シリーズ道徳の系譜 死の哲学 : 江川隆男











江川隆男著(河出書房新社)



最近のテレヴィを見ていて異様に思うことがある。生命保険のCMがやたらに多いことである。それだけ生命保険への需要が大きいということだろうし、その背後にはおそらく「死」をめぐって人々のあいだに根深い不安が存在するのだろうが、それにしても死といういかなる時代、地域にも遍在する現象に対しなぜかくも不安が深まり、かつそれが生命保険への需要というかたちで現れてくるのか。

 もしかすると今人々は死への欲望にとりつかれているのだろうか。あるいはむしろ逆に保険CMによって、死への欲望、より正確にいえば生命保険という一個の社会装置を通じて造型された特定の死のかたち(様式)への欲望を激しくかきたてられているというべきなのだろうか。もしそうだとすれば、そこには死をめぐる認識論的な課題が浮上していると考えることが出来る。なぜならこの欲望は死を認識論的に可視化したいという欲望を同時にはらんでいるからである。
 生命保険は死を貨幣と交換するシステムである。本来死は交換不能なものである。だがその交換不能な死を貨幣の交換可能性にゆだねることによって生命保険というシステムは成立している。なぜそんなことが可能なのだろうか。たぶんそこに今人々が抱いている不安の核にあるものの秘密、そしてその秘密が喚起する欲望の意味を解く鍵があるのだ。
                   
 『情況』誌等で近年意欲的なドゥルーズ論を発表している江川隆男が新著を公刊した(B6判・166頁・1500円・河出書房新社)。その中に次のような一節がある。「恐怖は、われわれの身体のすべての変様を受動性の相のもとに固定するとさえいえる。スピノザによれば、他のものへの関心をすべて奪うかたちで、われわれの視線を釘付けにするようなものが存在するが、それはいかなる物の部分でもないという意味で「特異な或るもの」である。そして、こうした或るものについての中立的表象が「驚き」であり、これは、その或るものから視線を逸らすことができず、精神がこの表象に縛られたままの状態を表示している。しかし、こうした驚きはそれだけでは単なる知覚であるが、この特異な或るものが人間の復讐心や怒りなどをともなって表象されるとき、驚きはまさに「恐怖」の感情になるのである」(82頁)。

 生命保険という社会装置、そしてそれが造型する死のかたちに文字通り人々の「視線」が「釘付けに」なっているとすれば、そこには「受動性の相のもとに固定」された「恐怖」の感情が存在しているということが出来る。ではその「恐怖」とは何なのか。
 生命保険は、すでに述べたように死という本来交換不能なものが貨幣という交換可能性に置き換えられるシステムを意味する。このとき貨幣の交換可能性は、それが「等価形態」という尺度をもとに表象される量的に多様な「相対的価値形態」(マルクス)のあいだの比較・比例関係であることによって根拠づけられている。人々が生のなかであくせく求めている「豊かさ」や、その相対的な欠如態としての「貧しさ」は、すべてこの比較・比例関係としての貨幣の交換可能性に本質的には由来している。とするならば、「恐怖」とはこの交換可能性としての貨幣のもとに自分たちの生がまさしく「受動性の相のもとに固定」されていることの根源的な現われということが出来るのではないか。もう少し突っ込んで言えば、死が交換不能な絶対性・特異性として現出することへのこの「受動性の相のもとに固定」されてある貨幣的な生の側からの反応のあり方の、感情次元における表れが「恐怖」に他ならないのではないか。それにしてもなぜ交換可能性であり、比較・比例関係なのか。それは、この比較・比例関係のみが――マルクスが『経済学批判要綱』で明らかにしたように――死の交換不能性(表象不能性)を転移させ、ある種の不死性を――ふたたびマルクスに即せば「対象性(表象知)」を――出現させてくれるからである。これによってひとまず死は相対的な比較・比例関係の無限の連鎖(置き換え関係)のなかでその絶対的な特異性、自体としての個別性を脱色され衛生無害なものになり変わるのである。生命保険という社会装置は恐らくその要に位置するシステムに他ならない。だがそうであるとして、そこに充満する死への欲望はどうなるのか。

ここで私たちは一つの恐るべき認識に到達しなければならない。不死性、つまり死ななくなるということは、まさに死の謳歌であり、その全き遍在に他ならないのだという認識に、である。というのも、相対的な比較・比例関係のうちで「受動性の相のもとに固定」されてある生とは、その固有な内実をたえず交換可能性を通じて別なものに置き換え失させていることによって自己保存を維持する「死ねなくなったゾンビ」のごときものでしかないからだ――マルクスが貨幣=資本に見ようとしたのはこの「ゾンビ」性に他ならない――。世界がゾンビの横溢する「墓場」になるとき、「死ねないこと」は死の謳歌と遍在を私たちに見せつけているのであり、死への欲望はこうした「ゾンビ」的欲望へと一体化するのである。生命保険に内在する死への欲望、そしてそれに対し表裏一体の関係にある「不安(恐怖)」の感情が指し示しているは、かかる事態であるといってよい。
                   
 江川の新著は、このような世界の「ゾンビ」性に根差す死への欲望に対し今私たちの思考が何を以って対抗しうるかを、スピノザ-ドゥルーズ=ガタリ-アルトーというラインに沿いながら明らかにしようとしたまことに野心的な試みといってよい。恐らくそれは、かつて私が本コーナーで書評を試みた荒川修作+マドリン・ギンズの『建築する身体』(春秋社)における「死なない建築・死なない身体」の問題とも共鳴しあいながら、今私たちが取り組まねばならないもっとも深く重い課題の所在を指し示している。

 先ほど引用した先のところで江川は次のように言っている。「<受動性-感情>には、驚きによって固定され、恐怖によって支配された一つの死の遠近法があると言える。死はこうした恐怖によって構成された生のなかに囲い込まれてしまう〔これが「ゾンビ」性ということである―評者〕。<差異-思考>、一般性のもっとも低い共通概念の形成が必要とされているのは、そうではなく、恐怖から至福へ(スピノザ)、あるいは恐怖から残酷へ(アルトー)という別な発生のためである」(823頁)。ここに本書における江川の根本的なモティーフが現れているといってよいだろう。死の謳歌、死の遍在としての世界の「ゾンビ」化、別な言い方をすれば、たえず続く他のものへの相対的な比較・比例関係を通した置き換え・失(交換可能性)によってのみ――それが、ある種の超越(論)的構え(=貨幣的なものの根源様態)を意味するのはいうまでもない――自己保存が図られるような生=死の「囲い込み」に対抗し、「恐怖」を「至福」ないしは「残酷」へともたらすこと、それは、本質としての精神のもとでいわば存在なき様態へと貶められ非在化されている身体の側から、いかなる相対性にも、伝統的な意味での心身二元論にも委ねられることのない「存在の一義性の平面」(28頁)を現出せしめよとする試みに他ならないのだが、それこそが本書で江川の目指しているものといってよいだろう。

 それを可能にする思考上の道筋を江川は、「欲望する並行論・心身論」(第二節参照)によって示そうとする。そしてその具体的な進行過程をなすのは「存在」のたえざる「変形」(17頁)である。この問題をめぐって展開される江川の言説は、正直言って極めて難解であり、まだ私自身十分に理解できているとはいえないのだが、例えば次のような記述からその核心の一端が窺える。「一つの現働的な闘争や闘いを、別の現在敵な暴力に向けたり、或る目的としての支配にぶつけたりするだけでなく、それらとまったく同時に潜在的な人間の諸条件に作用して、それらを触発・変形することである(闘争の二重化)。(……)この唯一の事例としての結晶化は、死の後に残るもののことであり、自己の外部的諸部分からなる存在が崩壊して失われた後も、つまり死後も、触発され変様し続けるその劇的な特異本質のことである。(……)<不死>とは、実は唯一この触発・変形の部分についてのみ言われるべきことなのである」(21頁)。

 ここで言われている「触発・変形」は、基本的にはスピノザの自己原因論に由来する。つまりいかなる外部原因も必要としないような本性=存在のあり方としての自己原因こそがこの「触発・変形」をもたらすのである。とはいえこの自己原因はけっして内部において完結する同一性の機制を意味するわけではない。それどころかそこに働いているのは「差異」なのだ。だからこそ自己原因は触発を喚起し変形をもたらすのである。そして同時にこれが、スピノザの「コナトゥス」概念の特異性の核心ともなっている。通常コナトゥスは「自己保存」と訳されるが、本書で江川はあえて「現働的本質」(53頁)という訳語をあてている。これによって、ホッブズ的な、譲渡=交換的論理としての、そして内部的な同一性形成論理でもある自己保存概念とは本質的に異なるスピノザのコナトゥス概念の核心が浮かび上がる(29頁参照)。それは、「否定なきあるいは欠如なき無能力」(28頁)としての死――この死はいうまでもなくもはや物理的な死ではありえず、むしろ死に対してその等価物として構成される経験的ななにものかである――が帯びている「<強度=0>」(53頁)の地点へと向かう「触発・変形」の運動であり、同時に外部と内部の区別が事実上無意味となるような身体と精神のあいだの力動的かつ隣接的な並行性を生み出す運動でもある。
                   
 本書は、ドゥルーズ=ガタリの仕事が語の真の意味で「唯物論的」であったという意味で、まさしく「唯物論的」な思考の試みである。本書から感じとれるのは、江川の、湿った情緒的な内部性に充足することへの激しい異和である。ノマド的なたえざる存在の変成の暴威に耐え得ない思考がどうして唯物論的――それは、これまた語の真の意味で「革命的」であるということだ――でありうるのか。江川は本書でそう私たちに問いかけているように思える。「存在のもとでの唯物論においては、精神を構成する観念は身体の一定の状態を表現するという程度のことである」(50頁 傍点評者)。(2006.2)

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