渡辺浩 著(東京大学出版会)
思想史、とくに日本思想史を考察の対象にしようとするとき、ある種の「比較」論的視点が必ずといってよいほど浮上してくる。より具体的にいえば、ヨーロッパ思想史を基準としてそれとの比較を通して日本思想史を記述するという態度である。明治維新以降の近代日本の歴史を、アジア的・封建的・近代的という歴史段階の進展の度合いに従って記述する「講座派」的な史観はその典型といってよい。だが少し考えみればわかる通り、日本の歴史は何もヨーロッパという歴史モデルをなぞるために存在しているわけではない。とくに、ヨーロッパという尺度に照らして個々の現象や人間に対して「進んでいる」「遅れている」という価値判断を下すことなど余計なお世話といわざるをえない。
だがこの「比較」の視点は意外なほど頑強でありそこから逃れるのは難しい。わたしたちはどうしても日本の歴史をヨーロッパモデル従って扱う態度から逃れられないのである。逆のケースだが、小林秀雄がベルクソンについて、日本対ヨーロッパという比較の視点ぬきにあくまで日本の一読者の個人的な体験も根ざしながら論じようとして失敗したことがある(『感想』)。その反動から小林は純粋内在的なかたちで『本居宣長』を書くわけだが、今度は堂々巡りの悪無限に陥って議論そのものが沈没してしまったのだった。あるいは「日本」なるものをその完全な自生的歴史の枠組みのなかで論じようとした保田與重郎が無残なデマゴギーに陥ったことも想い起こされる。あるがままに日本という立場に即しながら日本を論じることの難しさはこの昭和期を代表するふたりの批評家の「失敗」によく現れている。比較の視点抜きには、言い換えればヨーロッパをモデルとする概念装置の枠組み抜きには記述が成り立たないにもかかわらず、いったんそこに依拠すれば必然的にヨーロッパモデルを尺度とする裁断に陥らざるをえない、というディレンマから逃れるのは難しい(丸山真男の『日本政治思想史研究』ですらそれを免れていない)。
今回渡辺浩の『日本政治思想史』(B6判・476頁・3600円・東京大学出版会)を読んだまっさきに感じたのは、本書が全面的にとはいわないまでも相当程度こうした「比較」の呪縛から逃れることに成功しているというのではないかということだった。本書は、江戸時代から明治維新までの時期における日本の政治思想の歴史を扱っているのだが、著者の渡辺は当時の政治思想をいたずらに「遅れた」段階として指弾することも、昨今の「江戸」ブームのように手放しで礼賛することもなく極めて冷静に、かつあたうるかぎり内在的な態度で読み解いてゆくのである。もちろん「文芸の共和国」(8頁)というような概念も登場する。そもそも日本思想史なるものがヨーロッパ流の概念装置をまったく欠いたかたちでは成立し得ないことは、「思想史」(Ideengeschichte)という概念自体がヨーロッパ産である以上自明であるといってよい。そうした条件のなかで渡辺は江戸期に生まれた様々な思想について出来るだけ内在的に描写している。その描写の生き生きした力が読んでいて何とも快いのだ。
渡辺が本書において江戸期の政治思想史を記述する上で設定した議論の枠組みは、「天」という普遍理念を軸とする儒学の思想体系と、「武」によって現実的な支配を行う徳川武家政権とのあいだの対立・葛藤であり、さらにはこうした二つの極のあいだで自生的・内発的に生まれた多様な思想的試みの諸相である。
神という超越的理念を欠く儒学の体系において、現世世界の秩序の普遍性を支えるのは「父子・君臣・夫婦・長幼・朋友」の「五倫」(人倫関係)に支えられる「仁・義・礼・智・信」の「五常」(徳)である。この原理を人格的に代表する「天子」によって現世世界は統治され秩序化される。儒学の「天」とはかかる統治秩序の正統性と普遍性を体現する理念に他ならない。したがって儒学の考え方に立てば「天」の理念のもとにある社会(天下)は基本的に徳によって治められなければならない(徳治)。それに対して「武」、すなわち軍事力とその担い手である「武士」(軍人)によって戦国の世を終わらせ統治=支配体制を確立した徳川政権は、その統治の正統性をあくまで「武」に求めざるをえなかった。将軍を頂点に戴く幕府そのものが軍事機構であり、軍事力(武威)に根拠を置く軍事政権だったのである。したがってわたしたちの常識に反して儒学の徳治原理と徳川軍事政権の「武威」による統治は根本的に対立せざるをえない。にもかかわらず江戸期を通して儒学が大きな影響力を持ったのは、「武」による支配がもたらした安定と平和(御静謐)が皮肉なことに「武」の担い手である武士の存在理由を脅かさざるをえなくなったからである。戦乱なき世に軍人がなぜ必要なのか?この問いに対する答えとして儒学イデオロギーが求められたのだった。
だがそれによって儒学の「天」と軍事政権の「武」の根本的矛盾が解決されたわけではない。しかもそこには江戸期社会の生産性の向上、とくに貨幣経済の拡大を通して次第に力を増していった町人層(初期ブルジョア市民階級)を背景に、この矛盾の間隙をぬうようにして社会や人間、支配の正統性をめぐる独自かつ多様な思想的試みが登場してくる。わたしたちはすでにテツオ・ナジタや子安宣邦らの先駆的研究によって、大阪に町人自身の手で設置された教育機関懐徳堂(富永仲基・山片蟠桃ら)について知っているが、渡辺の著作を読むとそうした動きが、それこそ「文芸の共和国」の広がりに支えられた全国的なものであったことをさらに知ることが出来る。これらの試みが「天」と「武」の矛盾の平面を、いわば自生的・内発的な思想形成の動きとして下から揺さぶり、ついには徳川政権そのものを崩壊へと追いやってゆくことになる。
こうした動きの端緒となったのが伊藤仁斎・東涯親子による「古学」の創設であった。彼らは孔子を中心とする儒学の始祖たちの教えに立ち帰ることを通じて「天」の普遍原理(理)に代わる、古えの聖人たちの生の実践のかたちとしての「道」という原理を見出す。「道」は抽象的な原理や理念ではない。それは人間の自然な生活の営み(俗)をそのまま肯定する「情」に、「愛」に根ざした原理である。それは「天」とも「武」とも異なる現世肯定の倫理、言い換えれば市民社会的倫理に他ならない。伊藤親子の後に登場する、新井白石や荻生徂徠にしてもそれぞれ立場は異なるにせよ、儒学、とくに正統性の弁証の学としての朱子学の「天」の普遍性に対して、社会や諸個人が多様なかたちで生み出す「道」の個別性・具体性に着目している点では共通しているように見える。それは、別な言い方をすれば現実そのものを客観的・科学的に見ようとする立場といってもよいだろう(日本古代史の始祖が白石であることを想起せよ)。さらにはみちのくのはての八戸に住む一町医者の立場ながら、京都の版元から『自然真営道』や『統道真伝』を公刊した安藤昌益がいる。昌益が、ほぼ同時代人のルソーとともに――もちろんまったく没交渉ながら――自然状態を人間の理想状態とし、「直耕」と呼ばれる「農」の原理に立った一種のアナーキズム社会を構想したことや、昌益とはまったく立場としては正反対ながら、商業経済の振興・発展のための経済理論を、これまたほぼ同時代のA・スミスやJ・ステュアートら古典派経済学者と無関係に独力で生み出した海保青陵が、懐疑と反省を原理とする科学的精神の重要性を説き、経済の豊かさが実現する生活の快適さを社会存立の基盤に置こうとしたことなども、下からの自生的・内発的な思想形成のマグマが江戸期の日本社会にいかに旺盛なかたちで蓄積されていたかを物語っている。
一方、「天」の正統性に代わる日本固有の正統性を弁証しようとする、いわば日本的名分論ともいうべきものも誕生する。いうまでもなく「国学」である。儒学の教義・論理を異国の「さかしら」として排撃し、「もののあはれ」の心情に根ざした「古への道」への回帰を主張した本居宣長がその集大成者であった。そして宣長の思想は江戸期の支配の正統性の構造に極めて重大なひび割れをもたらすことになる。それは、「武」による支配の正統性の上位に天照大神以来連綿と続く天皇の絶対性を置いたことによってであった。「古への道」とはまさしくこうした天皇の絶対性の弁証理念に他ならなかった。こうした、渡辺の言い方をふまえればほとんど「荒唐無稽」としか言いようのない論理が、宣長という当時の第一級の知性によって主張され、それが大きな広がりを持ったところに、逆説的ながら外国との「比較」のなかで自らのアイデンティティの弁証に明け暮れてきた古代以来の日本の歴史の悲喜劇の構図が透けてみえるような気がする。しかもこの悲喜劇はすでに触れたように小林や保田の問題にまでつながってゆくのである。国学運動が、幕末の尊皇攘夷運動を経て近代天皇制を軸とする明治国家の支配へとつながっていったことはあらためて言をまたないだろう。
さてわたしが本書を読んで最大の感銘と衝撃を受けたのは「思想問題としての「開国」」という章だった。ふつうわたしたちは、それまで西欧を知らなかった日本がペリー来航という「外圧」をきっかけとする「開国」によってはじめて西欧を知り、その衝撃によって幕府体制が崩壊し近代日本の歩みが始まった、というふうに認識している。だが渡辺は当時の資料に基づいて、そうした認識が誤りであることを指摘する。「西洋諸国への「開国」は「外圧」によって強いられたものだ。従来、しばしばそう語られてきた。一時声高に「攘夷」を叫んで徳川政権を苦しめ、その後一転して「開国」を容認した明治新政府の指導者にとっても、それが自己正当化しやすい物語だったからであろう。しかし、それは、歴史の一面でしかない。「開港」「開国」は、ペリー来航の遥か以前から、強弱や損得とは別に「道理」に適っているのかどうかという思想問題としてあった」(363頁)。
徳川政権が、日本人漂流民の帰還のための外国船の来訪や国書の配信を「礼」の規範にのっとりつつ峻拒する一方で、そうした徳川政権のやりかたを「不仁」であり「失敬不遜」であるという批判も数多く存在した(司馬江漢・高野長英など)。つまり外国船の来訪を認める「開国」は、たんなる「外圧」問題にとどまらず、日本が示すべき「道理」の成否に関わる問題としても存在していたということである。このことは、すでに言及した日本思想史の内在的記述の可能性にひとつの重要な示唆を与えているように見える。蒸気機関は存在せず、トキが江戸城の濠を飛び回っていた江戸期の日本社会は同時に、工業技術抜きに最高度の産業文明や市場経済を生み出していた社会でもあった。そこに様々な自生的・内発的思想が存在したからこそ――それは江戸期が初期市民社会の時代であった証しでもある――、「開国」から「文明開化」へ至る近代化の歴史もすでに準備されていたと考えることが出来るだろう。本書はそうした江戸期の思想史の見直しを促す好著である。(2010.8)