ハンナ・アレント著/高橋勇夫訳(筑摩書房)
今私たちの社会において、諸個人の存在はその根底に至るまで掘り崩されてしまったように見える。ほとんどの個人にとって「生きる」という事実は、自らの存在の内奥から発現するものによってではなく、社会のすみずみまで張り巡らされた情報や映像のネットワークを通して与えられる「像(イメージ)」によってかろうじて確証されているに過ぎないのではないだろうか。この「像」は実体も意味も持たない空虚な浮遊体のようなものである。諸個人にとって今「世界」は、そうした浮遊体としての「像」が切れ切れに現れては消えてゆく
だが同時にもう一つ確認しておかなければならないのは、この「像」が決して自然物でもたんなる虚構でもなく、まぎれもない人為の産物であり、実体を欠くにもかかわらずある「力」として作用しているという事実である。というのもこの浮遊体としての「像」は、ある明瞭な「意志」にもとづいて、諸個人の存在の根底を、その固有性を解体に追いやるべく極めて戦略的に生み出され流布されているからである。ではその「意志」の核心にあるものは何か。それは、諸個人に自らの身体を徹底的に外在物として、つまり「もの」そのものとして感受させることを、裏返していえば決して自分の身体としては実感させないことを、さらには一切の思考や判断が停止し、自分自身の感情や感性が失われ、他者への共感や友愛の意識も失われてしまっている状態へと諸個人を追いやることを、そして生きる場としての「世界」が無機的な断片の集積に向かって解体し尽されてしまうことを目指す一種の「悪意」である。ただしこの「悪意」が、実態的には「善意」によって形成されていることを見落としてはならない。社会を安全な場にしたい、そのためには治安確保のための管理・監視のシステムが必要だ、という「善意」、従業員に給料を払わねばならない、株主には配当を行わなければならない、そのためには消費性向を出来るだけ効率よくかきたてて商品を売りさばき儲けなければならない、という「善意」、うちの子供には将来安定した生活を送って欲しい、そのためにはキャリアアップのための質のよい教育を受けさせたい、という「善意」、学校は安全で居心地のいい場所でなければならない、そのために秩序を乱すような不良分子は徹底的に排除するか厳重に管理する必要がある、という「善意」――、こうした「善意」が、じつは上記のような「悪意」の核心をなしているのである。
ではなぜこうした「善意」が、諸個人の存在を根絶やしにしてしまうような「悪意」へとつながってゆくのか。それは、個人の存在と社会との関係のうちに極めて逆説的なメカニズムが潜んでいるからである。このメカニズムの一つの側面は、個々人が有する「私的領域」と社会の関係のあり方として現れる。すなわち私的領域に根ざした欲求の相互調整の領域として社会が成立することに伴なって作動し始めるメカニズムの問題である。「自己保存」と呼ばれてきたこのメカニズムは私的領域の相互調整を名目として作動しながら、最終的には私的領域をも含む形で個々人の存在を蹂躙し自らの支配下に包摂してしまう。このとき社会はレヴァイアサンとして個々人の存在に対して絶対的な権能を帯びつつ君臨することになる。個々人の存在と社会のあいだにこうした関係が存在する限り、社会が個々人の存在を完全に蹂躙する全体主義的な体制へと向かうことは必然的な運命であるといわねばならない。
ところでこうした事態はもう一つの側面を持っている。それは、社会が自律化しながら膨張し個々人の存在をのみこんでしまうとき、個々人の側においては「世界」を失うという事態が生起するということである。ここでいう「世界」は客観的意味での環境世界のことではない。ここでいう「世界」は、個々人が自らの生を通して外に向かって自己を開き、他者と交わりながら表現やコミュニケーションを行う場を意味している。その中心に言語活動があることはいうまでもない。そして何より重要なのは、こうした「世界」の存在、あるいは「世界」という場において展開される自己と他者の相互関係を通して初めて個々人は自らの存在の根拠を、そのかけがえのなさ、唯一性を確証することが出来るということである。つまり人間存在の複数性と唯一性は相互的なものであるということである。真の意味での感情も感性も、思考も判断も、そして自らが自らの身体と精神を通してこの世界に帰属し、そこにおいて意味あるものとして屹立しているという存在感情も、すべてこの「世界」のうちにあることにおいて生成するのである。
こうした「世界」が失われることは、個々人の存在がその生もろとも存立根拠を失うことを意味する。それは、社会の膨張と自走化の中で個々人の存在がそのかけがえのなさを失い、匿名化された「もの」になるという事態として現出する。ジョルジョ・アガンベンの言葉に従えばそれは、人間の生が「ビオス」としての固有性を失って「ゾーエー(動物的生)」化されるということに他ならない。冒頭で言及した浮遊体としての「像」の切れ切れの点滅に対応するのはこうした「ゾーエー」としての生の様相なのである。
『責任と判断』に続き筑摩書房から刊行されたハンナ・アレントの未公刊草稿の翻訳『政治の約束』(A5判・278頁・3000円・筑摩書房)を読みながら私は今ある社会の危機の深さにあらためて思いをめぐらさざるをえなかった。本書で展開されている議論は、この間に刊行された『思索日記』Ⅰ・Ⅱ(法政大学出版局)や『カール・マルクスと西欧政治思想の伝統』(大月書店)などのほぼ本書と同時期のテクストを読んでいるものにはある意味でおなじみの議論といえるだろう。アレントは、プラトンとともに成立した政治哲学の伝統が、哲学という内閉的な思索行為(テオリア)の名において、実践を通した外部への開け(プラクシス)としての政治という領域を卑しめ、その結果として公的領域――この言葉は先ほどの「世界」とほぼ同義であるといってよい――の根幹としての政治が西欧政治思想の伝統のなかで衰滅の道を辿ってきたことを、またマルクスによって決定的な形で人間の集団生活におけるヘゲモニーが「政治的なもの」から「社会的なもの」へと移しかえられ、それによって公的領域の根幹をなす政治の伝統が完全に根絶やしにされたことを指摘する。マルクスの理解に関して、時代的な制約はあるにせよ、アレントがマルクス理論の持っている「社会的なもの」の根源的批判としての側面、すなわち物象化批判の側面を見落としていることは残念なのだが――同じことはスピノザの理解についてもいえる――、アレントがホメーロスに遡る形で公的領域としての「世界」の意義を繰り返し強調していることの意味は小さくない。アレントにこうした問題意識を喚起したのは、いうまでもなく20世紀における全体主義の体験であったが、ナチスが斃れて60年を超える今日、アレントが全体主義体験を通して深刻に憂慮した「世界を失う」という事態はナチスの時代以上に根深く私たちの世界に浸透しつつあるように見える。安全(セキュリティ)の名において、個々人の存在(生)に対してミクロレヴェルに至るまで監視と管理のネットワークと触手を届かせようとする現代社会の「善意の名における悪意」は今や極限にまで達しつつあるといってよい。私たちの五感や、ひょっとすると「私」という意識までもがこうしたネットワークによって捏造されたものかもしれないのだ。このことに関連してアレントのほとんど予言的ともいえる本書の一節を引用しておこう。
「現代における無世界性(worldlessness)の拡大、人間と人間の間にある、ありとあらゆる事柄の衰退は、砂漠の拡がりと言うこともできる。私たちが砂漠の世界に生きて行動していることを最初に認識したのはニーチェであったが、その診断に際して最初の決定的な過ちを犯したのもまたニーチェであった。彼の後を継いだほとんどの者たちと同じように、彼は、砂漠は私たち自身の内にあると信じていた。その結果、彼は最初期の意識的な砂漠の居住者の一人としてだけではなく、さらにそのもっともひどい錯覚の犠牲者としても、登場することになったのである」(本書233頁)。
世界を失うことは断じて心理学の問題でも、ましてや精神医学の問題でもない。それは文字通り「世界を失う」こととして認識されねばならないのである。もしそうでないとすれば、私たちは世界を失うことを心理過程に還元し、それを個人の内部の出来事として受容してしまうからである。それは同時に「砂漠のほんとうの住人になること」(234頁)を意味する。そのときひとは世界を失うことの傷みに対して不感症になってしまうのである。あの「自己責任」という新自由主義が流 布した悪魔の言葉が恐ろしいのはまさにこの点である。貧困も悲惨も悲しみもすべてが個人内部の「病気」にされてしまうからである。「<病>を治して<競争>という名の戦場に戻ってくることだけが生きる道なのだ」という居丈高な「自己責任」の脅迫の裏側で、生はますますゾーエー化され「もの」と化してゆく。
ニーチェの読み方についても異論がないわけではない。おそらくアレントが終生どうしても理解できなかったのはスピノザからマルクス、ニーチェへと至る思考の系譜に潜在していた「自然の自己産出性」の契機なのであろう。マルクスの労働概念にせよ、ニーチェの「力への意志」概念にせよ、その根幹をなしていたのは対象化に代わる受動性の認識であった。そしてこのことはアレントが提示する「世界」概念にとってじつはたいへん重要な意味を持つのである。アレントの「世界」概念が真の意味で具体化されるためには、ほんとうはスピノザ、マルクス、ニーチェのなかにあった自然の自己産出性に根ざした受動性(被贈与存在としての認識)の契機を組み込むことがどうしても必要であったはずなのだ。正統的なヨーロッパ思想の継承者としてのアレントにはそれは難しかったのだろうか。
いずれにせよアレントが指摘する「世界が失われること」の危機はいっそう深刻さを増している。言葉が完全に無力となり人と人の間が完全に切断されてしまうとき、事態はもはや取り返しのつかないものとなる。「つねに世界の潜在的不死性は、世界を築いた人々の死すべき運命と、世界で生きるために誕生してくる人々の出生を、条件としている」(236頁)というアレントの言葉の意味を今深く噛みしめてみる必要がある。(2008.6)