正戦と内戦 カール・シュミットの国際秩序思想 : 大竹弘二著






大竹弘二著(以文社)




私はこれまでカール・シュミットのよい読者ではなかった。ずいぶん昔に橋川文三の訳した『政治的ロマン主義』(未来社)を読んだことがあるが、そこから特別な刺激を受けた記憶は残念ながらない。ただ私が長年自分の中心的な課題として追ってきたW・ベンヤミンの『暴力批判論』、あるいは『ドイツ悲劇の根源』にはシュミットの影響が見られること、とくに日常的な法秩序に停止状をもたらす「例外状態」をめぐるシュミットの議論とベンヤミンの「神的暴力」のあいだには深いつながりが存在することは、ベンヤミンが『暴力批判論』において抉り出そうとして革命の根源的な意味や、今までの法状態を一挙に破壊する憲法制定権力の行使の意味などの問題との関連も含めて気にはなっていた。とはいいながらナチスに自ら協力し、戦後、起訴されなかったとはいえニュルンベルク裁判の被疑者として取調べも受けたシュミットの著作を到底素直な気持ちで読む気にはならなかった。それは、わが国において昭和超国家主義と戦争遂行に加担した芳賀壇、平泉澄、紀平正美、高坂正顕などの著作をどうしても読む気になれなかったのと同じだった。気にはなるがシュミットのような呪われた禍々しい存在には近づかないに越したことはない、というのが正直なところだった。

 今私はそうした自分のシュミットに対する怯懦を激しく後悔している。ガルシア・デュットマンの優れた翻訳で知られる俊英大竹弘二の新著『正戦と内戦 カール・シュミットの国際秩序思想』(B6判・482頁・4600円・以文社)を読んだからだ。本書は大竹の博士論文として書かれた。今博士論文を書くことが若手研究者にとってオブリゲーションとなっているため博士論文の水準には相当ばらつきがあるが、本書は凡百の博士論文の水準をはるかに抜く驚嘆すべき成果といってよいと思う。私は、シュミットの思想が持つアクチュアリティを見事に描出している本書によって、シュミットがたんなるナチス御用学者というような凡庸なレッテルによって悪魔祓い出来るような存在ではないことを、より正確に言えば悪魔祓いしてはならない存在であることをはっきりと教えられた。

 話題が飛ぶが、私は最近重田園江他による『フーコーの後で』(慶応義塾大学出版会)を読み、フーコーの中で1970年代後半から登場する「統治性」という概念をめぐる最新の議論に触れることが出来た。とくに「生政治」論の文脈の中で、国家における統治性の配置図や機能が、「主権国家」から「規律国家」への、さらには「安全国家」への推移を通して、近代から現代へといたる世界空間=秩序、とりわけ新自由主義が登場しつつあった状況の中でどのように変容していったかをフーコーがつぶさに追っていたことを教示され、大いに触発された。そこでフーコーの統治性概念を土台にしながらグローバル世界の統治構造の解明を試みている土佐弘之の『アナーキカル・ガヴァナンス』(御茶の水書房)や『ミシェル・フーコー講義集成』(筑摩書房)を読み始めた。フーコーの生政治論の文脈と統治性の概念が交差する地点に、現代における国家及び権力の布置を考える上でもっとも重要な問題圏域が出現するはずだと思ったからである。ちょうどそんな中で本書を手に取ったのだが、驚くべきことにシュミットの議論はそうしたフーコーの統治性をめぐる議論と完全に通底する問題意識が早くから先取りしているのである。例えば大竹が引いている、シュミットが1958年に記した次のような言葉はどうだろうか。「生存配慮の行政国家への不可避的発展」(本書425頁)。ここには明らかに、現代において国家が生政治的文脈において行政=統治技術へと自らを収斂させつつ、その権力の触手を個々人の生(命)へと伸ばしてゆこうとしている、という認識が現れている。しかも本書を通読した上で振り返ってみると、あらためてこうしたシュミットの驚くような現代的認識が様々な場面で登場することに、しかもそれが普遍化へと向かおうとする世界および歴史の動向と、それに抗おうとするように現れる歴史的一回性の場のあいだの相剋的な関係、言い換えれば「抗争」――そこにシュミットのいう「例外状態」の起源もあると考えられる――に裏付けられて登場していることに気づかされる。世界(歴史)を普遍化された同一性の秩序からではなく、その平面に穿たれる無数の亀裂や逸脱、矛盾、抗争の個別的な具体性から捉えようとしたのがフーコーではなかったか。とするならば今まで思いもかけなかったシュミット―フーコーという思想系譜がそこには浮上してくることになる。しかも大竹の論述に従うならば、そこへは現代世界を考える上で喫緊かつ重大なポイントとなる問題が結びついてゆくのである。

                   

本書において私がもっとも関心をそそられるとともに多くを教えられたのは、第二章「国際連盟とヨーロッパ秩序」と第三章「広域秩序構想」であった。大竹はここで先ほど挙げたフーコーによる国家(統治性)の変容の問題を、よりグローバルな規模における世界秩序の変容の問題につなげつつ、すぐれて現代的かつアクチュアルなシュミット読解の可能性の地平を開示している。

 そこで問われているのは、第一次世界大戦およびその後の国際連盟の結成によって劃された世界秩序の変容の意味である。その具体的な媒介項となるのが「戦争」概念の変容であった。第一次大戦という未曾有の世界戦争=総力戦は、シュミットによって「差別戦争観」と名づけられた主権国家という単位にもとづく古典的な戦争観(ヴェストファリア条約によって確立された主権国家を前提とするヨーロッパ公法秩序内部の戦争とその外部の戦争との差別)を無効化した。そして第一次大戦後に戦争抑止のため新たに創設されたのが国際連盟であった。この過程で戦争の意味が大きく変容したのである。国際連盟が前提としていたのは、「自由民主主義」という普遍主義的イデオロギーを無差別な形で世界全体に適用されるという認識である。それはさらに、このイデオロギーが実現されている状態(実現しうる国家)を正常な「合法性」(合法国家)として規定し、それを実現しえない不法国家が引き起こす「攻撃戦争」をそうした合法性に違反する行為(侵略)として「犯罪化」するという認識へと結びついてゆく。つまり国際連盟によって「戦争の違法化」(113頁)への道が開かれたのである。そしてこのことは、そうした違法行為に対抗する合法国家の戦争が正義のための戦争、すなわち「正戦」として規定されるという事態をも導く。こうして主権国家の関係の中に合法/不法という境界線が引かれるととともに、国家行為としての戦争に対しても合法/不法という線引きが行われるようになるのである。

 このことは同時に、戦争(正戦)が限定された政治的目的の実現手段ではなく、違法な「敵」を「道徳的に犯罪化」したうえで断罪し罰するという性格を帯びることを意味する。戦争はもはや主権国家間の対等な関係に基づく政治的行為ではありえなくなる。代わりに登場するのは戦争の持つ意味の道徳化とそれに伴なう治安=警察化である。世界はいわば普遍主義的イデオロギーによって無差別な形で束ねられた内世界的な秩序となり、戦争は、あるいは戦争を引き起こす国家(不法国家)はこの内世界的な秩序を紊乱する犯罪として取り締まりの対象となるのである。このとき犯罪としての戦争とそれを取り締まる道徳的かつ治安=警察行為としての正戦との間の対抗関係は、内世界秩序を前提とする「世界内戦」というべき様相を呈することになる。このように第一次大戦と国際連盟の結成は、戦争を正戦へ、さらには世界内戦へと変容せしめたのだった。この世界内戦の状況は、第二次世界大戦、冷戦、冷戦の終焉を経て、現在のアフガン・イラク戦争にまで及んでいる。この点を取っても本書で大竹が抉り出したシュミットの問題意識の持つおそるべきアクチュアリティは明らかであろう。

 こうした正戦=世界内戦の思想(特定の場所を持たない普遍主義的イデオロギーと道徳的正当性に裏打ちされた発想)に対してシュミットは、歴史的一回性に彩られた場所の固有性によって立ち向かおうとする。より正確に言えば、そうした場所どうしの相互関係、すなわちそうした場所相互が「友誼線」(194頁)内部における「「保障」と「同質性」」(119頁)を含んだ真の「連邦」的関係を通して対抗しようとするのである。これがシュミットの「広域秩序構想」(ライヒ)の核心となるが、それはある面においてもっとも先駆的な(アンチ)グローバリズムとしての意味を有していると考えることが出来るだろう。

 もちろんこうした広域秩序構想に込められた英米主導型の普遍的世界秩序、あるいはそこから導かれる正戦=世界内戦状況に対する対抗を具体化するための媒体として、ナチス総統国家に希望を託したこと、さらにはその前提としてヨーロッパ公法秩序(友誼線の内部)とその外部としての植民地(友誼線の外部)をつねに分断しながら思考していたことが、シュミットの思想の中の致命的ともいえる負の要素であることは間違いないだろう。あくまでそれを踏まえた上でだが、もう一点本書によって喚起された重要な視点について言及しておきたい。それは、戦後のシュミットが、普遍主義という「敵」の持つ性格を産業-技術的なものに見定めようとしたことである。正戦=世界内戦は、戦後世界においてはこの産業-技術的なものの世界秩序への浸透へと形を変えるのである。この過程で国家はこの産業-技術的なものを効率的に稼動させるための行政=統治技術の束へと変容する。なるほどそれは表面的には正戦=世界内戦の担い手としての戦争国家とは対照的である。だが正戦=世界内戦状況の前提となっている普遍主義的な世界秩序をより一層拡大・深化させるという意味で、産業-技術的なものは本質的に正戦=世界内戦の思想の延長線上にあるというべきである。

 このことの帰結として大竹は大変興味深い事例を最終章で挙げている。それはドイツ連邦共和国における憲法体制の問題である。戦前のワイマール憲法体制の脆弱さがナチスの台頭を招いた反省から、連邦共和国は憲法擁護と例外状態の出現阻止のための手段を強化した。それは議会や行政の上に立つ憲法裁判所の存在や反憲法的ディスクルスおよび実践に対する事実上の禁止措置といった形で具体化された。だがこうした連邦共和国の憲法体制は「正常」/「逸脱」という二分法に基づく行政当局の反民主主義・反人権的措置を事実上容認するのである。その例証が72年の「過激派条令」であった(429頁)。行政=統治技術と正常性の循環関係の中で「生存配慮」型の統治国家は極めて逆説的な形でおそるべき「リヴァイアサン」と化すのである。

 まだまだ「パルチザン」の問題やベンヤミンの問題など、本書において取り上げるべきテーマは数多くあるがどうやら紙数も尽きたようだ。本書のより詳細な読解は他日を期すことにして、とりあえずは大竹弘二という若き才能の登場を心から祝福したいと思う。(2010.2)

文学者たちの大逆事件と韓国併合 : 高澤秀次著








高澤秀次 著(平凡社)

これまで中上健次の文学を中心にユニークな考察を行ってきた文芸批評家高澤秀次の新著『文学者たちの大逆事件と韓国併合』(新書判・234頁・760円・平凡社)が刊行された。本書が刊行された2010年はこのふたつの事件からちょうど100年にあたる。日本近代史の「闇」の部分、おぞましい暗部を象徴しているこのふたつの事件は、同時に日本近代史の本質的な認識にとって避けて通ることの出来ない大きな問題でもある。高澤は本書でこの問題にこれまでなかった斬新な切り口を通してアプローチすることにより、日本近代史の認識、さらにはその歴史的構図のなかに位置づけられる文学者たちの認識に重大な変更を迫ろうとする。率直にいってその問題提起は新書という限られたスペースで扱うには大きすぎて、議論が十分に深まらないままになっているところも存在する。だがそうだとしも本書が含む問題提起の重要性、本質性はいささかも揺らがない。
                   
 今や古典的な名作といって差し支えない中上健次の『千年の愉楽』のなかに次のような文章がある。周知のようにこの小説は、差別の対象とされてきた紀州熊野の「路地」に生きる産婆オリュウノオバの目から見た、この「路地」に生きるひとびとの生死をテーマとしているが、そのオリュウノオバの連れ合いだった礼如はある日突然出家して浄泉寺という寺の住職になる。ところでこの寺にはかつてひとりの僧がいた。「前の和尚は(……)、実のところ怖ろしい悪人だった者を他から呼び話をきかせ天子様に弓を引く計画をしたとして監獄に入れられ首をくくられたと聴いたが、その和尚なら路地の者たちがどうなったか心配で路地の周りをさまよいかねない、とオリュウノオバは考え、丁度、通りかかった半蔵を呼びとめ。「幽霊みた言うて、怖ろしいことないど」と言った」。
 この「前の和尚」が、大逆事件で捕縛され獄中で縊死した新宮の僧高木顕明をさしていることはいうまでもない。この『千年の愉楽』という作品にはじつは深く大逆事件が影を落としているのである。このことが中上の文学を理解する上で極めて重要な意味を持つことを高澤は本書で明らかにする。それがどのようなものであるかに立ち入る前に、まず本書で高澤が提示している、大逆事件と韓国併合が日本近代史の構図に与えた本質的な意味について概観しておこう。
                   
 「プロローグ」で高澤は次のような認識を示している。「この1910の出来事には、「大日本帝国」の自立のための犠牲という、象徴的な意味が重なっていた。神聖不可侵の統治者である天皇が、その「臣民」との間の不朽の絆を確認する上で、社会主義者・幸徳秋水を首謀者とする大逆の企てをフレームアップしたのは、近代国家の内部規律引き締めのためのいわば「通過儀礼」でもあった」(7頁)。大逆事件とは、「大日本帝国」が一個の閉じた内部として確立されるために必要であった外部、すなわち内部から排除されるべき「日本人ならざる者」という「ネガティヴな表象」を作り出すための企てだったのである。いうまでもなくこうした外部としての「日本人ならざる者」には、もうひとつの要素である「朝鮮」が対応する。だがそれは、大日本帝国が外部としての朝鮮を植民地としていわば内部化する過程を通して対応しているのだ。大逆事件と韓国併合はこのように大日本帝国という内部が外部を創出する過程において重なり合いながら、ベクトルとしてはちょうど反対を向く形で相補関係にあるのである(8~9頁)。高澤はこのふたつの出来事が持つこうした位相を踏まえながら、それが近代日本文学に与えた影を検証する。もちろんそれは文学の領域だけにとどまる問題では終らない。すでに述べたようにそこには近代日本史をどのように読み替え、どのように再構成し直すかという問題へとつながるからである。
                  
 すでに明らかなように高澤は本書の議論においてある種の人類学的・民俗学的な概念装置を踏まえている。それは、共同体が成立するために不可欠であった「聖」と「ケガレ」の二元論である。共同体は自らの内部を確立するために内部を超越論的に逆照射する外部を必要とする。その外部は通常ふたつの対照的な位置価を持つことになる。ひとつは文字通り超越的な位置価、言い換えれば「聖」の位置価である。それが「カミ」を意味することはいうまでもない。その一方この外部は共同体の負う「ケガレ」、禁忌や汚辱を一身に押し付けられて共同体から追放・排除されるべきものという位置価も持つ。被差別部落の起源にこのような問題が存在することは周知の通りである。遡れはそれは高天原を追放された「反逆者」スサノオのイメージへとゆき着くであろう。とするならば大逆事件において「聖」なる外部としての天皇の権威の確立と、「日本人ならざる者」という「ケガレ」を一身に背負わされた幸徳以下の「反逆者」たちの処刑が対応していたことはある意味では必然的だったといってよい。

 だがこの過程の持つ意味はそれだけにはとどまらない。「聖」と「ケガレ」を外部へと排除するメカニズムは儀礼という非日常的な場においてのみ可視的でなければならないからだ。逆に言えば、共同体の日常において内部はあくまで内部として完結していなければならないのだ。外部を超越論的に排除するメカニズムは日常においては絶対的に不可視でなければならない。そこには、外部へと排除されると同時に、外部である限りにおいてぎりぎり可能となる主体のアイデンティティさえも剥奪し擬似的に内部へと回収する力学が働く。それは外部としてマーキングされる存在そのものを根源的に否定する力学に他ならない。このことがはっきりと現れるのが、植民地朝鮮のひとびとの「大日本帝国」の「臣民=日本人化」であり、さらには沖縄・アイヌ・被差別部落のひとびとの「臣民=日本人化」であった。この怖るべき排除と内部化の二重の循環構造のなかではじめて「大日本帝国」という共同体の内部はあたかも永遠不朽の絶対秩序のごとき様相を確立するのである。
                   
 このように見てくるとき、高澤が引用している中上の次のような言葉が重要な意味を持つ。「柳田(ママ)男の「毛坊主考」に触発された中上健次は、「つまり毛坊主とは、共同体(ここでは被差別部落)が否応なくはらんでしまう触穢(しょくえ)と浄化の二つを一身に体現する人間である」(『紀州――木の国・根の国物語』)と、その本質を言い当てている」(121頁)。
 ここで中上が企てようとした文学の本質的な意味が明らかになる。ケガレ=触穢=排除と存在剥奪としての内部化の循環のなかで逼塞させられてきた日本近代史の影の部分を本質的な意味で復権させ再生させるためには、そこに「浄化」という新たなファクターを導入する必要があるのだ。この「浄化」が「ケガレのキヨメ」を意味することはいうまでもない。だがここで注意しなければならないのは、中上のなかでこの「キヨメ」が共同体の内部秩序への穢れた存在の回収を意味するのではなく、「戦争」を意味しているということである(第五章)。中上は大逆事件を「日本で起こった架空の南北戦争」(116頁)と形容する。紀州熊野の「路地」という場から見たとき大逆事件は、いわば外部が「大日本帝国」という内部と繰り広げた「戦争」に他ならなくなるのである。「キヨメ」とは、存在を奪われた者たちが自らの存在を取り戻すために排除と存在剥奪としての内部化の怖るべき循環構造に向けて企てる根源的な戦いを意味するのである。このとき高澤が次のようにいっていることに注目しなければならない。「大逆事件は中上にとって、ただの「市民戦争」ではなかった。何故なら「路地」の住人は悉く、近代の「市民」=「四民(士農工商)」の外部にあった「新平民」だったからだ。彼らは「眼から火が吹くような屈辱」(「六道の辻」、『千年の愉楽』)を潜って、「市民」の列に加わったのであり、それは大逆事件のはるか後年のことだったのである」(123頁)。

 この引用の後半が内部化の過程を意味することはいうまでもない。問題なのはそこに「眼から火が吹くような屈辱」が伴なっていたという事実である。それは直接には「新平民」を認めようとしない共同体の内部との軋轢に由来している。ただ問題はもっと深いところにある。この過程には繰り返しいうように外部であることを強いられる存在の側の存在剥奪が伴っているからである。それは裏返していえば、自らを失うことなしには内部化を果たしえない存在の屈辱に他ならない。この二重に設えられた怖るべき循環を脱しない限り外部化された存在の真の再生はありえないのだ。いうまでもなくこのことはもうひとつの極である朝鮮にもあてはまる。そしてそこにはもうひとつの重要な要素である「言葉」の問題が加わる。朝鮮の植民地化は朝鮮(韓国)語と日本語のはざまで苦しむ多くの在日世代を生み出した。そこでは言葉こそが内部と外部の「戦争」の苛烈な戦場とならざるをえなかったのである。本書でとりわけ印象的かつ衝撃的なのは、この言葉の戦場における戦いにもっとも深くコミットした在日詩人金時鐘の影響下から出発した梁石白が、『夜を賭けて』において一気にこの戦場に彼方にある、日本も朝鮮も沖縄も突き抜けたユートピアにまで至ったことに照応する「日本」側の文学の不在である。おそらくこの不在には、梁のユートピアのはらんでいる底知れない屈辱の深さと重さに拮抗するものの不在が対応しているのである。ただ本書で高澤はかろうじてそうした拮抗の可能性を垣間見せているひとりの作家を取り上げている。それは小林勝である。戦後共産党の武装闘争に参加し早くに亡くなった小林の文学は今ほぼ忘れられてしまっているが、高澤は小林の文学を、植民地朝鮮の側が味わった深い屈辱に拮抗する「日本」人の屈辱の深さを提示しえたほとんど唯一の存在として掘りおこす(第四章、第七章)。

 ところでもはや紙数がつきかけているので詳論することは出来ないが、じつは「日本」自身が「大日本帝国」への途上において言葉の戦場を体験しているのだ。それは「言文一致」運動、「国語」の創出においてであった。日本の近代化のもうひとつの指標というべきこの言葉の戦場において、じつは大逆事件と韓国併合が持った排除と内部化の屈辱に満ちた循環構造が最初に確立されたのである。そしてそこにこそ柳田國男の「新国学」も金田一京助の「アイヌ語研究」も位置づけられねばならないのである(第一章)。そして同時にそこには柄谷やジジェクの書評で触れた「抑圧されたものの回帰」というテーマが明滅している。夏目漱石の問題、三島由紀夫の問題などまだまだ触れねばならない問題があるがその余裕がなくなってしまった。私個人としては高澤が中上文学の新たな読み方を示してくれたことに深く感謝したい。高澤自身が今後このテーマをより本格的に展開してくれることを切望する。(2011.2)