無能な者たちの共同体 :田崎英明




田崎英明 著(未來社)


読みながらぞくぞくするような興奮を覚える魅力的なエッセイ集に出会った。田崎英明の近著『無能な者たちの共同体』(B6判・254頁・2400円・未來社)である。
 田崎は周知のように、フランスにおけるアソシアシオン運動を扱った処女作『夢の労働 労働の夢』(青弓社)以来、ジェンダー/セクシュアリティ論や広義の意味での文学/美学論などを手がかりとしながら、近代以降の社会的な実定性のもとにある生および「文化」のあり方をずらす/脱構築するための試みを極めて先鋭な形で展開してきた研究者である。いや、研究者という言い方はいささか白々しい感じがする。むしろ思考者、より正確には思考実践者といった方がぴったりくる。田崎の仕事ぶりには研究者に要求される専門性がおよそ欠落しているからである。もちろんそれは田崎の仕事がアマチュアの水準にとどまっているという意味ではない。どんなテーマを論じても田崎の文章は、切れ味のよい知性の働きと繊細で柔軟な感覚が同居するその文体、意表をつくような巧みかつ戦略性に富んだ思考の展開、そして恐るべき文献博捜によって、その分野の「専門家」と称する連中をして顔色なからしめるような鮮やかな切り口や中身の水準の高さを示している。しかしながら田崎の文章には同時に、固有な経験ののようなものがあり、それが田崎を研究者という枠を超える思考者としての実践へと促しているのを感じる。それは田崎の仕事の持つ批評性の根源といってもよいかもしれない。

本書のあとがきで田崎は「私は最近辛うじて正規雇用の側へと、奇跡的に滑り込むことができた」と書いているが、大学院を終了後、際立って優れたその知的・学問的才能、書かれたものの水準の高さに対して誰もが感嘆し賞賛を惜しまなかったにもかかわらず、なぜか田崎はずっと専任職に縁がなく、不安定な身分での不如意な生活を強いられてきた。結婚生活の破綻にも遭遇している。その経験は田崎に、歴史における敗者の側に立つこと、敗者の消えてしまった/聴こえなくなってしまった「声」にこそ耳を傾けなければならないということを教えたように思われる。それは極めてベンヤミン的なにおいのするスタンスなのだが、じっさい田崎のなかでは、ベンヤミンが初期の「暴力批判論」から遺稿「歴史の概念について」まで一貫して抱き続けてきた、歴史/社会の外部へと追いやられていった法‐外なもの、制外的なものの存在へのまなざしと関心が、さらにそのまなざしと関心を現代において受け継ぐ批評的な思考を展開してきた『法の力』以後のデリダや、『ホモ・サケル』の著者アガンベンらとともに、しっかりと根を下ろしているように思える。そして今回取り上げる『無能な者たちの共同体』は、そうした田崎の思考のスタンスおよび最深部にある経験の質がもっともよく現われている著作であるといえよう。
                  
本書の冒頭に置かれている「Impotenz――中断」というエッセイは、田崎が本書で展開しようとしている問題がいかなるものであるかをいきなり鮮烈に突き出してみせている。そこには次のような文章がある。「善なるものは、そして、完全なものは、無能adynamia,Impotenzである(だから有能な者たちは、おのれの不完全さを恥じるのである)。政治とは、無能な者たちの共同体ではないだろうか。(中略)社会とは、おそらく、有能な者たちの共同体である」(7頁)。田崎がここで問おうとしているのは、存在における「現われ」の水位である。この「現われ」の水位は、まさにそれが「現われ」である限りにおいて、けっしてその背後へと遡行しえないある絶対的に完結したもの、自律するものである。つまり、表現するものに対する表現されるもの、語るものに対する語られるもの、意味するものに対する意味されるものを、背面に向かって遡行しながら探求しようとする挙措を許さないことを通して、「現われ」は「現われ」の水位を形づくるのである。この「現われ」は、アーレントが『人間の条件』において公的なものの本質として、より正確に言えば公的なものを構成する「行為action」の本質として提示したものである。公的なものの空間においては、すべてのものが、多様な違いを含んだそのあるがままの「現われ」において肯定され承認されるとアーレントは言う。この公的なものの空間が同時に「政治」の本質をなしていることはいうまでもない。「政治」の本質とは、それ以上背後へと遡行しえない「現われ」の完結性・自律性を通して個々人が互いに向き合う(相互に承認しあう)こと、あるいはそうしたことを可能にする場が生成することなのである。

ではなぜそれは「無能」であるといわれなければならないのか。それはまさに「現われ」が遡行不能であるからである。裏返していえば、「有能」であるということは、「能を隠す/背後に潜ませている」状態を指し示しているといえる。つまり「有能であること」とは、「現われ」がそれ自体では完結せずにその背後に潜むものの探求を必然的に促すような状態を意味するのである。そうした有能さをもっとも端的に表現している実践(プラクシス)が労働に他ならない。労働は自らの内部に潜む自然としての生命を費消することを通じて外部にある自然を有用な、つまり「有能」な価値へと作り変える=内へと取り込む実践を意味する。だからこそアーレントがいうように、労働は「現れ」の構成する公的な領域ではなく、オイコス(家産)に関わる私的な領域へと向かうのであり、それによって「社会」を構成するのである。「社会」について田崎が次のように言っている。「社会とは、現われているがままではないものの集合体である。光と闇、昼と夜に分かたれた者たちの共同体である。私たちの見ている姿以外の姿、他者の目からは隠された姿を秘めた者たち」(8頁)。
労働はうちに有能さを秘めた主体を作り、主体が自らの有能さによって自己以外の存在を喰い尽くす過程を生み出す。それは伝統的な言い方に従えば、主体の自己保存過程に他ならない。そして重要なのは、自己保存過程において主体が保存しようとしているのが、「現われ」の水位にある生としてのbiosではなく、「生命としての生命」、つまり「現われ」に至らないzoeであるということである。それは、生命がbiosの「現われ」において完結(死にうること)せず、zoeの永久連環(不死であること)に身をゆだねることでもある。それがもたらす事態を田崎は次のように言う。「生きていかなければならない〔自己保存を図ること〕かぎりで、それぞれの個体は、それぞれの身体は、互いに喰らいあい〔自己保存のための他者殺害の連鎖〕、一つの巨大な身体へと変貌を遂げる。社会的身体、種、あるいはさらに、大きな生命体へと。ちょうどホッブズの語る「リヴァイアサン」のように、それは傷つくことのない進退だ。個々の個体の、身体の死を超えて生き永らえるのだ。生身の、現実の身体は傷つきやすい。それに対して、可能的、潜在的な身体〔「有能」な身体〕は傷つかない。リヴァイアサンは、生身の、現実の身体からなる、可能的身体、いいかえるならば「できる(なしうる、可能である)」身体なのだ」(11頁{ }内筆者)。

このくだりを読み私はおもわず叩膝した。私事になるが、今私は資本概念や労働概念の組み替えを通じて、資本制のもとにある社会の根本的な転換を展望するという課題に取り組んでいる。そのポイントとなるのは、貨幣としての資本が自らの下に労働を包摂し、その内実を喰い尽してゆくプロセスをどのように脱構築し再構成してゆくかという課題である。それは、マルクスによって「死んだ労働」と呼ばれた資本が、すでに死んでいるためこれ以上は死にえないという意味で不死な存在として、「生きた労働」、言い換えれば生きているがゆえに死にうる存在を次々に呑み込んでゆく過程としてある「資本と労働の交換」の問題に他ならない。田崎の記述はまさにそこを正確に射抜いているのである。
この不死なるものが死にうるものを呑み込んでゆく過程に「有能な」社会の本質が見出されるとするならば、「無能な者たちの共同体」はそうした社会に対抗し、それを脱構築する最大の契機になるはずである。そしてそれは具体的に「快楽の身体」(12頁)を通して具現されると田崎は言う。快楽は、そこにおいてすべてが充足され、それ以上の遡行や持続のサイクルを必要としないという意味でまさしく「無能な」もの、すなわち「現われ」そのものということができる。だからこそ「快楽は、運動でも生成でもない」(同)のだ。ということは快楽としての「無能な」ものは、「中断」すること、つまり「流れや連続としての時間とは関係ない」(17頁)、言い換えれば自らが起源としてそれに続く時間を創設することの決してありえない、始まりの欠如、「欠如の欠如」(同)という状態を意味するのである。このくだりにおける田崎のハイデガー批判も興味深いがもう紙数が残されていないのでそこには立ち入らない。ベンヤミンを踏まえた核心的な記述を見ておこう。「無能な者たちが、その無能さを完全性として享受する、そのような「いまJetztzeit〔ベンヤミン『歴史の概念について』〕」。その到来」(同)。

最初のエッセイだけにかかずらっているうちにもう残りの紙数がなくなってきた。やはりベンヤミンの「例外状態」概念――これはアガンベンの著作のタイトルにもなっている――から出発して、「社会」形成の論理である社会契約や法的合意の意味を内側から突き崩してゆくスリリングな議論が展開される「法の彼方」の章、見ることから離れて解釈することへと向かうのを「誘惑」する運動のうちに、「社会」に照応する「自我」とそこから逸脱する外部としての「自己」との裂け目を見通そうとする「私は見た」の章、さらには全篇でおそらくもっとも強く読者に対して刺戟と興奮を喚起するであろう「テクネー/ポリス」の章――そこではアーレントの「労働/仕事/行為」の区分の再解釈を通した、距離をもたない透明な同一化に対抗する契機としての「テクネー」の意味の捉え返しと、そうした同一化を体現する「巨大な身体」としての国家―民族の論理の脱構築が試みられている――など、全体にわたって極めて刺激的な議論が展開されているこの著作の刊行は、田崎の新たなスタートの第一歩にまことに相応しいエールとなっている気がする。(2008.2

責任と判断 :ハンナ・アレント




ハンナ・アレント著 ジェローム・コーン編 中山元訳(筑摩書房)



ハンナ・アレントに対する再評価熱の高まりは一向におさまりそうもない。とくに2001年9月11日の「事態」以降、アレントをめぐる議論はいっそう切実さを帯びてきているように思われる。ナチスによるユダヤ人を中心とする無辜の民に対する意図的・計画的な集団虐殺という事態に直面して、アレントはその虐殺という事態をいわば試金石とする形で、自らの精神の起源であるヨーロッパ文明の原理とその歴史、とりわけ近代という時代が本格的に形成・確立される19世紀以後の社会および歴史におけるヨーロッパ文明の原理の根拠、正統性、限界などについて他のどんな思想家よりも真摯に問い直しを行おうとした。この問い直しの持つ意味は9月11日以降の事態に関しても有効である、というよりも極めて切迫性を帯びた課題となっているといえるように思える。

個々人の精神の多様性の承認、異なる意見や考えに対する寛容、暴力や権力の支配力によらない自発的な討議倫理にもとづく合意形成と規範の正統性の確立等々、古代ギリシアに起源を持ち、ルネサンスと市民革命を通してさらに鍛えなおされて近代ヨーロッパ社会の主導的なパラダイムとなったリベラルな人文精神(フマニスムス)の伝統は、まずナチスの蛮行によって根底的な危機にさらされた。だがそればかりではなく、2001年9月11日の事態に対してブッシュやブレア、小泉たちが宣告した新保守主義・新自由主義的な「対テロ戦争」によって、より正確に言えばその根拠をなしている「善」と「悪」の二元的な裁断イデオロギーによって再度、いなむしろナチスの場合と比べてもはるかに致命的ともいえる二度目の打撃を受けたのだった。寛容に対しては裁断と一方的な攻撃が、討議に対しては力づくの暴力と支配が、正統性に対しては物理的力の優位が臆面もなく対置される中で、リベラルな人文精神の伝統など屁の役にも立たないという恐るべきシニシズムが蔓延していっからである。このシニシズムが何より嫌うのは反省であり批判であり冷静な討議である。現状を無条件に肯定せず権力者のいうことに批判や異論を唱える人間はみな非国民であり潜在的テロリストとみなされるのだ。日本の安倍政権や最近フランスで成立したサルコジ政権などはこのシニシズムの――じつはそれはもう半ば以上全体主義といってよいのだが――もっとも典型的な現われといえるだろう。
ここで問題なのは、ナチスの時代と異なり、今私たちの世界にはアレントも、アドルノも、ヤスパースも、ミチャーリヒももはやいないことである。巨大なマスメディアの世論誘導や監視社会システムの個々人における内面化もあって、彼らがやったように、こうした事態に対してあえてマイノリティの立場に立ちながら対抗的・批判的言説を組み立てそれを公論化してゆくことの絶望的な困難さが私たちの精神を苛むのだ。

だからこそアレントなのである。私たちはアレントが行った困難な言説上の闘いを今改めて振り返ってみる必要があるのだ。今回公刊された『責任と判断』(A5判・302頁・3800円・筑摩書房)は、そうしたアレントの言説上の闘いがいかなるものであったかを知るために好適な著作といえるだろう。この著作の主題は文字通りタイトルに示されている通り、「責任」と「判断」である。「責任」とは道徳のことでもあり、「判断」とはそれを基準として行われた時代状況に対する診断である。ここでは問題を前者に絞って、アドルノ風にいえば、アウシュヴィッツ以降道徳について語りうる言説は可能なのか、自ら野蛮に加担するか、野蛮に対して無力な形でしか語れない「道徳」とは異なる道徳の原理がはたして提示可能なのか、という問いを立ててみたいと思う。このことに関して、本書の内容に入る前に、本書より少し前に公刊されたアレントの『思索日記』(Ⅰ・Ⅱ巻 青木隆嘉訳 法政大学出版局)の冒頭の文章を見ておきたい。じつはこの文章の内容と本書の内容が深く関連しているからである。
 1950年6月という日付のある無題のノートでアレントは、「赦し」と「和解」という二つのカテゴリーを提示する。まず「赦し」についてアレントは、「赦すそぶりをするだけで、平等も人間関係の基礎も根本から壊れ、本来なら、その後は平等な人間関係はありえなくなる。人間の間での赦しとは、報復を断念すること、黙ること、看過することにすぎないのだ」(『思索日記』Ⅰ 5頁)という。「赦し」という言葉に関して、例えば従軍慰安婦問題をめぐる「何度謝ったら赦されるのか」というような言い方が想い起こされる。ここで問題なのは発言した当人がいつか「赦し」があると予定調和的に考えていることである。だがアレントに即せば、そうした「赦し」への期待は、その事実への関わりの忘却であり責任の放棄でしかないのだ。ここでアレントの言葉は加害者と被害者の両面に及んでいる。加害者の側から「赦し」を求めることは、神のみに可能な背負い込んだ重荷からの解放を被害者の責任において実現しようとすることを意味し、被害者の側からいえば「赦し」によってふたたび被害を受けた際に生じた加害者との不平等な関係を再演することを意味するのである。

さて「和解」のほうはどうか。アレントはこういう。「和解では、他者の重荷を取り除くと約束したり自分に罪はないふりをしたりして、自分にやれもしないことをやると偽るわけではないから――他者との和解は芝居ではない。〔……〕和解する者は、他者の重荷を進んでともに担うのだ。和解によって平等が再建される」(同 6頁)。「和解」は「赦し」の断念の上に成立する。だから和解は加害者側にとって「赦し」の到来を意味してはいない。むしろ逆に加害者の側が被害者の重荷をともに担うことの始まりであり、そのことによって可能となる平等の実現なのだ。このアレントの議論は正直なところ分かり難い。だが本書に戻るとこのことに関連をして次のようなアレントの言葉を読むことが出来る。「誰に裁く権利があり、裁く能力があるかという問題には、はるかに重要な道徳的な問題がかかわってきます。〔……〕ここでは次の二つを指摘しておきましょう。第一に、大多数の人々、またはわたしの周囲のすべての人々が、善と悪の問題をあらかじめ裁いていたとしたら、わたしはいかにして善と悪を区別できるのでしょうか。裁くわたしとは誰なのでしょうか。第二にわたしたちは、自分がまだ生まれてもいなかった過去の出来事や事件を、裁くことができるのでしょうか。裁けるとすれば、どこまで裁けるのでしょうか」(27頁)。

ここでアレントが「裁き」というカテゴリーを出してきていることに注目しなければならない。「裁き」は「赦し」と真っ向から対立するカテゴリーであると同時に、私の理解ではありうべき「和解」への出発点となるものである。そしてそのことによってこの「裁き」というカテゴリーは、本書でアレントが考える道徳性の本質へとまっすぐにつながってゆく。ところで和解というとき、とくに宗教的な文脈から出てくる総懺悔論的な発想が出がちである。「あなたも罪びと、わたしも罪びと、罪びと同士赦しあい和解しあおうではないか」といういわば負の和解である。アレントの考える和解がこうした総懺悔論的文脈に立つ負の和解ではないことはいうまでもないが、その根拠となるのが「裁き」なのである。アレントは次のようにいう。「この裁判という制度においては、時代精神(ツァイトガイスト)からエディプス・コンプレクッスにいたるまで、個別のものにかかわらないすべての抽象的な根拠づけは力を失います。ここで裁かれるのは、さまざまなシステムや、傾向性や、原罪などではありません。わたしたちのような肉と血のある人間が裁かれるのです。法廷で裁かれるのは、人間の行為なのです。すべての人に共通する人間性の健全さを維持するために不可欠とみなされている法に違反した行為が裁かれるのです」(30頁)。
            
ある意味では常識的ともいえる裁判モデルにたった「裁き」の規定によってアレントは何を提起しようとしているのだろうか。誤解を怖れずに言えば、どのような極限状況にあっても発揮されなければならない個としての位相における責任の所在であり、そうした責任において確証される道徳の形式である。なんだ、そんなの近代主義的なブルジョア・ヒューマニズムに過ぎないじゃないかという揶揄が来そうな気もするが、ちょっと待ってほしい。アレントは道徳性の本質を「孤独(ソリテュード)と規定した上で次のように言っている。「善と悪の基準、<わたしは何を為すべきか>という問いに対する答えは、究極的にはわたしが周囲の人々と共有する習慣や習俗にかかわるものではありませんし、神の命令や人の命令によるものでもありません。わたしが自分に下す決定によるものなのです」(118頁)。
最後の言い方は明らかにカントの定言命法を想起させるが、実際ここで問題になっているのはカント的意味における自律であることは明白である。だが問題はそこにとどまらない。真に問われなければならないのは、なぜアレントがあえて「個人」とか「個性」ではなく「孤独」、あるいは「単独性」という言い方をしているのかという問題である。それに関して極めて興味深い例証をアレントは挙げている。それは、ナチス体制下であえて抵抗を行った人々に対するアレントの認識である。アレントは彼らが自分には出来ないことは出来ないという形で自分自身を軽蔑することを肯んじなかった人たちであるという。自分を軽蔑しないという格率は、「自分に嘘をつかない」という自己の自己に対する関係の形式、つまり完全に閉じた自己内関係の形式においてしか確証されえないという意味では、対他的な力を何ら持っていない。だがこのいかなる対他的な証明も不可能な絶対的な単独性のうちにおいてしか道徳の根拠は確証されえないのである。                                        

このカントの文脈にそくした単独性の理解が、本書における道徳の規定の最終的な段階である「意志」の問題にもつながってゆく。つまり問題はつねに行為の担い手であると同時に意志の担い手として、自らの行為の善と悪に対し究極的な形で責任を負わねばならない自己そのもの、人格そのものであるということである。とはいえこの自己は真空状態の中で純粋自我としてあるわけではなく、つねに他者に対して開かれた歴史的・社会的な場、文脈のうちにある自己でもある。このとき「意志」は「自由」と同義となる。「意志」とはある開かれた行為の場において自己の責任において、言い換えれば自己が自己に命ずる理性の法としての良心にしたがって自由に自らの行為を選択する根拠となるのである。このような文脈にたって「裁き」から「和解」への道を考えること、言い換えれば単独者としての責任において和解を担うことがはたして可能なのか。アレントが問おうとしているのはこのことである。
アレントは、まさしく良心の名における自由な単独者だった。だからこそ『イェルサレムのアイヒマン』の出版の結果ユダヤ社会から孤立することも怖れなかった。このアレントの意志を私たちは自分自身のそれぞれの現場であらためて引き受けていかねばならないのではないだろうか。(2007.6)

ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」を読む :細見和之




細見和之 著(岩波書店)

ベンヤミンのテクストは基本的にどれも難解だが、わけても1925年に書かれた『ドイツ悲劇の根源』に至る初期のテクストは群を抜いて難解である。私自身今大学の講義で、1921年に書かれた「ゲーテの『親和力』」を学生たちと読んでいるのだが、読解の困難さに正直途方にくれるときがあるほどである。じつはゲーテ論に入る前には、今回取り上げる細見和之の『ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」を読む』(B6判・278頁・2900円・岩波書店)のテーマとなっている「言語一般」論文についても触れたし、ゲーテ論と同じ年に書かれた「暴力批判論」にも言及したが、まるで底の見えない古井戸のように汲んでも汲んでも汲み尽くせないその内容の底知れなさ、その核心への到達しがたさに講義の最中しばしば絶句せざるをえなかった。これは本書で細見も言っていることだが、これまでのベンヤミン論は、ともすれば一定のテーマについて論じるためにベンヤミンをだしに使うだけだったり、粗雑な概念的要約に終始するだけだったりする傾向が強かった。これ何も人のことを言っているのではない。私自身がこれまで書いてきたベンヤミンに関する文章もそうだったという忸怩たる思いを踏まえて言っているのである。こうしたやり方が含んでいる最大の問題は、ベンヤミンのテクストが持つ本質的な難解さに正面から向き合っていないことである。
ベンヤミンの思考の核心を、ベンヤミンの用語を用いればベンヤミンのテクストのはらむ「真理内容」をつかむためには、テクストの「事象内容」を形づくっている難解さという要素との徹底した格闘がどうしても必要なのだ。それは「親和力論」冒頭の言い方を踏まえるならば、テクストの「事象内容」に対応する「注釈」をかいくぐりつつ「真理内容」に対応する「批評」へと向かう道をきちんと辿ることを意味する。とくにこれはベンヤミンの初期のテクストを読む際に必要な方法的態度といえるだろう。

今回取り上げる細見の新著は、詩人としての言語創造活動と平行して、表現と思考論理の関わりのほとんど秘教的ともいえる稠密さゆえに、ベンヤミンに勝るとも劣らぬ難解さを帯びているアドルノについて優れた著作を書いている細見が、まさに注釈から批評への道を丹念に辿る形でベンヤミンの初期の論文の中でも際立って難解な「言語一般」論文に取り組んだドキュメントである。本書で細見は、さほど長くはないとはいえ「言語一般」論文の全ての文章を取り上げてそれに対する詳細な注釈を行い、さらにそれを通して批評の領分、すなわち「言語一般」論文の真理内容にまで踏み込んでゆく。まさしく本書はベンヤミンのより深い読解のためにもっとも必要とされてきた著作といってよいだろう。
                  
「言語一般」論文の難解さにはいくつかの要因が重なりあっている。その中で最大の要因といってよいのが、この論文におけるベンヤミンの言語を扱う基本的な姿勢である。ベンヤミンはこの論文で、言語をその意味伝達的側面を完全に捨象した形で論じようとしている。言語の意味伝達的側面が捨象されるとき、当然にも言語の指示性やその裏づけとなる記号としての機能性も捨象される。ではいったいそうした諸要素の捨象の後に残る言語の性格とはどのようなものなのだろうか。このとき現れてくるのが、この論文の難解さの第二の要素というべきベンヤミンの言語の基本的な枠組みについての認識である。ベンヤミンは、言語をいったんその現実的な担い手としての人間から切り離し、「言語一般」という人間以外の全存在物、つまり事物にとっての言語をも含む言語の枠組みを設定する。そこには「事物の言語」と呼ばれる特異な言語のあり方が帰属している。それは、文字通り事物の存在そのものとしての次元における言語のあり方であり、通常の意味での言語の枠組みにはとうてい収まりきれないものである。ベンヤミンは、そうした事物の言語にもまた、言語に固有なある種の精神的本質が宿されていると考える。だがこの精神的本質は言語を手段として伝達されるものではなく、文字通り言語そのものにおいて伝達されるべきものである。こうして、言語は言語そのものを伝達するのであり、言語の精神的本質は言語的本質である限りにおいて伝達可能なものとなるという、「言語一般」論文におけるベンヤミンの根本的な認識が提示され、それが事物の言語に対しても適用される。

このような「事物の言語」の本質についての認識を踏まえてベンヤミンは、「事物の言語」をさらに二つの言語と関係づけてゆく。すなわち「事物の言語」を創造する「神の言語」と、「事物の言語」に対して「表現」や「翻訳」というファクターを通じて関与する「人間の言語」とに、である。この「事物の言語」/「神の言語」/「人間の言語」という三つの言語のあいだの関係がベンヤミンの言語認識の基本的な枠組みとなる。その背景をなしているのは、『創世記』において展開されている神の天地創造および人間(アダム)の創造の過程と論理である。より正確に言えば、事物に対しては「生じよ」という命令を与え、創造を実行し、さらに名づけを行う一方で、人間に対しては名づけを拒否し、代わりに名づけを行う言語を与えるという、神の創造=絶対的肯定の過程、言い換えれば神が存在をあらしめる創造の過程をそのまま言語創造の過程と重ねあわせる独特な神学的論理である。この論理によって人間の言語に、窮極的な「名づけ」の主体であるがゆえに唯一「名づけえないもの」である神に代わって、「名づけるもの」として「名づけられるもの」である事物(事物の言語)の創造の瞬間を、表現・翻訳を通して反復し模倣することが許されるようになるのである。人間の言語の本質とはこのような意味での命名に他ならない。それに対して事物の言語の本質は、それがいまだ自らを語りえない沈黙のうちにあることなのである。人間の言語は命名する言語である「語」によって事物の言語の沈黙を破り、それが語り始めるという事態をもたらす。

とはいえ人間の言語は決して神の言語の完全性を持つことは出来ない。この不完全さは、知恵の実をかじって創造の絶対的な肯定性が支配する「楽園」世界から追放されたアダムとエヴァ以降の人間、すなわち「堕罪」のうちにある人間において、命名する語の持つ創造性の喪失とそうした語に代わるたんなるがらくた・おしゃべりとしての言語を生み出す。それが、「言語一般」論文の内容と深い類縁関係にある「翻訳者の使命」(1921年)で問題にされているバベル以後の言語の性格なのである。このとき言語は肯定に代わって否定的な裁きを司る裁きの言葉となる。それは創造の非創造的な模倣としての認識の言語でもある。こうした言語のもとで存在=自然は悲しみのうちにふたたび沈黙する。だがこうした人間の言語の堕罪的な性格のうちにも、微かにではあるがふたたび存在の言語に語ることを取り戻させる潜勢的な可能性が含まれている。それは、依然として人間の言語を含めた全言語に伝達しえないもの(名づけえないもの)としての神との連続性が残存していることによる。
                  
かなりはしょった不正確な要約でしかないが、おおよそ「言語一般」論文の要旨はこんなふうに再構成されうると思う。だがこうして要約してみてもこの論文の内容がただちに理解されるわけではない。それどころか疑問や問いがただちに生じてくる。言語の精神的本質とはなにか?それと言語的本質とはなにか?ベンヤミンの神とはどのようなものなのか?なぜベンヤミンの論理は神学的な姿を取るのか?などの問いである。

細見はまず「はじめに」のところで、章立てを持たない「言語一般」論文の論旨の流れを、前半の論旨と後半の論旨のあいだの反転的な関係を軸に、原理論的部分、『創世記』に基づく言語のアレゴリー的解釈の部分、まとめの三部構成に再構成し直してこのテクストの事象内容を細見自身の読解にそくして確定する。そしてそこからこの論文を読み解く上で基礎となる6個のテーゼを抽出する。すなわち「(1)それぞれの言語は自分自らを伝達している(2)事物の言語的本質とはその事物の言語である(3)したがって、人間の言語的本質とは人間が事物を名づけることである(4)名前において人間の精神的本質は自らを神に伝達している(5)ただ人間のみが普遍性からしても集中性からしても完全な言語を有している(6)言語の内容といったものは存在しない。言語は、伝達として、ある精神的本質を、すなわち伝達可能性そのものを伝達している」(92頁)というテーゼである。

ここに現れているのは、神と事物、人間のあいだの垂直的な関係を軸としつつ、バベル以降の人間の言語に生じた事物と精神、精神と言語、言語と内容、伝達と伝達されるもの
等々の分離、さらにはそうした分離を前提として可能となる機能主義的な――ベンヤミンの言葉を使えば「ブルジョア的な」――記号言語に対するラディカルな否定の姿勢である。そしてとくに重要なのは、最後の(6)のテーゼから導き出される「媒質Medium」としての言語という視点である。細見はこの媒質としての言語を、明確な目的語(動作の被対象)を持つ他動詞的な言語のあり方と自らの動作を生成的に提示する言語の自動詞的なあり方の中間に立つ「中動相的なものdas Mediale」として捉える。この把握はベンヤミンの言語観、あるいはそれにとどまらない存在観、歴史観の認識との関わりでたいへん重要な意味を持っている。言語において何かが語るとき、それは何かが語らせるということを一義的に意味するわけではない。そこでは同時に、ちょうど花が自然に開花するように自ずから語るという事態もまた生じているのである。この「自ずから」においては、たとえば言語の精神的本質と言語的本質は区別を含みつつも一体的に絡みあいながら言語へと結実してゆく。それはベンヤミンにおいて、楽園以前の言語における「象徴」と楽園追放以後、バベル以後の言語における「アレゴリー」とを一貫して貫いている言語のもっとも固有な性格に他ならない。そして重要なのは、言語がこうした性格を帯びていることにこそ、人間を含む全存在物の神という絶対的普遍性との繋がりの根拠、証しが存在しているということである。それは同時にこの世界における本質的な意味での解放への「希望」(ゲーテ論)の証しでもある。
 別な角度から細見も触れているが(171頁)、この問題は、完全に閉ざされた内部において極限的な沈黙を強いられたアウシュヴィッツの死者たちの存在がふたたび「語る」ようになること、死者たちの証言が真に伝達されることとは何かという課題を私たちに突きつけているように思える。内部が語り出すためには、外部から語らせることや記号的言語による情報伝達とは根本的に異質な、存在それ自体が語り出す瞬間がどうしても必要なのだ、たとえそれが物理的に不可能であったとしても。周知のように映画「ショアー」はそれを主題としていた。後に自らホロコースト=ショアーの犠牲者となるベンヤミンはすでにこの論文を書いた1916年の時点でそのことを予期していたのだろうか。(2009.7

テクストはまちがわない :石原千秋




石原千秋 著(筑摩書房)



今月は、気鋭の近代日本文学研究者である石原千秋の新著(A5判・393頁・4300円・筑摩書房)を軸としながら文学研究、あるいは文学批評がはらんでいる問題について考えてみたいと思う。
本書における考察の土台および出発点をなしているのは、優れた漱石研究者として小森陽一とともに研究誌『漱石研究』(現在16号 翰林書房刊の編集にあたるとともに、漱石のテクスト解釈をめぐって行われた論争にも何度か関わってきた石原の、漱石のテクストとの様々なかたちでの格闘の過程のなかからつかみとられたテクスト読解の戦略が提示される「小説とは何か」の章に収められた諸論考であろう。そしてそこに提示されたテクスト読解戦略は、漱石だけではなく、徳田秋聲、江戸川乱歩、島崎藤村からはじまって柄谷行人、吉本ばななにまで至るまさに多種多様な文学的テクストにも向けられながら豊饒なテクスト読解の時空間を拓いてゆくのである。このような本書の展開を踏まえるとき、本書における石原のテクスト読解戦略の要諦として浮かび上がってくるのが本書のタイトルにもなっている「テクストはまちがわない」というテーゼに他ならない。
                    
後で、私の見るところ本書中の最大の問題作といってよい「『夢十夜』における他者と他界」について触れる際にあらためて述べることになろうが、研究者としての石原は、実証的手法で収集されたデータや資料に依拠して自らの研究成果をまとめるタイプではないし、自らの読解の核にある客観化不能な実感や感想から出発する旧派の批評家タイプでも、もちろんない。そしてそれ以上に重要なのは、少なくとも先に言及した「小説とは何か」を踏まえる限り、石原が、テクスト読解にあたってはテクストの外部に読解のための準拠枠を設定してはならないという格率を立てているように思える点である。それは裏返していえば、テクスト読解にあたってはまず何よりもテクストそれ自体の自律性が前提とされねばならないことを、そしてその自律性の内部においては限りなく自由な、ある面から見ればトリッキーとさえいえるような多様な読解実験が行われねばならないことを意味している。つまり自身の言葉を借りれば「資料や情報量ではなく、文学テクストの「読み」で勝負するタイプの研究スタイル」(3頁)ある石原にとってテクスト読解戦略上何よりも重要なのが、読解の無限の自由さと多様さを保証してくれる条件としてのテクストの自律性であるということなのである。それを告知しているのが「テクストはまちがわない」というテーゼである。

このテーゼに関して石原は二つの意味次元を設定しているように思われる。一つは、「小説テクストでは、ほんの細部にこそ、また一見錯誤と見えるような表現にこそテクストの可能性が秘められているという信念」(4頁)という言い方に現れている次元である。これは主としてテクストそれ自体の側の問題といってよいだろう。つまりテクストはそれ自体として「まちがい」という言い方や評価をはねつけるだけの自律性の強度を持っているということである。一見矛盾した内容や事実誤認がテクストに含まれ、読み手がそれをテクストの「まちがい」の根拠にするなら、その瞬間テクストの自律性は壊れテクストの外部に「事実」という準拠枠が設定されることになってしまう。それは「「読み」の放棄でしかない」(同)のだ。これに加え石原は「テクストはまちがわない」根拠としてもう一つの次元を提示する。それは、「文学テクストにおいては「テクストはまちがっている」という「事実」があるのではなく、解釈の結果「テクストはまちがっている」と判断できるにすぎない」(同)といような言い方に現れている次元である。そこでは今度は、テクストそのものではなく、テクストを読む側の問題が浮かび上がってくる。つまり「解釈」という形で現出する読み手の読解行為の過程のなかにしかテクストの事実性は存在しえないということである。とするならば、もし「テクストはまちがっている」と読み手が指摘したとしても、その「まちがい」は自己言及的に読み手の「読み」のなかにしかないことになる。これは奇妙な背理である。まるでこれは「クレタ人はうそつきだとクレタ人がいった」というあの有名な命題の含んでいる自己言及的背理のようではないか。テクストの事実性の前提にあるのは、読解の無限の相対性をものみ込んでしまう読解行為の自律性と多様性に他ならないのである。
                    
以上のような石原の視点は本書の中で、例えば漱石の『こヽろ』におけるテクスト構造の分析を通して論証されている。石原によるならば、『こヽろ』というテクストには「①手紙の数の矛盾、②先生はKへの墓参りに静を連れて行ったのか否か、③静が何を知っているのか決められないこと」(43頁)という「三つの疑問点」が存在する。これらの疑問点は、しかしいうまでもないことだが、テクストの事実性としての矛盾に還元されてはならないのだ。その根拠として石原は次のように言う。「いま『こヽろ』を読むということは、『こヽろ』というテクストを、男たちの物語としてでもなく、男の読者としてでもなく、読むことのセクシュアリティにおいて、男と女との主体をめぐる闘争の物語として読むことでなければならないだろう。その時、このテクストの細部や差異や決定不可能性は、意味ある痕跡として雄弁に語りかけてくるだろう」(49頁)。つまりこうである。テクストに現れる上記のような疑問点は、テクストにはらまれている別種の、より正確に言うならば、従前の「読み」のポリティクスの場において抑圧され隠蔽されてきた「読み」の可能性を示唆する、いわば既成化された「読み」に穿たれた亀裂の痕跡としてこそ読みとられねばならない、ということなのだ。大変説得的な論旨なのだが、ここで同時に私はかすかな疑問にとらわれたのである。それは、おそらくは石原自身が本書にこめているもう一つの重要な主題である「研究」と「批評」の関係の測定という問題、とりわけ次のように石原が指摘している「たとえば、日本近代文学会が商品価値のない言葉のキャッチボールをしているだけで成り立ってしまう閉じられた世界を形成しているからこそ、外部の枠組を密輸入しただけの「安易」な論文があたかも批評性を持つかのような評価を受ける―― 一見そう見える。だが、それは錯覚にすぎないのではないだろうか」(32頁)というような言い方に現れている問題に関連している。

20世紀の文学批評言語の布置を想い起こしてみる。すると二つのもっとも典型的なトポスが浮かび上がってくる。一つのトポスは、ジョルジュ・プーレ、あるいは彼に代表されるジュネーヴ学派の「主題批評(クリティク・テマティク)」の言語である。例えばプーレの『人間的時間の研究』や『円環の変貌』、あるいはジャン・スタロバンスキーのルソー論『透明と障害』に典型的なように、この批評言語においては文学テクストに対してある意味では超越的なかたちで「主題」――たとえば宇宙=世界の表象としての「円環」――が設定され、その主題にもとづいてテクストに隠されている多様な精神史的コンテクストが明るみに出されてゆく。つまり「隠蔽されていたものの発見」というスタンスに立つ読解の多様性がそこからは引き出されるのである。こうした多様性が、石原の言及するカルチュラル・スタディーズ的手法のなかでの「読み」の多様性につながっていくことはいうまでもない。ただ注意しなければならないのはこの多様性の根拠があらかじめ石原の禁じているテクストの外部における読解準拠枠の設定を意味するのではないかという点である。そこでもう一つの批評言語のトポスが浮かび上がる。それは、レヴィ=ストロースとローマン・ヤコブソンが共同で行ったボードレールの詩「猫」の分析に典型的に現れている言語である。その分析の精密さで読者を驚倒させたこの批評言語には二つのファクターが含まれている。一つは、作者という条件さえも排除するリゴリスティックなまでのテクストの自律性への固執の姿勢である。「猫」はいわば一切の外部を持たない純粋かつ自律的な言語=テクスト構造に還元されるのである。もう一つは読解の一義性というファクターである。レヴィ=ストロースとヤコブソンの分析はテクストの自律性の根拠を、テクストが構造としての客観的に自存することに求めるがゆえに、読解は最終的に客観的に決定されうる一義的な形式に帰着せざるをえない。つまりそこではテクスト読解の多様性が排除されるのである。一見すると対立的な関係に見える吉本隆明の『言語にとって美とは何か』の批評言語と「猫」分析の批評言語はこの点で一致する。

石原の問題に戻ろう。石原の引用箇所に感じた疑問は、この「主題批評」的な読解の多様性とテクストの自律性がもたらす読解の一義性のあいだのねじれた関係において、石原が実際の読解実践においてじつは「テクストはまちがわない」というテーゼを踏み越えているのではないかという点にある。たとえば先ほどふれた『こヽろ』に関するセクシュアリティの視点の提示には明らかにカルチュラル・スタディーズ的な手法の影がうかがえる。そしてその問題をもっとも強く感じさせるのが漱石の『夢十夜』を扱った論考に他ならない。ただあらかじめ誤解がないように言っておきたいのだが、それはけっして石原を貶すためではなく、むしろ石原の本書における言語の力動性を指摘したいためなのだ。つまり研究手法の視点をはみ出す石原の本書における批評言語としての可能性、言い換えれば石原のテクストに刻まれた断層、裂け目の所在から見えてくる本書の言語にはらまれた「可能性の中心」(柄谷行人)がそこからは見えてくるということである。

内容の問題にふれておこう。石原は『夢十夜』に関して、「<関係>の物語としてとらえ、その心的な世界の基本構造を抽出する」(151頁)という視点に立って考察を進める。その読解は精密であり極めて説得的である。第一夜の物語について「感情」というファクターにおける時間と空間の関係性から分析をすすめるくだり(160頁参照)は本書の白眉といってよいだろう。ただそうした分析の枠組みとして提示されているのが吉本隆明の『心的現象論』という外部の準拠枠であるところに先ほど言ったようなねじれというか、一種の自家撞着を禁じえないのだ。繰り返しになるがそれはけっして本書の欠陥ではない。もしそうしたねじれがまったくなかったとすれば本書はつまらない研究書に堕していたろうからである。方法と方法を逸脱するもの、内部の自律性とそこから内破する外部のあいだの不定形な関係のなかにしか批評言語の力動性はありえないのである。(2004.6

『<主体>のゆくえ 日本近代思想史への一視角』  :小林敏明





小林 敏明著(講談社選書メチエ




本書は、廣松渉と西田幾多郎に関する優れた著作で知られる小林敏明の最新書である。ドイツで研究生活を続ける小林は、もともと現象学的精神医学と哲学の関わりというテーマから出発したのだが(『精神病理からみる現代思想』)、次第にその思索と研究の対象を日本へと向けていった。そこに彼がドイツの大学で日本学を講じているという外的な事情が関わっているのは間違いないだろう。しかしそれ以上に小林が、自らの思想的な出発点となった廣松からの影響に対して、たんに祖述という形ではなく、廣松の思想的出自、源流にまで遡ってその思想的輪郭の全体像を描くという形で応えたいというモティーフが関わっていたのではないかと思う(廣松渉 近代の超克』)。その結果小林が見出したのが西田であり、さらには西田を中心とする京都学派のエコールであった。小林はすでに二冊の優れた西田論(『西田幾多郎 他性の文体』『西田幾多郎の憂鬱』)を書いているが、そこでは小林の精神医学についての深い知見や精緻を極めた評伝的探究ともあいまってこれまでの伝統的な西田研究にはない斬新な視角が多々示されている。そして小林のこうした研究姿勢は近年いよいよ京都学派そのものに向けられつつあるといってよい。

京都学派というと、悪名高い「世界史の哲学」の問題も含めてすでに思想的には「死せる犬」という見方が一般的である。だが小林は、廣松、さらにはそこから西田の問題へと遡る過程を通じて、京都学派の哲学にはいまだ未発掘の課題が残っていることに気づく。何よりも京都学派の哲学は明治維新とともに始まった西欧哲学の移入の過程のなかで、日本人が自前の思索を通して最初に作り上げた思想体系であり、そこには意識するとしないとにかかわらず現在の私たちの思考をも規定しているさまざまな遺産が蓄積されているのだ。したがって京都学派の哲学は西欧哲学の移入と祖述のレヴェルを超える日本独自の思想体系として、その後のさまざまな思想的営為にとって好むと好まざると避けて通れない前提となっている。小林はそうした京都学派の哲学に潜在する思想的ポテンシャルを発掘・再発見することが、ともすれば目先の流行に追われ過去をたやすく忘却しがちな日本の思想の本当の意味での成熟と厚みの獲得にとって不可欠な課題だと考えているのだと思う。
                   
そうした問題状況のなかで小林が見出したのが「主体」という言葉の変遷の問題であった。いうまでもないが「主体」は和語ではない。明治以降の近代化のプロセスにおいて西欧から移入された概念の翻訳語である。小林はまずこの翻訳の過程に注目する。そして「主体」という翻訳語が定着してゆく過程そのもののうちに一個の思想的ドラマを見出すのである。
 「主体」の原語は”Subjekt(subject)”である。ところがこの原語の本来の意味に対して「主体」という訳語は精確に対応していない。むしろそこでは、原語の意味を離れた独自な「シニフィアン」の戯れが生じているのである。それが、「翻訳語が成立していくなかで日本語/漢語のシニフィアンがはたした数奇な役割」(11頁)を生み出してゆく。だが、そうしたシニフィアンの一人歩きの淵源が、じつはSubjektという言葉の帰属している西欧思想のコンテクストそのものにも由来しているのをまず小林は指摘する(第一章)。やや煩雑なこの章の議論を敬遠するむきもあるかもしれないが、私は逆にこの章を注意深く丁寧に読むことを奨める。その後の「主体」をめぐる思想的ドラマの土台がここで示されているからである。結論だけをいえば、アリストテレスの「ヒュポケイメノン」(基体)とラテン語の「ズプスタンティア」(実体)という本来別な言葉が一体化されたこと、そしてこの「基体=実体」にはsub‐(下に)という意味が含まれることをまずしっかり押さえておかねばならない。そこから近代においてデカルトが「実体」を「精神」と「延長」とに分別した上で人間の「私ego」と身体に事実上「実体」を限定し、その延長線上に「主体」の原型ともいうべきカントの「超越論的主観性」が登場する道も開けるからである。そしてそれは「下に」あるはずの基体=実体が逆に「上に」置かれるという顛倒の生じる過程でもあった。その結果が基体=実体の「主体」化である。あるいは「わたし」化といってもよい。この「下」「上」の顛倒にじつは「主体」をめぐるドラマの根源があるといってもよい。さらにもう一点つけ加えておけば、このような基体→実体→主観・主体という道筋は近代においてあまりにも強固に自明化されてしまったためSubjektをそれ以外の回路で理解するのは強度に困難だった。だがそのなかでもあえてこの回路の自明性を疑う思想家たちが存在した。その代表格がニーチェとハイデガーである。後のフロイトの「エス」の起源となった「それが思うes denkt」というニーチェの表現は、明らかにデカルトの「我思うcogito」への反措定であり、ハイデガーの「実体(ズプスタンティア)」の「主体(スプイェクトゥーム)」へのすりかえの批判もまた「わたし=主体」の自明性への批判に他ならなかった。
 
以上のような「主体」をめぐる問題史のコンテクストを見ると、日本において「主体」という翻訳語が定着し、とりわけ哲学の領域のなかで次第に独自な意味合いを帯びてきた経緯にじつはその問題史のコンテクストが投影されているのを強く感じる。一言で言えば、日本、とくに本書の中心というべき第三章から六章までの西田哲学から始まり京都学派を経て戦後主体性論争へといたる過程には、素朴に主観=主体という図式のなかで理解されていた「主体」という言葉(この言葉の定着過程を探査する第二章には推理小説的面白さがある)が、その前提となる主客図式や精神と身体の二分法ともども思考自身のレヴェルにおいて、さらには先ほど触れたシニフィアンの数奇な戯れという次元において、徹底的に翻弄されてゆく様が現われている。「エス」と「コギト」という両極のあいだで「主体」がさまざまなコンテクストのうちへと姿を変えながら受肉されてゆくのである。とくにその焦点となるのが(本書のクライマックスといってよい)西田の「場所の論理(述語論理)」と三木清の「歴史哲学」の問題である。西田は主客分立以前のいわば「エス」の段階に定位しつつ、「主語(わたし=主観)」ではなく「述語」のほうが語る事態を捉えようとする。それが生じるのが「場所」である。また三木は、歴史のなかで「つくり-つくられる」相互関係として働く主体の身体性をも含む実践的契機に着目し、やはり単純な主観性哲学の限界を超えようと試みる。そこには当時の時代状況が色濃く反映されている。ひとつはマルクス思想の影響である。本書における小林の最大の卓見のひとつが西田におけるマルクス思想の影響の跡づけであり、さらにそこに介在する「弟子」三木の逆影響の論証であることは疑いを入れないであろう。またもう一点、小林の、戦争とファシズムへ向かう状況のなかで登場する高山岩男や高坂正顕らの「世界史の哲学」が、政治的文脈からだけでなくむしろ、「主体」概念をめぐる思想的文脈から出ていることの論証も鮮やかである。とくに西田に由来する「主体的無の立場」が「近代の超克」イデオロギーの根底をなしているという指摘は思わず膝を叩きたくなる。

その上で戦後主体性論争の問題を見るとき(ここでは小林の真下信一の評価が印象的である)、そこにおける主体的唯物論の立場が基本的に京都学派の延長上にあること、そのことが「主体」という概念にあるネガティヴな要素を付与した(とくに経験的実証主義の立場からのこの言葉の評価)の指摘が重要である。同時に、この時点で「主体」という言葉のコノテーションがほぼ明確な枠組みを失い本来の意味での概念の生命力を失ったという印象を禁じえない。したがって一見「主体」という言葉が過剰に乱舞したかに見える一九六〇年代後半の「反乱の季節」は、むしろ「主体」という言葉がほとんど意味の規定性を失って拡散から消滅へ向かう発端にもなったのである。小林がここで指摘している問題としてとくに重要なのは、全共闘運動のなかで叫ばれた「自己否定」の論理が、主体性による主体の否定という背理(主体的に否定・批判されるべきなのは主体自身である)を生むとともに、内部粛清や自死という悲劇の根拠ともなったという指摘である。これは当時の運動をどう思想的に総括するかという課題にとっても重要な問題提起となるだろう。

そして最後に構造主義からに一撃による「主体」の消滅がやってくる。こうした「主体」というシニフィアンの変遷と消滅の歴史が私たちに何を語っているのだろう。それはたんなる歴史でもないし概念の相対性の証明でもない。逆説的に聞こえるかもしれないが、そこで証明されているのは「主体」をめぐる問題群の不死性ではないのだろうか。それは肯定的な意味だけではない。放っておけばいつでも「主体」の問題は再帰してくる。そして「主体」の無自覚な再帰はそこに潜んでいる問題性をも再帰させるのである。とするならば私たちあらためて「主体」という言葉に対して自覚的であらねばならないはずである。そこに本書における小林の問題意識もあったのでないかと思う。(2010)


『吉本隆明の時代』 : 絓 秀実



秀実著 (作品社)



私はかねがね絓秀実を、小林秀雄から始まり、中村光夫、平野謙、吉本隆明、江藤淳、磯田光一、柄谷行人と続いてきた昭和期文芸批評の系譜の最終点に位置する批評家であると考えてきた。西欧文明のもたらす外圧と日本という場が内発的に形づくる磁場とのはざまにあって宿命的ともいえる偏曲を帯びざるをえなかった日本近代の精神のあり様を、自らの存在の内在性の水位において一個のモノドラマとして演じてみせようとしたのが小林とともに始まる昭和期文芸批評だった。したがって昭和期文芸批評は、つねに西欧的なものと日本的なものの両極のあいだに生じる落差、空隙そのもののうちに自らの存在根拠を見出さざるをえなかった。たんなる印象記でも分析研究でもありえぬ批評の固有性とは、こうした落差、空隙に自らの存在を投げ込み、いわば自らを宙吊り状態にすることによって演じられるドラマでのうちにしかありえなかったのである。そして批評がドラマである限り、批評はそうした危うい場に置かれた批評家の偏曲した精神に共鳴してくる「事実」の具体的な手触りのうちにしか棲みつくことは出来なかった。「事実」を欠いた理論や概念はドラマたりえないからである。だからどんなに抽象的理論から出発しても批評はこの「事実」の具体的な手触りへと還ってゆかざるをえなかったのである。そしてこの「事実」の具体的手触りは批評においては、ある種の「ゴシップ」的要素として現れる。ここでいう「ゴシップ」とは、表立った建前の論理の奥に隠されているドラマの楽屋風景を指している。真実としての「事実」の手触りを保証してくれるのはこうした楽屋風景だけなのである。だから批評は最終的にこうした「ゴシップ」の詮索、言い換えれば資料発掘を通した「深読み」や「裏読み」による楽屋風景としての「真相」の暴露というスタイルへと帰着する。昭和期文芸批評の主要ジャンルである作家論が、中村や平野に典型的なように「ゴシップ」詮索的なある種の「探偵ドラマ」に帰着する所以はここにあった。だが批評にはそうした自らの境位に必ず満足しなくなる瞬間が訪れる。この「探偵ドラマ」は作家の側がまがりなりにも持っている「作品」の自律性にはついに及ばないからである。かくして小林が時評という批評の主戦場を捨て天才のドラマの世界へと没入していったひそみに倣い、中村は小説へと、江藤や磯田は歴史へと、吉本や柄谷は思想原理へと向かったのであった――不思議なことに平野だけはそうならなかったが、それはあるいは平野の無類の探偵小説好きと関係があるのかもしれない――。昭和期文芸批評はそうした行程において自らの批評の生理学のサイクルを完結させてきたのである。

今こうした昭和期文芸批評のあり様は完全に死滅しようとしている。ドラマとしての批評はほぼ消滅し、作家論は研究者の手に委ねられてしまった。「ゴシップ」は週刊誌、テレビを経て今やブログの世界に占有されている。そんななか絓だけはその死滅しつつある批評と行程をともにしながらその行き着く涯を見届けようとしているように思われる。そのことは、絓が今述べた批評の「ゴシップ」的要素に固執し続けている点に現れている。このような批評を今なお書き続けているのは私見では絓一人である。それは、絓において批評の行程と生理学が依然として探偵ドラマとして形象化されていると言い換えることも出来る。

今回出た『吉本隆明の時代』はその意味で批評家としての絓の代表作になるのではないだろうか。絓の探偵批評ぶりがこれほど見事に、より正確に言えば「見事すぎるほどに」発揮されている著作は他に思い当たらないからである。そしてそれは、本書の探偵批評の対象が吉本を中心とする60年代の政治的・思想的状況であるがゆえに、読んでいてある種の困惑というか、「居心地の悪さ」を喚起することにもつながっているように思われる。
絓の批評家としての出発点が「1968年」体験にあることは、絓のこれまでの著作、特に『革命的な、あまりに革命的な』や『1968年』を読めば明らかである。この「1968年」体験は、先ほど触れた昭和期文芸批評の終焉を告げる画期となった。では何が昭和期文芸批評の終焉をもたらしたのか。本書における絓の議論を踏まえるならば、「1968年」とは一瞬「革命的知識人」の全面的な覇権が成立しながら、次の瞬間「革命的知識人」(「呪われた部分」としての知識人)そのものが解体していった時代であった。この「革命的知識人」の覇権と解体の二重性の背景をなしていたのは、戦後革命期から60年安保闘争をへて60年代末へといたる戦後の「革命」理念をめぐる長い葛藤の歴史であった。

上記の過程と並行する戦後言説空間を当初支配していたのは、論壇、文壇、大学に拠点をおきつつ戦後啓蒙を主導した丸山眞男や第一次戦後派の文学者だった。そして実質的にはこの言説空間から退いていった小林や河上徹太郎ら昭和期文芸批評第一次世代に代わって中村や平野たちの第二世代がこの言説空間へと登場してくる。この世代交代をもたらしたのは「戦争責任」問題であったといってよいだろう。だがこの問題もまた単純ではなかった。というのも「戦争責任」問題は、たんに戦争遂行勢力の責任問題だけではなく、戦前の革命運動を主導してきた日本共産党に属していた、ないしは協力者であった左翼知識人の転向問題を含んでいたからである。「戦争責任」問題は、大枠において戦前の天皇制ファシズム体制を否定し戦後啓蒙(平和と民主主義)の実現をめざすという流れに沿って形成されていった戦後言説空間――そこには再建された日本共産党に属する知識人たちもかつての転向者たちを含めた形で合流していった――に対し、転向→戦争協力というコースをたどった知識人たちの「戦争責任」をめぐる欺瞞的態度(自らの戦争責任を不問にふしたまま戦争遂行勢力の告発にのみ戦争責任問題を限定しようとする態度)に対する批判、告発という対抗言説を生み出す。そしてこのことが戦後言説空間内部の二極分化、対立へとつながってゆくのである。

この「戦争責任」問題をめぐる対抗言説のトップランナーが昭和期文芸批評の第三世代に属する吉本隆明と武井昭夫に他ならなかった。そして彼らの登場は、昭和期文芸批評の枠組みをはるかに超える根本的な戦後言説空間の変容とその担い手としての知識人の役割転換をもたらしたのである。それは一言でいうならば、啓蒙型の普遍的知識人から上記の「革命的知識人=「呪われた部分」としての知識人」への移行がもたらした転換である。その背景のはふたつの知識人の極をめぐる幾重にも重なり合う対抗・対立構図が存在する。(2008)