リヒャルト・ワーグナーの妻 コジマの日記1 : コジマ・ワーグナー著


コジマ・ワーグナー 著
三光長冶・池上純一・池上弘子 訳
(東海大学出版会)


 
待望の翻訳である。1976年、リヒャルト・ワーグナー(注記:私はふだん「ヴァーグナー」と表記するが、本書の表記を尊重し今回に限り「ワーグナー」と表記する)がバイロイトに祝祭劇場を建立してから100周年にあたる年に、多くの記念行事や企画が挙行されたが、その柱の一つが本書の原本となった『コジマの日記』の、1930年に彼女が亡くなって以来46年ぶりとなる刊行だった(ドイツ・ピーパー社刊)。そして刊行されるやいなや『日記』は、ワーグナーを研究するにあたって最高最大の一等資料としての地位と評価をたちまち獲得したのであった。このたび原書の刊行以来待ち望まれていた翻訳が、『ワーグナー著作集』(第三文明社)や『ニーベルングの指環』他のワーグナー作品の翻訳刊行(白水社)の中心となり、さらに『エルザの夢』(法政大学出版局)などの自身のワーグナーに関する著作も公刊している日本のワーグナー研究の第一人者三光長治、そして今挙げたワーグナーの翻訳と研究に三光とともに長く関わってきた池上純一、その妻である池上弘子という最良の訳者を得て刊行の運びにいたったことはまことに慶賀の念にたえない(B6判・639頁・6800円・東海大学出版会)。今回刊行された第一巻は600頁を越える大冊だが、驚くことにそれでも日記が書き始められた18691月から1870年の4月までの分のみであり、1883年のワーグナーの死去まで続く日記全体の10分の一に過ぎない。今後10巻編成で刊行が続けられるということだが、ぜひ最後までつつがなく刊行されることを切に祈念したい。



 コジマは、ピアニストであり作曲家でもあったフランツ・リストとマリー・ダグー伯爵夫人とのあいだに生まれた。父母の不倫関係の結果として生まれた彼女は、家庭にも両親の愛情にも恵まれなかったために、神経質でメランコリックな資質を持った難しい性格の人間となっていったが、反面父の音楽家としての才能と、文筆家としての母の才能を継承した芸術的天分と稀にみる鋭敏な知性に富んだ女性でもあった。彼女は、ワーグナーの『トリスタン』の初演を手がけ、後にベルリン・フィルの初代常任指揮者となる「近代指揮法の父」といわれたハンス・フォン・ビューローの妻となるが、いわば夫の師であったワーグナーとの運命的な出会いを通して、子どもも夫も捨てる形でワーグナーのもとに走ったのだった。1870年ビューローとの離婚を経て正式にワーグナーの妻となったコジマは、一貫してワーグナーの最良の伴侶として夫の活動を献身的に支え、とりわけ1876年の第一回バイロイト祝祭以降、ワーグナーの死の後も続くことになったこの祝祭事業を中心となって遂行していったのである。ワーグナーの作品はたしかにワーグナー自身のものだが、その作品のほとんどすべてが現在でも世界のオペラハウスの主要レパートリーとなっており、バイロイトの丘にそびえたつ祝祭劇場では現在も毎年多くの聴衆を得て祝祭が挙行され、そこで行われる上演に関して多くの議論がなされるという「ワーグナー現象」ともいうべき稀有な状況が存在することに、ワーグナー以上に寄与したのがコジマだった。「ワーグナー」とはワーグナーとコジマの共同作品であるとさえいえるであろう。もちろんそこには影の部分もある。極め付きの保守主義者であった「女帝」コジマの君臨するバイロイトは、政治的・イデオロギー的意味におけるワーグナー聖化の拠点でもあった。後のナチズムに道を開く反ユダヤ主義の宣伝紙『バイロイター・ブレッター』の刊行、ゴビノーやチェンバレンからヒトラーにいたる人種主義者やファシストとバイロイトとの親密なつながりなどはコジマ自身が敷いたバイロイトの路線の産物に他ならなかった。演出家のアドルフ・アッピアらの革新的なアイデアを封じ、コジマの作り出したワーグナー像を墨守し続けたバイロイトは、いつしかプレファシズム的なドイツ・ナショナリズムの聖地となっていったのである。そして熱狂的なワグネリアンだったヒトラーはワーグナーとコジマの子ジークフリートの妻ヴィニフレート――コジマとジークフリートの死後バイロイトの総帥となった――と親しくなり、バイロイトのワーグナー家の館ヴァーンフリートに個人的賓客として迎えられて家族同様の扱いを受けることになる。夏の祝祭時のバイロイトはヒトラーが長期滞在していたのでナチス・ドイツの臨時首都の観さえ呈したのである。戦後西ドイツの初代大統領に就任したテオドーア・ホイスは絶対にバイロイトには足を踏み入れないと誓言したが、ナチズムのおぞましい惨禍に対して重大な共犯責任を負うこのようなバイロイトを作ったのがコジマであったことはぜひ記憶されておかれるべきである。

                      

さて『日記』だが、1869年の1月から始められた。コジマはミュンヘンのビューローの家を出て、4人いた子どものうち2人だけを連れてスイスのルツェルン近郊のフィーアヴァルトシュテッター湖に面するトリープシェンのワーグナーの家にきていた。この時期ワーグナーは、バイエルン王ルートヴィヒ二世の庇護と援助を得て、いよいよ畢生の大作『ニーベルングの指環』四部作の完成とそれを理想的な形で上演する祝祭劇場建設の事業に向かおうとしていた。そのさなかに起こったこの「スキャンダル」が世間に知られれば、それでなくとも莫大な出費に疑惑の目を向けていた王室内の批判派を勢いづかせるとともに、王自身の信頼も失いかねず、ワーグナーとコジマは運命のなりゆきとはいえ極めて苦しい状況にあった。形式上はまだビューローの妻であるコジマはトリープシェンの家をほとんど出ることが出来ず、世間の目を逃れるように蟄居していたのである。

 そうしたコジマの苦悩の表現が日記の主調音となっているといってよい。「不安のために動揺する心は、思わず知らずのうちにあたりの不動の自然に救いと助けを求める。自然は身じろぎもせずにおし黙っているが、そのとき胸の奥底に響きわたる声を聞く。「自分の心や運命と折り合いをつけるがよい。心を制御し、運命を耐え忍ぶことだ。結局のところおまえの身にふりかかってくることは、おまえの耐えられる範囲を超えることはないのだから」。それで心のやすらぎを得て家の中に入った」(本書31頁)。



 こうした記述から見えてくるこの日記の基調的な性格としてさらに二つのことが挙げられると思われる。一つはコジマの性格である。冒頭の三光による「序に代えて」にあるように、コジマは「犠牲による献身」という意識に貫かれていた女性であった。こう書くとワーグナーを知る読者はただちに、それはワーグナーの作品の基本イデーではないかと思うであろう。たしかにワーグナーの作品には、『オランダ人』のゼンタ、『タンホイザー』のエリーザベト、『指環』のブリュンヒルデ、『パルジファル』のクンドリなど「犠牲による献身」のモティーフに貫かれたヒロインが多く登場する。だが日記を読む限りではコジマのうちにあるこのモティーフはワーグナーの影響ではなく、コジマ自身の資質であったようだ。それはビューローとの結婚においても発揮されていたからである。「ワーグナーの逆境を見かねて、救いようのない彼を救おうとして彼のもとへ走ったコジマを突き動かしていたのは――ビューローの場合と同じく――彼女の「内なるゼンタ」だったのである」(三光「序に代えて」ⅹ頁)。



 そしてそのことは第二の、この日記全体の最も重要な性格につながってゆく。すなわちあえて夫を裏切った不倫の妻という立場を引き受けてでもワーグナーに尽くし、ワーグナーとともに、彼が夢見る芸術の王国の建設に邁進しようとするコジマにとって、この日記は、そして日記が書かれた場としてのトリープシェンはまさに二人だけの内面の城であり寄り添う二つの魂の通い合う、何人の容喙も許さない神聖な精神の殿堂であったということである。これも三光が指摘していることだが、19世紀の日記文学は、近代とともに生み出された人間=主体の新たな生成場としての「内面」の表現媒体に他ならなかった。もちろんそれはおあつらえ向きに自足し調和する安定した世界ではない。むしろ近代性が強いる自我と世界の相剋や分裂が生々しく現れる場というべきである。だからこそ「内面」は同時に、そうした相剋や分裂に抗して自己が自己であることを保守する最後の砦として重要な意味を持ったのだった。コジマの日記にも明らかにそうした性格を看てとることが出来る。

 

そうした基本性格を踏まえて日記を読み進めてゆくと、じつに興味深いエピソードや事実にいたるところで遭遇する。さきほどバイロイトの影の部分に触れたが、そのもっとも重要な要素である反ユダヤ主義の問題の起源は、ワーグナーが1850年に執筆した「音楽におけるユダヤ性」という論文であった。日記の中でこの論文の再刊がしきりに話題となっている。そしてこの論文をめぐって引き起こされたワーグナーをめぐる毀誉褒貶がコジマによって逐一報告されているのである。今回日記を読んで、当時のドイツにおける反ユダヤ主義の風潮の高まり――ただしそれと反資本主義的な気分や親社会主義的な傾向が結びついていたことは、オイゲン・デューリングなどの場合を含め留意しておく必要があろう――はもちろんだが、ユダヤ社会からのそれへの批判、あるいはG・ヘルヴェークのような親しい友人との離反などの影響ももたらしていたことを初めて知った。当時のドイツ語圏社会がこの問題で一枚岩ではなかったことの証明として興味深かった。またカソリックとプロテスタントの問題がコジマの離婚問題とからんでしきり話題にされているのも面白い。ワーグナーが根っからのプロテスタントでカソリックに対して批判的であるのに対し、フランス生まれのコジマが暗にワーグナーのカソリックへの改宗を望んでいたことはワーグナーの晩年の作品、とくに『パルジファル』の主題をどう理解するかに関わってくるように思える。微笑を禁じえないのは、若干25歳でバーゼル大学文献学教授となったニーチェをめぐる記述である。孤立し批判にさらされていたワーグナーとコジマにとってニーチェの登場がいかに心強い援軍となったのかがそこから読み取れることはもちろんだが、親子ほど年の違うワーグナーたちが若いニーチェを、あれこれの買い物や印刷所との交渉などでこきつかっている様は、ワーグナーたちのいい気さ加減とともにニーチェの無類の人のよさを思わせ思わず笑ってしまう。ただ後年の離反を思うとき、そしてそれでもニーチェがトリープシェンの時代をしきりに懐かしがっているのを思い返すとき、その笑いにはある種の悲哀感が混じってくるのであるが。(2007.3)

応答する力 来るべき言葉たちへ : 鵜飼 哲 著






鵜飼 哲 著(青土社)




3月19日から学生たちとポーランドのアウシュヴィッツへ行くことになったためこの原稿も出発前の慌しさのなかでまとめなければならない羽目になった。明日の出発を控えて今まさに悪戦苦闘中である。
それはさておきアウシュヴィッツ、現在のポーランド語名では「オシュフェンチウム」と呼ばれているこの地にかつてナチス・ドイツがユダヤ人の集団殺戮を組織的に行うための「絶滅収容所(フェアニヒトゥングスラーガー)」を作ったことは周知のとおりである。ある記録によれば、第二次大戦前ヨーロッパには約900万人のユダヤ人が生活していたが、ナチス・ドイツはそのうちの600万人を殺戮した。そしてさらにそのうちの約150万人がこのアウシュヴィッツ絶滅収容所で殺されたのである。この数字が語っているものを正確に表現することは難しいが、一人ひとり何らかのかたちで自らの感情や意識を、家族・友人関係を、過去の記憶と未来への希望を持っていたであろう600万人の、アウシュヴィッツに限っていえば150万人の人間がまるで物か虫けらのように無機的なかたちで「処理」――ナチスは公式文書のなかで一貫して「殺害」という言葉を使わずこの「処理(マスナーメ)」という言葉を使っていた――されたという事実の途方もない重さにはたじろがざるをえない。それとともにこれをやってのけたナチス・ドイツの「悪」の凄まじさと徹底性にもまた慄きを感じざるをえない。「アウシュヴィッツ以後詩を書くことは野蛮である」といったのはTh.W.アドルノだが、20世紀の中庸に生じたこのアウシュヴィッツという「出来事」は、人類史を決定的なかたちで「アウシュヴィッツ以前」と「アウシュヴィッツ以後」に分けてしまったといってよいだろう。私たちはまさにアウシュヴィッツ以後の世界の中で生き考えねばならないのだ。

 こうしたアウシュヴィッツの歴史的意味を私にはっきりと教えてくれたのはクロード・ランズマン監督の製作した映画『ショアー』であった。9時間にも及ぶこの大作のなかでランズマンは生き残った収容所体験者やナチスの元看守の証言によりながら、最大の当事者が死者そのものであったがゆえにほとんど表象=証言不能な、あるいは伝達不能とさえいえるこのアウシュヴィッツ、すなわちユダヤ民族の虐殺という「出来事」を再現し、その意味を復元すべく執拗に映像をつむぎ続けるのである。ところで、いろいろな事情から長い間日本で上映される機会のなかったこの映画が、有志によって組織された上映実行委員会の熱意あふるる活動のおかげで上映にまでこぎつけたのは1995年、戦後50周年の年であった。私もささやかではあったが上映運動の一端にかかわり、私の勤務する早稲田大学で上映会を催すことが出来た。ランズマン自身が早稲田大学に来て学生たちとの討論に応じてくれたのも懐かしい思い出である。そしてこのとき上映実行委員会の中心的な存在として私たちの早稲田大学での上映会も含め全国での上映運動を支えていたのが、今回取り上げる『応答する力』(A5判・361頁・2600円・青土社)の著者、鵜飼哲である。上映会の前後打ち合わせのため鵜飼と何度か会い話を交わしたが、硬質で透明な知性に裏打ちされた明晰な問題意識、謙虚さの中に秘められた強靭な意志と実行力、オルガナイザーとしての高度な実務能力などその人となりには強い印象を禁じえなかった。わけてもその折に鵜飼が語ったフィヒテ哲学と日本における明治・大正以降の文部省に主導されたフィヒテ受容のあり方の問題、とりわけ代表的なフィヒテ主義者南原繁と戦後日本国家構想の関わりという問題をめぐる議論――これらの議論の一端はフィヒテとルナンの「国民(ネーション)」をめぐるテクストを収めた『国民とは何か』(河出書房新社)のなかの鵜飼の解説「国民人間主義のリミット」で知ることが出来る――は大きな触発となり、そこから芽生えたモティーフが結局昨年公刊した拙著『戦争と暴力の系譜学』(実践社)へと結実したのであった。このような鵜飼の新著である。大きな期待を持って読み始めたのは当然の仕儀であった。

                   
率直に言って大変難解な本である。その難解さは、鵜飼が89年の東欧社会主義崩壊、あるいは91年の湾岸戦争――その延長線上に「9・11」の事態とその後のアフガン・イラク戦争があることはいうまでもない――、また金白順さんの告白後日本の戦争および戦後責任について根底から問い直される契機となった従軍慰安婦問題といった現実の様々な問題や課題と向き合いながら、一方でそれを単純な時務情勢論の枠組みに委ねるのではなく、周到なテクスト読解戦略に裏打ちされた歴史=論理的な――これはもちろんヘーゲル的な意味で理解されてはならない――視座から文字通りラディカルに捉え返そうとしていることによると思われる。もう少し具体的にいえば鵜飼はここで、カント、ニーチェ、ハイデガー、レヴィナス、ドゥルーズ、デリダといったモダンの時代と社会にラディカルに切り込んでいった思想家たちのテクスト・言説を、いかなる概説的な切り縮めも行わずに、そこにひそむ問題の最深奥にまで一気に沈潜しながら読み直し、その成果を私たちの直面する状況に対するこれまた一切の図式化・既知化なき認識、ということはある種の決定不能性や不可知性に陥る危険をあえて冒すということなのだが、そうした決定不能な状況に身を委ねることによってしか見えなくなっている問題の次元や領域を抉り出そうとしているといえるのではないかと思う。そうした鵜飼の構えからは、最近の通俗的な世界情勢論に見られるような「わかりやすさ」――じつは「わかりやすさ」を口実とする思考停止――など生まれるはずがない。

そうした点を踏まえて私が本書の中でまず関心をそそられたのは第一部「「ヨーロッパ」の脱構築」のなかの諸論文、とりわけ「ニーチェ明日?」であった。とりわけ難解を極めるこの論文の論旨・主題を短くまとめるのは容易なことではないが、少なくともここで鵜飼が20世紀のニーチェ解釈史の転回点となった1964年のロワヨモン・ニーチェコロック――ここではドゥルーズが『ニーチェと哲学』の原型となる報告を行い、フーコーが「ニーチェ・フロイト・マルクス」という報告を行っている――、そして本論文の糸口となっている1972年の「ニーチェ今日?」というコロックの後に現れたニーチェ読解(レクチュール)新たな水準に定位しながらニーチェ問題を扱おうとしていること、そしてその際に鵜飼が見出したのが、そうした20世紀ニーチェ解釈史の転回を促すもっとも巨大な一撃となったハイデガーの『ニーチェ』において、ニーチェのアナクシマンドロスのテクスト解釈をめぐるかたちで提起された「正義」の問題であったことは、少なくとも確認できるであろう。ただすでに述べたこととも関連するが、鵜飼が問題として見出したものは決して書誌学や解釈学の範囲に留まるものではない。一言で言うならば鵜飼は、正義というものが一義的な同一性、あるいは同一化の機制から解放されたモデルのなかで再思考されねばならないといっているのだと私は思う――これはデリダの『法の力』の主題と重なる――。アナクシマンドロスにおいて正義を表す言葉「ディケー」と不義を表す言葉「アディキア」の対蹠性をめぐるニーチェの解釈への批判に基づいて、ハイデガーは、「復讐の精神」から解放された正義のあり様を「真理としての正義」と規定し、そのことを捉え切れなかったニーチェがヨーロッパ哲学最後の形而上学者と断じるのであるが、はたしてこれは正当な判断といえるのだろうか。鵜飼は次のようにいう。「『ニーチェ』でハイデッガー(ママ)は、ニーチェの形而上学の基本語のうち、「力への意志」よりも「正義」を優位に置く可能性を検討している。ハイデッガーのニーチェ講義がナチスによる「生物学的」解釈からニーチェを救済する可能性の探求でもあり、彼はニーチェの根本思想が「力への意志」である限りナチス的解釈も許容されうると考えていたことを考慮するなら、この作業にはきわめて大きな政治的意味が付与されていたことになる。そしてハイデッガーは、ニーチェが「正義」をなお同化、一致、適応としての真理から理解していたかぎりで、「正義」を「力への意志」より優位に置くことは不可能だったという結論に達したわけである」(28頁)。鵜飼はハイデガーの「正義」をめぐる視角について今引用した箇所の前でさらに次のようにいっている。「〔デリダは〕ハイデッガーの「正義」が、「非=整合」の耐え抜きを通してであれ結局のところ調和へ一者の結集へ、最終的には現前性へともたらされることを指摘する」(27頁)。

このデリダの視点を踏まえればニーチェを最後の形而上学者と批判したハイデガー自身がやはり同一性と現前性の論理に深く縛られていたということになる。そのデリダの問題をめぐって後半の議論が「友愛」を主題としながら展開される。そこでの問題の焦点を表す引用句がある。「このような「行為遂行性と事実確認性の、固有の身体なしの、共同的かつ同時的接ぎ木による生殖」をデリダは<テレイオポエティック>と呼ぶ」(33頁)。この「テレイオポエティック」のうちに鵜飼は、「近さ」と「遠さ」のパラドクシカルな関係をはらむ「自己への、友への、そして敵への友愛」(同)の契機が予め含まれているとするのである。

このことはこのニーチェ論に続く「美しい危険たち レヴィナス、デリダ、日本国憲法」という論文――もともとは鵜飼がフランスのコロックで行った講演がもとになっている――におけるレヴィナスの思想をめぐる次のような指摘に明らかに対応している。「レヴィナスにとっての接近、いわく「接近することをやめることなき接近」とは、じつは「<無限>の無限化」に他なりません。そのおかげで「応答すればするほど、私はより大きな責任を負う」、あるいは「隣人に対して責任を負いつつ、隣人に近づけば近づくほど、私は隣人から遠ざかる」のです」(50~51頁)。こうした問題の立て方の背景にあるのは、例えばこの論文の冒頭にある「安全」概念と「平和」概念の弁別というすぐれて実践的な課題への鵜飼の鋭敏な反応なのではないだろうか。鵜飼によれば、「安全」とは、「あらゆる可能な危険を否定し、排除し、ひいては破壊する」ことであるのに対し、「平和とは、不確定であるからこそ、いくつかの特定の危険なかで、というか、それと共同に生きることを、危険といっしょに生きることを知っている、ということ」(47頁)なのである。このことはさらに本書全体の序論「愚かさの寓話」のなかにある「愚かさ」の問題に帰着する。そこで鵜飼はブッシュに象徴されるような世界を明快に裁断する「賢人」たちの「愚かさ」に、思考が個体化するとともに分離してきた「無限低で未分化な奥底」(9頁)に引きずられるもう一つの「愚かさ」を対置する。この「愚かさ」はまさにデリダの言葉を借りれば「テレイオポエティックなもの」なのではないか。こうした「愚」の捉え方には同じ箇所で引かれている魯迅が色濃く影を落としている気がするが、本書の後半には竹内好の『魯迅』についての論考も収録されている。そこで鵜飼は、竹内の「彼〔魯迅〕の文章をよむときまって影のようなものにぶつかる」という言葉を引いた上で次のように言っている。「この「影」は(…)、あらゆる存在、あらゆる光がそこから生じてそこに消えてゆく暗黒であり深遠である」(287頁)。この「影」がもたらす決定不能性の境位――それはけっして相対主義につながるものでもないし逃避でもない。むしろ声高に白黒、善悪を断定する怠惰な決定論者たちへの果敢な抵抗、批判の拠り所と見るべきである。本書で鵜飼はまさにそうした営為の場を紡いでいるのだと思う。(2004.4)