を贈与または所与として情感的に「理解」している。与える働きを具現するもの(神であれ人であれ)はない。人はひたすら自己の存在を「与えられたもの」として感じ取るだけである。(……)これが原初的に存在するときの最初の側面であった。しかるに、人は存在を与えられたもの、すなわち贈与を受けたものとして感じるとき、不在的で不可視の「与える働き」に対して負い目の感じをもつ。存在を「与えられて-ある」と感じたときに、またそのときにのみ、「与える働き」は、あたえられたものの「意識」ないし「体験」のなかで、負い目を引き起こす。存在感情をもつ生命体だけが、負い目をもつことができる。(……)これが第二の側面である。第三に、負い目感情は必ず負い目を解消するように人を動かす。負い目感情はどうでもいいことではない。負い目は不完全性のしるしであり、マイナスの記号をつけられる。もし生存することを自己保存とよぶなら、自己保存は負い目という欠如を埋め続けなくてはならない。生きることは負い目を不断に返すことに等しい。(……)ともかく負い目感情によって、原初の存在場面において人は何かに向かって負い目を返す義務を感じ、またその義務感によって自己を贈与する。贈与の働きは個人の内部で同種の贈与行為を反復させるが、自己贈与もまた「与える働き」の個人における反復である」(47~8頁)。
与える主体なき純粋贈与の境位は、人間存在のうちにその贈与を反復しようとする動きを喚起する。この瞬間、純粋贈与のうちに痕跡として保存されていた生命体としてのリズム=循環が完全に終焉する。そしてそれを失った代償に人間存在は「自己贈与」の契機を獲得するのである。だが同時にそれは「負い目」というかたちで自己の「不完全性」、すなわち不均衡な過剰性、逸脱を自覚する瞬間でもある。それは、別なところで今村がいっている言葉を借りれば、人間存在が「自己の「ある」が「根源分割」であること」(18頁)を自覚する瞬間でもある。この「負い目」という過剰性がもたらす「根源分割」、すなわち亀裂・裂け目において、人間存在は純粋贈与の境位を脱して、いわば純粋贈与に対する対抗贈与としての、より正確に言えば対抗的なかたちでの贈与行為の反復としての「自己贈与」を発動するのである。そしてこの「自己贈与」は究極的には自己の身体や生命を投げ出し与える行為へと行き着くという意味で、犠牲の論理へと接合されてゆく。それは別な角度からいえば、「負い目」にもとづく「自己贈与」の発動の過程のなかに、自己の生命を何らかの理由・目的で破壊するという死の暴力の契機が隠されていることを意味する。
「負い目」とは人間存在のただ中に現れた一種の空隙である。あるいはそうした空隙をもたらす根源分割線、ずれといってもよい。この空隙からあふれ出る過剰なものが、負い目-自己贈与-犠牲の論理を通してもっとも原初的な意味での社会的なものの平面形成へと向かうのである。そしてこの負い目-自己贈与-犠牲の論理は暴力と贈与の契機を一つに結び合わせながら社会性の平面の下層において不断に蠢動し続ける。それが社会形成のアルカイックな根源、力動性に他ならない。そしてそれは、つねに事後的にしか、言い換えれば「不在的現前・現前的不在」という形でしか捉ええないものであるがゆえに、客観的記述の準位を超え出る「社会哲学」的認識と言説が必要とされるのである。そしていかなる社会的実定性のレヴェルにおいても不在であるこの層位ぬきには社会は生成しえないことを今村は本書で明かそうとしているのである。(2007)