白井聡 著(作品社)
数年前に『未完のレーニン』(講談社選書メチエ)で鮮烈なデビューを果たした白井聡 の、より本格的なレーニンについての論考『「物質」の蜂起をめざして』が刊行された(B6判・366頁・2600円・作品社)。もう少し早く書評したいと思っていたのだが、柄谷行人にS・ジジェクと、ここのところ大きな思想的射程を含んだ大著に取り組んできたせいもあって取りあげるのが遅くなってしまった。しかし今回読んでみて、それらのスケールの大きな、そして長年にわたる蓄積を一挙に開花させたそれぞれの著者にとっての快心作ともいえる著作と並べて、白井の新著が決して見劣りしないのには瞠目させられた。たしかに若書きを思わせる箇所がないわけではない(この頃の若い世代に共通する文体上の欠陥だと思うのだが、理由を表す接続表現には機械的に「ゆえに」「よって」を使うだけでなく、「したがって」とか「その結果として」とかもっと多様で柔軟な言い回しを使うべきである。そうしないニュアンスの欠如が読むものの神経を逆なでする)が、全体としてレーニンに取り組む問題意識とその内的必然性の論証、それを裏づける客観的な認識の提示、間接直接にレーニンと関わる多様な言説のサーベイとその解釈等、じつに周到に組立てられており、「今更なんでレーニンなのか」と思いながら本書を手に取るであろう多くの読者に、「今こそレーニンなのではないか」と思わせてしまう強い説得力を持っている。
それにしてもやはり1989年の事態以後「死せる犬」として扱われるのがつねであったレーニンを白井は今なぜ取り上げなければならなかったのか。じつはそこで、先々月の柄谷、先月のジジェクに共通して現れていた問題が、この白井の著作においてあらためて浮上してくるのだ。それはコミュニズムの再帰の問題である。白井自身も本書のエピローグを「「モノ」のざわめきから新たなるコミュニズムへ」と名づけている。白井の新著もまた、今や「亡霊が徘徊している」段階をはるかに超えて、私たちの世界がどこへ向かおうとしているのか、向かうべきなのかを考える上での中心的な課題としての位置へと再帰しつつあるコミュニズム問題の文脈と結びつくのである。コミュニストであるレーニンを扱っているのだから当然といえば当然なのだが。
思えば89年の事態によって資本主義=自由主義は、社会主義はもとより、いっさいの「外部」の存在を滅却することによって、完全に内部化された自同的な世界を実現させるとともに、この完全に内部しか存在しない世界においてはすべての抗争が消滅するという幻想を生み出した。その幻想は「グローバリゼーション」という形で具体化された。抗争なき内部世界の自同性の実現としての「グローバリゼーション」は歴史に内在する葛藤や矛盾の契機を根絶してくれるはずだった。しかし現実はそうではなかった。それを露わにしたのが2001年9月11日の「事態」であり、さらには2008年の恐慌だった。比喩的な言い方をすれば、9・11において「グランドゼロ」に穿たれた巨大な穴は、「グローバリゼーション」という閉じた内部へとふたたび「外部」が荒々しく再帰してくる流 入口だったのではないだろうか。あるいはリーマン・ブラザーズのクラッシュもまた、マネーゲームが永久運動のように自同的に続くという幻想の上に成立した純粋な内部世界としての金融秩序に巨大な裂け目が穿たれたことを告げる出来事だったのではなかったか。だが翻って考えれば、白井が「二度目の幻滅」(17頁)と呼ぶこの事態は、かつてレーニンによって創りだされたソ連社会主義という巨大な「外部」がいったん消滅し、「外部」の存在しない内部世界が再度築かれた後で、その内部世界がふたたび崩壊に追いやられたことを意味しているのではないだろうか。とするならばこの「二度目の幻滅」は、レーニンによる「外部」の創設をいわば反復する「亡霊」的事態と考えることが出来るはずである。つまり今私たちの前にはっきり姿を現しつつある「外部」とは、レーニンの「亡霊」的な再帰だということになる。逆にいえば、今再帰しつつある「外部」とは何かを明らかにするためには、「亡霊」的に再帰しつつあるレーニンとは何であるのかを明らかにする必要があるということなのだ。
もちろんこのレーニンは「亡霊」である以上、一度目のレーニンとは違った形で現れる。だが重要なのは再帰してくるのがレーニンであることなのだ。それは、再帰してくる「外部」がレーニンの創設した「外部」だということを意味する。いや、この言い方は正確ではない、再帰してくるのはレーニンだけではないからだ。ちょうどレーニンが十月革命によってソ連という「外部」を創出したように、レーニンに先行する時代から同時代にかけて、多くの思想家や芸術家たちが「外部」を創出した。なによりもマルクスがそうだった。ニーチェもそうだった。レーニンと同時代に「外部」を創出したもっとも重要な思想家はフロイトだった。その焦点が「無意識」であったことはいうまでもない。ロシア・スプレマティズムの創始者だったマレーヴィチもまた、対象や主題を欠いた絵画という「外部」を創出した。白井は直接触れていないが、亡命中のレーニンのチューリヒの寓居近くにカフェ・ヴォルテールを開いたダダイスト、フーゴー・バルもまた「外部」の創出者だった。逆に言えばレーニンは、多くの思想家や芸術家たちとともに、19世紀から20世紀にかけて資本主義が帝国主義的な海外侵略と国内独占への志向を強めていた「内部化」の時代に、反転的な形で資本主義の秩序を根幹からラディカルに揺るがすコミュニズムという荒々しい「外部」の創出へと向かったのだった。レーニンがそのための武器にしようとしたのが「唯物論」という思想に他ならなかった。
ではこの「唯物論」という思想はどのようなものだったのか。白井はそれを「〈力〉の思想」と呼ぶ。この「力」という言葉はただちにニーチェの「力への意志」を、あるいはフロイトの「欲動」を想起させる。白井のレーニン認識のもっともユニークな点はレーニンをフロイトと結びつけたところにある。フロイトの欲動のように、意識の秩序の根底で蠢く不気味な、そして不定形な何ものか、たえず意識の自明性を深層から脅かす異形なエネルギー
― 、それがここでいう「力」に他ならない。ただここで一点注意しておかねばらないのは、このように捉えられる「力」が、しばしば誤解されるように起源や根源、祖型ではないことである。つまり「力」の発見とは「起源=根源への回帰」ではないのだ。フロイトの「無意識」を想い起こしてみよう。フロイトは「無意識」を決して実体化しなかった。それは、フロイトが「無意識」を意識の起源として捉えたわけではないことを同時に意味する。フロイトは「無意識」を、意識が負う外傷から事後的に発見されるべきものとして捉えた。つまり意識の外傷が「無意識」を生むのである。それは「抑圧されたものの回帰」に他ならない。このフロイトの考え方には明らかにニーチェの「系譜学」の考え方が影を落としている。ニーチェもまた「原因=起源」は「結果」から派生的に発見されるべきものとして捉えようとした。与えられているのは結果だけなのだ。ニーチェの場合、この結果とは「遠近法」が作動している事態を意味している。すなわち複数のまなざしが中心をめぐって互いに抗争しあっている事態である。このような視点から「力」を捉えようとするとき、「力」もまたすでにそこにある結果から事後的に発見されるべき何かであり、決して起源や根源・祖型でないことは明らかであろう。レーニンはその「力」を「物質」と呼んだ。『唯物論と経験批判論』はそのマニュフェストに他ならなかった。
では「力」はどのように見出されるのか。それはすでに明らかなように現にある意識の「外傷」や「遠近法」におけるまなざしの抗争を通して見出されるものである。より端的にいえば、ここでいう「力」とは、現に存在する抗争の過程の内部で働いている、その抗争の「原因」でありながら、決して「原因」そのものとしては取り出すことの出来ない何かとして、言い換えれば「不在的現前・現前的不在」(今村仁司『暴力のオントロギー』)という形でのみ存在しうるものなのだ。ようするにこの「力」は、抗争の過程のなかに実体として分離されえない「結果にして原因」として組み入れられているものなのである。
レーニンに話を戻せば、こうした抗争の過程において不在的現前として働く「力」を、たえず制度や秩序をラディカルな形で揺さぶる力として明確に現前させることが「唯物論」の立場となる。この抗争の過程において働く「力」は、何かこの抗争の外側に位置する第三者的な座標軸から静態的に認識されるべきものではなく、この抗争の過程自身によってしか、つまり行為遂行的な過程そのものとしてしか捉えられえないものだからだ。それが唯物論的であるということなのだ。抗争の原因であり結果であるこの「力」は、端的に言うならば抗争の過程においてある遠近法の位置を実践的に占めること、より単純にいえばこの抗争に勝利することのなかでしか「力」そのものとしては現われ出ることはないのである。つまりそれは「物質的」な力である。ここでさきほどから「抗争」というややあいまいな言葉を使って表わしてきたもの
― 「抗争」という言葉を使ってきたのはひとえにそれがレーニン以外の思想家や芸術家にもあてはまるということを示したかったからである
― が「階級闘争」であることが明らかになる。レーニンにとって「力」とは、「階級闘争」を通して発見されるべきもの、そして「階級闘争」の実践とその勝利という形で物質化されるべきものなのである。ここに白井のいう、レーニンの唯物論が「「物質」の蜂起」である理由が存在する。
レーニンの「力」の思想としての唯物論は、「階級闘争」の思想として、より精確にいえば階級闘争を物質的な意味で勝ち抜くための実践的思想として具体化されることになる。この「物質的」な勝利は「物理的勝利」だけを意味するわけではない。「力」が「物質の蜂起」として再帰してくること、それによって「外部」が再帰してくることを意味しているからだ。白井はいう。「資本主義の〈外部〉がこの世界から消滅したと思われる瞬間に、いかにして〈外部〉を発見し、それをこの世界に導き入れることができたのか、いかなる思想的境位がそれを可能にしたのか―ここにレーニンの思想と実践の意義を今日問う際に、対象化されるべき焦点がある。〈外部〉が消滅したかに見える瞬間に〈外部〉を切り拓く〈力〉の思想、これが本書において筆者が描写しようと試みるものである」(19頁)。
白井の力強くみずみずしい問題提起に促されて、白井の論の自分なりの再構成にそくした読後感のようになってしまったが、本書には私たちが今日避けて通ることの出来ないもっとも重要な課題としてのコミュニズムの問題について、極めて本質的な思考を促す問題提起が含まれている。誰もこの問題提起に背を向けることは許されない。(2010.12)