権力と抵抗 フーコー・ドゥルーズ・デリダ・アルチュセール :佐藤嘉幸










佐藤嘉幸 著(人文書院)





ある意味で「懐かしさ」が漂う四人の名前が副題についた著作が刊行された。佐藤嘉幸の『権力と抵抗』(B6判・329頁・3800円・人文書院)である。もっとも著者である佐藤は1971年生まれであり、まだ30代のかなり若い世代に属する研究者である。

いわゆる「ニューアカブーム」が起こった80年代前半には彼はまだ小学生か中学生にしかなっていなかったはずである。私が本書に興味を抱いた第一のポイントは、今や一つのサイクルが終わり完全に過去のものになってしまったと現在の日本ではみなされがちな「構造主義-ポスト構造主義」の思想に対して、それが「ブーム」という形で受容されていた時期よりはるか後の世代に属する著者がどのようなアプローチを行っているのかという点にあった。もちろん簡単にある思想を時代遅れになったとか、もうブームは終わったというように裁断して顧みようとしなくなるのは、日本のこれまでの外来思想受容史の悪しき習癖であった。本来思想の受容は、それが受容しようとする人間のまるごとの存在を賭けた対決を通して行われる限り、行などに左右されるはずはないし、まして衣装を脱ぎ捨てるように簡単に別な思想へと乗り換えることなど出来ないはずである。とはいえ日本の習癖というべき思想のモードからモードへのアクロバティックな乗り移りにもそれなりの理由がなかったわけではない。たとえばかつてのサルトルの実存主義の受容においても、あるいは様々なマルクス主義理論の受容においてすらもそうなのだが、思想の受容の主戦場がいつのまにか煩瑣な解釈学の競い合いに収斂してゆき――これは長い漢学の伝統のなかで育まれた訓古注釈の技法の名残ではないだろうか――、思想がその起源と生成の場において帯びていた語の真の意味における現実的な条件が見失しなわれてしまうという問題が、そこには潜んでいるよう思われる。煩瑣な解釈学の袋小路に迷い込んでしまった思想は、当然ながら社会の現実や人間が日々生活のなかで味わう喜怒哀楽を含んだ実感との接点を失っていわば思想の剥製となってしまう。そんな思想の剥製に魅力などあろうはずがない。したがってある思想の受容においてそうした解釈学化=剥製化が進んで魅力が失われると、その思想は容赦なく捨て去られ別な思想への乗り移りが行われることになる。それは思想の消費化と呼ぶことも出来るだろう。多くの外来思想がこうした思想の消費化の過程のなかで浮かんでは消え浮かんでは消えしてきたのが近代日本の思想受容史ではなかったか。

こんなことを今更おさらいするのも馬鹿馬鹿しいことだが、もう一点だけ、とくに「構造主義-ポスト構造主義」に関してこうした受容の問題との関連で触れておきたいことがある。それは、思想の解釈学化=剥製化が思想の「非政治化」を生んできたという問題である。わが国における「構造主義-ポスト構造主義」の受容には、マルクス主義理論と結びついた過剰なまでに「政治的」であった状況――もっともこの「政治的」についてもある種の留保が必要なのだが――に対する解毒剤の導入という傾向が強かった。フーコーにしても、デリダにしてもその思想の受容がまず「文学」の領域、さらには言語-言説理論や記号論の領域において進行していったことはその証左である。その背景には、消費社会化のなかで社会的な決定審級の脱中心化・重層化が急速に進んでいったわが国の現実が、より正確に言えばそうした現実によってもたらされたある種の浮遊感(「差異の戯れ」)があったと思われる。このことが資本の力動化や動化として現れつつあった70年代以降のエコノミーのあり様に深く根ざしていたのはいうまでもない。やや乱暴にいえば、マルクス主義的な左翼的政治性が、「構造主義-ポスト構造主義」の持つ、差異性を通して脱構築された言説世界の布置を通して解体され、資本の新たなエコノミー運動と本質的に親和的な非政治的「サヨク」性へと置換されたということである。だが本来「構造主義-ポスト構造主義」と呼ばれた思想、とくに佐藤の本の副題に並ぶ四人の思想家たちの思想は、そうした非政治性とは根本的に異質なものであった。むしろそれは、たとえ通念上のマルクス主義的政治性・左翼的党派性とは異なるものであったにせよ、極めて本質的な意味で「政治的」であった。なによりも彼らの思想は「権力」への抵抗の思想であったからである。この点を脱色してしまったなら彼らの思想の本質的な意味が失われてしまうということに、わが国における彼らの思想の受容の仕方は驚くほど鈍感であったという気がしてならない。その意味で佐藤が本書に『権力と抵抗』というタイトルを付したことは、私の関心を強くそそってやまなかったのである。
                    
本書の序論で佐藤はまず、「構造主義的思考は主体を否定した」という周知のテーゼに対する反駁から議論を始める。佐藤によれば、構造主義的思考は「主体の依存」を、すなわち「真の意味で基本をなす何ものかに対する主体の依存」(9頁)を問おうとしたのであった。佐藤はその「何ものか」を、フロイト=ラカンの精神分析に文脈にそくして「シニフィアン」と呼ぶ。この「シニフィアン」は、主体にとって依存すべき何ものか、別な言い方をすれば主体にとって内面化されるべき何ものかでありつつ、主体が統御しえない何ものかでもある。この依存=内面化と統御不可能性(主体の脱中心化)の循環のなかに主体の位置が組み込まれるとき、主体の服従化のメカニズムが作動し始める。それは明らかに、フーコーの主体化=服従化の二重性として現れる「サブジェクション」に対応する。つまりこの主体化=服従化としての「サブジェクション」メカニズムにこそ主体に対して作用するミクロな権力作用の起源が存在するといってよいだろう。
ではこの「何ものか」としての「シニフィアン」、「サブジェクション」メカニズムを作動させる起源としてのそれは具体的にどのようなものなのだろうか。それはなによりも、主体を「経験的-超越的」に二重化(分化)するメカニズムの起源として捉えられなければならない。すなわち「サブジェクション」メカニズムは、自我の内部に「理想」と「現実」の乖離・ギャップを生み出し、その乖離・ギャップをてことしながら上位審級としての「超自我」(自我理想)による下位審級としての「自己」に対する暴力・非難・批判という形で、主体を「自己」に対応する経験的次元と「超自我」に対応する超越的次元に分化=二重化するのである。より正確にいえばこの二重性を前提として初めて可能となる倫理や道徳という形をとった自己内統整(自己の自己に対する服従)のメカニズムとして実現されるのである。

こうした「サブジェクション」メカニズムの核心をなしている「シニフィアン」とは、本質的にはフロイトのいう「タナトス」、つまり「死への欲動」である。だがここには「死への欲動」をめぐって、フロイト=ラカン的精神分析の文脈において生み出された一個の重大な意味組み換えのメカニズムの問題が同時に存在することを見落としてはならない。それは、なぜドゥルーズ=ガタリの『アンチ・エディプス』が精神分析批判を本質的課題としなければならなかったかという問題につながる。そしてそれは、精神分析理論を源泉としながら形成されつつも、精神分析理論と訣別しなければならなかった「構造主義―ポスト構造主義」的思考の本質的な意味、位置に関わる問題でもある。
ドゥルーズ=ガタリは、周知の通り『アンチ・エディプス』に「器官なき身体」というアントナン・アルトーに由来する奇妙な概念を登場させる。この「器官なき身体」は、ドゥルーズ=ガタリによれば「非生産的なもの、不毛なもの、消費しえないもの」である。言い換えればそれは、「死の本能」に他ならない。そして「器官なき身体」はこの「死の本能」に促されてたえず「死を欲望する」のである。それはちょうど「生の諸器官」(器官を持つ身体)が「生を欲望する」のと同様にである。このように「器官なき身体」を通して再生産される「死への欲動」は、いっさいの器官的な実定性を持たない、言い換えれば主体のなんらかの対象性には決して還元しえない非対象的な力動性として規定される。つまり「死への欲動」は、「快原理」と結びついた主体の実定的な存立に関わりえないものとして本来捉えられねばならないのである。

だがフロイト=ラカンの精神分析理論はこの「死への欲動」をエディプス・コンプレクスという装置を通して自我形成-主体形成(経験的-超越的主体の二重性)のプロセスへと接合し、「超自我」による「自己」の統制メカニズムに組み込むのである。このときフロイト=ラカンの精神分析の文脈における主体は、「死への欲動」を超越論的な起点としながら、生から死への軌跡を歩むことを宿命化された有機的・生物学的存在として、より正確にはそうした有機的・生物学的存在であることを基底に持つ自己統制的な存在として、「死への欲動」としての「シニフィアン」をめぐる「依存」と「統御不能性」のあいだの循環のうちに内属化されることになる。これが主体の服従化メカニズムに他ならない。
もし「構造主義-ポスト構造主義」的思考が権力への抵抗の思想でありうるとするならば、こうした精神分析理論の文脈のうちで定式化され根拠づけられている主体の服従化メカニズムを「開く」こと、つまり主体を服従の閉域から解き放つことが第一に求められるはずである。そのためにはまず「死への欲動」の核心である「シニフィアン」をエディプス・コンプレクスから切り離して外在化しなければならない。それは、主体をエディプス・コンプレクスによる有機化・器官化の回路から切断すること、あるいはエディプス・コンプレクスをへて主体へと向かうという回路に対する本質的なオルタナティヴを提起するという課題として捉えられる。『アンチ・エディプス』における「機械」という概念は、そうした抵抗の提起のひとつのケースと見なすことが出来よう。あるいは晩年のフーコー(いわゆる「最後のフーコー」)が、ドゥルーズと並行する形で見出した「魂」(意識、精神)という「牢獄」から解放された「身体」の特異性の位相もまたそうした提起のひとつのケースということが出来る。

時間がなかったために佐藤の犀利な議論を細部にわたって詳細にたどることが出来なかったのが残念だが、バリバールの指導のもとで執筆され、バリバール自身やジュディス・バトラー、ピエール・マシュレらの審査を受けて受理されたフランス語による博士論文がもとになっている本書は、若い世代がかつての日本における「ブーム」から完全に自由な立場で「構造主義-ポスト構造主義」の再政治化を、すなわち「構造主義-ポスト構造主義」の抵抗の理論としての読み換えを試みた文字通りの力作であることは間違いないといえよう。若い世代の研究者を取り巻く環境は劣悪さの度合いを増しているが、こうした仕事が今後も続くことを切に祈りたいと思う。(2008.12)