『<死の欲動>を読む』 : 小林敏明








小林敏明 著(せりか書房)




評者 : 宇波 彰(明治学院大学名誉教授)


ジャック・ラカンは1964年に行なった『セミネールXI 精神分析の四基本概念 』において、精神分析の四つの基本概念が「無意識・反復・転移・欲動」であると述べた。精神分析の概念としての「欲動」の重要性がラカンによって認識されていたと見なければならない。フロイトの孫の「いないいないばあ遊び」(Fort-Da)も論じられている「快原則の彼岸」(1920)においては、「生の欲動」とともに「死の欲動」(Todestrieb)の概念が示されている。本書は、その「死の欲動」の概念についての綿密な考察である。

 著者はまずこの「死の欲動」の場である「無意識」の前史についてシェリング、ショーペンハアー、ニーチェなどに遡って検討する。次にフロイト自身の思想形成の過程で、「無意識」という考え方がどのように展開していったかを明らかにする。この二つの「前史」には、われわれの知らない思想家・科学者も登場するが、著者はわれわれにはなじみの薄いものもある彼らの著作にもいちいちあたって、どういう考えがフロイトの思想の背景にあるのかを子細に解明していく。そして、フロイトの思想がいかに「自我/意識中心主義」というパラダイムの転換であったかを論証する。これはフロイトの考えを「思想史的に」捉え直そうとする試みと理解できる。「不断に練りなおされるフロイトの基本構想において<死の欲動>を想定することが、いかに大きな転換を強いることになったか」(p.141)が著者にとっての問題である。この「転換」もしくは「転回」こそ、フロイト論の重要なテーマの一つであるというべきであろう。

 「快原則の彼岸」において、「死の欲動」を中心に位置させ、そこにフロイトの思想の一種の「転回」を見ようとするのは著者だけのものではない。「快原則の彼岸」も収められているフロイトの論文集"Das Ich und das Es"の解説で、マックス・ホルダー(Max Holder)は「快原則の彼岸」においては、それまでの快原則と現実原則という対立関係に代わって、生の欲動と死の欲動という新たな対立関係が考えられたと指摘している(S.21)。また、邦訳のあるクセジュ文庫『フェティシズム』の著者ポール=ローラン・アスンの『精神分析文献事典』の「快原則の彼岸」の項を見ると、死の欲動という問題設定が「重要な革新性」(innovation majeure)を持つものであると指摘されている(p.225)。すでにアスンは『精神分析』(1990)においても、フロイト思想の「1920年の転回」(le tournant de 1920)について論じているが、それは「死の欲動」の概念が提示されたことである。

 また、三原弟平は、『ベンヤミンと精神分析』において、フロイト自身が「死の欲動」の概念が「いまだ確立していないことを認めていた」と指摘し、次のように述べている。「いや、確立どころか、この著作(「快原則の彼岸」)は、<死の欲動>という素材をはじめて思考の俎上の提出しただけの、まったくの準備段階、助走段階のものにすぎない」としている(p.58)。「死の欲動」は、「はじめて思考の俎上」に乗った新たな概念として位置づけされているのであり、これはアスンの考えに通ずるものである。なお、三原弟平の『ベンヤミンと精神分析』によると、ベンヤミンは「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」において、「快原則の彼岸」に言及しているが、「死の欲動」には触れていない(p.26)。著者は現代生物学の成果をも検討し、「フロイトの生の欲動と死の欲動との二元論仮説」が「かならずしも時代遅れの妄想などではない」と説く。

 著者が強調するのは、「欲動を核とする無意識」についてのフロイトの考えは、あくまでも仮説であり、Spekulationであるという見方である。アスンもSpekulationという用語を特に重視し、「以下はSpekulationである」というフロイトのことばを引用している(p.225)。ポール・リクールのフロイト解釈は、ラカンの解釈と徹底的に対立しているといわれているが、そのリクールも『フロイトを読む』において次のように述べている。「『快楽原則の彼岸』はフロイトの著作のなかで最も解釈学的でなく、思弁的である。つまりその著作では、極限にまでおしすすめられた仮説や、発見のための理論的構成などが占める部分が極度に大きいのである。」(p.308)(ここで「思弁的」と訳されているもとのフランス語は、speculatifであり、「思弁的」という訳語ではカバーしきれないものがあることはいうまでもない。)このSpekulationにも関係することであるが、評者にとって最も印象に残るのは、著者がフロイトの論文のなかから「勇気」(Mut)ということばを見いだしてくるところである。「死の欲動」を支えるものは「反復強迫」であるが、フロイトにとってはこの概念はあくまでも「仮説」である。著者もまた「フロイトの死の欲動という仮説概念はみかけほど強い実証的根拠の支えられちるわけではない」と断言する。フロイトは「実証的根拠」を欠いたその仮説を主張する「勇気」(Mut)が必要だと説いた。フロイトは次のように書いている(小林敏明の訳による)。「われわれは次のような仮説を立てる勇気を見いだすことだろう。すなわちそれは、心的な生のなかには快原理を超え出るような反復強迫が本当にあるという仮説である。」(p.106) 仮説もしくは概念を示すときに「勇気」が必要だという考えがここに明白に示されている。仮説とは、当然と見なされていたことを否定したり、いままではなかったような新しい考え方んことであるが、それを真なるものとして提示するためには「勇気」が必要だというのである。フロイトのテクストにある「勇気」ということばを見いだしてきたのは、著者の卓見である。

 この論点に関連して想起されるのは、ジャック・ラカンが『精神分析の四基本概念』で次のように述べていることである。「実際概念は、それが把握すべき現実への接近によって形作られるとしても、概念が実現化を達成するのは、極限におけるある飛躍、ある乗り越えによってでしかありません。」(邦訳p.24)ラカンがいう「飛躍・乗り越え」(saut,passage)は、勇気がなければ行われない。これはラカンがこのセミネールで語った「学者(フロイト)のよく知られたこの勇気」(邦訳p.43,Seuilp.35)のことであろう。真理の確実性、あるいは「確信」を支えるものは、この「勇気」にほかならない。
 著者は「フロイトを徹底的に読み直す」(p.217)を目標としたと書いている。それはけっして容易なことはない。たとえば著者はフロイトの「自我とエス」で示されている「死の欲動」についての説明が「すべて接続法第二式」で書かれていて、それによって「述べられている内容のすべてが仮定であることが明示されている」(p.191)と説いている。このように、本書は「死の欲動」に関してなされた綿密な解読の報告である。その難しい作業の報告が、きわめてわかりやすい文章で記されていることに評者は感銘を覚えた。

引用文献

小林敏明『<死の欲動>を読む』,せりか書房、20126月刊

S.Freud,Einleitung von Max Holder,Das Ich und das Es,Fischer Taschenbuch Verlag,1992
ジャック・ラカン、小出浩之他訳『精神分析の四基本概念』、岩波書店、2001
J.Lacan,Quatre concepts fondamentaux de la psychanalyse,Seuil.1973
Paul=Laurent Assoun,Dictionnaire des ouvres psychanalytiques ,PUF,2009
Paul=Laurent Assoun,Freudisme,PUF,1990
三原弟平『ベンヤミンと精神分析』水声社、2009
ポール・リクール、久米博訳『フロイトを読む』新曜社、1982

再発見 日本の哲学 折口信夫 ―― いきどほる心:木村純二









木村俊二著講談社)




最近折口信夫への関心がふたたび高まっているように思われる。少し前になるが、若き日の折口の性愛関係を掘り起こすとともに、「恋人」藤無染の影響による折口の英語文献への関わりを明らかにすることによって従来の一国主義的な折口観に大きな転機をもたらした富岡多恵子の『釈迢空ノート』(岩波書店)、そしてその成果を受ける形で折口学とアジアとの関わりを論じ、さらに包括的な折口観の転換を推し進めた安藤礼二の画期的な折口論『初稿 死者の書』(国書刊行会)、『神々の闘争』(講談社)の刊行がそうした動きをもたらすきっかけになったのではないかと思う。辰巳正明の大著『折口信夫 東アジア文化と日本学の成立』(笠間書院)もまたそうした系統に連なる新しい折口研究として注目される。さらに近刊の中沢新一『古代から来た未来人折口信夫』(ちくまプリマー新書)は、青少年向けの新書という枠組みのなかではあるが、折口の思想・学問が持つ根源性、真の意味での「新しさ(未来性)」を鮮烈に描ききっており、これまた注目すべき折口研究の成果というべきであろう。なお未読だが上野誠『魂の古代学 問いつづける折口信夫』(新潮選書)も刊行されたばかりである。

 こうした折口への関心の再度の高まりの背景にあるのは、常民文化の空間的アイデンティティと祖先崇拝の時間的アイデンティティによって支えられている柳田民俗学の同心円的な同一性の構造に対し、折口の思想・学問がある根源的な逸脱・非同一性を含んでいるという認識であろう。そうした逸脱、言い換えれば折口学の持つ、柳田民俗学に対する根本的な異端性が、例えばポストコロニアル批評のもたらした文化内部の非同一的な非連続性や亀裂の認識を折口学の内在的な読み換え可能性につなげてゆこうとする問題意識や、従来ややもすれば柳田の方法の持つ「科学性」に対し低く見られてきた折口の実感・直観志向を、むしろ積極的に折口学の持つ近代科学主義を超えるアクチュアリティの契機として見直してゆこうとする志向へとつながっていると考えることが出来る。ようするに柳田民俗学へと連なる国学や日本学の系譜が暗黙のうちに前提としている「日本」の一国的なアイデンティティを根源的に脅かしかねないラディカルな非同一性の契機(異端性)を折口学が孕んでいることに、ようやく多くの人が気づき始めたということではないだろうか〔詳論は差し控えるが、私見ではこうした折口の読み直しの先駆となったのが吉本隆明の『共同幻想論』であり、さらには「アジア的なもの」をめぐる議論や『母型論』を中心とする起源論である。『現代思想』臨時増刊号「吉本隆明」のなかの拙論参照〕。

 そうした中、若き日本思想史の研究者である木村俊二の新しい折口論が刊行された(B6判・278頁・1400円・講談社)。本書は、昨年から刊行が始まった「再発見 日本の哲学」シリーズ(菅野覚明+熊野純彦責任編集)の一冊である。本シリーズは、これまで上記のような一国性を核として形成されてきた「日本」イデオロギーに肯定・否定の立場を問わず制約されることの多かった日本思想研究を根本的に転轍させようとする野心的な試みといってよいだろう。とくにそれぞれの思想家が内面において抱えていた精神のドラマを掘り起こしながら、思想の成立平面を公式的な図式を超えてヴィヴィットに描こうとする姿勢が特徴的である。

 本書においても著者の木村はそうした折口の精神のドラマに内在しながら折口学の思想的契機を抽出しようとする。では木村によって捉えられた折口の精神のドラマの核心、言い換えれば折口の思想の起源の場・風景とはどのようなものだったのか。
 冒頭の序章で木村は、折口の処女歌集『海やまのあひだ』から「いきどほる心すべなし。手にすゑて、蟹のはさみを もぎはなちたり」という歌を引いて、折口の精神の核にあるものを「いきどほる心」という形で取り出す。それは折口の心の奥底にたゆたっている「憤り」の情念に他ならない。この「噴り」は、折口学の公的な論理の側面においては、本居宣長が掲げた自らの国学の根本姿勢である、「あはれ」という心の動きに忠実であること、言い換えれば悲哀を特権的な中心とする人間の感情の動きに素直に従うという姿勢と会い通じるものを含んでいる。折口の学問における実感や直観の重視の根源にあるものはこの「いきどほる心」であるといってよいだろう。同時にそれは、理性の手前にある感情こそが彼の学問の出発点であることを指し示している。

 だが木村はこの「いきどほる心」の基底をなすものを、単純に折口の学問世界の問題に解消しようとはしない。序章でまず一個の概念的構図として提起され、第四章「罪、恋、そして死」で実証面も含め詳論されている折口の個としてのドラマに、この「いきどほる心」は深く関係づけられているのである。
 木村も引いている岡野弘彦の優れた評伝『折口信夫の晩年』の中にあるように、教え子との関係、あるいは交友関係において、折口はしばしば激しく怒りを爆発させている。その怒りは相手を徹底的に追い詰め相手の精神を粉々に打ち砕いてしまうまでやむことがない。ではこうした折口の怒りの根源にある物は何なのだろうか。木村は次のようにいう。「憤る折口の姿が見る者に感動を与えるのは、その憤りが心の奥深くからまっすぐに発せられているからであり、そしてみずからの置かれた状況も顧みず、瞬時に怒りを発することができるのは、折口が、常に高い緊張度で、周囲のひとびとに「まこと」をもって臨もうとしているからであろう。あるいは、その怒りが、深い孤独に裏打ちされているからだと言ってもよい」(16頁)。

 折口の「憤り」の核にある「まこと」と「孤独」は、いわば個としての折口の内面と折口学の公性をつなぎ蝶つがいのごときものである。言い換えれば、折口の「自我」に刻まれている深い傷――その傷が孤独をもたらす――から発するとともに、その傷ついた自我を回復させ「まこと」をもたらす力ともなるのが、この「憤り」に他ならないのである。というのも折口の「憤り」は、「何の為に生まれたのか」「わが命のもとは何か」という生の根源への問いと結びついた深く個的なものであると同時に、個的なものを超えて深く折口学の基底をなす「日本」なるものの起源・根源の認識に関わっているからである。
                   
 第一章「国学者折口信夫」において、木村は折口の目指したものが「国学」であったことを踏まえた上でその国学が、江戸期から明治近代へと受け継がれていった正統派の国学の伝統とは根本的に異質なものであることを明らかにする。もう少し具体的にいえば折口の国学は、国学の伝統を通して生み出された明治以降の近代国民国家形成のプロセスと対応する国家神道のあり方、とりわけその「道徳化」のプロセスと大きく隔たっているということである。いな、隔たっているというよりも、闘うべき相手としてそれはあったというべきである。

明治近代国家はそのネイションとしての実体を、天皇を同心円的中心とする家族=民族共同体のイデオロギー的擬制によって代補しようとしたが、その際に重要なのは、天皇制が近代現象をも含めながら無限抱擁的にすべてを自己のうちへと包摂しうる構造を持っていたことである。そのことをイデオロギー的に根拠づけようとしたのが国家神道に他ならない。そしてそこでイデオロギーの核心をなしているのがある種の道徳的因果律に他ならない。この道徳的因果律は、平田篤胤によれば、「記紀の冒頭に現れるタカミムスビ・カミムスビの二柱の神は、男女の対の神であり(……)、イザナギ・イザナミが国土を生むことができたのも、男女のムスビの神の「御徳(ミイツ)」を賜ったからである(……)。それゆえに、イザナギ・イザナミによって生み成されたものは、天地人物を始め、国・山・草木に至るまで、「男女の真理」「自然に具はる」のだという(……)。その帰結が、右に見たような、「妻子を恵みて、子孫を多く生殖」することこそ「我が皇神の道」である、という神道論」(40~41頁)の形で具体化される。そこからは、折口の国学との関連で二つの問題が浮かび上がる。一つは、男女の性愛関係が「生殖」(産出)と結び付けられていること、より端的にいえば「生むこと=善」という倫理的・道徳的目的因の設定から逆に性愛関係が規定され、その結果「生むために・生むがゆえにまぐわう」という因果関係が成立することである。性愛はこうして産出の倫理に従属することになる。さてもう一点は、生むことが親と子の系譜を軸とする祖先崇拝の構造を同時に作り出すということである。タカミムスビ・カミムスビから始まる皇統譜は、いわば「日本」をすっぽりと祖先崇拝の倫理・道徳の中へと包摂するための媒体となるのである。

木村によれば、折口はこうした神道道徳論に激しく抗ったのであった。その根拠となったのは、一つには、起源としての神が善のみをもたらす肯定的な性格だけでなく、まさに「憤る神」として、一挙に天地も人物をも破壊し去る「邪悪な」、否定的性格をも持っていることであった。そして折口は神も持つこのような善悪を超えて「憤る」破壊的側面をこそ神の本質として見なければならないとしたのである(第二章参照)。そしてこのことは、本書の重要なテーマである折口の神道宗教論の核心と関わってくる。つまり神を道徳的因果関係の内部での善として位置づけることに宗教としての神道は根ざしてはならない、という折口の独特な認識につながってゆくのである。このことは、第二の、そして本書の最大の主題といってよいスサノオの問題をさらに導いてゆく。スサノオは高天原というパンテオンから追放された神である。そこにはスサノオの「罪」(天つ罪)の問題がからんでいることは周知の通りである。だが木村は周到な読解を通じて、折口が「スサノオは罪ゆえに追放された」という因果律を否定していることを明らかにする。そして折口が、スサノオの罪を、いわば天皇族によって征服された民であるこの国土に土着してきた民衆の「罪」――この「罪」は基本的には征服されたことの同義反復であり、強いていうならばその聖痕(スティグマ)に他ならない――と、非因果的に結びつけようとしたことも。

 私見ではこのことは、起源としての共同幻想がその彼岸に宗教・法・国家として制度=権力化される第二の共同幻想を生み出す転轍点としての意味を持つ(吉本『共同幻想論』「罪障論」参照)。本来因果性の存在しないところに罪を起点とする因果性を設定することが、天皇=国家の起源であるとすれば、折口の思想には極めてラディカルな国家否定の契機がはらまれていることになる。このことに木村が激しく迫ろうとしたことこそが本書の最大の眼目といえよう。と同時に、その背景にはスサノオの罪(哀しみ)を自らの哀しみとして受け止めようとする折口の内面のドラマが存在することを明らかにしようとしたことも。さらにいえば、このことと折口の、生殖から切り離された純粋な性愛(恋)という認識が深く関わっていることを木村は明らかにしているのだが、もはや紙数が尽きた。ともあれ力作である。(2008.9)