思考のフロンティア 暴力 :上野成利









上野成利 著(岩波書店)





暴力の問題は私たちの世界に遍在している。現に今も、イスラエル軍によるパレスティナ・ガザ地区およびレバノン南部への苛烈な軍事攻撃というかたちで噴出した暴力現象に世界の耳目が集中している。
こうした暴力の現前を前にしておそらく誰もが――「正義」の暴力の行使は正当化されるとはなから信じ込んでいるブッシュやオルメルトのような唾棄すべき暴力亡者は除く――、なぜ人類は愚かしくも不毛な暴力の行使を繰り返すのか、なぜ幼児ですら明白に愚行であり悪であると分かるような暴力の行使を人類は止められないのか、と自問するであろう。だがたいていの人間は苦々しい諦念によってその問いを封印するか、「和平」「相互信頼」「寛容」といった決まりきったお題目にすがって自分を納得させることによって――暴力の当事者にはそうした要素が欠けているのだというわけである――、本来その自問のうちに潜んでいるはずの問題の核心を取り逃がしてしまう。本当に問われなければならないのは、愚かしかろうが、苦々しかろうが「人類は暴力の行使を決して止めようとしない」ことの意味なのだ。つまり私たちの世界に遍在する暴力とは、ありふれた日常のなかの個々人のレヴェルにおける暴力から国家が行う戦争行為に至るまで、人間の意志や心理の矯正、コントロールによっては克服することが出来ない制御不能な「暗部」のようなものであり、しかもこの「暗部」は人間がこの世界に個的にか、社会的にか存在することの根底へとまっすぐつながっているということを凝視しなければならないのだ。

 こうした暴力の意味は、20世紀という時代において異常なほど増幅された。かつて高橋哲哉と対談したとき、彼から20世紀に何らか政治的暴力(戦争、革命、民族虐殺、粛清など)の犠牲になって亡くなった死者の数が1億7千万人に上ると教えてもらったことがある。この数はおそらくそれ以前の人類史全体が同じ理由で生み出した死者の数の総計を上回るであろう。わずか100年の時間の中でこれだけの死者が生み出されたのが20世紀という時代の持つ核心的な意味であるとすれば、20世紀は何よりも「暴力の過剰充溢の時代」として性格づけられる。その頂点にナチズムやスターリン主義に象徴される全体主義の暴力があったことはいうまでもない。そしてこのことは、20世紀を生きた人間にとって暴力が、それと無縁であることを絶対的に許されない、言い換えれば誰に対しても等しく降りかかってくる運命となったことを意味している。言うまでもないことだが20世紀は一方において、科学技術の発展に象徴されるように人類の合理精神が最高度に発揮された時代であり、人権概念の拡張や福祉政策の進展に見られるように人間というものの価値が飛躍的に高まった「ヒューマニズム」の時代でもある。そんな20世紀がなぜ「暴力の過剰充溢の時代」となったのか、なりえたのか。この問いに何らかのかたちで応え得ない限り、20世紀という時代が突きつけた問題である「暴力の過剰充溢」から私たちが真の意味で解放されることはありえないであろう。
                    
 一般に暴力についての議論は恐ろしいほどにレヴェルが低いのが常である。だが20世紀という時代において異常なまでに拡張された暴力の意味について根源的に考え抜こうとした思想家が何人かいた。例えば「暴力批判論」を書いたヴァルター・ベンヤミンであり、『全体主義の起源』や『暴力について』を著したハンナ・アーレントであり、『暴力と聖なるもの』の著者であるルネ・ジラールらである。わが国ならば『暴力のオントロギー』の著者今村仁司を挙げることが出来る。だがこれらの暴力の意味についての解明作業の内容とも結びつきながら、もっとも核心的なかたちで20世紀の暴力の過剰充溢に対して考察を行ったのは何といってもマックス・ホルクハイマーとテオドーア・W・アドルノの共著『啓蒙の弁証法』である。なぜならこの著作によって私たちは初めて、先ほど言及した20世紀という時代の持つ二つの対蹠的な性格、すなわち暴力の過剰充溢の核心としての全体主義暴力の現出と、合理精神やヒューマニズムの発展という二つの現象によって示表される性格をトータルに包み込む暴力認識の原理的視点を得ることが出来たからである。一言で言えばそれは「理性暴力」――「理性暴力」ではない――という視点である。合理精神やヒューマニズムを支える近代人間理性の働きが、一見するとそれと対立するかに見える全体主義の「野蛮な」暴力と無縁であるどころか、むしろその起源としての、下支えとしての意味を持っているということを、この「理性の暴力」という視点は示している。20世紀における異常なまでの暴力の充溢は、17世紀とともに始まる近代合理主義(啓蒙)の時代とその歴史性の必然的な帰結であるというのが――もっともホルクハイマーとアドルノはその初源を古代ギリシアのホメーロスの時代にまで遡らせるのだが――「理性の暴力」という視点に込められた本質的な認識に他ならない。

 さてその『啓蒙の弁証法』の共著者の一人であるホルクハイマーの研究を出発点に、『ファシズムの想像力』(共著 人文書院)収録の論文、あるいはナチスによるユダヤ人虐殺という事実を「証言可能性」の観点から歴史の復元=表象の可能性(不可能性)のリミットにおいて問おうとした映画『ショアー』についてのショシャーナ・フェルマンの優れた論考『声の回帰』の翻訳(太田出版)、さらにはポール・ド・マンの極めて刺激的な問題作『美学イデオロギー』の翻訳(平凡社)の翻訳等を通じて着実に思考者・研究者としての地歩を固めてきた上野成利がこのたび岩波「思考のフロンティア」シリーズの一冊として『暴力』を刊行した(B6判・139頁・1300円・岩波書店)。20世紀における暴力の過剰充溢の根源へと分け入ろうとする意欲的な好著である。
                  
 「はじめに」のところで上野はまず暴力に「二重の相貌」があることを指摘する。一つは、「統御不可能で野放図な力」としての暴力のあり方である。そこに「無法」や「不当」という契機が結びつくことはいうまでもない。それはある意味で非理性的暴力といってよいだろう。上野はこうした暴力の相貌を「ヴァイオレンス」と呼ぶ。だが暴力はもう一つ別な相貌を有している。それは、「何らかの権限をもった主体が別な主体を支配・統御する」という意味での暴力である。この暴力には明らかに理性的なものが結びついている。上野はこの暴力の相貌を「ゲヴァルト」と呼ぶ。この暴力の相貌には「権力」、あるいは「秩序」「管理」といった契機が結びつく。こうした二つの暴力の相貌は明らかに対立・矛盾する関係にある。一方は制御不能なものであり、他方は制御・支配の媒体だからである。だが私たちの現実に帰属する暴力現象は明らかにこの矛盾する二つの契機の絡み合いの中においてしか現出しえないのだ。それは別な観点からいえば、私たちの現実の中でヴァイオレンスの要素とゲヴァルトの要素が不可分なかたちで、しかもときには二つのうちのどちらかが優位に立ちながらあたかも二つの顔を持つ「ヤヌス」のように現れるということである。そこに非理性(野蛮)と理性(文化・文明)の絡み合いが潜んでいることはいうまでもない。

 20世紀に目を向ければ、この二つの暴力の絡み合いが奇怪なまでに複雑な様相を呈しながら総体として暴力の過剰充溢をもたらしていることは明らかである。上野はまず20世紀の暴力の問題の核心ともいうべき「ホロコースト=ショアー」に言及しながら、そこに単なる野蛮として片付けるわけにはゆかないその「大量殺戮プロジェクト」としての性格、すなわちアイヒマンに象徴される「正常」な、というより限りなく「凡庸」な官吏タイプの人間のもつ「理性・分別」によって初めて可能となったその精緻で合理的な「プロジェクト」としての性格が現れていること、そしてそこにはすでにはっきりと理性と野蛮の本質的な共犯関係が見てとれることを指摘した上で、その淵源を19世紀において完成を見る「国民国家」に求める。そして国民国家はその本質的属性として閉じられた「領域性」を持つがゆえに、その領域性に囲い込まれている「国民」という名の主体に対して絶えず「強制的均質化」および「動員」という全体主義国家において全面開花する「ゲヴァルト」暴力をすでに強いていることを明らかにする(Ⅰ-第1章参照)。このことは視点をずらせば、国民国家の限定戦争と全体主義国家の絶対戦争の関係の問題にもなる。クラゼヴィッツの「戦争は別な手段による政治の継続である」という命題に示される限定ゲームとしての戦争のあり方、つまりゲヴァルト暴力の行使は、だがしかしそのゲームを成立させる限定された政治空間、すなわち国民国家間の対等な関係を保証する秩序空間を前提とする。それを上野はカール・シュミットを援用しながら「ヨーロッパ公法」の妥当領域としての「ヨーロッパ」と規定するのである。このことによって戦争が限定戦争というゲームになりうるとするならば、そこにはそれと表裏一体なかたちでゲームの規則の及ばない「非ヨーロッパ」という絶対的な暴力行使の許される領域が存在するはずである。この領域にはもちろん帝国列強によって植民地支配の対象となった空間的意味での非ヨーロッパが含まれるが、じつはそれだけではない。ゲームを成立させる規則を共有できないという判断をもたらす差別・排除の機制そのもののうちに「ヨーロッパ/非ヨーロッパ」という二分法の起源があるのであり、そこではむしろ「不気味さ・不快さ」への排除・攻撃衝動といった機制――これが反ユダヤ主義の起源であることはいうまでもない――が働いているというべきである。想いおこしてみよう。理性のいちばん大きな機能は理性の内と外を分けること、理性と非理性の分割である。この分割にこそ二分法の起源があり、そのことが限定された暴力のゲームとしての国民国家の限定戦争の外側で絶対的な暴力が乱舞するヴァイオレンスの空間が現出するのである。とするならば限定戦争の起源そのものうちに絶対戦争というかたちでの暴力の過剰充溢が宿されていると考えることが出来るのではないだろうか。そしてそれこそが理性と暴力の本質的な共犯関係の証左といえるだろう(Ⅰ-第23章参照)。
                    
本書の本領は理論的な面からいえばむしろⅡの諸章、すなわちベンヤミン、アーレント、デリダ、そして『啓蒙の弁証法』について論じた部分にあるといえるが、残念ながらそろそろ紙数が尽きようとしている。本書はある意味で反時代的な本である。これでもかといわんばかりに重い課題を次から次へと、しかも相当に抽象度の高い文体を通して繰り出される。たぶんチャート式の暴力論入門を期待する向きには失望感を与えるだろう。だがそれでよいのだ。暴力の問題は私たちがこの世界に生きている意味への問いと同じくらい重く根源的な課題であり、かつ極めて難しい課題なのだから。読者にはぜひ暴力問題の困難さとその根源的な意味を著者である上野とともに共有していただきたいと切に思う。
(2006.8)