思惟の記憶 ハイデガーとアドルノについての試論 : アレクサンダー・ガルシア・デュットマン


 
 
 
 
 
 
アレクサンダー・ガルシア・デュットマン 著・大竹弘二 訳(月曜社)
 
 
 
『友愛と敵対 絶対的なものの政治学』によって注目をあびた若き俊英ガルシア・デュットマンの著書『思惟の記憶』(A5判・340頁・4800円・月曜社)がこのたび刊行された。本書はデュットマンのフランクフルト大学に提出された博士論文であり、その意味では彼のその後の仕事にとっての出発点に位置する処女作ともいうべき著作である。  

デュットマンは前著『敵対と友愛』において、カール・シュミットが政治空間の実定性を決定づける最大の要因として導入した「敵対」という線分を内在的に脱構築し、それを通じて晩年のデリダの重要な主題であった「友愛の政治」の可能条件の解明へと向かおうとした。その際にポイントとなったのは、「敵対」という線分のうちにはじつは内部=此岸としての敵と外部=彼岸としての敵とのあいだの決定不能な二重性が孕まれており、敵と味方という一見極めて明瞭な対立の図式が、敵(外部)もまた自己自身(内部)でもありうるという形で脱構築されざるをえなくなるという事態であった。このことは、敵は同時に友でもありうるという「敵」概念の決定不能性(両義性)につながってゆく。
 

このようにデュットマンの思考には両義性への強い志向が看てとれる。それは、ある種の弁証法的思考と言い換えてもよい。ただしそこでの弁証法の意味を、ヘーゲル的な全体性(合一)への回収運動と捉えてはならない。なぜなら今見たようにデュットマンが弁証法の本質的契機として見出そうとしているのは、弁証法の進行過程のそのつどの局面にはつねに不可避的な形で決定不能性の契機が付随しているという事態だからである。この決定不能性は、具体的には弁証法的思考がつねにある種の過剰性、余剰性を産出し続けるという事態と言い換えてもよいだろう。というのもヘーゲルに典型的なように、弁証法的思考は一面において自らの同一性の形式を通してすべての要素を完全に自己の全体性のうちへと回収しようとしながらも、その一方で、例えばヘーゲル自身の『精神現象学』や『法の哲学』などのテクストからも読み取れるように、その回収過程において必ず回収しきれずに残ってしまう何ものか、言い換えれば全体性からはみ出してしまう何ものかを産み出してしまうからである。後に改めて触れることになるが、このことは『精神現象学』や『法の哲学』が、理念=思考と社会的現実が出会う場としての「歴史」をその根本的な主題としていることと深く関わっている。弁証法的思考とはある意味で一個の遂行的な矛盾に他ならない。つまりすべてを余さず同一化し透明化しようとする志向に貫かれている思考の運動それ自体が、同時に自らの内部からそうした同一化=透明化から逸脱する過剰性、余剰性を産み出してしまうという矛盾こそが弁証法的思考の本質なのである。そしてそうした矛盾は思考の運動過程がつねに歴史という場においてしか成立しえず、思考それ自体として歴史化されざるをえないところから生じている。
 

こうした弁証法的思考の遂行矛盾的な本質をもっとも根源的な形で捉えようとしたのがアドルノの『否定弁証法』に他ならなかったのだが、ここで留意すべきなのは、この「否定弁証法」という概念がたんに方法概念としてのみあるのではなく、それもまたある種の歴史概念、より正確にいえば歴史と思考の交差する場所に関する認識をめぐる概念でもあるということである。その意味で「否定弁証法」の概念は、思考そのものが歴史化される場の解明を必然的に前提とせざるをえない。アドルノがホルクハイマーとともに亡命期に執筆した『啓蒙の弁証法』はまさに「主体性の根源史」という形でそうした歴史化の場を解明しようとした著作に他ならなかった。その意味でアドルノの「否定弁証法」の概念は「啓蒙の弁証法」という概念を起点としており、この「啓蒙の弁証法」という概念によって定位された思考と歴史の相関構造との深い関連のもとにおいて成立しているのである。本書の第一部である「罪責(債務)」という表題を持つアドルノ論は、この「啓蒙の弁証法」から「否定弁証法」へと至るアドルノの弁証法的思考の要諦を明らかにしようとしている。
 

タイトルからも明らかなように、デュットマンがここでアドルノの思考の本質的契機として見出そうとしているのは「罪責(債務)Schuld」という概念である。「思考が何ものかに債務[罪責]を負い続けるということは、いかにありうるのだろうか?」(23頁)。この思考が弁証法的思考であるとすれば、すでに触れたように思考はつねに自らの内側から遂行矛盾的に、思考の同一性を喰い破り逸脱する過剰なものを産出し続ける。逆にいえば、ある思考の実定性、つまり静止し確定した形を取る思考形式は、つねにそこからはみ出す過剰なものによって規定されるということである。だがここで私たちは、この「自ら産み出す」という言い方に対して慎重にならなければならない。ほんとうにこの過剰なものは思考が自ら産み出すものなのだろうか?
 

すでに見てきたように、デュットマンは「敵」が内部のものであると同時に外部に属するものであることを指摘している。このことを思考における過剰なものに当てはめるならば、過剰なものは思考の内部から産み出されるものであると同時に外部に属するもの、より正確にいうならば外部から到来するものでもありうることになる。このことを時系列的に捉え返すならば、過剰なものとは思考が自ら「ここ-今」という現在性において産み出すものであると同時に、思考の生成に先行しつつ思考の外部にすでに存在し、そこから思考に向かって到来するもの、言い換えれば思考の生成を促す先行的な根源、起源でもあるということである。この現在性と先行性を同時に孕む両義的性格こそが思考と過剰なものの関係の要諦となるのである。『啓蒙の弁証法』にそくしていうならばこのことは、『啓蒙の弁証法』の基本テーゼである「(1)神話はすでに啓蒙である。(2)啓蒙は神話へと回帰する」において定式化されている歴史の構図の問題として捉え返される。歴史の場において「啓蒙」へと帰結する思考は、思考自体が産み出す過剰なものであると同時に思考に先行する根源、起源でもある「神話」との絡み合いのうちへと常に回帰するのである。この絡み合いが「債務(罪責)」の本質に他ならない。

 
  こうした「債務(罪責)」は、一方において暗鬱な「罪責連関」(ベンヤミン)へと帰着する。「神話的暴力は「罪を負わせると同時に贖わせる」のである。この罪責は、罪責連関のなかに原罪として刻みこまれているものである」(32頁)。この罪責連関において、思考は運命の虜となる。それは、神話のもとにおける法の支配への従属(罪とその贖いの連鎖=反復)を意味している。ここで過剰なものは怖るべき原罪の強制力である運命として個々人の生にのしかかってくるのである。「この取り違え〔法と正義の取り違え〕は、啓蒙が法の姿をとって神話の循環をつねに何度も復元することに基づいているのであり、これによって啓蒙はそもそも自らを啓蒙であると主張できるようになるのだ。思考の罪責とは、思考が債務の思考として形成されているということである」(39頁)。暗鬱な罪責連関は啓蒙としての思考自体を根源的に規定づけている。あのオデュッセウスの帰還の物語が示しているように――この物語を、アドルノは神話から啓蒙への移行のアレゴリーとして捉えた――、狡知と犠牲=代理の論理を通して神話を出し抜いた啓蒙は、自らが過剰なものを支配しえたと自認する瞬間に当の過剰なものそれ自体と化してしまうのである。それは具体的には啓蒙が等価交換の原理に従属することを意味する。神話を犠牲の論理によって出し抜くことは、もうひとつの神話的暴力としての交換原理の支配の手に落ちることに他ならない。ここに思考と過剰なものの現在性と先行性の絡み合いの逆説の本質が現れる。それは啓蒙と神話とのあいだの循環的な反復に他ならない。
 

ではこの暗鬱な罪責連関の脱出口は存在しないのだろうか?ここで過剰なもののより深い規定としての「名」の問題が浮上してくる。より正確に言えば、「名」と「概念」の関係を通して見えてくる概念的なものと非概念的なものの両義的関係としての「言語」の問題である。
 「名」によって示唆されているのは、ベンヤミンの「神話的」と「神的」の区別を踏まえるならば、神話的なもの(罪責連関)の根底に横たわる、いわば神話的ものを喰い破ろうとする神的なものの契機である。それは「無規定な直接性」(65頁)として、あらゆる罪責連関を免れる「幸福(帰還)」の約束の根源的な条件でもある。もちろん「名」は「名づけ(概念化)」に転じる瞬間、そうした「幸福」の約束を反古にする。つまり弁証法的な両義性を停止させてしまう。「名」自体もまた両義的であるのだ。にもかかわらずこの「名」の両義性にしか罪責連関からの解放の可能性は存在しない。そして「否定弁証法」があの有名な「非概念的なもの〔名〕を概念的に思考すること」という定義に従うとするならば、つまり過剰なものと概念の均衡状態のあいだの静止しえない両義的関係のうちにつねに立ち続けることを意味するとするならば――これが、「否定弁証法」の要諦としての「限定的な否定(die bestimmte Negation)」の行使に他ならない――、それは罪責連関の反復に中断=中間休止(Zäsur)」をもたらす言語、言い換えれば非同一性としての言語を通してのみ可能となるのである。そうした言語のあり方を示唆しているのが、ヘルダーリンの詩をめぐってアドルノが用いた「パラタクシス(並列)」という特異な概念に他ならない。「アドルノによれば、この中間休止をひき起こすのは「パラタクシス〔並列〕」という形式である。諸々の言語のうちにある多数性を統一として平板化する「述定的主張」や「堅固な判断形式」を断念することで、「言語の物語的契機」へ視線が向けられることになる。この契機は「思想のもとへの包摂から自ずと逃れてゆく」」(73頁)。そして罪責連関の反復に中断をもたらすという課題は同時にアドルノのなかで「アウシュヴィッツ以降」という倫理的色彩を帯びた歴史認識の課題へとつながってゆく。

                 
 アドルノをめぐる議論に紙数を費やしすぎて第二部の「創設」と題されたハイデガー論に触れる余裕がほとんどなくなってしまった。ただハイデガーもまた「名」の単独性と固有性失われようとする危機の中で、ちょうどアドルノの「アウシュヴィッツ」に呼応するように「ゲルマーニエン」という「名」において反復の中断=原初への回帰としての「創設」を問題にしようとしたこと、この点でハイデガーとアドルノのあいだにある種の共通性が見出されることを指摘しておこう。もちろんそこから生じた歴史内部における二人の帰趨には大きな落差が存在するのだが。大変に難解な著作だが実に多くの示唆と触発を含んだ好著である。訳者の労苦に感謝したい。(2009.9