権力と抵抗 フーコー・ドゥルーズ・デリダ・アルチュセール :佐藤嘉幸










佐藤嘉幸 著(人文書院)





ある意味で「懐かしさ」が漂う四人の名前が副題についた著作が刊行された。佐藤嘉幸の『権力と抵抗』(B6判・329頁・3800円・人文書院)である。もっとも著者である佐藤は1971年生まれであり、まだ30代のかなり若い世代に属する研究者である。

いわゆる「ニューアカブーム」が起こった80年代前半には彼はまだ小学生か中学生にしかなっていなかったはずである。私が本書に興味を抱いた第一のポイントは、今や一つのサイクルが終わり完全に過去のものになってしまったと現在の日本ではみなされがちな「構造主義-ポスト構造主義」の思想に対して、それが「ブーム」という形で受容されていた時期よりはるか後の世代に属する著者がどのようなアプローチを行っているのかという点にあった。もちろん簡単にある思想を時代遅れになったとか、もうブームは終わったというように裁断して顧みようとしなくなるのは、日本のこれまでの外来思想受容史の悪しき習癖であった。本来思想の受容は、それが受容しようとする人間のまるごとの存在を賭けた対決を通して行われる限り、行などに左右されるはずはないし、まして衣装を脱ぎ捨てるように簡単に別な思想へと乗り換えることなど出来ないはずである。とはいえ日本の習癖というべき思想のモードからモードへのアクロバティックな乗り移りにもそれなりの理由がなかったわけではない。たとえばかつてのサルトルの実存主義の受容においても、あるいは様々なマルクス主義理論の受容においてすらもそうなのだが、思想の受容の主戦場がいつのまにか煩瑣な解釈学の競い合いに収斂してゆき――これは長い漢学の伝統のなかで育まれた訓古注釈の技法の名残ではないだろうか――、思想がその起源と生成の場において帯びていた語の真の意味における現実的な条件が見失しなわれてしまうという問題が、そこには潜んでいるよう思われる。煩瑣な解釈学の袋小路に迷い込んでしまった思想は、当然ながら社会の現実や人間が日々生活のなかで味わう喜怒哀楽を含んだ実感との接点を失っていわば思想の剥製となってしまう。そんな思想の剥製に魅力などあろうはずがない。したがってある思想の受容においてそうした解釈学化=剥製化が進んで魅力が失われると、その思想は容赦なく捨て去られ別な思想への乗り移りが行われることになる。それは思想の消費化と呼ぶことも出来るだろう。多くの外来思想がこうした思想の消費化の過程のなかで浮かんでは消え浮かんでは消えしてきたのが近代日本の思想受容史ではなかったか。

こんなことを今更おさらいするのも馬鹿馬鹿しいことだが、もう一点だけ、とくに「構造主義-ポスト構造主義」に関してこうした受容の問題との関連で触れておきたいことがある。それは、思想の解釈学化=剥製化が思想の「非政治化」を生んできたという問題である。わが国における「構造主義-ポスト構造主義」の受容には、マルクス主義理論と結びついた過剰なまでに「政治的」であった状況――もっともこの「政治的」についてもある種の留保が必要なのだが――に対する解毒剤の導入という傾向が強かった。フーコーにしても、デリダにしてもその思想の受容がまず「文学」の領域、さらには言語-言説理論や記号論の領域において進行していったことはその証左である。その背景には、消費社会化のなかで社会的な決定審級の脱中心化・重層化が急速に進んでいったわが国の現実が、より正確に言えばそうした現実によってもたらされたある種の浮遊感(「差異の戯れ」)があったと思われる。このことが資本の力動化や動化として現れつつあった70年代以降のエコノミーのあり様に深く根ざしていたのはいうまでもない。やや乱暴にいえば、マルクス主義的な左翼的政治性が、「構造主義-ポスト構造主義」の持つ、差異性を通して脱構築された言説世界の布置を通して解体され、資本の新たなエコノミー運動と本質的に親和的な非政治的「サヨク」性へと置換されたということである。だが本来「構造主義-ポスト構造主義」と呼ばれた思想、とくに佐藤の本の副題に並ぶ四人の思想家たちの思想は、そうした非政治性とは根本的に異質なものであった。むしろそれは、たとえ通念上のマルクス主義的政治性・左翼的党派性とは異なるものであったにせよ、極めて本質的な意味で「政治的」であった。なによりも彼らの思想は「権力」への抵抗の思想であったからである。この点を脱色してしまったなら彼らの思想の本質的な意味が失われてしまうということに、わが国における彼らの思想の受容の仕方は驚くほど鈍感であったという気がしてならない。その意味で佐藤が本書に『権力と抵抗』というタイトルを付したことは、私の関心を強くそそってやまなかったのである。
                    
本書の序論で佐藤はまず、「構造主義的思考は主体を否定した」という周知のテーゼに対する反駁から議論を始める。佐藤によれば、構造主義的思考は「主体の依存」を、すなわち「真の意味で基本をなす何ものかに対する主体の依存」(9頁)を問おうとしたのであった。佐藤はその「何ものか」を、フロイト=ラカンの精神分析に文脈にそくして「シニフィアン」と呼ぶ。この「シニフィアン」は、主体にとって依存すべき何ものか、別な言い方をすれば主体にとって内面化されるべき何ものかでありつつ、主体が統御しえない何ものかでもある。この依存=内面化と統御不可能性(主体の脱中心化)の循環のなかに主体の位置が組み込まれるとき、主体の服従化のメカニズムが作動し始める。それは明らかに、フーコーの主体化=服従化の二重性として現れる「サブジェクション」に対応する。つまりこの主体化=服従化としての「サブジェクション」メカニズムにこそ主体に対して作用するミクロな権力作用の起源が存在するといってよいだろう。
ではこの「何ものか」としての「シニフィアン」、「サブジェクション」メカニズムを作動させる起源としてのそれは具体的にどのようなものなのだろうか。それはなによりも、主体を「経験的-超越的」に二重化(分化)するメカニズムの起源として捉えられなければならない。すなわち「サブジェクション」メカニズムは、自我の内部に「理想」と「現実」の乖離・ギャップを生み出し、その乖離・ギャップをてことしながら上位審級としての「超自我」(自我理想)による下位審級としての「自己」に対する暴力・非難・批判という形で、主体を「自己」に対応する経験的次元と「超自我」に対応する超越的次元に分化=二重化するのである。より正確にいえばこの二重性を前提として初めて可能となる倫理や道徳という形をとった自己内統整(自己の自己に対する服従)のメカニズムとして実現されるのである。

こうした「サブジェクション」メカニズムの核心をなしている「シニフィアン」とは、本質的にはフロイトのいう「タナトス」、つまり「死への欲動」である。だがここには「死への欲動」をめぐって、フロイト=ラカン的精神分析の文脈において生み出された一個の重大な意味組み換えのメカニズムの問題が同時に存在することを見落としてはならない。それは、なぜドゥルーズ=ガタリの『アンチ・エディプス』が精神分析批判を本質的課題としなければならなかったかという問題につながる。そしてそれは、精神分析理論を源泉としながら形成されつつも、精神分析理論と訣別しなければならなかった「構造主義―ポスト構造主義」的思考の本質的な意味、位置に関わる問題でもある。
ドゥルーズ=ガタリは、周知の通り『アンチ・エディプス』に「器官なき身体」というアントナン・アルトーに由来する奇妙な概念を登場させる。この「器官なき身体」は、ドゥルーズ=ガタリによれば「非生産的なもの、不毛なもの、消費しえないもの」である。言い換えればそれは、「死の本能」に他ならない。そして「器官なき身体」はこの「死の本能」に促されてたえず「死を欲望する」のである。それはちょうど「生の諸器官」(器官を持つ身体)が「生を欲望する」のと同様にである。このように「器官なき身体」を通して再生産される「死への欲動」は、いっさいの器官的な実定性を持たない、言い換えれば主体のなんらかの対象性には決して還元しえない非対象的な力動性として規定される。つまり「死への欲動」は、「快原理」と結びついた主体の実定的な存立に関わりえないものとして本来捉えられねばならないのである。

だがフロイト=ラカンの精神分析理論はこの「死への欲動」をエディプス・コンプレクスという装置を通して自我形成-主体形成(経験的-超越的主体の二重性)のプロセスへと接合し、「超自我」による「自己」の統制メカニズムに組み込むのである。このときフロイト=ラカンの精神分析の文脈における主体は、「死への欲動」を超越論的な起点としながら、生から死への軌跡を歩むことを宿命化された有機的・生物学的存在として、より正確にはそうした有機的・生物学的存在であることを基底に持つ自己統制的な存在として、「死への欲動」としての「シニフィアン」をめぐる「依存」と「統御不能性」のあいだの循環のうちに内属化されることになる。これが主体の服従化メカニズムに他ならない。
もし「構造主義-ポスト構造主義」的思考が権力への抵抗の思想でありうるとするならば、こうした精神分析理論の文脈のうちで定式化され根拠づけられている主体の服従化メカニズムを「開く」こと、つまり主体を服従の閉域から解き放つことが第一に求められるはずである。そのためにはまず「死への欲動」の核心である「シニフィアン」をエディプス・コンプレクスから切り離して外在化しなければならない。それは、主体をエディプス・コンプレクスによる有機化・器官化の回路から切断すること、あるいはエディプス・コンプレクスをへて主体へと向かうという回路に対する本質的なオルタナティヴを提起するという課題として捉えられる。『アンチ・エディプス』における「機械」という概念は、そうした抵抗の提起のひとつのケースと見なすことが出来よう。あるいは晩年のフーコー(いわゆる「最後のフーコー」)が、ドゥルーズと並行する形で見出した「魂」(意識、精神)という「牢獄」から解放された「身体」の特異性の位相もまたそうした提起のひとつのケースということが出来る。

時間がなかったために佐藤の犀利な議論を細部にわたって詳細にたどることが出来なかったのが残念だが、バリバールの指導のもとで執筆され、バリバール自身やジュディス・バトラー、ピエール・マシュレらの審査を受けて受理されたフランス語による博士論文がもとになっている本書は、若い世代がかつての日本における「ブーム」から完全に自由な立場で「構造主義-ポスト構造主義」の再政治化を、すなわち「構造主義-ポスト構造主義」の抵抗の理論としての読み換えを試みた文字通りの力作であることは間違いないといえよう。若い世代の研究者を取り巻く環境は劣悪さの度合いを増しているが、こうした仕事が今後も続くことを切に祈りたいと思う。(2008.12)

一九三〇年代のアジア社会論 「東亜協同体」論を中心とする言説空間の諸相 :石井知章・小林英夫・米谷匡史







石井知章・小林英夫・米谷匡史 編著(社会評論社)








「アジア社会論」という耳慣れない言葉が気になって本書(A6版・393頁・2800円・社会評論社)を読み始めたのだが、一読してその内容の多様さと問題の奥深さに圧倒される思いを感じた。ところで『情況』の20104月号は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』批判を軸に帝国主義戦争としての日露戦争の世界史的意味についての検討を行っている。私はこの特集に編集委員として関わったのだが、その際に中国の「アジア主義」研究者である李彩華氏へのインタビューを行い、日清・日露以来の近代日本の対アジア関係、さらにはそこで生まれた「アジア主義」と呼ばれる思想について李氏から多くのことを教えられた。不勉強なまま、「アジア主義」を日本帝国主義のアジア侵略正当化のための御用イデオロギーくらいにしか考えていなかった私に、李氏は、「アジア主義」が侵略イデオロギーの側面を持ちつつも同時に、とりわけその当事者の主観性においてはアジアとの連帯、さらにはアジア解放への志向をはらんでいたこと、また一言で「アジア主義」といってもいろいろな立場や視点がそこには含まれており、画一的に捉えることは不可能なことを懇切に教示してくれた。私は李氏の話を聞きながら、竹内好が「アジア主義」の再評価を提唱した理由がようやく分かった気がした。竹内はアジア・太平洋戦争というアジア侵略戦争の過程で客観的には侵略に加担した「アジア主義」のなかの「解放」の契機を救抜したかったのだ。この「アジア主義」のなかの「解放」の契機を救い出すこと抜きには、西欧近代化の模倣に終始した近代日本の歴史の根本的な転轍、言い換えれば真の意味での日本革命、さらにはアジアの根源的な解放と自立は不可能であると竹内は考えていたのだと思う。

本書を読むと、そうした竹内の思いを裏付けるように、「アジア主義」と重なりつつ、いわばその発展形態として登場する1930年代の「アジア社会論」がより複雑な、そして現在においても日本の対アジア関係を考える上で避けることの出来ない論点を含んでいることが明らかになる。1930年代の「アジア社会論」は、「アジアを侵略し、占領地を拡大しつつある日本が、同時にアジア諸民族の解放・共生を唱えるという総力戦期の巨大な矛盾の中で」(本書12頁)展開されていったのだった。
                  
こうした「アジア社会論」は、30年代後半の主として近衛内閣の時期に現れる「東亜同盟論」や「東亜協同体論」に凝縮してゆくが、その背景には、今までの日本における一国主義的かつ単眼的な30年代論や日本ファシズム研究などでは見えてこなかったより大きな世界史的枠組み(同時代性)の問題が潜んでいる。例えば本書第10章で、海軍をバックに設立された知識人たちの研究機関「海軍省綜合研究会」について考察している辛島理人は次のように述べている。「綜合研究会で一貫して議論されている主題は日本の帝国編成がどうあるべきかという問題である。(中略)大東亜共栄圏などの地域秩序は「植民地なき帝国主義」の一つの形態であった。第一次大戦以降の戦間期は植民地の新たな獲得が否定された時代であった。すでに植民地や従属国であった地域で反帝国主義闘争やナショナリズムが勃興し、アメリカとソビエトという新興の大国からそれを正当化するウィルソンやレーニンの民族自決原則が打ち出され、第一次大戦後の帝国に一つの問題を突きつけた。植民地主義が少なくとも公式には否定された時代にいかにして帝国を維持・編成するか、各帝国はポスト植民地主義時代の帝国像構築をせまられることになる。そして、1920年代後半の世界的な恐慌の対応策として、各帝国がニューディール・ファシズム・福祉国家・社会主義といった体制を選択するなか、第二次世界大戦には国民国家/ナショナリズムの超克と広域圏理論/広域秩序の模索が様々な学知で展開されるようになる」(376頁)。

こうした戦間期の世界史的動向をふまえ、トランスナショナルな枠組みの中で当時の日本国家・社会のあり方を考察してゆく視点が、これまでのこの時期をめぐる研究および議論には決定的に欠けていたように思われる。しかもそこには構造論的かつ純理論的な問題設定の射程をはるかに超えるダイナミックな葛藤・矛盾(構造変動)の契機が含まれている。その重要な要素の一つが、辛島の文章にもある「広域圏(広域秩序)」の問題である。例えば偽「満州国」建国とともに始まる日中戦争の過程は、単純な意味での侵略に留まらず、そうした「帝国」日本の側からする広域秩序形成の試みとしても捉えることが出来る。第4章で取り上げられている、三木清らの「東亜協同体論」とは異なる方向性――もちろん重なる部分もある――において「東亜協同体論」を展開した加田哲二などは、そうした広域秩序形成に関わる問題意識をもっとも強く抱いていた論者といえよう。この章の筆者石井知章によれば、加田は「英・仏・米・ソ連などが世界地図の現状維持を主張している」に対して、「新しい国家と国家、民族と民族の関係が設定されねばならない」(145頁)と考えていた。それは「英米本位の平和主義を排す」――この場合、「平和主義」のもとになる広域秩序は国際連盟になる――という加田の言葉に現れているように、欧米中心的な帝国主義的旧秩序に対する対抗を通して確立されるのである。このあたりの加田の議論はカール・シュミットを髣髴させるところがあるが、ともかくもこの延長線上に日中戦争を欧米列強からのアジア解放の戦いと位置づけるような発想も可能となってくるのである。しかもすでに触れたようにこの過程は静的に構造化された過程ではなく、とくに中国で燃え上がりつつあった抗日戦とそれを支える民族解放ナショナリズムのダイナミックな力が働く矛盾に満ちた動的な過程としてあった。

ここにもう一つの重要な契機が結びついてゆく。それは、日本のイニシアティヴによるアジアの新たな広域秩序の形成には、当のアジア(とくに中国)から民衆レヴェルにおける抗日の戦いを突きつけられている日本国家・社会自体の根本的な変革が求められるという問題である。そしてこの問題には従属国としての立場を強いられている中国自身の変革がどのように行われるべきかという問題が正確に照応する。この問題に関してもっとも鋭い考察を残したのが第1章で扱われている尾崎秀実であった。第1章の筆者米谷匡史によれば尾崎は、日中戦争が欧米やソ連を巻き込む世界戦争へと発展する中で、軍事的には敗
北した中国が「社会革命」へと向かい――尾崎によればその環は農業革命である――、一方の日本もまた長期戦による消耗過程の中でやはり不可避的に社会革命へと向かうことによって、総体として「日・中・ソ提携によって社会革命と民族解放をめざす「東亜新秩序」のヴィジョン」(56頁)が可能になる、という構想を抱いていた。それは、「アジア社会論」(東亜協同体論)が、客観的には日中戦争からアジア・太平洋戦争へと向かう過程における「総力戦体制」の形成を領導する帝国主義イデオロギーとしての役割を果たしながらも、その裏面にじつはきわどく危うい形で反帝国主義・民族解放を目ざす革命的イデオロギーとしての契機を密かに忍び込ませようとしていたことを意味するといってよいだろう。こうした「アジア社会論」の両義性をもっとも包括的な形で体現していたのが三木清であったことはいうまでもない。そして三木の議論、あるいは三木の協力者であった船山信一らの議論からは、「アジア社会論」のさらに錯綜した思想的背景が浮かび上がってくるのである。
                    
 本書を読み進める中で強い驚きを覚えたのは、「アジア社会論」の展開の過程に多くの転向(偽装転向)マルクス主義者たちが関わっていたことである。尾崎や中西功、平野義太郎らはもちろんだが、これまでほとんど無名であった、裏返して言えば本書によってほぼ初めて考察の俎上に載せられたといってよい満鉄調査部周辺の大上末廣、佐藤大四郎らもまた総力戦の思想としての「アジア社会論」に社会主義や民族解放を目ざす変革のモティーフを忍び込ませようとした人間たちだった。第5章の筆者大澤聡は、本書の編者である米谷の議論を紹介しつつ以下のような視座を提示する。「米谷は、従来「転向」として理解されがちだったその思想動向の意味を、国民国家の枠を越えた東アジア全体の構造変動・相互作用のなかに位置づけなおす。「日中関係の変容と国内の社会変革とを連動させ、立体的にとらえる視座」を構築することにより、一国内部に閉じた「協力/抵抗」という尺度では捉えきれない当時の社会変革構想を甦生させているのである」(171頁)。

 ここに本書のもっとも基本的な視点が現れている。大澤はこの後で米谷の文章を引用しているが、そこでは転向マルクス主義者たちを中心とする「アジア社会論」の展開、しかもたんに理論上の問題だけにとどまらずにすぐれて実践的な要素をも含んだその展開過程には、「あえて参戦をつうじて時局に介入し、戦時下の構造変動を変革にむけて転換させようと試みる」(172頁)モティーフがこめられていたのである。大上による、「半封建半植民地」的な中国の変革を農業協同組合運動による封建制打破の方向性に求めようとした発想にしても、佐藤の「合作社(協同組合)」運動にしても、まさに米谷の指摘するような変革のモティーフをうちに秘めた試みに他ならなかった。こうした問題圏に光をあてたという意味で、小林英夫が担当する本書第7章「満鉄調査部の思想」、福井紳一が担当する第8章「佐藤大四郎の協同組合思想と「満州」における合作社運動」は本書の中でも際立って印象的な部分といってよい。それとともに大上、佐藤がともに国家権力による弾圧を受けて獄死したことは――ゾルゲ事件に連座して処刑された尾崎や敗戦後まもなく獄死した三木を含め――、30年代から40年代への推移の過程で、こうした「アジア社会論」内部の変革のモティーフが当時の軍部を中心とする支配権力による苛烈な弾圧の中で急速にしぼんでゆき、代わりにそうした問題意識が希薄になった分だけいわゆる「総力戦の思想」としての性格を強めていった高山岩男、高坂正顕ら京都学派の「世界史の哲学」が提唱され、さらには「近代の超克」という痴呆めいたスローガンが呼号されるに至った事情を物語っている。このあたりをめぐっては昭和期知識人論ないしはこの時期の知識社会学な考察の問題としても捉えることが出来る。

 この過程において理論的には、「アジア的生産様式論争」、あるいは「アジア的停滞」の問題や講座派史観の問題が、さらにはK・ヴィットフォーゲルの「中国(支那)水利社会論(東洋的専制論)」などの問題が複雑に絡み合っている。そしてそれらの理論的諸問題の焦点は、三木の協同主義哲学における「革新」の二重性という考え方、すなわち封建制を脱する近代化の必要性と、同時に近代主義を超える原理の模索の必要性を重ね合わせて捉えようとする考え方に収斂するとともに、日本およびアジアにおける近代化の意味と方法の根本的な見直しへもつながってゆく。最後に、これは李氏へのインタビューでも教示されたことだが、こうした「アジア社会論」の展開において「忘れられた思想家」の一人である橘撲が非常に重要な役割を果たしたことをあらためて本書を通して確認することが出来たことをつけ加えておきたい。先にあげた大上や佐藤の立場は橘の影響抜きにはありえなかったからである。ともあれ多くの刺激と触発に富んだ好著である。(2010.4)

哲学のアクチュアリティ 初期論集 :テオドール・W・アドルノ 









テオドール・W・アドルノ著・細見和之訳
(みすず書房




20004月から担当してきた本ブックハンティング欄も今回が最後となった。足かけ11年にわたって一回あたり10枚という長文の書評を月一回のペースで続けなければならない本欄の仕事は正直いってきつかったが、多くの新刊本の中から一冊を選び、自分なりの読み方、解釈を踏まえて書評にまとめるという作業は大変貴重な勉強の機会でもあった。何より一冊の本を通してそのつどの世界や時代の状況を論じたり、その本が扱っている分野や主題に関して理論的・歴史的反省を行うとともに今後の展開を展望することは、自分自身の思想的道筋を確認するための大切な作業となった。

 私が本欄を担当するにあたって心がけたのは、まず第一にたんなる内容の要約にとどまらず、必ず一個その本から引き出すことの出来る論題を示し、それについての自分なりの議論を含めることであった。10枚という長文書評にはどうしてもそれが必要だと考えたからである。第二には、思想・哲学の分野を中心にしつつ出来るだけ多様な分野の本を取り上げることだった。とくに通常の書評では取り上げられる機会の少ない音楽関係の本を出来るだけ取り上げようと心がけてきた。第三には、とくに後半の時期においてそうだったのだが、若手の博士論文を中心とする業績を積極的に取り上げることだった。ここ5年あまり大学では若手研究者が博士論文を執筆するのはほとんど義務となってきている。言い換えれば若手研究者の優れた仕事は彼らの博士論文にこそもっとも凝縮されているはずなのだ。今若手研究者の仕事が世に出る媒体としても博士論文がもっとも重要となっているのは。出版事情の悪化もあって書き下ろし単行本や論文集でデビューすることがほとんど期待出来ない状況であることと深く関係している。

 今も少し触れたが私がブックハンティング欄を担当した10年は、出版事情が急速に悪化した時代だった。とくにそれは人文・社会科学書において顕著だった。だからこそこれから世に出ようとする若手研究者の業績を中心に、その分野における貴重な著作の紹介を行うことが本欄の重要な役割であった。もとよりそれは大河にそそぐ一滴のように微力なものではあったろう。ただ悪化しつつある出版事情の中であえて旗を立て続けようとする著者や出版社の志に共感と連帯の意志を示すことは本欄を担当する者の義務であったと確信する。
                   
 さて本欄の最後に取り上げるのは、詩人であり、アドルノ、ベンヤミンの優れた研究者として著作および訳書を次々に刊行してきた細見和之によるアドルノの新しい翻訳(B6判・193頁・3000円・みすず書房)である。アドルノの仕事は同じみすず書房から昨年刊行された『文学ノート』1・2を含め主要著作の翻訳がほぼ終わっているが、なぜかアドルノの思想を理解する上で極めて重要な意味を持つ初期の二つの講演「哲学のアクチュアリティ」「自然史の理念」は、雑誌に翻訳が掲載されたことはあるとはいえ単行本としては未刊だった。この二つの講演は、アドルノが教授資格論文「キルケゴール論」に取り組んでいた時期である1931年から31年にかけて行われ、その後のアドルノの、『啓蒙の弁証法』を経て『否定弁証法』や「美学理論」へと至りつく思想的軌跡の起点に位置するものである。そのことは細見自身が彼の著作『アドルノの場所』(みすず書房)で述べていた通りである。その意味で今回両講演と、それに加えて執筆時期が1924年頃と推定される極めて早い時期の草稿「哲学者の言語についてのテーゼ」、これまた1920年代後半から30年代にかけて書き継がれた「音楽アフォリズム」が細見の翻訳によって一書にまとめられたことは、今後の日本におけるアドルノ解釈にとって貴重な一里塚となるであろう。 
   
 「哲学のアクチュアリティ」においてアドルノは自らの哲学の出発点を極めて明快な形で述べている。冒頭の文章を引用しておこう。「こんにち哲学研究を職業として選択する者は、かつてさまざまな哲学的企ての出発点に位置していた幻想、すなわち、思考の力によって現実の総体を把握することができるという幻想を、放棄しなければなりません。現実の秩序と形態があらゆる理性の要求を打ち砕いているのですから、正当化をこととする理性がそのような現実のなかで自分自身を再発見することなど不可能でしょう。認識する者に対して理性がまったき現実として自らを提示するとすれば、それはひとえに論争的な仕方においてのみであって、自分がいつかは正しく公正な現実にゆきつくだろうという希望を、理性は痕跡と破片の姿でのみ認めることができるのです」(2頁)。

 少し大げさな言い方に聞こえるかもしれないが、引用した文章から私たちは、あらゆるアドルノのテクストを通して執拗に鳴り続けている彼の思想の基調低音(ゲネラルバス)ともいうべきものを聴き取ることが出来る。アドルノは大学の学位論文でフッサールの現象学を論じているが、この文章の背景にあるのも現象学の問題であるといってよい。というのも現象学はアドルノにとって最後の観念論ないしは形而上学だったからである。ここで観念論、形而上学という言葉は唯物論の対立項としての観念論を意味しているわけではない。それはむしろ伝統的な意味での哲学そのものを意味しているといってよいなぜならアドルノがいっているように哲学の問いはつねにその思考によって現実の総体、言い換えれば全体性を把握するという要求、つまり哲学的思考の根幹をなす理性によって存在の全体性を完全なかたちで捉えようとする要求に根ざしているからである。観念論、形而上学とはまさにこうした要求によって規定された哲学のあり方そのものに他ならないのだ。

 アドルノはそうした哲学の要求に対して敢然とその断念を要求する。もはやわれわれの哲学的思考の前には哲学をつかさどってきた理性とおあつらえ向きな形で対応するような全体性など存在しえないのだ。言い換えれば思考(理性)と現実(存在)の幸福な一致など今や不可能なのだ。アドルノはそう主張する。そしてアドルノが対案として提示するのは、もし哲学的思考にとって「正しく公正な現実にゆきつく」ことが可能であるとすれば、それは「理性は痕跡と破片の姿でのみ認める」という形でしかないという考え方である。
 「痕跡や破片」という言い方に後年のアドルノにおける「非同一的なもの」の契機の現われを看て取ることはある意味容易い。とはいえ問題はこの時点でアドルノがなぜ、またどのようにこうした思考へと至りついたかという点にある。恐らくその背景にあるのは、一つは先輩であるベンヤミンからの影響である。「痕跡や破片」という言い方には明らかにベンヤミンの『ドイツ悲劇の根源』の「認識批判的序論」における言葉づかいが影を落としている。初期アドルノの思考圏はベンヤミンのいわゆる「アレゴリー」的思考の圏域に属しているといってもよいだろう。そのベンヤミンの思考圏が第一次大戦後の「ヨーロッパ文明の没落・終焉」ともいうべき時代状況と深く関連していることを思い返すならば、初期アドルノの思考圏もまたこうした時代状況との関連の中で形成されていったと考えてよいだろう。

 このときそれとの関わりでもう一つの問題が浮上する。それは、この時代状況をやはり引き受けながらベンヤミンやアドルノとはまったく対蹠的な方向へと向かった一人の思想家との対決という問題である。その思想家が現象学から存在論へと向かったハイデガーであることはいうまでもない。このハイデガーとの対決というモティーフは「哲学のアクチュアリティ」においてもつねに明滅しているが、より明確な形で展開されているのが「自然史の理念」においてである。
ここでアドルノは「自然」と「歴史」という二つの概念を結合して「自然史」という「理念」を作り出す。このときアドルノの念頭にあったのは恐らくこの「自然史」という言葉をすでに用いている二人の先行者、すなわちマルクスとニーチェであったに違いない。そしてこの二人の先行者が、この言葉を通して理性による全体性の要求を観念論という究極的な認識の倒錯形態として厳しく斥けようとしたこともまた思い浮かべていたに違いない。つまり「自然史」という「理念」は、自然(=存在)を全体性という名の倒錯的な物象性にではなく、個別性だけがあたかも「痕跡や破片」のように配置されている歴史に向かって解き放つことを表す理念なのである。それは存在と存在者の区別から出発しながら最終的には存在をふたたび神秘的な全体性へと回収し、あまつさえその全体性をナチス的な国家=民族共同体の全体性へとすりかえっていったハイデガーに対するラディカルなアンチテーゼとしての意味を持つ。

 と同時に私たちが見ておかねばならないのは、アドルノがこうした非同一的なものへの志向を通して歴史の「アレゴリー」的配置へと入ってゆこうとすることが、たんに認識論的モティーフからのみ行われているだけではなく、哲学と並んでアドルノの思考の重要なもう一つの柱である音楽によって象徴される芸術(=美)の問題と深く結びついていることである。それは自然という概念を「神話」として捉え返そうとする志向にはっきりと現れている。この場合芸術(=美)の問題は具体的には「仮象」の問題となるのだが、それを「神話」の文脈に置き換えると、神話的思考に底する存在と理性の根源的な和解・宥和への志向の問題になる。それは後のアドルノの用語を使うならば「ミメーシス」の問題である。それが後年アドルノの遺著となる『美学理論』の中心課題の一つとなるのは周知の通りである。こうした点からも両講演がアドルノの思想的軌跡を考える上で極めて重要な意味を持つことは明らかであろう。

 「哲学者の言語についてのテーゼ」と「音楽アフォリズム」に触れるスペースが少なくなってしまったが、前者に関していえば「哲学のアクチュアリティ」でも言及されているアドルノの「エッセイ」への志向の問題が重要となろう。形式と内容が、理念と事象が、つまりは自然と歴史がつねに「痕跡や破片」という非同一的な境位のなかで交錯する地点において思考することが「エッセイ」的思考の神髄であるとするならば、アドルノの思考はつねに「エッセイ」への志向に貫かれていたといってよいだろう。また後者に関しては、個々の作品や楽節の微細な要素から思いがけない洞察を引き出すアドルノの後年の音楽社会学におけるミクロロギーの手法が早くも現れていることに注目すべきである。リゴリスティックな認識批判者としてのアドルノと繊細なエステートとしてのアドルノの二重性がここにも現れている。(2011.12)

和辻哲郎 ―― 文人哲学者の軌跡 : 熊野純彦








熊野純彦 著(岩波新書)



今や日本の哲学界を代表する存在になりつつある熊野純彦が和辻哲郎に関する新著を公刊した(新書判・241頁・780円・岩波書店)。まず、これまでレヴィナス、ヘーゲル、カント、メルロー=ポンティなどの西欧の哲学者についての著作を主として執筆してきた熊野が、和辻という近代日本を代表する哲学者を取り上げたことに興味をそそられる。とはいえ現在東京大学の倫理学の正教授である熊野は文字通り和辻の後継者というべき立場にあること、そしてしばらく前から熊野が日本哲学・思想に並々ならない関心を払ってきたこと(菅野覚明との共同編集による『再発見 日本の哲学』シリーズ 講談社など)を考えあわせれば、本書はまさしく出るべくして出た著作というべきなのかもしれない。
 
 私自身にとっては和辻は何よりも『古寺巡礼』の作者であった。中学生から高校生にかけて奈良・大和の仏像にひどく惹かれ、毎年の如くかの地を訪れては寺めぐりをしていた時期があった。当然古寺巡礼にまつわる本もずいぶん読んだ。それらの中でも亀井勝一郎『大和古寺風物詩』、会津八一『鹿鳴集』、堀辰雄『大和路・信濃路』などと並んで、和辻の『古寺巡礼』はもっとも繰り返し読んだものの一つだった。とはいえ正直いってこの本にはある距離感を感じていた。熊野は本書のあとがきで、熊野の北大時代の講座主任だった宇都宮芳明のことに触れているが、それによればやはり奈良の仏像が好きだった宇都宮は和辻の『古寺巡礼』を嫌っていたそうである。私はそのくだりを読み「なるほど」と思った。私が和辻に感じた距離感は、例えば信仰の問題を土台に据えながら一挙に対象へと没入してゆく亀井のような仏像への接し方とはおよそ対照的な和辻の「鑑賞」的態度に直接的には根ざしていた。そしてそれは、刊行されるやただちに大正教養主義のひとつのモードとなったこの本の受容のされ方への違和感にもつながっていた。ただこの本の受容のされ方には、『古寺巡礼』も含めた和辻の著作の独特な雰囲気が作用している気がする。それは、本書の副題を踏まえていえば和辻の「文人」性である。もう少し具体的に言えば、哲学者にしておくのがもったいないほどに鋭敏な感性、とくに形の持つ感覚的な具象性に対する感応能力やそこから超越的な思考へと橋渡ししてゆく想像力ののびやかな働きなどの要素が、和辻の著作に否応なく文人的性格・雰囲気を与えているということである。ただそれが同時に和辻の「臭み」ともなって和辻への距離感・違和感につながって面もあるように思える。

 だが今回、熊野の新著を読むのと平行して久しぶりに『古寺巡礼』を読み返し、昔気がつかなかったこの著作の魅力、というか、これはまさに熊野の新著からの触発によるというべきなのだが、和辻の思想を底流する基本的なモティーフにつながる要素に気づくことが出来た。そして重要なのは、それが和辻の哲学全体、とくに和辻の主著というべき『倫理学』の主題にまでつながっていることである。それは本書のキーワードというべき「間柄」(あいだ)という言葉が示唆している問題である。

                   
 今回『古寺巡礼』を読み返しながら感じたこの著作に内在するある種の矛盾、亀裂から出発してみたいと思う。というのも、この矛盾、亀裂の先に和辻の思想のもっとも根本的なモティーフが見えてくるのではないかと思うからだ。
『古寺巡礼』には、一方において強いギリシア志向が存在する。例えばこの本の冒頭に、アジャンターの壁画のことが取り上げられている。また天平の伎楽面の印象から始まって、インド、ペルシャ、ギリシアへとその起源を次々に遡ってゆく奔放な考察の行われている箇所もある。そこでは和辻は明らかに西欧文明の起源としてのギリシア文明・芸術の賛美者という立場に立っている。逆に言えば、日本の仏像の美がそうしたギリシアという規範・尺度をもとにして測られているのである。このあたりがかつてこの本の感じた距離感の淵源といってよいだろう。だがその一方、熊野も引用しているこの本の末尾を飾る有名な中宮寺弥勒菩薩像――熊野も触れているように、この像を観音としたのは和辻の誤りである――をめぐる叙述には、この像を「日本的なるもの」の精髄として礼賛しようとする和辻の姿勢が表現されている。この一見すると矛盾するふたつの姿勢、態度には、だが単純に矛盾だと片付けるわけにはゆかない問題がはらまれている。というのもそこからは、和辻の思想の根本的な問題ともいうべき「他(異)への志向」と「自(同)への志向」の二重性が見えてくるからである。やや結論先取的にいえば「間柄」という言葉が指し示しているのはこの「他(異)-自(同)」の二重性を通して織りなされる関係性のあり方に他ならない。そしてこの二重性をはらんだ関係性のあり方を、例えば感覚性と思弁性の関係としてみるならば先ほど述べた和辻の「文人」性につながるだろうし、より包括的な歴史性・社会性の次元でみるならば、ある面でマルクスとの親近性をも含んだ和辻の主著『倫理学』(および『人間の学としての倫理学』)の主題の問題につながるであろう。さらにいえば、アジア・太平洋戦争期における和辻の日本国家や日本精神の捉え方に潜む極めて微妙なスタンスの問題もここから来ているといえるかもしれない。熊野の新著はまさにこうした和辻の思想的な核心を鮮明にあぶり出してゆく。
                    

 「他(異)-自(同)」の二重性をうちにはらむ「間柄」としての関係性には、極めて微妙な和辻の思想的スタンスが賭けられているように思える。おもえば哲学者としての和辻のデビュー作が『ニイチェ研究』であり、それに続く著作が『ゼエレン・キェルケゴオル』であったことはまことに象徴的であったといわねばならない。なぜならこのふたりは、ヘーゲル的な同一性の論理にまっこうから異=他性の契機をつきつけた思想家だったからである。しかしニーチェとキルケゴールから出発しながらも、和辻は単純に異=他的な非同一性の側へと突き進むことはなかった。和辻には時間・空間の両面にわたって共同性と連続性へと回帰してゆく志向もまた存在していたからである。それを証明しているのが『日本古代文化』から始まる日本精神史・文化史研究の系譜であり、さらには『風土』である。しかも熊野は本書でそうした和辻の中に潜む対蹠的な契機が決して別々に生じたのではなく、ほぼ同時に芽生えていることを証立てている(83頁参照)。そしてそれらをいわば総合する著作として『倫理学』が書かれていることも熊野の論述を追ってゆく中で納得させられる。そのひとつの焦点となるのが、カントの考察を通して提起される自己の空=無としての認識である。「カントの語る「本来的自己」「本体人」とはむしろ「一切の現実性の主体的な根源としての「空」」にほかならない(…)。――存在は、存在者ではない。存在は、存在者としてはである。本来的な自己と呼ばれるものも、対象的には無なのであった。それは、みずからを否定する否定性、なのではないだろうか」(106頁)。こうした認識がさらに和辻倫理学の根本的な発想にもつながってゆく。「人間存在の「個と全の二重構造は、全の否定によって個が成立し、個の否定によって全が全に還帰するという、二重の否定運動」を介して開示される。その否定運動は、しかも、和辻が「空」と名づける「絶対的否定性」、「本来的な絶対的全体性」が自己を実現する運動である」(127頁)。この「空」としての「否定性」がポジティヴに定立される同一性の否定を、したがって非同一的なものの契機の発出を意味することはいうまでもないだろう。だが和辻がそれを「絶対的全体性」と言い換えるとき、そこには別種の問題が同時に生起するのである。それは、否定性が非決定性の契機をはらむ異=他性のあり様を消去することによって、結果的に全体性という名のもうひとつの同一性の枠組みを定立してしまうという問題である。このことは直接的には和辻の中にある共同性・連続性への志向の意味の問題へとつながってゆく。例えば「清明心」に日本古代文化の真髄を見ようとした和辻は、戦争後の憲法改正過程で起こった天皇制をめぐる議論においてその「清明心」を象徴天皇制擁護の論拠としたのだった。象徴天皇制は明らかに和辻のいう「絶対的全体性」の証明であった。その「絶対的全体性」の根拠が「清明心」として現れる絶対的な肯定性なのだが、この肯定性は位相において否定性の完全な逆転写と考えてよいだろう。「何もない=空」であることが「すべてが肯定される」ことの根拠となるのである(85頁参照)。

 こうした和辻の姿勢をどう考えたらよいのだろうか。熊野は和辻のいう日本精神が異質なものに向かって開かれた、いかなる意味でもファナティックな日本主義イデオロギーとは無縁なものであったことを指摘する(84頁、151~2頁参照)。たしかにこの点を踏まえれば、和辻に日本主義イデオロギーとの共犯関係という疑惑を投げかけることは難しいといえるだろう。だが空=無を根拠として成立する絶対的全体性へと天皇制の性格を読み換えることを通して、天皇制超国家主義イデオロギーに彩られた戦争遂行国家体制へと一定のコミットメントを行ったこと、さらには象徴天皇制論による天皇制の存続(連続性の担保)を図ったことの責任まで免除出来るのだろうか。実際和辻の象徴天皇制論はもっともソフィストケートされた戦争責任否定論としての側面を持っているのである。
                    
どうも私自身の中にある和辻へのアンビヴァレントな感情が本書を通して全面的に触発されてしまったようだ。熊野は本書でじつにていねいかつ犀利に和辻のテクストを解きほぐしながら、和辻の思想的アンビヴァレンツを浮上させている。そして私自身がそうであるように、ときに抒情的に過ぎるほど和辻の「文人」的魅力への共感も語っている。だからこそなのだが、本書を読み終えたときにもなお和辻に対する理解をめぐって残る澱のようなものが気にかかるのである。その澱は、おそらくは橋川文三が日本にける真正保守主義の典型とみなした柳田國男の理解の問題などにもつながってゆくであろう。
ところで最後に一つだけ指摘しておきたいことがある。熊野の描き出す和辻像はその問題機制においてある別な哲学者のイメージと著しく重なり合っている気がするのだ。その哲学者とは熊野の――じつは私自身の、でもあるのだが――旧師である廣松渉に他ならない。熊野は本書であるいは間接的に廣松のことをも論じようとしたのだろうか。(2009.10)

『<死の欲動>を読む』 : 小林敏明








小林敏明 著(せりか書房)




評者 : 宇波 彰(明治学院大学名誉教授)


ジャック・ラカンは1964年に行なった『セミネールXI 精神分析の四基本概念 』において、精神分析の四つの基本概念が「無意識・反復・転移・欲動」であると述べた。精神分析の概念としての「欲動」の重要性がラカンによって認識されていたと見なければならない。フロイトの孫の「いないいないばあ遊び」(Fort-Da)も論じられている「快原則の彼岸」(1920)においては、「生の欲動」とともに「死の欲動」(Todestrieb)の概念が示されている。本書は、その「死の欲動」の概念についての綿密な考察である。

 著者はまずこの「死の欲動」の場である「無意識」の前史についてシェリング、ショーペンハアー、ニーチェなどに遡って検討する。次にフロイト自身の思想形成の過程で、「無意識」という考え方がどのように展開していったかを明らかにする。この二つの「前史」には、われわれの知らない思想家・科学者も登場するが、著者はわれわれにはなじみの薄いものもある彼らの著作にもいちいちあたって、どういう考えがフロイトの思想の背景にあるのかを子細に解明していく。そして、フロイトの思想がいかに「自我/意識中心主義」というパラダイムの転換であったかを論証する。これはフロイトの考えを「思想史的に」捉え直そうとする試みと理解できる。「不断に練りなおされるフロイトの基本構想において<死の欲動>を想定することが、いかに大きな転換を強いることになったか」(p.141)が著者にとっての問題である。この「転換」もしくは「転回」こそ、フロイト論の重要なテーマの一つであるというべきであろう。

 「快原則の彼岸」において、「死の欲動」を中心に位置させ、そこにフロイトの思想の一種の「転回」を見ようとするのは著者だけのものではない。「快原則の彼岸」も収められているフロイトの論文集"Das Ich und das Es"の解説で、マックス・ホルダー(Max Holder)は「快原則の彼岸」においては、それまでの快原則と現実原則という対立関係に代わって、生の欲動と死の欲動という新たな対立関係が考えられたと指摘している(S.21)。また、邦訳のあるクセジュ文庫『フェティシズム』の著者ポール=ローラン・アスンの『精神分析文献事典』の「快原則の彼岸」の項を見ると、死の欲動という問題設定が「重要な革新性」(innovation majeure)を持つものであると指摘されている(p.225)。すでにアスンは『精神分析』(1990)においても、フロイト思想の「1920年の転回」(le tournant de 1920)について論じているが、それは「死の欲動」の概念が提示されたことである。

 また、三原弟平は、『ベンヤミンと精神分析』において、フロイト自身が「死の欲動」の概念が「いまだ確立していないことを認めていた」と指摘し、次のように述べている。「いや、確立どころか、この著作(「快原則の彼岸」)は、<死の欲動>という素材をはじめて思考の俎上の提出しただけの、まったくの準備段階、助走段階のものにすぎない」としている(p.58)。「死の欲動」は、「はじめて思考の俎上」に乗った新たな概念として位置づけされているのであり、これはアスンの考えに通ずるものである。なお、三原弟平の『ベンヤミンと精神分析』によると、ベンヤミンは「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」において、「快原則の彼岸」に言及しているが、「死の欲動」には触れていない(p.26)。著者は現代生物学の成果をも検討し、「フロイトの生の欲動と死の欲動との二元論仮説」が「かならずしも時代遅れの妄想などではない」と説く。

 著者が強調するのは、「欲動を核とする無意識」についてのフロイトの考えは、あくまでも仮説であり、Spekulationであるという見方である。アスンもSpekulationという用語を特に重視し、「以下はSpekulationである」というフロイトのことばを引用している(p.225)。ポール・リクールのフロイト解釈は、ラカンの解釈と徹底的に対立しているといわれているが、そのリクールも『フロイトを読む』において次のように述べている。「『快楽原則の彼岸』はフロイトの著作のなかで最も解釈学的でなく、思弁的である。つまりその著作では、極限にまでおしすすめられた仮説や、発見のための理論的構成などが占める部分が極度に大きいのである。」(p.308)(ここで「思弁的」と訳されているもとのフランス語は、speculatifであり、「思弁的」という訳語ではカバーしきれないものがあることはいうまでもない。)このSpekulationにも関係することであるが、評者にとって最も印象に残るのは、著者がフロイトの論文のなかから「勇気」(Mut)ということばを見いだしてくるところである。「死の欲動」を支えるものは「反復強迫」であるが、フロイトにとってはこの概念はあくまでも「仮説」である。著者もまた「フロイトの死の欲動という仮説概念はみかけほど強い実証的根拠の支えられちるわけではない」と断言する。フロイトは「実証的根拠」を欠いたその仮説を主張する「勇気」(Mut)が必要だと説いた。フロイトは次のように書いている(小林敏明の訳による)。「われわれは次のような仮説を立てる勇気を見いだすことだろう。すなわちそれは、心的な生のなかには快原理を超え出るような反復強迫が本当にあるという仮説である。」(p.106) 仮説もしくは概念を示すときに「勇気」が必要だという考えがここに明白に示されている。仮説とは、当然と見なされていたことを否定したり、いままではなかったような新しい考え方んことであるが、それを真なるものとして提示するためには「勇気」が必要だというのである。フロイトのテクストにある「勇気」ということばを見いだしてきたのは、著者の卓見である。

 この論点に関連して想起されるのは、ジャック・ラカンが『精神分析の四基本概念』で次のように述べていることである。「実際概念は、それが把握すべき現実への接近によって形作られるとしても、概念が実現化を達成するのは、極限におけるある飛躍、ある乗り越えによってでしかありません。」(邦訳p.24)ラカンがいう「飛躍・乗り越え」(saut,passage)は、勇気がなければ行われない。これはラカンがこのセミネールで語った「学者(フロイト)のよく知られたこの勇気」(邦訳p.43,Seuilp.35)のことであろう。真理の確実性、あるいは「確信」を支えるものは、この「勇気」にほかならない。
 著者は「フロイトを徹底的に読み直す」(p.217)を目標としたと書いている。それはけっして容易なことはない。たとえば著者はフロイトの「自我とエス」で示されている「死の欲動」についての説明が「すべて接続法第二式」で書かれていて、それによって「述べられている内容のすべてが仮定であることが明示されている」(p.191)と説いている。このように、本書は「死の欲動」に関してなされた綿密な解読の報告である。その難しい作業の報告が、きわめてわかりやすい文章で記されていることに評者は感銘を覚えた。

引用文献

小林敏明『<死の欲動>を読む』,せりか書房、20126月刊

S.Freud,Einleitung von Max Holder,Das Ich und das Es,Fischer Taschenbuch Verlag,1992
ジャック・ラカン、小出浩之他訳『精神分析の四基本概念』、岩波書店、2001
J.Lacan,Quatre concepts fondamentaux de la psychanalyse,Seuil.1973
Paul=Laurent Assoun,Dictionnaire des ouvres psychanalytiques ,PUF,2009
Paul=Laurent Assoun,Freudisme,PUF,1990
三原弟平『ベンヤミンと精神分析』水声社、2009
ポール・リクール、久米博訳『フロイトを読む』新曜社、1982

再発見 日本の哲学 折口信夫 ―― いきどほる心:木村純二









木村俊二著講談社)




最近折口信夫への関心がふたたび高まっているように思われる。少し前になるが、若き日の折口の性愛関係を掘り起こすとともに、「恋人」藤無染の影響による折口の英語文献への関わりを明らかにすることによって従来の一国主義的な折口観に大きな転機をもたらした富岡多恵子の『釈迢空ノート』(岩波書店)、そしてその成果を受ける形で折口学とアジアとの関わりを論じ、さらに包括的な折口観の転換を推し進めた安藤礼二の画期的な折口論『初稿 死者の書』(国書刊行会)、『神々の闘争』(講談社)の刊行がそうした動きをもたらすきっかけになったのではないかと思う。辰巳正明の大著『折口信夫 東アジア文化と日本学の成立』(笠間書院)もまたそうした系統に連なる新しい折口研究として注目される。さらに近刊の中沢新一『古代から来た未来人折口信夫』(ちくまプリマー新書)は、青少年向けの新書という枠組みのなかではあるが、折口の思想・学問が持つ根源性、真の意味での「新しさ(未来性)」を鮮烈に描ききっており、これまた注目すべき折口研究の成果というべきであろう。なお未読だが上野誠『魂の古代学 問いつづける折口信夫』(新潮選書)も刊行されたばかりである。

 こうした折口への関心の再度の高まりの背景にあるのは、常民文化の空間的アイデンティティと祖先崇拝の時間的アイデンティティによって支えられている柳田民俗学の同心円的な同一性の構造に対し、折口の思想・学問がある根源的な逸脱・非同一性を含んでいるという認識であろう。そうした逸脱、言い換えれば折口学の持つ、柳田民俗学に対する根本的な異端性が、例えばポストコロニアル批評のもたらした文化内部の非同一的な非連続性や亀裂の認識を折口学の内在的な読み換え可能性につなげてゆこうとする問題意識や、従来ややもすれば柳田の方法の持つ「科学性」に対し低く見られてきた折口の実感・直観志向を、むしろ積極的に折口学の持つ近代科学主義を超えるアクチュアリティの契機として見直してゆこうとする志向へとつながっていると考えることが出来る。ようするに柳田民俗学へと連なる国学や日本学の系譜が暗黙のうちに前提としている「日本」の一国的なアイデンティティを根源的に脅かしかねないラディカルな非同一性の契機(異端性)を折口学が孕んでいることに、ようやく多くの人が気づき始めたということではないだろうか〔詳論は差し控えるが、私見ではこうした折口の読み直しの先駆となったのが吉本隆明の『共同幻想論』であり、さらには「アジア的なもの」をめぐる議論や『母型論』を中心とする起源論である。『現代思想』臨時増刊号「吉本隆明」のなかの拙論参照〕。

 そうした中、若き日本思想史の研究者である木村俊二の新しい折口論が刊行された(B6判・278頁・1400円・講談社)。本書は、昨年から刊行が始まった「再発見 日本の哲学」シリーズ(菅野覚明+熊野純彦責任編集)の一冊である。本シリーズは、これまで上記のような一国性を核として形成されてきた「日本」イデオロギーに肯定・否定の立場を問わず制約されることの多かった日本思想研究を根本的に転轍させようとする野心的な試みといってよいだろう。とくにそれぞれの思想家が内面において抱えていた精神のドラマを掘り起こしながら、思想の成立平面を公式的な図式を超えてヴィヴィットに描こうとする姿勢が特徴的である。

 本書においても著者の木村はそうした折口の精神のドラマに内在しながら折口学の思想的契機を抽出しようとする。では木村によって捉えられた折口の精神のドラマの核心、言い換えれば折口の思想の起源の場・風景とはどのようなものだったのか。
 冒頭の序章で木村は、折口の処女歌集『海やまのあひだ』から「いきどほる心すべなし。手にすゑて、蟹のはさみを もぎはなちたり」という歌を引いて、折口の精神の核にあるものを「いきどほる心」という形で取り出す。それは折口の心の奥底にたゆたっている「憤り」の情念に他ならない。この「噴り」は、折口学の公的な論理の側面においては、本居宣長が掲げた自らの国学の根本姿勢である、「あはれ」という心の動きに忠実であること、言い換えれば悲哀を特権的な中心とする人間の感情の動きに素直に従うという姿勢と会い通じるものを含んでいる。折口の学問における実感や直観の重視の根源にあるものはこの「いきどほる心」であるといってよいだろう。同時にそれは、理性の手前にある感情こそが彼の学問の出発点であることを指し示している。

 だが木村はこの「いきどほる心」の基底をなすものを、単純に折口の学問世界の問題に解消しようとはしない。序章でまず一個の概念的構図として提起され、第四章「罪、恋、そして死」で実証面も含め詳論されている折口の個としてのドラマに、この「いきどほる心」は深く関係づけられているのである。
 木村も引いている岡野弘彦の優れた評伝『折口信夫の晩年』の中にあるように、教え子との関係、あるいは交友関係において、折口はしばしば激しく怒りを爆発させている。その怒りは相手を徹底的に追い詰め相手の精神を粉々に打ち砕いてしまうまでやむことがない。ではこうした折口の怒りの根源にある物は何なのだろうか。木村は次のようにいう。「憤る折口の姿が見る者に感動を与えるのは、その憤りが心の奥深くからまっすぐに発せられているからであり、そしてみずからの置かれた状況も顧みず、瞬時に怒りを発することができるのは、折口が、常に高い緊張度で、周囲のひとびとに「まこと」をもって臨もうとしているからであろう。あるいは、その怒りが、深い孤独に裏打ちされているからだと言ってもよい」(16頁)。

 折口の「憤り」の核にある「まこと」と「孤独」は、いわば個としての折口の内面と折口学の公性をつなぎ蝶つがいのごときものである。言い換えれば、折口の「自我」に刻まれている深い傷――その傷が孤独をもたらす――から発するとともに、その傷ついた自我を回復させ「まこと」をもたらす力ともなるのが、この「憤り」に他ならないのである。というのも折口の「憤り」は、「何の為に生まれたのか」「わが命のもとは何か」という生の根源への問いと結びついた深く個的なものであると同時に、個的なものを超えて深く折口学の基底をなす「日本」なるものの起源・根源の認識に関わっているからである。
                   
 第一章「国学者折口信夫」において、木村は折口の目指したものが「国学」であったことを踏まえた上でその国学が、江戸期から明治近代へと受け継がれていった正統派の国学の伝統とは根本的に異質なものであることを明らかにする。もう少し具体的にいえば折口の国学は、国学の伝統を通して生み出された明治以降の近代国民国家形成のプロセスと対応する国家神道のあり方、とりわけその「道徳化」のプロセスと大きく隔たっているということである。いな、隔たっているというよりも、闘うべき相手としてそれはあったというべきである。

明治近代国家はそのネイションとしての実体を、天皇を同心円的中心とする家族=民族共同体のイデオロギー的擬制によって代補しようとしたが、その際に重要なのは、天皇制が近代現象をも含めながら無限抱擁的にすべてを自己のうちへと包摂しうる構造を持っていたことである。そのことをイデオロギー的に根拠づけようとしたのが国家神道に他ならない。そしてそこでイデオロギーの核心をなしているのがある種の道徳的因果律に他ならない。この道徳的因果律は、平田篤胤によれば、「記紀の冒頭に現れるタカミムスビ・カミムスビの二柱の神は、男女の対の神であり(……)、イザナギ・イザナミが国土を生むことができたのも、男女のムスビの神の「御徳(ミイツ)」を賜ったからである(……)。それゆえに、イザナギ・イザナミによって生み成されたものは、天地人物を始め、国・山・草木に至るまで、「男女の真理」「自然に具はる」のだという(……)。その帰結が、右に見たような、「妻子を恵みて、子孫を多く生殖」することこそ「我が皇神の道」である、という神道論」(40~41頁)の形で具体化される。そこからは、折口の国学との関連で二つの問題が浮かび上がる。一つは、男女の性愛関係が「生殖」(産出)と結び付けられていること、より端的にいえば「生むこと=善」という倫理的・道徳的目的因の設定から逆に性愛関係が規定され、その結果「生むために・生むがゆえにまぐわう」という因果関係が成立することである。性愛はこうして産出の倫理に従属することになる。さてもう一点は、生むことが親と子の系譜を軸とする祖先崇拝の構造を同時に作り出すということである。タカミムスビ・カミムスビから始まる皇統譜は、いわば「日本」をすっぽりと祖先崇拝の倫理・道徳の中へと包摂するための媒体となるのである。

木村によれば、折口はこうした神道道徳論に激しく抗ったのであった。その根拠となったのは、一つには、起源としての神が善のみをもたらす肯定的な性格だけでなく、まさに「憤る神」として、一挙に天地も人物をも破壊し去る「邪悪な」、否定的性格をも持っていることであった。そして折口は神も持つこのような善悪を超えて「憤る」破壊的側面をこそ神の本質として見なければならないとしたのである(第二章参照)。そしてこのことは、本書の重要なテーマである折口の神道宗教論の核心と関わってくる。つまり神を道徳的因果関係の内部での善として位置づけることに宗教としての神道は根ざしてはならない、という折口の独特な認識につながってゆくのである。このことは、第二の、そして本書の最大の主題といってよいスサノオの問題をさらに導いてゆく。スサノオは高天原というパンテオンから追放された神である。そこにはスサノオの「罪」(天つ罪)の問題がからんでいることは周知の通りである。だが木村は周到な読解を通じて、折口が「スサノオは罪ゆえに追放された」という因果律を否定していることを明らかにする。そして折口が、スサノオの罪を、いわば天皇族によって征服された民であるこの国土に土着してきた民衆の「罪」――この「罪」は基本的には征服されたことの同義反復であり、強いていうならばその聖痕(スティグマ)に他ならない――と、非因果的に結びつけようとしたことも。

 私見ではこのことは、起源としての共同幻想がその彼岸に宗教・法・国家として制度=権力化される第二の共同幻想を生み出す転轍点としての意味を持つ(吉本『共同幻想論』「罪障論」参照)。本来因果性の存在しないところに罪を起点とする因果性を設定することが、天皇=国家の起源であるとすれば、折口の思想には極めてラディカルな国家否定の契機がはらまれていることになる。このことに木村が激しく迫ろうとしたことこそが本書の最大の眼目といえよう。と同時に、その背景にはスサノオの罪(哀しみ)を自らの哀しみとして受け止めようとする折口の内面のドラマが存在することを明らかにしようとしたことも。さらにいえば、このことと折口の、生殖から切り離された純粋な性愛(恋)という認識が深く関わっていることを木村は明らかにしているのだが、もはや紙数が尽きた。ともあれ力作である。(2008.9)

シリーズ道徳の系譜 死の哲学 : 江川隆男











江川隆男著(河出書房新社)



最近のテレヴィを見ていて異様に思うことがある。生命保険のCMがやたらに多いことである。それだけ生命保険への需要が大きいということだろうし、その背後にはおそらく「死」をめぐって人々のあいだに根深い不安が存在するのだろうが、それにしても死といういかなる時代、地域にも遍在する現象に対しなぜかくも不安が深まり、かつそれが生命保険への需要というかたちで現れてくるのか。

 もしかすると今人々は死への欲望にとりつかれているのだろうか。あるいはむしろ逆に保険CMによって、死への欲望、より正確にいえば生命保険という一個の社会装置を通じて造型された特定の死のかたち(様式)への欲望を激しくかきたてられているというべきなのだろうか。もしそうだとすれば、そこには死をめぐる認識論的な課題が浮上していると考えることが出来る。なぜならこの欲望は死を認識論的に可視化したいという欲望を同時にはらんでいるからである。
 生命保険は死を貨幣と交換するシステムである。本来死は交換不能なものである。だがその交換不能な死を貨幣の交換可能性にゆだねることによって生命保険というシステムは成立している。なぜそんなことが可能なのだろうか。たぶんそこに今人々が抱いている不安の核にあるものの秘密、そしてその秘密が喚起する欲望の意味を解く鍵があるのだ。
                   
 『情況』誌等で近年意欲的なドゥルーズ論を発表している江川隆男が新著を公刊した(B6判・166頁・1500円・河出書房新社)。その中に次のような一節がある。「恐怖は、われわれの身体のすべての変様を受動性の相のもとに固定するとさえいえる。スピノザによれば、他のものへの関心をすべて奪うかたちで、われわれの視線を釘付けにするようなものが存在するが、それはいかなる物の部分でもないという意味で「特異な或るもの」である。そして、こうした或るものについての中立的表象が「驚き」であり、これは、その或るものから視線を逸らすことができず、精神がこの表象に縛られたままの状態を表示している。しかし、こうした驚きはそれだけでは単なる知覚であるが、この特異な或るものが人間の復讐心や怒りなどをともなって表象されるとき、驚きはまさに「恐怖」の感情になるのである」(82頁)。

 生命保険という社会装置、そしてそれが造型する死のかたちに文字通り人々の「視線」が「釘付けに」なっているとすれば、そこには「受動性の相のもとに固定」された「恐怖」の感情が存在しているということが出来る。ではその「恐怖」とは何なのか。
 生命保険は、すでに述べたように死という本来交換不能なものが貨幣という交換可能性に置き換えられるシステムを意味する。このとき貨幣の交換可能性は、それが「等価形態」という尺度をもとに表象される量的に多様な「相対的価値形態」(マルクス)のあいだの比較・比例関係であることによって根拠づけられている。人々が生のなかであくせく求めている「豊かさ」や、その相対的な欠如態としての「貧しさ」は、すべてこの比較・比例関係としての貨幣の交換可能性に本質的には由来している。とするならば、「恐怖」とはこの交換可能性としての貨幣のもとに自分たちの生がまさしく「受動性の相のもとに固定」されていることの根源的な現われということが出来るのではないか。もう少し突っ込んで言えば、死が交換不能な絶対性・特異性として現出することへのこの「受動性の相のもとに固定」されてある貨幣的な生の側からの反応のあり方の、感情次元における表れが「恐怖」に他ならないのではないか。それにしてもなぜ交換可能性であり、比較・比例関係なのか。それは、この比較・比例関係のみが――マルクスが『経済学批判要綱』で明らかにしたように――死の交換不能性(表象不能性)を転移させ、ある種の不死性を――ふたたびマルクスに即せば「対象性(表象知)」を――出現させてくれるからである。これによってひとまず死は相対的な比較・比例関係の無限の連鎖(置き換え関係)のなかでその絶対的な特異性、自体としての個別性を脱色され衛生無害なものになり変わるのである。生命保険という社会装置は恐らくその要に位置するシステムに他ならない。だがそうであるとして、そこに充満する死への欲望はどうなるのか。

ここで私たちは一つの恐るべき認識に到達しなければならない。不死性、つまり死ななくなるということは、まさに死の謳歌であり、その全き遍在に他ならないのだという認識に、である。というのも、相対的な比較・比例関係のうちで「受動性の相のもとに固定」されてある生とは、その固有な内実をたえず交換可能性を通じて別なものに置き換え失させていることによって自己保存を維持する「死ねなくなったゾンビ」のごときものでしかないからだ――マルクスが貨幣=資本に見ようとしたのはこの「ゾンビ」性に他ならない――。世界がゾンビの横溢する「墓場」になるとき、「死ねないこと」は死の謳歌と遍在を私たちに見せつけているのであり、死への欲望はこうした「ゾンビ」的欲望へと一体化するのである。生命保険に内在する死への欲望、そしてそれに対し表裏一体の関係にある「不安(恐怖)」の感情が指し示しているは、かかる事態であるといってよい。
                   
 江川の新著は、このような世界の「ゾンビ」性に根差す死への欲望に対し今私たちの思考が何を以って対抗しうるかを、スピノザ-ドゥルーズ=ガタリ-アルトーというラインに沿いながら明らかにしようとしたまことに野心的な試みといってよい。恐らくそれは、かつて私が本コーナーで書評を試みた荒川修作+マドリン・ギンズの『建築する身体』(春秋社)における「死なない建築・死なない身体」の問題とも共鳴しあいながら、今私たちが取り組まねばならないもっとも深く重い課題の所在を指し示している。

 先ほど引用した先のところで江川は次のように言っている。「<受動性-感情>には、驚きによって固定され、恐怖によって支配された一つの死の遠近法があると言える。死はこうした恐怖によって構成された生のなかに囲い込まれてしまう〔これが「ゾンビ」性ということである―評者〕。<差異-思考>、一般性のもっとも低い共通概念の形成が必要とされているのは、そうではなく、恐怖から至福へ(スピノザ)、あるいは恐怖から残酷へ(アルトー)という別な発生のためである」(823頁)。ここに本書における江川の根本的なモティーフが現れているといってよいだろう。死の謳歌、死の遍在としての世界の「ゾンビ」化、別な言い方をすれば、たえず続く他のものへの相対的な比較・比例関係を通した置き換え・失(交換可能性)によってのみ――それが、ある種の超越(論)的構え(=貨幣的なものの根源様態)を意味するのはいうまでもない――自己保存が図られるような生=死の「囲い込み」に対抗し、「恐怖」を「至福」ないしは「残酷」へともたらすこと、それは、本質としての精神のもとでいわば存在なき様態へと貶められ非在化されている身体の側から、いかなる相対性にも、伝統的な意味での心身二元論にも委ねられることのない「存在の一義性の平面」(28頁)を現出せしめよとする試みに他ならないのだが、それこそが本書で江川の目指しているものといってよいだろう。

 それを可能にする思考上の道筋を江川は、「欲望する並行論・心身論」(第二節参照)によって示そうとする。そしてその具体的な進行過程をなすのは「存在」のたえざる「変形」(17頁)である。この問題をめぐって展開される江川の言説は、正直言って極めて難解であり、まだ私自身十分に理解できているとはいえないのだが、例えば次のような記述からその核心の一端が窺える。「一つの現働的な闘争や闘いを、別の現在敵な暴力に向けたり、或る目的としての支配にぶつけたりするだけでなく、それらとまったく同時に潜在的な人間の諸条件に作用して、それらを触発・変形することである(闘争の二重化)。(……)この唯一の事例としての結晶化は、死の後に残るもののことであり、自己の外部的諸部分からなる存在が崩壊して失われた後も、つまり死後も、触発され変様し続けるその劇的な特異本質のことである。(……)<不死>とは、実は唯一この触発・変形の部分についてのみ言われるべきことなのである」(21頁)。

 ここで言われている「触発・変形」は、基本的にはスピノザの自己原因論に由来する。つまりいかなる外部原因も必要としないような本性=存在のあり方としての自己原因こそがこの「触発・変形」をもたらすのである。とはいえこの自己原因はけっして内部において完結する同一性の機制を意味するわけではない。それどころかそこに働いているのは「差異」なのだ。だからこそ自己原因は触発を喚起し変形をもたらすのである。そして同時にこれが、スピノザの「コナトゥス」概念の特異性の核心ともなっている。通常コナトゥスは「自己保存」と訳されるが、本書で江川はあえて「現働的本質」(53頁)という訳語をあてている。これによって、ホッブズ的な、譲渡=交換的論理としての、そして内部的な同一性形成論理でもある自己保存概念とは本質的に異なるスピノザのコナトゥス概念の核心が浮かび上がる(29頁参照)。それは、「否定なきあるいは欠如なき無能力」(28頁)としての死――この死はいうまでもなくもはや物理的な死ではありえず、むしろ死に対してその等価物として構成される経験的ななにものかである――が帯びている「<強度=0>」(53頁)の地点へと向かう「触発・変形」の運動であり、同時に外部と内部の区別が事実上無意味となるような身体と精神のあいだの力動的かつ隣接的な並行性を生み出す運動でもある。
                   
 本書は、ドゥルーズ=ガタリの仕事が語の真の意味で「唯物論的」であったという意味で、まさしく「唯物論的」な思考の試みである。本書から感じとれるのは、江川の、湿った情緒的な内部性に充足することへの激しい異和である。ノマド的なたえざる存在の変成の暴威に耐え得ない思考がどうして唯物論的――それは、これまた語の真の意味で「革命的」であるということだ――でありうるのか。江川は本書でそう私たちに問いかけているように思える。「存在のもとでの唯物論においては、精神を構成する観念は身体の一定の状態を表現するという程度のことである」(50頁 傍点評者)。(2006.2)

思考のフロンティア 暴力 :上野成利









上野成利 著(岩波書店)





暴力の問題は私たちの世界に遍在している。現に今も、イスラエル軍によるパレスティナ・ガザ地区およびレバノン南部への苛烈な軍事攻撃というかたちで噴出した暴力現象に世界の耳目が集中している。
こうした暴力の現前を前にしておそらく誰もが――「正義」の暴力の行使は正当化されるとはなから信じ込んでいるブッシュやオルメルトのような唾棄すべき暴力亡者は除く――、なぜ人類は愚かしくも不毛な暴力の行使を繰り返すのか、なぜ幼児ですら明白に愚行であり悪であると分かるような暴力の行使を人類は止められないのか、と自問するであろう。だがたいていの人間は苦々しい諦念によってその問いを封印するか、「和平」「相互信頼」「寛容」といった決まりきったお題目にすがって自分を納得させることによって――暴力の当事者にはそうした要素が欠けているのだというわけである――、本来その自問のうちに潜んでいるはずの問題の核心を取り逃がしてしまう。本当に問われなければならないのは、愚かしかろうが、苦々しかろうが「人類は暴力の行使を決して止めようとしない」ことの意味なのだ。つまり私たちの世界に遍在する暴力とは、ありふれた日常のなかの個々人のレヴェルにおける暴力から国家が行う戦争行為に至るまで、人間の意志や心理の矯正、コントロールによっては克服することが出来ない制御不能な「暗部」のようなものであり、しかもこの「暗部」は人間がこの世界に個的にか、社会的にか存在することの根底へとまっすぐつながっているということを凝視しなければならないのだ。

 こうした暴力の意味は、20世紀という時代において異常なほど増幅された。かつて高橋哲哉と対談したとき、彼から20世紀に何らか政治的暴力(戦争、革命、民族虐殺、粛清など)の犠牲になって亡くなった死者の数が1億7千万人に上ると教えてもらったことがある。この数はおそらくそれ以前の人類史全体が同じ理由で生み出した死者の数の総計を上回るであろう。わずか100年の時間の中でこれだけの死者が生み出されたのが20世紀という時代の持つ核心的な意味であるとすれば、20世紀は何よりも「暴力の過剰充溢の時代」として性格づけられる。その頂点にナチズムやスターリン主義に象徴される全体主義の暴力があったことはいうまでもない。そしてこのことは、20世紀を生きた人間にとって暴力が、それと無縁であることを絶対的に許されない、言い換えれば誰に対しても等しく降りかかってくる運命となったことを意味している。言うまでもないことだが20世紀は一方において、科学技術の発展に象徴されるように人類の合理精神が最高度に発揮された時代であり、人権概念の拡張や福祉政策の進展に見られるように人間というものの価値が飛躍的に高まった「ヒューマニズム」の時代でもある。そんな20世紀がなぜ「暴力の過剰充溢の時代」となったのか、なりえたのか。この問いに何らかのかたちで応え得ない限り、20世紀という時代が突きつけた問題である「暴力の過剰充溢」から私たちが真の意味で解放されることはありえないであろう。
                    
 一般に暴力についての議論は恐ろしいほどにレヴェルが低いのが常である。だが20世紀という時代において異常なまでに拡張された暴力の意味について根源的に考え抜こうとした思想家が何人かいた。例えば「暴力批判論」を書いたヴァルター・ベンヤミンであり、『全体主義の起源』や『暴力について』を著したハンナ・アーレントであり、『暴力と聖なるもの』の著者であるルネ・ジラールらである。わが国ならば『暴力のオントロギー』の著者今村仁司を挙げることが出来る。だがこれらの暴力の意味についての解明作業の内容とも結びつきながら、もっとも核心的なかたちで20世紀の暴力の過剰充溢に対して考察を行ったのは何といってもマックス・ホルクハイマーとテオドーア・W・アドルノの共著『啓蒙の弁証法』である。なぜならこの著作によって私たちは初めて、先ほど言及した20世紀という時代の持つ二つの対蹠的な性格、すなわち暴力の過剰充溢の核心としての全体主義暴力の現出と、合理精神やヒューマニズムの発展という二つの現象によって示表される性格をトータルに包み込む暴力認識の原理的視点を得ることが出来たからである。一言で言えばそれは「理性暴力」――「理性暴力」ではない――という視点である。合理精神やヒューマニズムを支える近代人間理性の働きが、一見するとそれと対立するかに見える全体主義の「野蛮な」暴力と無縁であるどころか、むしろその起源としての、下支えとしての意味を持っているということを、この「理性の暴力」という視点は示している。20世紀における異常なまでの暴力の充溢は、17世紀とともに始まる近代合理主義(啓蒙)の時代とその歴史性の必然的な帰結であるというのが――もっともホルクハイマーとアドルノはその初源を古代ギリシアのホメーロスの時代にまで遡らせるのだが――「理性の暴力」という視点に込められた本質的な認識に他ならない。

 さてその『啓蒙の弁証法』の共著者の一人であるホルクハイマーの研究を出発点に、『ファシズムの想像力』(共著 人文書院)収録の論文、あるいはナチスによるユダヤ人虐殺という事実を「証言可能性」の観点から歴史の復元=表象の可能性(不可能性)のリミットにおいて問おうとした映画『ショアー』についてのショシャーナ・フェルマンの優れた論考『声の回帰』の翻訳(太田出版)、さらにはポール・ド・マンの極めて刺激的な問題作『美学イデオロギー』の翻訳(平凡社)の翻訳等を通じて着実に思考者・研究者としての地歩を固めてきた上野成利がこのたび岩波「思考のフロンティア」シリーズの一冊として『暴力』を刊行した(B6判・139頁・1300円・岩波書店)。20世紀における暴力の過剰充溢の根源へと分け入ろうとする意欲的な好著である。
                  
 「はじめに」のところで上野はまず暴力に「二重の相貌」があることを指摘する。一つは、「統御不可能で野放図な力」としての暴力のあり方である。そこに「無法」や「不当」という契機が結びつくことはいうまでもない。それはある意味で非理性的暴力といってよいだろう。上野はこうした暴力の相貌を「ヴァイオレンス」と呼ぶ。だが暴力はもう一つ別な相貌を有している。それは、「何らかの権限をもった主体が別な主体を支配・統御する」という意味での暴力である。この暴力には明らかに理性的なものが結びついている。上野はこの暴力の相貌を「ゲヴァルト」と呼ぶ。この暴力の相貌には「権力」、あるいは「秩序」「管理」といった契機が結びつく。こうした二つの暴力の相貌は明らかに対立・矛盾する関係にある。一方は制御不能なものであり、他方は制御・支配の媒体だからである。だが私たちの現実に帰属する暴力現象は明らかにこの矛盾する二つの契機の絡み合いの中においてしか現出しえないのだ。それは別な観点からいえば、私たちの現実の中でヴァイオレンスの要素とゲヴァルトの要素が不可分なかたちで、しかもときには二つのうちのどちらかが優位に立ちながらあたかも二つの顔を持つ「ヤヌス」のように現れるということである。そこに非理性(野蛮)と理性(文化・文明)の絡み合いが潜んでいることはいうまでもない。

 20世紀に目を向ければ、この二つの暴力の絡み合いが奇怪なまでに複雑な様相を呈しながら総体として暴力の過剰充溢をもたらしていることは明らかである。上野はまず20世紀の暴力の問題の核心ともいうべき「ホロコースト=ショアー」に言及しながら、そこに単なる野蛮として片付けるわけにはゆかないその「大量殺戮プロジェクト」としての性格、すなわちアイヒマンに象徴される「正常」な、というより限りなく「凡庸」な官吏タイプの人間のもつ「理性・分別」によって初めて可能となったその精緻で合理的な「プロジェクト」としての性格が現れていること、そしてそこにはすでにはっきりと理性と野蛮の本質的な共犯関係が見てとれることを指摘した上で、その淵源を19世紀において完成を見る「国民国家」に求める。そして国民国家はその本質的属性として閉じられた「領域性」を持つがゆえに、その領域性に囲い込まれている「国民」という名の主体に対して絶えず「強制的均質化」および「動員」という全体主義国家において全面開花する「ゲヴァルト」暴力をすでに強いていることを明らかにする(Ⅰ-第1章参照)。このことは視点をずらせば、国民国家の限定戦争と全体主義国家の絶対戦争の関係の問題にもなる。クラゼヴィッツの「戦争は別な手段による政治の継続である」という命題に示される限定ゲームとしての戦争のあり方、つまりゲヴァルト暴力の行使は、だがしかしそのゲームを成立させる限定された政治空間、すなわち国民国家間の対等な関係を保証する秩序空間を前提とする。それを上野はカール・シュミットを援用しながら「ヨーロッパ公法」の妥当領域としての「ヨーロッパ」と規定するのである。このことによって戦争が限定戦争というゲームになりうるとするならば、そこにはそれと表裏一体なかたちでゲームの規則の及ばない「非ヨーロッパ」という絶対的な暴力行使の許される領域が存在するはずである。この領域にはもちろん帝国列強によって植民地支配の対象となった空間的意味での非ヨーロッパが含まれるが、じつはそれだけではない。ゲームを成立させる規則を共有できないという判断をもたらす差別・排除の機制そのもののうちに「ヨーロッパ/非ヨーロッパ」という二分法の起源があるのであり、そこではむしろ「不気味さ・不快さ」への排除・攻撃衝動といった機制――これが反ユダヤ主義の起源であることはいうまでもない――が働いているというべきである。想いおこしてみよう。理性のいちばん大きな機能は理性の内と外を分けること、理性と非理性の分割である。この分割にこそ二分法の起源があり、そのことが限定された暴力のゲームとしての国民国家の限定戦争の外側で絶対的な暴力が乱舞するヴァイオレンスの空間が現出するのである。とするならば限定戦争の起源そのものうちに絶対戦争というかたちでの暴力の過剰充溢が宿されていると考えることが出来るのではないだろうか。そしてそれこそが理性と暴力の本質的な共犯関係の証左といえるだろう(Ⅰ-第23章参照)。
                    
本書の本領は理論的な面からいえばむしろⅡの諸章、すなわちベンヤミン、アーレント、デリダ、そして『啓蒙の弁証法』について論じた部分にあるといえるが、残念ながらそろそろ紙数が尽きようとしている。本書はある意味で反時代的な本である。これでもかといわんばかりに重い課題を次から次へと、しかも相当に抽象度の高い文体を通して繰り出される。たぶんチャート式の暴力論入門を期待する向きには失望感を与えるだろう。だがそれでよいのだ。暴力の問題は私たちがこの世界に生きている意味への問いと同じくらい重く根源的な課題であり、かつ極めて難しい課題なのだから。読者にはぜひ暴力問題の困難さとその根源的な意味を著者である上野とともに共有していただきたいと切に思う。
(2006.8)

知識人の時代 :ミシェル・ヴィノック著


   著:ミシェル・ヴィノック 訳:塚原史・立花英裕・築山和也・久保昭博(紀伊国屋書店)


[知識人」という言葉が死語に等しくなって久しい。とくに日本においてはそうである。知識人がもし自分の思考力や良心にもとづいてペンの力だけによって社会に向かって公的な発言を行い、それが一定の影響力を持ちうるような存在であるとすれば、今の日本にはほとんど知識人と呼びうるような人間は存在しない。今に日本に存在するのは、省庁や企業などの周辺で様々な審議会や研究会、シンクタンクなどに身を寄せながら、政策形成・推進、利潤追求に都合のいい情報や提言をとりまとめることを生業とするような「実用型知識人」(本書の言葉)か、テレヴィや新聞・雑誌などの頻繁に登場してほとんど専門的知識も本格的な思索も必要ない「コメント」と称する蕪雑な言葉を語ることだけを任務とする「メディア知識人」(同前)だけであるといってよい。こんなものが知識人の名に値しないことは言うまでもないだろう。

 日本の場合もともと言論を通して形成される市民的な公共圏が極めて微弱であったことが知識人の存在し難さの大きな要因として挙げられるが、同時にそこにはいくつか日本だけにとどまらないより普遍的な時代や社会の変移、推移があることも事実である。まず第一に挙げられるのは社会の複雑化である。高度に複雑化し分節化された現代の社会のあり方の中では、一個人が自分だけの力で社会全体の動きを俯瞰しながらそれについて普遍的な伝達力を持ちうる言説を語ることは極めて困難になっている。第二には社会と個人をつなぐ媒介項としての世論や論壇、メディアの構造の大きな変化である。とくにテレヴィに代表されるメディアの力の普及は、一部の特権的な知識人階層による大衆の啓蒙やリードという構図を突き崩し、極めて均質化された薄っぺらな情報言語や感覚・印象言語の流通を爆発的に増大させた。このことが知識人の存在を不要化したのである。第三には社会主義理論に代表される対抗・批判言説の解体という事態である。グローバリゼーションに象徴される単一化された均一な原理――例えば世界市場原理――の支配する冷戦崩壊後の世界においては、エスタブリッシュされた支配体制に対する異議申し立てや対抗はほとんど不可能に近くなっている。そのことが本来の意味での知識人の役割を無用化しつつあるのである。

 他にも要因は挙げられるであろうが、現在の状況が知識人の存在し難くなっている理由に事欠かないことだけははっきり確認することが出来る。それにしても私たちはこうした状況に手をこまねいている他ないのだろうか。「学問の有効性」という名目の下、政官財の世界との癒着を深めることを自身の手柄だと思っているような大学教員の連中や、毎日テレヴィや新聞などに登場しては訳知り顔に、専門的裏づけも、よく練られた思索の跡もまったく感じられない床屋政談・井戸端談義以下の放談を繰り返す「評論家」連中のかもし出すおぞましいまでの不快さに黙って耐えるしかないのだろうか。デリダやサイード、今村仁司の死後、世界について根源的かつ普遍的に、批判的スタンスに立ちながら語りうる知識人は死滅してしまったのだろうか。
 このとき想い起こされるのはフーコーの知識人終焉論である。よく知られているようにフーコーは、サルトルに代表されるすべての問題について神のごとき判定を下す「大知識人(=普遍的知識人)」の時代は終わり、これからは特定の専門知識や技能を通して社会に貢献する「エンジニア型の知識人」だけが必要とされるようになると言った。フーコーはその時点ではっきりと伝統的な知識人の時代の終わりを告知していたのである。もっともフーコー自身は彼の言葉に反してむしろ最後の大知識人を演じたのであるが。それにしてもこうした状況についてどう考えればよいのか。
                    
 そうした折り、フランスの社会・政治思想史家であるミシェル・ヴィノックの著作の翻訳が刊行された(A5判・834頁・6600円・紀伊国屋書店)。800頁を超える大著であるが訳文はよく練られており、題材の面白さもあって一気に読めてしまう。
 本書が扱っているのは、1894年に起きたドレフュス事件から1980年のサルトルの死にいたる時代の流れの中でのフランス知識人たちの生態と彼らが演じた多様なドラマである。それは文字通り多彩な万華鏡ともいうべき世界である。多数登場する知識人たちの個々の事跡、相互の関係、人脈や党派の実態が筆者であるヴィノックの歴史家としての驚くべき手腕でもって鮮やかに腑分けされ位置づけられていく様は壮観といってよい。私は本書によってこれまで知らなかった、あるいはあいまいなままだったフランス知識人をめぐる様々な事情や歴史について多くのことを教えられた。そしてそれを通してあらためて知識人とは何か、その役割とは何かについて考えるべき課題を指し示されたのである。

 そもそも知識人という言葉が一定の社会的意味を持つようになったのは本書の議論の発端となっているドレフュス事件であった。ユダヤ系のフランス陸軍軍人であったドレフュスにかけられた対ドイツ内通という嫌疑、その嫌疑にもとづくドレフュスの軍籍剥奪と反逆者としての断罪という事態から始まったこの事件は、二つの点で知識人の登場を促したのだった。一つは多くの学者や文学者を中心とする知識層がこの事件がきっかけとなって政治的・社会的な次元へといわば象牙の塔から出て介入することから、知識人と呼ばれる新たな階層が生まれたということである。逆に言えば、知識人とは自らの専門領域に閉じこもることなく公的次元における言説を発する知識階層の人間を指す概念として定義されるということである。第二には、この事件に際に二つの対蹠的な立場が明確に形成され、以後知識人のあり方をめぐって――とくにフランスにおいて――つねにこの二つの立場のあいだで対立・相克が繰り返されてきたということである。その二つの立場とは、ドレフュス事件の際にモーリス・バレスとエミール・ゾラにそれぞれ示されたものであった。すなわちフランス国家の正統性とその統合基盤をつねに最優先させる国家主義の立場と、フランス革命によって達成された自由・平等・友愛にもとづく人権原理をつねに優先させようとする個人主義の立場である。この二つの立場のあいだの対立は、共同体帰属型の情緒的・扇動的な言説のパターンと共同体離脱型の知的・論理的な言説のパターンのあいだの対立へと置き換えることも出来るだろう。バレスや、後に右翼王党派の機関紙として名をはせる『アクション・フランスセーズ』の中心であり第二次世界大戦後対ドイツ協力の廉で終身刑を言い渡されたシャルル・モーラスなどが前者の代表だとすれば、ゾラや1930年代に痛烈な知識人批判の書『知識人の裏切り』を著したジュリアン・バンダなどは後者の代表格といえる。ただし本書が伝えている重要な点と思われるのは、その二つの立場が各々の知識人の中で必ずしも固定的ではなく、ときには立場の移行や分類不能な「第三の道」の選択が登場するということである。バレス自身、出発的においてむしろ極めて個人主義的であった。そのバレスを国家主義を代表する知識人へと押し上げていったのがドレフュス事件に他ならなかった。『アクション・フランセーズ』に近いカソリック系の文学者ジョルジュ・ベルナノスが、共和派とフランコ派の内戦下にあったスペインにおいて当初はカソリック王党派と通ずるフランコ派を支持していながら、フランコ派による民衆虐殺の実態を見て立場を転換し、フランコ派やそれと通じるカソリック教会を激しく糾弾する書『月下の大墓地』によって反ファシズムに転じてゆくのもそうした例の一つといえるだろう。

 うかつな話しだが私は19世紀末から第二次世界大戦期にいたるフランスにおいてこのように激しい知識人の闘いが繰り広げられていたことをきちんとした形で認識してこなかったので、正直なところ本書の内容には驚きを禁じえなかった。それを踏まえてフランス知識人たちの群像から感じたことを記しておこう。一つは、どのような立場であれ彼らが自分自身に対し基本的に強い自負と責任を感じているということである。本書は全体を三部に分け、第一部が「バレスの時代」、第二部が「ジッドの時代」、第三部が「サルトルの時代」と銘打たれているが、1930年代から戦中期という困難な時代にあってときに逡巡や怯堕を示しながらも、基本的に支配層への協力を拒否し続けたジッドの態度には、そうしたフランス知識人のある種の強靭さを強く感じる。それはまた同時に、「仲良しクラブ」で群れたがる日本人とは異なり、意見の相違によってじつにあっさりとそれまでの人間関係を絶ってしまう彼らの「強さ」とも関係しているように思われる。第二に感じるのは、やや逆説的な言い方になるが、フランス革命によってもたらされた近代化とフランスの共同体意識のあいだの深刻な相克関係である、別な言い方をすれば、フランス革命は本質的な意味ではこの共同体意識を変え得なかったのではないかということである。その核心にあるのはフランス固有な信仰体系としてのカソリックの影響力の根深さである。そのことから派生する世俗権力と教会権力の、世俗知識人と教会聖職者およびそれにつらなる宗教系の知識人のあいだの激しい闘いが、フランス知識人の歴史の重要な要素であることをあらためて本書を通して確認することが出来た。

 本書でもっとも興味深いのは、第一部におけるバレスを軸としたシャルル・ペギーやアナトール・フランス、ジュール・ルメートルらの人物群像の活写と、第二部の次第にファシズムへと傾斜してゆく時代の危機のなかでも知識人たちの足掻きにも似た模索の描写であろう。前者では期せずして先ほど述べた近代化の底に埋もれたフランス社会の深層があぶり出され、フランス社会自身の中にナチズムへと向かいかねない因子が埋め込まれていたことが明らかになる。とはいえそれを押しとどめた要因もまたフランス社会の中に存在したのだが。A・フランスの存在はそれを示唆している。また後者では平和主義に立つ知識人たちの決定的な無力が後知恵とはいえその後の歴史状況とのからみで深く考えさせられる。先月書評したアーレントの『責任と判断』の中にも戦間期の「著名な知識人」たちの無力が描かれていたが、この問題は現在の私たちにも、例えばイラク戦争の問題などにおいて重くのしかかってくるのである。第三部の記述にやや図式主義的な単純化が見られた――それは左翼に対する辛辣な視点に由来する――のは残念である。ともあれフランス知識人の歴史を知ろうとするのにこの百科全書的な内容を持つ著作ほど好適なものはないだろう。同時にそうした知識人の時代の終焉も本書は告知している。その先は私たち自身の問題というべきかもしれない。(2007.7)