責任と判断 :ハンナ・アレント




ハンナ・アレント著 ジェローム・コーン編 中山元訳(筑摩書房)



ハンナ・アレントに対する再評価熱の高まりは一向におさまりそうもない。とくに2001年9月11日の「事態」以降、アレントをめぐる議論はいっそう切実さを帯びてきているように思われる。ナチスによるユダヤ人を中心とする無辜の民に対する意図的・計画的な集団虐殺という事態に直面して、アレントはその虐殺という事態をいわば試金石とする形で、自らの精神の起源であるヨーロッパ文明の原理とその歴史、とりわけ近代という時代が本格的に形成・確立される19世紀以後の社会および歴史におけるヨーロッパ文明の原理の根拠、正統性、限界などについて他のどんな思想家よりも真摯に問い直しを行おうとした。この問い直しの持つ意味は9月11日以降の事態に関しても有効である、というよりも極めて切迫性を帯びた課題となっているといえるように思える。

個々人の精神の多様性の承認、異なる意見や考えに対する寛容、暴力や権力の支配力によらない自発的な討議倫理にもとづく合意形成と規範の正統性の確立等々、古代ギリシアに起源を持ち、ルネサンスと市民革命を通してさらに鍛えなおされて近代ヨーロッパ社会の主導的なパラダイムとなったリベラルな人文精神(フマニスムス)の伝統は、まずナチスの蛮行によって根底的な危機にさらされた。だがそればかりではなく、2001年9月11日の事態に対してブッシュやブレア、小泉たちが宣告した新保守主義・新自由主義的な「対テロ戦争」によって、より正確に言えばその根拠をなしている「善」と「悪」の二元的な裁断イデオロギーによって再度、いなむしろナチスの場合と比べてもはるかに致命的ともいえる二度目の打撃を受けたのだった。寛容に対しては裁断と一方的な攻撃が、討議に対しては力づくの暴力と支配が、正統性に対しては物理的力の優位が臆面もなく対置される中で、リベラルな人文精神の伝統など屁の役にも立たないという恐るべきシニシズムが蔓延していっからである。このシニシズムが何より嫌うのは反省であり批判であり冷静な討議である。現状を無条件に肯定せず権力者のいうことに批判や異論を唱える人間はみな非国民であり潜在的テロリストとみなされるのだ。日本の安倍政権や最近フランスで成立したサルコジ政権などはこのシニシズムの――じつはそれはもう半ば以上全体主義といってよいのだが――もっとも典型的な現われといえるだろう。
ここで問題なのは、ナチスの時代と異なり、今私たちの世界にはアレントも、アドルノも、ヤスパースも、ミチャーリヒももはやいないことである。巨大なマスメディアの世論誘導や監視社会システムの個々人における内面化もあって、彼らがやったように、こうした事態に対してあえてマイノリティの立場に立ちながら対抗的・批判的言説を組み立てそれを公論化してゆくことの絶望的な困難さが私たちの精神を苛むのだ。

だからこそアレントなのである。私たちはアレントが行った困難な言説上の闘いを今改めて振り返ってみる必要があるのだ。今回公刊された『責任と判断』(A5判・302頁・3800円・筑摩書房)は、そうしたアレントの言説上の闘いがいかなるものであったかを知るために好適な著作といえるだろう。この著作の主題は文字通りタイトルに示されている通り、「責任」と「判断」である。「責任」とは道徳のことでもあり、「判断」とはそれを基準として行われた時代状況に対する診断である。ここでは問題を前者に絞って、アドルノ風にいえば、アウシュヴィッツ以降道徳について語りうる言説は可能なのか、自ら野蛮に加担するか、野蛮に対して無力な形でしか語れない「道徳」とは異なる道徳の原理がはたして提示可能なのか、という問いを立ててみたいと思う。このことに関して、本書の内容に入る前に、本書より少し前に公刊されたアレントの『思索日記』(Ⅰ・Ⅱ巻 青木隆嘉訳 法政大学出版局)の冒頭の文章を見ておきたい。じつはこの文章の内容と本書の内容が深く関連しているからである。
 1950年6月という日付のある無題のノートでアレントは、「赦し」と「和解」という二つのカテゴリーを提示する。まず「赦し」についてアレントは、「赦すそぶりをするだけで、平等も人間関係の基礎も根本から壊れ、本来なら、その後は平等な人間関係はありえなくなる。人間の間での赦しとは、報復を断念すること、黙ること、看過することにすぎないのだ」(『思索日記』Ⅰ 5頁)という。「赦し」という言葉に関して、例えば従軍慰安婦問題をめぐる「何度謝ったら赦されるのか」というような言い方が想い起こされる。ここで問題なのは発言した当人がいつか「赦し」があると予定調和的に考えていることである。だがアレントに即せば、そうした「赦し」への期待は、その事実への関わりの忘却であり責任の放棄でしかないのだ。ここでアレントの言葉は加害者と被害者の両面に及んでいる。加害者の側から「赦し」を求めることは、神のみに可能な背負い込んだ重荷からの解放を被害者の責任において実現しようとすることを意味し、被害者の側からいえば「赦し」によってふたたび被害を受けた際に生じた加害者との不平等な関係を再演することを意味するのである。

さて「和解」のほうはどうか。アレントはこういう。「和解では、他者の重荷を取り除くと約束したり自分に罪はないふりをしたりして、自分にやれもしないことをやると偽るわけではないから――他者との和解は芝居ではない。〔……〕和解する者は、他者の重荷を進んでともに担うのだ。和解によって平等が再建される」(同 6頁)。「和解」は「赦し」の断念の上に成立する。だから和解は加害者側にとって「赦し」の到来を意味してはいない。むしろ逆に加害者の側が被害者の重荷をともに担うことの始まりであり、そのことによって可能となる平等の実現なのだ。このアレントの議論は正直なところ分かり難い。だが本書に戻るとこのことに関連をして次のようなアレントの言葉を読むことが出来る。「誰に裁く権利があり、裁く能力があるかという問題には、はるかに重要な道徳的な問題がかかわってきます。〔……〕ここでは次の二つを指摘しておきましょう。第一に、大多数の人々、またはわたしの周囲のすべての人々が、善と悪の問題をあらかじめ裁いていたとしたら、わたしはいかにして善と悪を区別できるのでしょうか。裁くわたしとは誰なのでしょうか。第二にわたしたちは、自分がまだ生まれてもいなかった過去の出来事や事件を、裁くことができるのでしょうか。裁けるとすれば、どこまで裁けるのでしょうか」(27頁)。

ここでアレントが「裁き」というカテゴリーを出してきていることに注目しなければならない。「裁き」は「赦し」と真っ向から対立するカテゴリーであると同時に、私の理解ではありうべき「和解」への出発点となるものである。そしてそのことによってこの「裁き」というカテゴリーは、本書でアレントが考える道徳性の本質へとまっすぐにつながってゆく。ところで和解というとき、とくに宗教的な文脈から出てくる総懺悔論的な発想が出がちである。「あなたも罪びと、わたしも罪びと、罪びと同士赦しあい和解しあおうではないか」といういわば負の和解である。アレントの考える和解がこうした総懺悔論的文脈に立つ負の和解ではないことはいうまでもないが、その根拠となるのが「裁き」なのである。アレントは次のようにいう。「この裁判という制度においては、時代精神(ツァイトガイスト)からエディプス・コンプレクッスにいたるまで、個別のものにかかわらないすべての抽象的な根拠づけは力を失います。ここで裁かれるのは、さまざまなシステムや、傾向性や、原罪などではありません。わたしたちのような肉と血のある人間が裁かれるのです。法廷で裁かれるのは、人間の行為なのです。すべての人に共通する人間性の健全さを維持するために不可欠とみなされている法に違反した行為が裁かれるのです」(30頁)。
            
ある意味では常識的ともいえる裁判モデルにたった「裁き」の規定によってアレントは何を提起しようとしているのだろうか。誤解を怖れずに言えば、どのような極限状況にあっても発揮されなければならない個としての位相における責任の所在であり、そうした責任において確証される道徳の形式である。なんだ、そんなの近代主義的なブルジョア・ヒューマニズムに過ぎないじゃないかという揶揄が来そうな気もするが、ちょっと待ってほしい。アレントは道徳性の本質を「孤独(ソリテュード)と規定した上で次のように言っている。「善と悪の基準、<わたしは何を為すべきか>という問いに対する答えは、究極的にはわたしが周囲の人々と共有する習慣や習俗にかかわるものではありませんし、神の命令や人の命令によるものでもありません。わたしが自分に下す決定によるものなのです」(118頁)。
最後の言い方は明らかにカントの定言命法を想起させるが、実際ここで問題になっているのはカント的意味における自律であることは明白である。だが問題はそこにとどまらない。真に問われなければならないのは、なぜアレントがあえて「個人」とか「個性」ではなく「孤独」、あるいは「単独性」という言い方をしているのかという問題である。それに関して極めて興味深い例証をアレントは挙げている。それは、ナチス体制下であえて抵抗を行った人々に対するアレントの認識である。アレントは彼らが自分には出来ないことは出来ないという形で自分自身を軽蔑することを肯んじなかった人たちであるという。自分を軽蔑しないという格率は、「自分に嘘をつかない」という自己の自己に対する関係の形式、つまり完全に閉じた自己内関係の形式においてしか確証されえないという意味では、対他的な力を何ら持っていない。だがこのいかなる対他的な証明も不可能な絶対的な単独性のうちにおいてしか道徳の根拠は確証されえないのである。                                        

このカントの文脈にそくした単独性の理解が、本書における道徳の規定の最終的な段階である「意志」の問題にもつながってゆく。つまり問題はつねに行為の担い手であると同時に意志の担い手として、自らの行為の善と悪に対し究極的な形で責任を負わねばならない自己そのもの、人格そのものであるということである。とはいえこの自己は真空状態の中で純粋自我としてあるわけではなく、つねに他者に対して開かれた歴史的・社会的な場、文脈のうちにある自己でもある。このとき「意志」は「自由」と同義となる。「意志」とはある開かれた行為の場において自己の責任において、言い換えれば自己が自己に命ずる理性の法としての良心にしたがって自由に自らの行為を選択する根拠となるのである。このような文脈にたって「裁き」から「和解」への道を考えること、言い換えれば単独者としての責任において和解を担うことがはたして可能なのか。アレントが問おうとしているのはこのことである。
アレントは、まさしく良心の名における自由な単独者だった。だからこそ『イェルサレムのアイヒマン』の出版の結果ユダヤ社会から孤立することも怖れなかった。このアレントの意志を私たちは自分自身のそれぞれの現場であらためて引き受けていかねばならないのではないだろうか。(2007.6)

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