田崎英明 著(未來社)
読みながらぞくぞくするような興奮を覚える魅力的なエッセイ集に出会った。田崎英明の近著『無能な者たちの共同体』(B6判・254頁・2400円・未來社)である。
田崎は周知のように、フランスにおけるアソシアシオン運動を扱った処女作『夢の労働 労働の夢』(青弓社)以来、ジェンダー/セクシュアリティ論や広義の意味での文学/美学論などを手がかりとしながら、近代以降の社会的な実定性のもとにある生および「文化」のあり方をずらす/脱構築するための試みを極めて先鋭な形で展開してきた研究者である。いや、研究者という言い方はいささか白々しい感じがする。むしろ思考者、より正確には思考実践者といった方がぴったりくる。田崎の仕事ぶりには研究者に要求される専門性がおよそ欠落しているからである。もちろんそれは田崎の仕事がアマチュアの水準にとどまっているという意味ではない。どんなテーマを論じても田崎の文章は、切れ味のよい知性の働きと繊細で柔軟な感覚が同居するその文体、意表をつくような巧みかつ戦略性に富んだ思考の展開、そして恐るべき文献博捜によって、その分野の「専門家」と称する連中をして顔色なからしめるような鮮やかな切り口や中身の水準の高さを示している。しかしながら田崎の文章には同時に、固有な経験の澱のようなものがあり、それが田崎を研究者という枠を超える思考者としての実践へと促しているのを感じる。それは田崎の仕事の持つ批評性の根源といってもよいかもしれない。
本書のあとがきで田崎は「私は最近辛うじて正規雇用の側へと、奇跡的に滑り込むことができた」と書いているが、大学院を終了後、際立って優れたその知的・学問的才能、書かれたものの水準の高さに対して誰もが感嘆し賞賛を惜しまなかったにもかかわらず、なぜか田崎はずっと専任職に縁がなく、不安定な身分での不如意な生活を強いられてきた。結婚生活の破綻にも遭遇している。その経験は田崎に、歴史における敗者の側に立つこと、敗者の消えてしまった/聴こえなくなってしまった「声」にこそ耳を傾けなければならないということを教えたように思われる。それは極めてベンヤミン的なにおいのするスタンスなのだが、じっさい田崎のなかでは、ベンヤミンが初期の「暴力批判論」から遺稿「歴史の概念について」まで一貫して抱き続けてきた、歴史/社会の外部へと追いやられていった法‐外なもの、制外的なものの存在へのまなざしと関心が、さらにそのまなざしと関心を現代において受け継ぐ批評的な思考を展開してきた『法の力』以後のデリダや、『ホモ・サケル』の著者アガンベンらとともに、しっかりと根を下ろしているように思える。そして今回取り上げる『無能な者たちの共同体』は、そうした田崎の思考のスタンスおよび最深部にある経験の質がもっともよく現われている著作であるといえよう。
本書の冒頭に置かれている「Impotenz――中断」というエッセイは、田崎が本書で展開しようとしている問題がいかなるものであるかをいきなり鮮烈に突き出してみせている。そこには次のような文章がある。「善なるものは、そして、完全なものは、無能adynamia,Impotenzである(だから有能な者たちは、おのれの不完全さを恥じるのである)。政治とは、無能な者たちの共同体ではないだろうか。(中略)社会とは、おそらく、有能な者たちの共同体である」(7頁)。田崎がここで問おうとしているのは、存在における「現われ」の水位である。この「現われ」の水位は、まさにそれが「現われ」である限りにおいて、けっしてその背後へと遡行しえないある絶対的に完結したもの、自律するものである。つまり、表現するものに対する表現されるもの、語るものに対する語られるもの、意味するものに対する意味されるものを、背面に向かって遡行しながら探求しようとする挙措を許さないことを通して、「現われ」は「現われ」の水位を形づくるのである。この「現われ」は、アーレントが『人間の条件』において公的なものの本質として、より正確に言えば公的なものを構成する「行為action」の本質として提示したものである。公的なものの空間においては、すべてのものが、多様な違いを含んだそのあるがままの「現われ」において肯定され承認されるとアーレントは言う。この公的なものの空間が同時に「政治」の本質をなしていることはいうまでもない。「政治」の本質とは、それ以上背後へと遡行しえない「現われ」の完結性・自律性を通して個々人が互いに向き合う(相互に承認しあう)こと、あるいはそうしたことを可能にする場が生成することなのである。
ではなぜそれは「無能」であるといわれなければならないのか。それはまさに「現われ」が遡行不能であるからである。裏返していえば、「有能」であるということは、「能を隠す/背後に潜ませている」状態を指し示しているといえる。つまり「有能であること」とは、「現われ」がそれ自体では完結せずにその背後に潜むものの探求を必然的に促すような状態を意味するのである。そうした有能さをもっとも端的に表現している実践(プラクシス)が労働に他ならない。労働は自らの内部に潜む自然としての生命を費消することを通じて外部にある自然を有用な、つまり「有能」な価値へと作り変える=内へと取り込む実践を意味する。だからこそアーレントがいうように、労働は「現れ」の構成する公的な領域ではなく、オイコス(家産)に関わる私的な領域へと向かうのであり、それによって「社会」を構成するのである。「社会」について田崎が次のように言っている。「社会とは、現われているがままではないものの集合体である。光と闇、昼と夜に分かたれた者たちの共同体である。私たちの見ている姿以外の姿、他者の目からは隠された姿を秘めた者たち」(8頁)。
労働はうちに有能さを秘めた主体を作り、主体が自らの有能さによって自己以外の存在を喰い尽くす過程を生み出す。それは伝統的な言い方に従えば、主体の自己保存過程に他ならない。そして重要なのは、自己保存過程において主体が保存しようとしているのが、「現われ」の水位にある生としてのbiosではなく、「生命としての生命」、つまり「現われ」に至らないzoeであるということである。それは、生命がbiosの「現われ」において完結(死にうること)せず、zoeの永久連環(不死であること)に身をゆだねることでもある。それがもたらす事態を田崎は次のように言う。「生きていかなければならない〔自己保存を図ること〕かぎりで、それぞれの個体は、それぞれの身体は、互いに喰らいあい〔自己保存のための他者殺害の連鎖〕、一つの巨大な身体へと変貌を遂げる。社会的身体、種、あるいはさらに、大きな生命体へと。ちょうどホッブズの語る「リヴァイアサン」のように、それは傷つくことのない進退だ。個々の個体の、身体の死を超えて生き永らえるのだ。生身の、現実の身体は傷つきやすい。それに対して、可能的、潜在的な身体〔「有能」な身体〕は傷つかない。リヴァイアサンは、生身の、現実の身体からなる、可能的身体、いいかえるならば「できる(なしうる、可能である)」身体なのだ」(11頁{ }内筆者)。
このくだりを読み私はおもわず叩膝した。私事になるが、今私は資本概念や労働概念の組み替えを通じて、資本制のもとにある社会の根本的な転換を展望するという課題に取り組んでいる。そのポイントとなるのは、貨幣としての資本が自らの下に労働を包摂し、その内実を喰い尽してゆくプロセスをどのように脱構築し再構成してゆくかという課題である。それは、マルクスによって「死んだ労働」と呼ばれた資本が、すでに死んでいるためこれ以上は死にえないという意味で不死な存在として、「生きた労働」、言い換えれば生きているがゆえに死にうる存在を次々に呑み込んでゆく過程としてある「資本と労働の交換」の問題に他ならない。田崎の記述はまさにそこを正確に射抜いているのである。
この不死なるものが死にうるものを呑み込んでゆく過程に「有能な」社会の本質が見出されるとするならば、「無能な者たちの共同体」はそうした社会に対抗し、それを脱構築する最大の契機になるはずである。そしてそれは具体的に「快楽の身体」(12頁)を通して具現されると田崎は言う。快楽は、そこにおいてすべてが充足され、それ以上の遡行や持続のサイクルを必要としないという意味でまさしく「無能な」もの、すなわち「現われ」そのものということができる。だからこそ「快楽は、運動でも生成でもない」(同)のだ。ということは快楽としての「無能な」ものは、「中断」すること、つまり「流れや連続としての時間とは関係ない」(17頁)、言い換えれば自らが起源としてそれに続く時間を創設することの決してありえない、始まりの欠如、「欠如の欠如」(同)という状態を意味するのである。このくだりにおける田崎のハイデガー批判も興味深いがもう紙数が残されていないのでそこには立ち入らない。ベンヤミンを踏まえた核心的な記述を見ておこう。「無能な者たちが、その無能さを完全性として享受する、そのような「いまJetztzeit〔ベンヤミン『歴史の概念について』〕」。その到来」(同)。
最初のエッセイだけにかかずらっているうちにもう残りの紙数がなくなってきた。やはりベンヤミンの「例外状態」概念――これはアガンベンの著作のタイトルにもなっている――から出発して、「社会」形成の論理である社会契約や法的合意の意味を内側から突き崩してゆくスリリングな議論が展開される「法の彼方」の章、見ることから離れて解釈することへと向かうのを「誘惑」する運動のうちに、「社会」に照応する「自我」とそこから逸脱する外部としての「自己」との裂け目を見通そうとする「私は見た」の章、さらには全篇でおそらくもっとも強く読者に対して刺戟と興奮を喚起するであろう「テクネー/ポリス」の章――そこではアーレントの「労働/仕事/行為」の区分の再解釈を通した、距離をもたない透明な同一化に対抗する契機としての「テクネー」の意味の捉え返しと、そうした同一化を体現する「巨大な身体」としての国家―民族の論理の脱構築が試みられている――など、全体にわたって極めて刺激的な議論が展開されているこの著作の刊行は、田崎の新たなスタートの第一歩にまことに相応しいエールとなっている気がする。(2008.2)