三浦信一郎 著( 三元社)
もう三十年近く前になるが、船山隆の『現代音楽Ⅰ 音とポエジー』(小沢書店)を読み、現代音楽の歴史における二つの大きな出来事の意味についてはじめて目を見開かされて衝撃を受けたことがある。二つの出来事とは、ピエール・ブーレーズが「ピアノ・ソナタ第二番」や「ル・マルトー・サン・メートル(主のない槌)」などのいわゆる「ミュジク・セリエル」の技法に基づく作品によって、シェーンベルクの無調および十二音技法から始まる20世紀音楽の流れをその窮極的な到達地点にまでもっていったことと、ジョン・ケージが偶然性の手法を作曲技法に導入することによって「ミュジク・セリエル」を含む西洋近現代音楽の歴史総体を一挙に破壊し去ったことである。前者の出来事が、音楽を構成する素材としての音を、その音高、音価、リズム、和声などの要素に基づいてパラメーター化し、徹底したかたちで規則性(セリー)のなかに位置づけてゆくというラディカルな決定論的手法を極限までおし進めたところにその意味があったとすれば、後者は西洋近現代音楽の歴史においてつねに基本的なパラダイムとして機能してきた楽曲の完結性やその内的な秩序の自律性、そしてその基礎となる音階、拍節、和声などの楽曲構成上の諸規則を――ミュジク・セリエルはそれを極限化した――ことごとく解体してしまったところにその意味が見出される。私が衝撃を感じたのは、このような意味を持つ二つの出来事のあいだの関係のあり様が、当時日本で紹介が始まりつつあったポスト構造主義的思考と、その先行者である構造主義的思考とのあいだの関係のあり方にそのままあてはまると思われたからである。例えば、ブーレーズにおけるほとんど数学的ともいえるセリーの扱い方が、未開社会における婚姻関係とその前提となる親族構造を、ブルバキ派の数学的手法によって解明しようとしたレヴィ=ストロースの『親族の基本構造』における構造主義的発想と驚くほど似通っているのに対し、ケージの偶然性の手法は、構造の優位を否定し差異や出来事の一回性を重視するポスト構造主義的発想と対応しているといえる――もっともデリダが「構造破壊」ではなく「脱構築」といったことを踏まえれば、ポスト構造主義的思考は、ケージの偶然性の契機を、マラルメの『骰子の一擲』というもう一つの偶然性の回路を通じて自らのミュジク・セリエルの手法に接合し、「管理された偶然性」という考え方に到達した「ピアノ・ソナタ第三番」や「プリ・スロン・プリ」におけるブーレーズに対応しているといえるかもしれない――。逆に言えば、現代音楽においても20世紀現代思想と同じ問題状況が生じていたということである。
このことは、ヘーゲル・マルクス・ニーチェ・フロイト・フッサール・ハイデガーと続くヨーロッパ近現代思想の系譜のなかで生じた思想における近代とは何かという問い――その問いの先に構造主義とポスト構造主義が現れた――と正確に平行するかたちで、音楽における近代とは何かという問いを惹起する。直観的にいっても、ハイドンからモーツァルト、ベートーヴェンと続くウィーン古典派の音楽はドイツ観念論の系譜と時代的にも内容的にも対応していると考えられるし、ヴァーグナーの音楽がニーチェ、あるいはボードレールからマラルメ、ヴァレリーへと続く象徴主義運動と雁行していることは歴史的事実である。さらに20世紀の音楽が、上記のようなかたちで20世紀思想との平行関係を暗示しているとするならば、そこに思想における近代への問いと対応するかたちで、音楽における近代への問いが生まれてくるのは必然的であるといえよう。思想の流れにおいてそうであるように、音楽の流れにおける20世紀の状況もまた近代という歴史性のうちから生じた一個の帰結点に他ならないのである。私自身もう十年近く前になるが、拙著『響きと思考のあいだ リヒャルト・ヴァーグナーと19世紀近代』(青弓社)のなかで、ヴァーグナーの音楽を軸に、思想と音楽の対応関係のなかから見えてくる近代――この近代は、ドイツで「モデルネ」と呼ばれる美的な近代を意味していたが――を問い直す試みを行ったことがある。ただし音楽に関して一介の素人に過ぎない身での議論がどの程度妥当性を持ちうるのか自信が持てないでいた――ちなみにこの本への音楽学の側からの反応は皆無であった――。それだけに音楽学の専門家のなかから同じような問題意識に立った議論が現れることをずっと待ち望んでいた。
このたび公刊された三浦信一郎の『西洋音楽思想の近代』(A5判・370頁・4200円・三元社)はそうした私の渇望を満たしてくれる待望の著作である。著者である三浦のこれまでの仕事については、すでに叢書『ドイツ観念論との対話』(全6巻 ミネルヴァ書房)に所収の論文等――本書の一部をなしている――である程度知っていたが、今回あらためて一冊の本にまとめられたその内容を読んでゆくと、三浦の問題意識の所在、発想がよくわかってたいへん触発的であった。
本書をつらぬいている三浦の問題意識の核にあるのは、バロック音楽の持つ「情緒-描出」という性格からドイツ圏を舞台にして生まれた近代芸術音楽の持つ「感情-表現」という性格への転換を果たすことによって、西洋音楽の歴史に決定的な「革命」――本書中のCh・バーニーの言葉を借りれば「ドイツ音楽の革命」――がもたらされたことの意味とその経緯を明らかにするという課題である。そしてそうした課題の前提、出発点をなしているのは、先ほど私が言及した二つの出来事に対応する「調性の放棄」(シェーンベルク)と「「偶然性(不確定性)」および「沈黙」の思想と実践」(ケージ)という二つの事件を通じて生み出された現在の音楽をとりまく状況、すなわち「創作の主体」を中心とする「表現原理」から聴衆=享受者(消費者)を中心とする「聴取の美学」(庄野進)への推移に象徴される「脱芸術、反芸術」の動きを、西洋近代音楽の歴史総体の流れを踏まえるかたちでどう捉えればよいのかという問題に他ならない。このような三浦の問題意識は、まさに私が『響きと思考のあいだ』で問おうとした課題と重なり合う。本書に対して共感を禁じえない所以である。
さて議論の展開を追っていってみよう。17世紀バロック音楽における「情緒-描出」は、三浦に拠れば「特定の情緒の描出と喚起には特定の音楽的技巧が対応しうる」(22頁)という「合理的で、客観的で、類型的な」(同)発想にもとづいている。そしてこの合理性の背景には、ちょうどデカルトの「人間」がそうであるように、「人間一般」ではあっても「個別的・主観的自我を有する個人としての人間とは言えない次元」(23頁)における人間概念、あるいはそれに対応する世界概念がひそんでいる。この指摘は正鵠を射ているといえるが、より細密にみれば、反宗教改革運動としてのバロックの中に潜在する中世的な超越性への回帰志向(反近代)の要素――類型としての情緒を支える先験的な超越性の所在――と、デカルトと同時代のスコットランド啓蒙学派が求めようとしたアリストテレスに由来する経験的・慣習的トポス(智恵)の要素(もう一つの近代)が、異化結合的に結びついているのを見落としてはならないだろう。というのもそのことが、「情緒-描出」に代わるかたちで登場する18世紀から19世紀にかけての音楽の性格、三浦の指摘に従えば「疾風怒濤」期の音楽においてはじめて登場し古典派・ロマン派の音楽にまで及ぶ「感情―表現」という性格およびそれを支える「非合理的で、主観的で、感情的」な「創作の主体」のあり方に関して、それが必ずしも中世・バロック期からの直線的な推移の所産とはいえず、そこに錯綜した事情が存在することを明らかにするよすがとなるからである。
それは、本書におけるもっとも中心的な内容というべきカント・シェリング・ヘーゲルというドイツ観念論の系譜における芸術・音楽観と近代芸術音楽の歴史的推移のあいだの関係を問い直す要ともなる。例えば、第一部第一章で三浦は、近代芸術音楽の登場に対応する芸術観の問題として「音楽における自然」というテーマを掲げ、フィードラーやハンスリックの議論を踏まえながら「人間の精神の所産」としての音楽が人為を通して自然に到達する「第二の自然」を目指していたと指摘する。そして三浦の「第二の自然」の捉え方には、それをストレートに理念化しようとする姿勢が現れているように思われる。だがこの捉え方は、カントからヘーゲルへと至る近代思想の推移のうちに存在した、近代的な個別主体の措定とそれを超えるかたちで定立される世界の超越性とのあいだの関係――カントの言葉で言えば「超越論性」の問題である――をめぐる深刻な相剋の問題を素通りしてしまう危険性をはらんではいないだろうか。
この「第二の自然」に思想的に対応するのは、本書における三浦の議論に即せば、カントの「関心なき適意」を軸とする美の捉え方であり、シェリングにおける観念と実在の統合を実現する「無差別的統一性」に基づく芸術の把握であり、さらにはヘーゲルの「理念の感性的顕現」としての芸術美という見方である。そこには、理念的なものがそれ自体として感性的定在へと無矛盾的に具体化されることを可能にするものとしての芸術という考え方が底流している。だがこうした考え方には、「作る」(人為=制作)と「自ら成れる」(自然=生成)という対蹠的な存在観の振幅を軸とした、バロック的・中世的=反近代的超越性への志向と近代的な個別主観性への志向とのあいだの対立が隠されている。だからこそカントの美の見方は、スコットランド啓蒙派とも相通じる共通感覚にもとづいた「趣味判断」という前近代的概念と近代的主観性にもとづく「崇高」概念とのあいだでぶれているのだし、ヘーゲルは「芸術の終焉」というかたちで近代芸術批判を語らねばならなかったのである。しかもさらにヘーゲルからマルクスへと至る思想系譜においては「第二の自然」を「物象化」的な仮象・錯視として批判する視座まで登場する。この視点に立てば、近代的主観性それ自体が虚妄であることになる。
この問題は、ロマン派から始まる近代内部からの近代批判としての「モデルネ」の運動においてより深刻化する。紙数がないので詳細はひかえるが、私見ではこうした近代内部の相剋・対立をもっとも本質的なかたちで露呈させているのがヴァーグナーの芸術であり、だからこそそれは世紀末から20世紀にかけての「モデルネ」(アヴァンギャルド)運動の起点となったのである。そしてその運動の思想的帰結点として現れたのが、現代音楽の経験を基底に持つアドルノの美学に他ならない――そこにベンヤミンを加えてもよいだろう――。三浦の議論にはこうした近代の錯綜性へのまなざしが希薄な感じがする。
やや疑問をぶつける方向に傾きすぎた感がするが、本書が西洋近代における音楽と思想の相互関係というやっかいな問題に本格的なかたちで踏み込んだ貴重な試みであることは言を俟たない。こうした試みがようやく音楽学の内部から出てきたことを喜ぶとともに、著者の長年にわたる研究の労に満腔からの敬意を表したい。(2005.11)