日本政治思想史 :渡辺治






渡辺浩 著(東京大学出版会)




思想史、とくに日本思想史を考察の対象にしようとするとき、ある種の「比較」論的視点が必ずといってよいほど浮上してくる。より具体的にいえば、ヨーロッパ思想史を基準としてそれとの比較を通して日本思想史を記述するという態度である。明治維新以降の近代日本の歴史を、アジア的・封建的・近代的という歴史段階の進展の度合いに従って記述する「講座派」的な史観はその典型といってよい。だが少し考えみればわかる通り、日本の歴史は何もヨーロッパという歴史モデルをなぞるために存在しているわけではない。とくに、ヨーロッパという尺度に照らして個々の現象や人間に対して「進んでいる」「遅れている」という価値判断を下すことなど余計なお世話といわざるをえない。
 
  だがこの「比較」の視点は意外なほど頑強でありそこから逃れるのは難しい。わたしたちはどうしても日本の歴史をヨーロッパモデル従って扱う態度から逃れられないのである。逆のケースだが、小林秀雄がベルクソンについて、日本対ヨーロッパという比較の視点ぬきにあくまで日本の一読者の個人的な体験も根ざしながら論じようとして失敗したことがある(『感想』)。その反動から小林は純粋内在的なかたちで『本居宣長』を書くわけだが、今度は堂々巡りの悪無限に陥って議論そのものが沈没してしまったのだった。あるいは「日本」なるものをその完全な自生的歴史の枠組みのなかで論じようとした保田與重郎が無残なデマゴギーに陥ったことも想い起こされる。あるがままに日本という立場に即しながら日本を論じることの難しさはこの昭和期を代表するふたりの批評家の「失敗」によく現れている。比較の視点抜きには、言い換えればヨーロッパをモデルとする概念装置の枠組み抜きには記述が成り立たないにもかかわらず、いったんそこに依拠すれば必然的にヨーロッパモデルを尺度とする裁断に陥らざるをえない、というディレンマから逃れるのは難しい(丸山真男の『日本政治思想史研究』ですらそれを免れていない)。

 今回渡辺浩の『日本政治思想史』(B6判・476頁・3600円・東京大学出版会)を読んだまっさきに感じたのは、本書が全面的にとはいわないまでも相当程度こうした「比較」の呪縛から逃れることに成功しているというのではないかということだった。本書は、江戸時代から明治維新までの時期における日本の政治思想の歴史を扱っているのだが、著者の渡辺は当時の政治思想をいたずらに「遅れた」段階として指弾することも、昨今の「江戸」ブームのように手放しで礼賛することもなく極めて冷静に、かつあたうるかぎり内在的な態度で読み解いてゆくのである。もちろん「文芸の共和国」(8頁)というような概念も登場する。そもそも日本思想史なるものがヨーロッパ流の概念装置をまったく欠いたかたちでは成立し得ないことは、「思想史」(Ideengeschichte)という概念自体がヨーロッパ産である以上自明であるといってよい。そうした条件のなかで渡辺は江戸期に生まれた様々な思想について出来るだけ内在的に描写している。その描写の生き生きした力が読んでいて何とも快いのだ。

 渡辺が本書において江戸期の政治思想史を記述する上で設定した議論の枠組みは、「天」という普遍理念を軸とする儒学の思想体系と、「武」によって現実的な支配を行う徳川武家政権とのあいだの対立・葛藤であり、さらにはこうした二つの極のあいだで自生的・内発的に生まれた多様な思想的試みの諸相である。
 神という超越的理念を欠く儒学の体系において、現世世界の秩序の普遍性を支えるのは「父子・君臣・夫婦・長幼・朋友」の「五倫」(人倫関係)に支えられる「仁・義・礼・智・信」の「五常」(徳)である。この原理を人格的に代表する「天子」によって現世世界は統治され秩序化される。儒学の「天」とはかかる統治秩序の正統性と普遍性を体現する理念に他ならない。したがって儒学の考え方に立てば「天」の理念のもとにある社会(天下)は基本的に徳によって治められなければならない(徳治)。それに対して「武」、すなわち軍事力とその担い手である「武士」(軍人)によって戦国の世を終わらせ統治=支配体制を確立した徳川政権は、その統治の正統性をあくまで「武」に求めざるをえなかった。将軍を頂点に戴く幕府そのものが軍事機構であり、軍事力(武威)に根拠を置く軍事政権だったのである。したがってわたしたちの常識に反して儒学の徳治原理と徳川軍事政権の「武威」による統治は根本的に対立せざるをえない。にもかかわらず江戸期を通して儒学が大きな影響力を持ったのは、「武」による支配がもたらした安定と平和(御静謐)が皮肉なことに「武」の担い手である武士の存在理由を脅かさざるをえなくなったからである。戦乱なき世に軍人がなぜ必要なのか?この問いに対する答えとして儒学イデオロギーが求められたのだった。
 
 だがそれによって儒学の「天」と軍事政権の「武」の根本的矛盾が解決されたわけではない。しかもそこには江戸期社会の生産性の向上、とくに貨幣経済の拡大を通して次第に力を増していった町人層(初期ブルジョア市民階級)を背景に、この矛盾の間隙をぬうようにして社会や人間、支配の正統性をめぐる独自かつ多様な思想的試みが登場してくる。わたしたちはすでにテツオ・ナジタや子安宣邦らの先駆的研究によって、大阪に町人自身の手で設置された教育機関懐徳堂(富永仲基・山片蟠桃ら)について知っているが、渡辺の著作を読むとそうした動きが、それこそ「文芸の共和国」の広がりに支えられた全国的なものであったことをさらに知ることが出来る。これらの試みが「天」と「武」の矛盾の平面を、いわば自生的・内発的な思想形成の動きとして下から揺さぶり、ついには徳川政権そのものを崩壊へと追いやってゆくことになる。

 こうした動きの端緒となったのが伊藤仁斎・東涯親子による「古学」の創設であった。彼らは孔子を中心とする儒学の始祖たちの教えに立ち帰ることを通じて「天」の普遍原理(理)に代わる、古えの聖人たちの生の実践のかたちとしての「道」という原理を見出す。「道」は抽象的な原理や理念ではない。それは人間の自然な生活の営み(俗)をそのまま肯定する「情」に、「愛」に根ざした原理である。それは「天」とも「武」とも異なる現世肯定の倫理、言い換えれば市民社会的倫理に他ならない。伊藤親子の後に登場する、新井白石や荻生徂徠にしてもそれぞれ立場は異なるにせよ、儒学、とくに正統性の弁証の学としての朱子学の「天」の普遍性に対して、社会や諸個人が多様なかたちで生み出す「道」の個別性・具体性に着目している点では共通しているように見える。それは、別な言い方をすれば現実そのものを客観的・科学的に見ようとする立場といってもよいだろう(日本古代史の始祖が白石であることを想起せよ)。さらにはみちのくのはての八戸に住む一町医者の立場ながら、京都の版元から『自然真営道』や『統道真伝』を公刊した安藤昌益がいる。昌益が、ほぼ同時代人のルソーとともに――もちろんまったく没交渉ながら――自然状態を人間の理想状態とし、「直耕」と呼ばれる「農」の原理に立った一種のアナーキズム社会を構想したことや、昌益とはまったく立場としては正反対ながら、商業経済の振興・発展のための経済理論を、これまたほぼ同時代のA・スミスやJ・ステュアートら古典派経済学者と無関係に独力で生み出した海保青陵が、懐疑と反省を原理とする科学的精神の重要性を説き、経済の豊かさが実現する生活の快適さを社会存立の基盤に置こうとしたことなども、下からの自生的・内発的な思想形成のマグマが江戸期の日本社会にいかに旺盛なかたちで蓄積されていたかを物語っている。
 
 一方、「天」の正統性に代わる日本固有の正統性を弁証しようとする、いわば日本的名分論ともいうべきものも誕生する。いうまでもなく「国学」である。儒学の教義・論理を異国の「さかしら」として排撃し、「もののあはれ」の心情に根ざした「古への道」への回帰を主張した本居宣長がその集大成者であった。そして宣長の思想は江戸期の支配の正統性の構造に極めて重大なひび割れをもたらすことになる。それは、「武」による支配の正統性の上位に天照大神以来連綿と続く天皇の絶対性を置いたことによってであった。「古への道」とはまさしくこうした天皇の絶対性の弁証理念に他ならなかった。こうした、渡辺の言い方をふまえればほとんど「荒唐無稽」としか言いようのない論理が、宣長という当時の第一級の知性によって主張され、それが大きな広がりを持ったところに、逆説的ながら外国との「比較」のなかで自らのアイデンティティの弁証に明け暮れてきた古代以来の日本の歴史の悲喜劇の構図が透けてみえるような気がする。しかもこの悲喜劇はすでに触れたように小林や保田の問題にまでつながってゆくのである。国学運動が、幕末の尊皇攘夷運動を経て近代天皇制を軸とする明治国家の支配へとつながっていったことはあらためて言をまたないだろう。

さてわたしが本書を読んで最大の感銘と衝撃を受けたのは「思想問題としての「開国」」という章だった。ふつうわたしたちは、それまで西欧を知らなかった日本がペリー来航という「外圧」をきっかけとする「開国」によってはじめて西欧を知り、その衝撃によって幕府体制が崩壊し近代日本の歩みが始まった、というふうに認識している。だが渡辺は当時の資料に基づいて、そうした認識が誤りであることを指摘する。「西洋諸国への「開国」は「外圧」によって強いられたものだ。従来、しばしばそう語られてきた。一時声高に「攘夷」を叫んで徳川政権を苦しめ、その後一転して「開国」を容認した明治新政府の指導者にとっても、それが自己正当化しやすい物語だったからであろう。しかし、それは、歴史の一面でしかない。「開港」「開国」は、ペリー来航の遥か以前から、強弱や損得とは別に「道理」に適っているのかどうかという思想問題としてあった」(363頁)。
 
 徳川政権が、日本人漂流民の帰還のための外国船の来訪や国書の配信を「礼」の規範にのっとりつつ峻拒する一方で、そうした徳川政権のやりかたを「不仁」であり「失敬不遜」であるという批判も数多く存在した(司馬江漢・高野長英など)。つまり外国船の来訪を認める「開国」は、たんなる「外圧」問題にとどまらず、日本が示すべき「道理」の成否に関わる問題としても存在していたということである。このことは、すでに言及した日本思想史の内在的記述の可能性にひとつの重要な示唆を与えているように見える。蒸気機関は存在せず、トキが江戸城の濠を飛び回っていた江戸期の日本社会は同時に、工業技術抜きに最高度の産業文明や市場経済を生み出していた社会でもあった。そこに様々な自生的・内発的思想が存在したからこそ――それは江戸期が初期市民社会の時代であった証しでもある――、「開国」から「文明開化」へ至る近代化の歴史もすでに準備されていたと考えることが出来るだろう。本書はそうした江戸期の思想史の見直しを促す好著である。(2010.8)

スピノザの方法 : 國分功一郎







國分功一郎 著(みすず書房)


一年間にわたるドイツ・ライプツィヒの滞在ももうまもなく終わろうとしている。このブックハンティングの原稿をドイツから送るのも今回が最後である。
そういうわけで3月に入ると帰国が迫ってきていろいろあわただしくなってきた。帰国に備えての荷物の整理、書籍や資料の仕分け(今回ライプツィヒにもってきた和書はほとんどをライプツィヒ大学日本学科に寄贈してゆくことにした)などに追われる日々が始まった。ところがそんな最中に衝撃的なニュースが日本から飛び込んできたのである。いうまでもなく311日の東北太平洋沖大地震の発生である。ふだんほとんど日本のニュースを報じないドイツのテレビや新聞が連日地震とその後の津波の被害、さらに福島第一原発の災害についてトップで報道し続けた。伝わってくる情報、そして映像はいずれも目をおうようなものばかりだった。私事になるが私の生まれ故郷は宮城県の仙台市である。両親が早くに引越したので暮らしたことはほとんどないが、仙台が私にとって故郷であることはまぎれもない事実である。実際親戚はまだいるし、私自身子供のころからしょっちゅう仙台には帰省していた。その仙台をはじめ宮城県の各市町村が無残に破壊され多くの犠牲者を出したことに胸ふさがる思いがする。帰国したら私も私なりに故郷のためにやれることをやりたいと考えている。

てこの地震の問題に先立って、とくにヨーロッパで連日大きく報じられていたがアラブ・北アフリカ地域の民衆革命だった。チェニジアから始まりエジプト、リビア、イエメン等に及ぶこの民衆革命のうねりは、日本の地震とはまた別な意味で全世界に衝撃を与えている。今リビアへのNATO軍の介入が始まりふたたびいわゆる「中東」地域に戦争が勃発しつつある。連日地震のニュースとリビアのニュースを交互に報じるドイツのテレビを見ながら私は次第に奇妙な思いにとりつかれていった。このふたつの出来事にはむろん共通性はない。両方がほぼ同時に起きたのは偶然にすぎない。だが起こった出来事から事後的にみるならば、ふたつの出来事からある本質な類似性が見えてくるのではないか。そう思えてならなくなってきたのである。 

回の東北太平洋沖大地震は日本付近のプレートの接触面に巨大な圧力がかかってひずみが生じたため岩盤が崩落して発生したといわれている。地球という巨大なシステム内部の動き次第にひずみ(矛盾)を形成しある日突然巨大地震という破局に至ったということである。アラブ・北アフリカ世界はどうか。この地域はまず石油という現代でもっとも重要な戦略物資の生産地である。さらにはパレスティナ問題を軸とする「中東問題」の震源地である。またそうした政治状況との関連で冷戦時代、ポスト冷戦時代を通じてアメリカがサウディアラビアを始め宗主的な独裁国家を一貫して支援してきた地域でもある。かつてはソ連への対抗のためだったが、1979年のイラン革命以降はイスラム思想に主導されたアラブ・イスラム民衆革命が勃発するのを阻止するためだった。イスラム原理主義=テロリストという図式に基づく対テロ戦争はそうした民衆革命の抑圧のための口実に過ぎなかった。アラブ・イスラム民衆革命による宗主的独裁体制の崩壊は、まず第一にアメリカの石油戦略に致命的打撃を与えるからであり、第二にはこの地域におけるアメリカのエージェント「国家」であるイスラエルの存続を危機に陥れるからである。これらの地域でムスリム同胞団やハッマース、ヒッズボーラなどの民衆の支持を得た組織が選挙で多数派となっても、アメリカは宗主的独裁権力が武力で彼らを弾圧して政権に居直るのを容認してきた。アメリカン・デモクラシーなどというものは虚構にすぎないことは明白である。しかも近年では擁護されるべき利害は新自由主義のもとでアメリカ一国というよりグローバル化した世界市場経済そのものになっていた。伝えられる情報によるとエジプトのムバラクもリビアのガダフィも数兆円にもぼる蓄財をしていたそうだが、そうだとすればこれら宗主的独裁者もまたグローバル経済の恩恵を受ける利害当事者になっていたことになる。こうした利害共同体の圧力のしわ寄せの犠牲になってきたのがこの地域の民衆だった。独裁者の途方もない蓄財額からも明らかなようにグローバル経済のもたらした富が民衆までまわることはなかった。つまり民衆という社会の「プレート」には徐々に巨大なひずみ・矛盾が蓄積されつつあったのである。今回の民衆革命の勃発はまさにそうしたひずみ・矛盾によって社会の岩盤が崩落し強烈な反発力が働いた結果である。その意味ではアラブ・北アフリカの民衆革命はグローバル社会という「地球システム」で起こった「地震」に他ならない。 

北太平洋沖大地震に話を戻せば、すでに地震後10日以上がたっても孤立した地域や援助の行き届かない地区が解消されないという事実に突き当たる。小泉内閣とともに本格化した日本の新自由主義政策は、地域の拠点ともいうべき郵便局、行政の出先機関、銀行の支店等のネットワークをずたずたにしてしまった。グローバル化の波によって地域のコミュニティの保全力が著しく衰退し一元化された巨大物流に頼らないと生活できない情況が生み出されていたのである。原子力発電もその要素のひとつであることはいうまでもない。そのことが今回の地震後の惨状、窮状の大きな要因になっていることを私たちは見落としてはならない。その意味では今回の地震とともに生じた状況は、新自由主義的なグローバル経済がどれほど地域を中心とする生態ネットワークとしての「地球システム」にダメージを与えたかを如実に物語っているといえよう。地震の被災者とアラブ・北アフリカの民衆はグローバル経済の犠牲者という点で通底する。
あらためて私たちは今問わねばならない。真の民衆の自立、地域のコミュニティの自立はどうしたら可能となるのか、単一世界市場の支配に代わる遠心的・拡散的なコミュニティネットワークによる社会の再生をどうはたしてゆくのか、を。

311日以後私の精神状態は一変してしまった。ただただドイツから日本のすべての人たちが、とりわけ行政からも企業からも見放されて孤立する被災者の人たちがなんとか無事であってほしいと祈る日々が続いた。正直にいってとても書評の原稿を書くというような精神状況にはなかった。日本を離れている分だけ不安や焦りがつのるのだった。しばらく前に、昨年の夏偶然アムステルダムの国立美術館のショップで会った國分功一郎が『スピノザの方法』(A6判・359頁・5400円・みすず書房)を公刊したことを知ったので、日本の友人に頼んで送ってもらうことにした。そして読み始めるや否や、その精密で犀利極まりないスピノザのテクストの読解と解釈、今までほとんど誰も指摘してこなかったスピノザの「方法」に内在する諸問題の堀り起こしなど、たいへん優れたスピノザ論であることがすぐ分かったのでライプツィヒから送るブックハンティングの最後はこの本にすることを決めていた。そして帰国に備え早めに原稿をまとめようとした矢先に地震のニュースが飛び込んできたのである。胸にむらがり起こる様々な思いからとうてい平静な気持ちで書評の原稿を書く気にはなれなかった。したがって國分には申し訳ないが平素のようなスタイルの書評は今号では取ることができなかった。

だがその一方、すでに述べたような民衆の自立の問題、コミュニティの自立の問題はじつは本質的にはスピノザの問題ではなかったということに思い至った。私はスピノザの思想を考える上で中心となる問題、概念が三つあると考えている。すなわち「事後性」「受動性」「自己産出性」である。そしてこの三つの問題はいずれもたんに哲学的であるだけにとどまらずすぐれて政治的な問題でもあるのである。「事後性」は、第一原因や主体、自己意識といった根源=本質を起源として位置づけようとする発想を根本的に顛倒しようとする。すべては生じた結果から逆に思考しなければならないということである。「受動性」は今述べたこととも関連するが、主体=主語の能動性に、言い換えれば自己を起源として設定することに定位しようとする発想への反措定である。主体もまた何ものか自らを超えるものから受動的に贈り与えられるものとしてあるということである。以上のような問題を総合するとき見えてくるのが「自己産出性」に基づく世界存在論の構想である。人間と自然は対立するものではなく、むしろ人自然の自己産出性のトータルな作動過程に人間存在の創成の過程もまた含まれ位置づけられるのである。こうした「事後性」「受動性」「自己産出性」という三つの契機から見えてくるスピノザの思想は、およそデカルト主義を宗主とする近代ヨーロッパ思想の正系とは異質なものだった。そして重要なのは、その異質性によって私たちはスピノザの中に、近代ヨーロッパ思想の正系がついに見出すことのできなかったオルタナティヴの可能性を見出すことが出来るのではないかということである。とりわけ自然や人間を資源として搾取し蹂躙することを旨としてきた近代ヨーロッパ思想(その帰結が新自由主義であることはいうまでもない)に対抗し、自己産出性としての自然、あるいはその社会的現実態としての民衆に真の意味で根ざした世界を創造するためにはどうしてもスピノザの思想が踏まえられねばならないのである。

こうした問題意識を持って國分の本を読むとき、たとえば「事後性」の問題は、スピノザ思想の根幹に関わる「方法」に内包された「逆説」の問題として明らかにされている(第一部)。また「受動性」の問題は、デカルトの「神の存在証明」に対するスピノザの内在的読解をたどることによって浮かび上がってくるスピノザの「神=最高存在者」と存在の関係の問題として取り上げられている(第二部)。また「自己産出性」の問題は、そのデカルトとの格闘の末に見出されるスピノザ思想の核心というべき「自己原因」論として論じられる。これはそのままスピノザの主著『エチカ』の根本問題ともなる(第三部)。このように國分は本書でまさにスピノザ思想のもっとも根幹に関わる問題を鮮やかに抉り出すことによって私たちの前に今までなかったような鮮やかなスピノザ像を提示して見せるのである。そして繰り返しになるが、それはたんに哲学的な問題というだけにとどまらないすぐれてアクチュアルな課題を私たちに突きつけるのである。
おそらく本書が学問的にもっとも評価されるのは第二部のデカルト問題についての記述であろう。スピノザは単純にデカルトを批判したわけではなかった。それどころか國分によればスピノザはデカルト主義者でさえあった。ただしスピノザが一貫してデカルトの中に見ようとしたのは「あるべき」デカルト、「ありえたはずの」デカルトであった。だが現実のデカルトはそれを裏切ってしまったのである。先行思想をどのように乗り越えてゆくのかという問題についてもこのスピノザのデカルト読解は私たちに多くの示唆を与えているように思われる。(2011.3)

吉本隆明と共同幻想 : 高橋順一




高橋順一 著(社会評論社)


評者 小林敏明
(ドイツ・ライプツイヒ大学教授


高橋順一の頭の抽斗のなかには何でも入っている。大げさに言えば、そのなかにはただ「知らない」という言葉が入っていないだけである。だが、それがこれまで彼の書き物を不幸にしてきたことも確かな事実であると思う。しかし、本書はそういう博覧強記の高橋にしては例外的な著作と言わねばならない。なぜならここであつかわれる対象はそのまま彼の代替不可能な一生を左右した事柄であり、それゆえに彼はいやおうなく肉声で告白気味にも語らなければならなくなっているからである。あのがむしゃらに書かれた、二十数年前のほぼ処女作といえるヘーゲル論『市民社会の弁証法』(弘文堂)と並んで、私が本書を高橋の重要な著作に数え入れたいと思うゆえんである。
 旧友どうしであることからくる馴れ合いを避けて、忌憚のない感想を述べてみたい。共有した体験を含めて論じてみたいことはつぎつぎに湧いてくるが、ここでは本書に直結してもっとも重要と思われる二点だけにしぼって論ずることにする。

第一点は初期吉本のキーワードとも言うべき「関係の絶対性」という概念をめぐってである。私にはこの概念はかつてから一貫してわかりにくかったし、今でも相変わらずわかりにくい。あっさり言うと、なぜ吉本はこれをたんに「客観的現実」と表現しなかったのか、その「意図」が本人からも、また彼を解釈する者たちからも明確に説明されてこなかったからである。それは廣松渉の一見よく似たテーゼ「関係の一次性」に当初から著者による綿密な理由づけがなされていたのと対照的でさえある。本書のなかでも高橋はこの概念が自明であるかのようにあつかっているが、それは吉本ワールドの読者にしか通用しない「黙契」にすぎない。

では吉本はなぜ「現実」ではなく「関係」という表現を選んだのか。思想史のコンテクストから見ると、これはマルクスの有名なテーゼ「人間は社会的諸関係のアンサンブルである」に発していると思う。ただし、吉本はこれをたんに「社会」の次元だけにとどめることなく、そこに同等の重みをもって「自然」との関係を読もうとしたがゆえに、たんに「関係」と表現したのである。言い換えれば、彼にとって「人間疎外」という「関係の絶対性」は社会からの疎外だけではなく、自然からの疎外でもあらねばならなかった。じじつ若きマルクス自身がそういう論議をしている(『経済学哲学草稿』参照)。そして同時にそれは当時の硬直した唯物論の唱える「物質」「現実」「実践」といった概念に対するアンチ・テーゼでもあった。「客観性」を「絶対性」に置換したのもおそらく同じ動機に発している。

同様に当時の唯物論に対するプロテストは、もうひとつの吉本用語「逆立」にも如実に現れている。周知のように、唯物弁証法なるものにとっての動力源は「否定」ないし「矛盾」である。これがなければ、弁証法は動くことができない。だが、吉本はこの「否定」「矛盾」をあえて「逆立」と表現する。高橋の明快な説明によれば、「逆立」とは「一方の側に立つとき、他方が消去される関係のあり方」である。このかぎりではこの概念は論理的に「矛盾」と変わらない。注意されなければならないのは「消去」という表現である。関係としての現実が観念を「消去」する、というのは当時流布していた俗流唯物論の反映論の考え、すなわち現実としての「物質」こそが「観念」に先行し、後者は前者の「反映」にすぎないという素朴な考えと同じ方向のことを言っている。ところが吉本=高橋の「逆立」を一貫させれば、逆に観念もまた関係の側を「消去」できるのだ。ここには明らかに「観念」や「思想」はけっして「物質」に還元しきれるものではないという信念がはたらいている。その意味でそれは通俗唯物論への根本的なプロテストなのである。これは梅本克己など当時の「主体性」論者や吉本の「宿敵」だった丸山真男などにも共有されていた信念である。

この「関係の絶対性」に関連して高橋のおもしろい「持論」がこぼれ出た例外的に長い脚注がある。それは恋愛における「嫉妬」の解釈である。高橋はこう述べる。「吉本風にいうと嫉妬とは「観念の絶対性」が無媒介な「観念の恣意性」へと変容し、そのまま「関係の絶対性」に入り込んでいったとき生じる感情といえるだろう」。おもしろいというのはこの先である。高橋はここに自らの体験に基いて、「関係の絶対性」の側に立って嫉妬として現れる「観念の恣意性」を滅却することこそが「恋愛関係の理想形」だとつけくわえる。高橋はさらにこの論理をもとにして、かつての新左翼運動の負の遺産「内ゲバ」を説明しようとしていて、そのアレゴリーに従うかぎりでは納得できなくはない論理なのだが、しかし後に述べる「対幻想」の原点とも言える恋愛論としては、これはいささかお高くとまりすぎている。恋愛とは、むしろおたがいが「恣意性」にも陥ることのある「観念の絶対性」のなかで足掻き、悶えることのなかにしかありえないものだからである。「関係の絶対性」の側についた恋愛とは、ほかならぬ恋愛の消滅以外のものではなかろう。そもそも「逆立」はその対立項を「消去」するはずではなかったか。この関連で「絶対性」と「恣意性」はどのような関係にあるのかを物象化やイデオロギー化の文脈で論ずることもできるが、すでに言い古されている話なので、ここでは立ち入らない。
 第二点は本書の中心テーマ「共同幻想」をめぐってである。題名どおり本書の最大の力点もここに置かれている。吉本の有名な個体幻想、対幻想、共同幻想の幻想トリアーデは、もともとヘーゲルの家族、市民社会、国家に着想を得たものであろうことは、これまでにもよく指摘されてきた(ちなみにエンゲルスの家族、私有財産、国家も同列に加えてよい)。しかし日本には彼よりずっと以前に同じところから着想を得た者に「種の弁証法」を唱えた田辺元がいる。だからこの吉本のトリアーデが田辺の個、種、類を連想させるのは不思議ではない。つまり、吉本の共同幻想論の骨格は思われているほど特異なものではないということだ。

特異だったのは、吉本がこのトリアーデのもつダイナミズムの源泉を対幻想に求めたところにある。言い換えると、高橋も強調しているように、国家論の成立過程にフロイト的エロースないしリビドーの論理を持ち込んだところにある。それは当時画期的だった。とはいえ、この対幻想はたんなる男と女のペアないし夫婦をモデルにした対幻想ではない。吉本=高橋によれば、なかでも「兄弟姉妹」の対幻想こそがそのポイントになるという。この対幻想は「起源としての共同幻想」に外部に向けた空間的拡大をもたらすがゆえに、そこから「国家としての共同幻想」への移行を可能にする結節点となる。だから高橋はこの結節点に着眼して「共同幻想の解体と無化の戦略的ポイントは原理的には、この「兄弟姉妹」関係として現われる対幻想のベクトルを逆向きにすることにある」と言う。詳論はしないが、この観方はさまざまな観点を含んでいて、『共同幻想論』のなかでももっともおもしろいところかもしれない。高橋は言及していないが、これまで吉本のなかにこういう視点を読み込みえ、それをさらに展開しえたのは、おそらく小説家の中上健次ただひとりだけであっただろう(『枯木灘』『風景の向こうへ』参照)。
 
さらに高橋の共同幻想論の解釈で興味深いのは、「根源としての共同幻想」と「国家としての共同幻想」のさらなる「彼岸」に「像=イメージとしての共同幻想」を想定し、そこに後期吉本を位置づけしようとしている点である。この三段階は、ありていに言ってしまえば、原始共同体から国家の形成を経て、さらにそれを超えたマス・イメージの支配する時代へと変遷する時代変化に対応している。ある意味でこれは、吉本を含む日本人が戦前から今日にかけて歩んできた時代の変遷でもあり、そのプロセスの後追い的説明としてはそれなりの説得力があるだろう。だが、問題はこの先にある。吉本が一貫してその思想の拠点としてきた「大衆の原像」は、本当にこの浮遊した個からなるマス・イメージなるものに賭けられるものなのだろうか、また賭けてよいものだろうか。この問いは吉本のマス・イメージ論と並行して進んだ、いわゆるポスト・モダン論議を今日どう総括するかとも直結する問題と思われるが、本書を読むかぎり、この点に関する高橋の判断は保留になったままである。それはまた本書のあとがきが二〇一一年四月二八日の日付で書かれているにもかかわらず、私にはもはや判断停止としか思われない、この間の吉本の原発に対する発言について、高橋自身があえて自らの発言を封じていることにも象徴されている。その決断に踏み切ったとき、高橋はようやく自らの「自立の思想」を打ち立てることになるだろう。

西洋哲学史 (古代から中世へ)(近代から現代へ) :熊野純彦


 熊野純彦 著(岩波新書)





                       
「西洋哲学史」というと、まず思い浮かぶのはシュヴェーグラーの『西洋哲学史』(上・下巻 谷川徹三ほか訳 岩波文庫)であろう。1847年に初版の出たこの本は、ドイツ本国でレクラム文庫に収められ多くの版を重ねてきたし、日本においても1939年に翻訳初版が刊行されて以来西洋哲学史の標準テクストとして長く読み継がれてきた。哲学そのものではなく哲学の歴史の専門研究者であったシュヴェーグラーは、この本の中で古代ギリシアからヘーゲルまでの西洋哲学の歴史を、整然たる時代区分にしたがい、それぞれの時代の代表的哲学者およびその学説に関する行き届いた概説を通してきわめて明晰なかたちで構成づけている。この本を通読すれば西洋哲学史の全体像がはっきりとした姿で読者の頭の中に浮かび上がってくるはずである。つまりシュヴェーグラーの『西洋哲学史』という本の最大の特徴は、読者に西洋哲学史が「わかった」という満足感・充足感を与えてくれるところにあるといえよう。そしてシュヴェーグラーに限らず、とくに初学者用の入門・概説書として書かれた哲学史の本というのは、この「わかった」という感覚、つまり哲学史を彩る人や学説に関して明確な見通しと了解を得られたという感覚を与えてくれるところにその存在意味があったといえるだろう。ということは、哲学史が、本来未知な思考を切りひらいてゆく動的な過程のうちにあるものとしての哲学を、了解済みの概念へと変容・固定化し、その動性を決定的なかたちで静止させるものであることを指し示している。「なぞはすべて解かれた」という地点において哲学史は成立するのである。
 
だが哲学の動的な思考過程はほんとうにいつもいつもおあつらえ向きなかたちでそうした概念像の図式に収斂しうるものなのだろうか。後から見ればあたかも必然性の糸に引かれるようにして「発展」を遂げたかのように映るある哲学者の思考の展開過程が、そのじつ思考過程の内側から見れば目もくらむような危機や乾坤一擲の飛躍の連続だったというようなことがあるのではないだろうか。もしそうだとすれば、すべてが了解済みの既知性の中でそうした思考過程を処理してしまう哲学史というディシプリンは、哲学にとって本来もっとも大切な、かけがえのないはずのものを隠蔽し消去してしまう倒錯を犯してしまっているともいえるのではないだろうか。とはいえ哲学が過去において分厚い人や学説の歴史的堆積層を形づくっていることは否定し得ない事実である。だとするならばその歴史的堆積層に向かって了解済みの既知性を経由するようなアプローチとは異なる、むしろ危機や不連続的な飛躍・断絶に依拠するようなアプローチの仕方を考えてみる必要があるのではないだろうか。たとえそれが哲学史の常識とは大きく異なるものであったとしても、である。

                  
このたび熊野純彦の『西洋哲学史』(新書版・上巻257頁・下巻261頁・各820円・岩波新書)が、4月に刊行された上巻に引き続き下巻が刊行されて完結した。正面切って哲学史と銘うたれた本は久々である。従来型の哲学史というディシプリンへの不信と軽侮の念が今それだけ強いということだと思うが、熊野はあえてそうした風潮に逆らうようにこの『西洋哲学史』というタイトルの著作を世に問うたのである。しかも熊野は、たしかに多くの優れた仕事をすでに残しているとはいえ、功なり名を遂げた大家ではない。教科書として書かれた哲学史が大家の余技として行われることが多いのに対して、まだ50歳に達していない熊野がこうした本を書くことには、率直に言って奇異な印象を禁じえないところがある。いったい熊野の本書を書いた意図、動機はどこにあったのだろうか。
 
熊野は本書の「まえがき」で次のように書いている。「この本は、三つのことに気をつけて書かれています。ひとつは、それぞれの哲学者の思考がおそらくはそこから出発した経験のかたちを、現在の私たちにも追体験可能なしかたで再構成すること、もうひとつは、ただたんに思考の結果だけをならべるのを避けて、哲学者の思考のすじみちをできるだけ論理的に跡づけること、第三に、個々の哲学者自身のテクストあるいは資料となるテクストを、なるべくきちんと引用しておくこと、です。そのように書きつづってゆくことで、哲学的な思考とは私たちの経験そのものにあらためて光を当てようとするものであること、哲学とは、人間の経験と思考をめぐって、その可能性と限界を見さだめようとするものであること、最後に、そうした思考がそれぞれに魅力的なテクストというかたちで残されているしだいを、すこしでも示すことができれば、と考えています」(上巻、ⅱ~ⅲ頁)。
熊野の本書執筆のねらいを語った文章から、私たちは哲学史のテクストとしての本書の特徴をつかみ取ることが出来る。ここで熊野が「経験」と呼んでいるのは、個々の哲学者が思考をつむいでゆく機縁となった初発のモティーフが生成する場所のことである。いうまでもなくそこにはおあつらえ向きの答えなど存在しない。いやむしろ、答えがないこと、謎が存在することこそが経験の出発点であるというべきである。とするならば熊野が経験にこそ定位すべきであるといっていることは、本書が安易な答え、つまり了解済みの既知性ではなく、おのおのの経験のうちに潜む答えのない謎から出発していることを意味するとともに、最後までその謎に固執し続けようとする熊野の姿勢をも同時に指し示しているといえるだろう。
 
実際本書を読み進めていていちばん強く感じるのは、本書から教科書風の概説や要点を要約的に取り出すことが難しいということである。熊野の叙述はつねにそうした概説的な枠組みをはみ出そうとしている。たとえばソクラテスについて書かれた章を見てみよう。ソクラテスは、ソフィストと呼ばれる職業的な哲学者が初めて登場した時代とほぼ同じころに現れる。熊野はまずソフィストたちが叙事詩の時代、つまり人類の歴史における神話段階が終わり、人間自身が尺度となる言葉(ロゴス)の時代、つまり人類史の啓蒙段階がはじまる時期の哲学者たちであることを明らかにする。つまりソフィストたちは言葉の技術(弁論術)を通して論理の力によって相手を説得することを目指しているのだが、それは角度を変えて言えば、言葉(ロゴス)によって成立する了解にもとづいて社会の秩序や規範が形成されるという意味での啓蒙の論理を示唆しているのである――このあたりの熊野の記述はあきらかにホルクハイマー/アドルノの『啓蒙の弁証法』の考察を踏まえている――。ソフィストはある意味で「わかる人」、「わかったという振る舞いをしたい人」なのである。この世界のすべてを了解可能な既知性のネットワークの中に捉えこもうとするのがソフィストの根源的な欲望であり目標であるといえるだろう。
 それに対してソクラテスは徹頭徹尾「わからない人」、「わかることを拒否する人」であった。つまりソクラテスは通訳可能性(インコンメンズラビリテート)を拒否する「変わった人間(アトポータス)」「余所者(クセノス)」(上巻 67頁)なのである。熊野によるそのあたりの事情に関する記述を見てみよう。「知者であるのは、たとえばプロタゴラスであって、それを自称する者たちこそがソフィストであった。ソクラテスは知者ではない。あくまで「知を愛し、もとめる者」(フィロ・ソフォス)である。この一点で、同時代人の目にはソフィストそのものと映っていたであろうソクラテスが、ソフィストから区別される。ソクラテスはソフィストではない。だから、ソフォス(知者)でもない。フィロソフォス(哲学者)なのである」(同前7071頁)。
 
「知を愛する」ことは、自らの経験の個別性や特異性から離れずに思考することを意味する。なぜならそうした個別性や特異性からは一義的な答えは引き出せないからである。つまり「知を愛する」こととは、答えの見つからない個別性・特異性を帯びた経験の質を思考の過程において決して手放さないことと同義なのである。熊野はこうしたソクラテスの経験の質を掘り起こしながら、「助産術」と呼ばれたソクラテスの対話的論争術の意味を明らかにしてゆく。およそ哲学史らしからぬ次のような記述がそこで登場する。「ソクラテスは相手と対話をすすめながら、じぶんは答えを与えない。解答をソクラテス自身も知らないからだ(ソクラテス的な「アイロニー」)。対話をつうじて相手は、それとは知らずに、新たな真理に逢着する(ソクラテスの母の職業にちなんで「助産術」といわれる)。否たいていは、知らないという状態に突き落とされる。知は宙づりにされ、否定だけが残される」(同前7374頁)。
 
このようなソクラテスの捉え方に現れているように、熊野は本書で答えを出すこと、答えによって対象を一義的に規定・定義することをかたくなに拒否している。代わって登場するのは、ソクラテス流の助産術さながらに、経験の個別性や特異性に依拠した経験野において生起する諸問題・諸課題の所在を指摘することである。なかでも熊野が本書で一貫して問おうとしているのは、一と多の関係であり、さらにはそれと連動する同一性と差異性の問題である。それは古代ギリシアのピュタゴラスにおいて初めて登場してきて以来繰り返し様々な哲学者の経験の質と言説を通して問い直される。それは、紀元前数世紀の古代ギリシアという場所で始まった――じつはそこだけでなく、古代中国においても古代インドにおいても、さらには古代ヘブライにおいても始まるのだが――「なぜあるものはあり、あらぬものはあらぬのか?」「あることは何をもって確証されうるのか?」「なぜあることは可感性を超えたところで問題にされなければならないのか?」といった哲学の根本的問いにつながるものである。本書のもうひとつの大きな特色は、こうした反復される根本的な問いをめぐってプラトンとヘーゲルが、パルメニデスとデカルトが、あるいはその他多くの哲学者たちが、時空を超えて哲学という思考共同体の中で踵を接している隣人たちとして扱われている点にある。その意味からいえば本書は「西洋哲学史」というより、「西洋哲学問題発見史」ないしは「西洋哲学の思考トポス史」と呼ばれるべきものである気がする。
 
 近現代哲学の専門家である熊野であれば、本書における彼の叙述の本領が今回刊行された下巻において発揮されていると考えるのは当然である。じっさい下巻の叙述には多くの創見がちりばめられている。だが私自身が本書でいちばん面白かったのは古代ギリシアの項だった。さきほどいった「問題発見史」として哲学史を再構成しようとする熊野の本書執筆のモティーフをいちばん端的な形で表現しているのが古代ギリシアの項であると思うからである。いずれにせよ若い世代に属する著者によって書かれた西洋哲学史の著作が久々に刊行されたことの意味はけっして小さくはない。そこに展開されている著者の野心的で果敢な試みの持つ意味を多くの読者が自分自身で読み取ってくれることを期待したい。(2006.10)

救済の星 :フランツ・ローゼンツヴァイク著




フランツ・ローゼンツヴァイク著
村岡晋一・細見和之・小須田健 訳(みすず書房)



ついに、という言葉がもっとも相応しい著書が刊行された。ローゼンツヴァイクの『救済の星』の邦訳(A5判・695頁+索引15頁・9500円・みすず書房)である。原著の刊行が1921年だから約90年たってやっと邦訳が出たことになる。この時のへだたりの大きさが本書の翻訳の困難さを端的に物語っているといえよう。本書の名前だけは、少しでもベンヤミンやE・ブロッホなどの仕事に触れたことのある人間ならば誰でも知っているはずである。だが実際に本書を手に取ればただちにわかるだろうが、本書にはおよそ読解など不可能なのではないかと読者に思わせてしまうような根源的難解さが内包されている。正直なところ私は、本書の翻訳などとうてい不可能なのではないかとずっと思っていた。古代ギリシア以来の膨大なヨーロッパ哲学の伝統、ユダヤ=キリスト教の神学的伝統、とりわけユダヤ教神学という日本人にとってもっとも馴染みの薄い世界などがごく当然のように前提とされ、しかも全篇がローゼンツヴァイク独特の強靭な思弁的思考に裏打ちされたドイツ語文体によって貫かれている本書は、なまなかなアプローチなど全面的にはねつけてしまう手強さ・厳しさに満ち満ちているのである。
 
 本書の難しさの理由はそれだけに尽きない。本書の原著が刊行された1921年という年をあらためて想い起こしてほしい。第一次世界大戦の敗北から間もないこの時期のドイツ社会は、敗戦に伴なう社会的混乱、とりわけ巨額の賠償金の重圧や破滅的ともいえるインフレの進行、革命運動の勃発に伴なう左右間の対立の激化などにより危機の極みともいうべき状況にあった。それはある種の終末論的状況といってもよいかもしれない。そうした中から、第一次世界大戦とそれに続く社会危機という「破局(カタストローフ)」へと至りついた近代ヨーロッパ文明の歴史性、さらにはそれを根底において支えてきた理念や思想に対するラディカルな問い直しをはらむ営為が次々に登場してくる。同じ21年にはベンヤミンの「暴力批判論」および「翻訳者の使命」が、さらにはすでに18年に『ユートピアの精神』を刊行していたブロッホの『トマス・ミュンツァー』が発表されている。前年の20年にはルカーチの『小節の理論』が、そして2年後の23年には『歴史と階級意識』が公刊される。やや遅れるが、そこに27年に刊行されたハイデガーの『存在と時間』を加えることも出来るだろう。あるいは本書のあとがきに挙げられているカール・バルトの『ロマ書講解』(1918年)も加えてもよい。もっともこの時期には、シュペングラーの『西欧の没落』(1918年)やヒトラーの『我が闘争』(19235年)も刊行されている。戦争後の社会危機はドイツにおける全体主義(ナチズム)への道をも育んだのであった。
 
 このような禍々しさをもはらむ危機的=終末論的状況の中から登場してきた上記のような営為に共通していたのは、既存の、というよりも世の常識として通用してきた様々な価値や規範に対する徹底した問い直しの姿勢であり、より端的にいうならばそれらへのラディカルな異議申し立ての姿勢であった。法=支配の暴力と滅罪の暴力としての革命の暴力の緊張に満ちた葛藤関係を抉ったベンヤミンの「暴力批判論」、宗教改革ラディカルズの代表格であったミュンツァーに仮託しながらユダヤ=キリスト教的伝統に底流してきた終末論のモティーフを革命のエネルギーとして再生させようとするブロッホの『トマス・ミュンツァー』などはその典型であった。だがこうした危機的=終末論的状況にあってもっとも根底的・本質的な思考の射程をはらんでいたのはなんといってもローゼンツヴァイクの『救済の星』であったといえよう。あらゆる既存の価値や規範をあらいざらい問い直さずにはおかないラディカルな思考が、これまた既存の言語体系や文体を根底から覆そうとするようなラディカルな表現スタイルと直裁に結びついてゆくという点において、本書はまさしく同時代の危機的=終末論的状況の定点、言い換えれば「星」としての位置を占めており、同時にそこにこそ本書の類を見ないほどの難解さのより根本的な理由が存在するのである。
                     

率直にいって本書の内容を短時間のうちに書評することは不可能に近い。したがって本稿の以後の内容が、まだ十分とはいえない本書に対する私なりの読みのレポートのレヴェルにとどまることをどうかお許し願いたい。
 本書に関して誰もが真っ先に取り上げるのは有名な冒頭の文章であろう。「<すべて>についての認識はすべて死から、死の恐怖から始まる」(本書3頁)。この文章において注目すべきなのが「死」の意味への着目であることはいうまでもない。だが最初のかっこに入れられた「<すべて>」という言葉にも目を向けることが、本書の理解において「死」の意味に劣らず重要であると思われる。というよりも、この「<すべて>」という言葉の意味との関連抜きには「死」の意味もまた捉えることは出来ぬであろう。

 人間が抱く死への恐怖の核心にあるのは、個人の死がいかなる代替も代行も許さないという事実である。言い換えれば個人には、つねに単独者として死んでゆくことしか許されていないということである。こうした死の単独性は当然にも個々人の存在、生の単独性を遡行的に照射する。個人の存在、生の共約不能な単独性が死の単独性、代替不能性を通して浮かび上がるのである。
 だが古代ギリシア以降のヨーロッパ哲学はこうした死の単独性、代替不能性とそれに基づく死への恐怖を「無」に向かって解消してしまった。「だが哲学は、すべての生のこの暗鬱な前提〔死は<無>ではなく、排除できない冷厳な<なにか>であること〕を否定することによって、つまり死を<なにか>とは認めず<無>にしてしまうことによって、みずからをまるで無前提であるかのように見せかける」(6頁)。この少し前で、「<無>の一にして普遍的な夜」という言い方をしていることを踏まえるとき、ローゼンツヴァイクのいう「無」の核心的意味が浮かび上がってくる。この「無」こそが「<すべて>」の本質に他ならないのである。言い換えれば西欧哲学が一貫して目ざしてきた普遍性、一般性の水位の真の起源とは、この「無」としての「<すべて>」なのである。西欧哲学は。本来「<なにか>」としての単独性、代替不能性を帯びた死を、「<すべて>」としての「<無>」に回収することによって、死と本質的な意味で向き合い対峙する道を放棄したのだった。だが「<無>」の意味はそれにとどまらない。ローゼンツヴァイクの「<無>の一にして普遍的な夜」という表現がレヴィナスの「イリヤの夜」を想起させることは、レヴィナスが「イリヤの夜」を人間から固有な死の意味―それは同時に生の意味でもある―が失われる瞬間として捉えていたことと併せて考える時まことに興味深い。レヴィナスの「イリヤの夜」がナチスの強制収容所という「死」の世界の体験から生じたように、本書の着想は第一次世界大戦という最初の大量殺戮戦争のさなかに塹壕の中で得られている(訳者あとがき参照)。この事実の符合は、死が名前を持たない普遍的運命として、すなわち「無(名)」として個々人の存在に降りかかってきた20世紀という時代におけるもっとも根源的な課題の所在を示しているといえよう。
 
 だがローゼンツヴァイクはこうした「無」を前にして次のようにいう。今のところ私が本書の中からつかみ得たもっとも本質的な内容を含んだ文章といってよいだろう。「哲学は、死の不安の叫び声に耳をふさぐ一にして普遍的な<無>、それだけが一にして普遍的な認識に先行すると哲学がみなしたがる<無>のかわりに、この叫び声に耳を傾け、戦慄すべき現実に眼を閉ざさないだけの勇気をもたねばならないであろう。この<無>は<無>ではなく<なにか>である。世界の暗鬱な背景には、その汲みつくしえない前提として、何千という死が控えている。<無>がただひとつであれば、ほんとうに<無>というものであろうが、控えているのはただひとつの<無>ではなく、何千という<無>であり、それはまさに多数であるがゆえに<なにか>なのである」(6頁)。
 ここにおいて極めて重要な思考上の分節線が見えてくる。それは従来の哲学における「唯一性(一)-普遍性(すべて)-<無>」という思考文脈と、ローゼンツヴァイクが展開しようとする「単独性-多数性-<なにか>」という思考文脈の対照から浮上してくる分節線である。この分節線は、そのまま「<なにか>」を具体的に名指す「名」をめぐる分節線に接合される。「それ〔個々人の意識が宇宙(コスモス)に解消されること〕が不可能だというのは、たとえこの意識に属するものが普遍的なものに翻訳されえたとしても、それが姓名をもつという事実、ことばのもっとも厳密でもっとも狭い意味での<自分だけのもの>は残るからであり、そして、そうした経験をした人びとが主張したように、ほかでもないこの<自分だけのもの>こそが問題だったからである」(9頁)。
 このくだりもいろいろな思考を触発してやまない箇所である。「名」の問題、とくに固有名の問題は、ベンヤミンの、先月取り上げた「言語一般および人間の言語について」や「翻訳者の使命」などの言語論の要諦でもあった。またアーレントがいう、多数性に対してそのうちにはらまれる「違い」を許容しながらオープンな共通性=公共性を保証しようとする議論もまた、それぞれの個人が持つ「名」の問題と深く関連している。「名」こそは単独性と多数性をつなげる環に他ならない。そしてこのつながりのうちに、唯一性と普遍性=一般性の結合を通して個々人から「名」を奪い、無名としての「無」へと追いやる西欧哲学の「暴力」へのもっとも根源的な対抗軸が存在するのである。

 とはいえこの対抗のためのより本質的な条件を明らかにする道筋はけっして平坦ではない。というのも以上述べてきたような問題は全三巻からなる本書の第一巻の内容に該当しているからである。そして窮極的な単独者としての「メタ倫理的人間」に帰着する第一巻のみの内容からはいまだ本質的な対抗の道筋は見えてこないのである。そのためには第二巻の主題である「対話」の問題、すなわち単独性と多数性の接合が、複数性として、すなわち他者-自己関係の問題として新たに捉え返されねばならない。いうまでもないがそれは単純な意味でのコミュニケーション理性の賞揚などを意味しているわけではない。問題は個々人が自己の存在を外部からの到来として、言い換えれば贈与として受け止めることである。ここには色濃く神学的な課題が絡んでくる(例えば「啓示」)。そしてこうした対話的構造を保証する「永遠性」の問題を問おうとする第三巻と併せてようやくローゼンツヴァイクの思想的射程の全貌が明らかになる。残念ながら今回はそこまでつぶさに検討する余裕がなかったため書評としてはなはだ不十分なものにしかならなかったことをお詫びしたい。
 
 それにしても本書を訳した訳者たちの労苦にはただただ感謝するしかない。とくにかつてベンヤミンの『パサージュ論』の翻訳で苦労を共にした村岡、細見の両君には心よりご苦労様と申し上げたい。もちろんもう一人の訳者である小須田に対しても同様である。本書が単純な意味で読みやすい日本語になっているわけではない。だが名のみ知られながら、その内容の知られることの少なかった本書が日本語で読めるようになったことの計り知れない意義はいくら強調しても強調しすぎることはないだろう。(2009.8)

社会性の哲学 :今村仁司の遺書





今村仁司著(岩波書店)


─暴力と贈与の視点

今村仁司の死の約2ヵ月後に遺著『社会性の哲学』(岩波書店)が刊行された。この著作で今村はその思想者としての歩みの柱であった暴力と贈与の問題を改めて論じている。
 
今村の社会哲学的思考においては、「なぜ社会は存在するのか」「いかにして社会は生成するのか」という、それ自体としては実証的に記述することの不可能な問いの境位がつねに根本的なモティーフとなっていた。そのとき今村の問題意識を支えていたのは、一見静止的に対象化=実体化されているように見える社会の下層には、その表層次元の静止作用によって見えなくされてしまっている流動的・力動的な葛藤や闘争の契機が隠されているという認識だった。そうした認識を踏まえ、今村は歴史の表層の下方へと埋もれてしまって見えなくなってしまったアルカイックな根源の領域に迫ろうとしたのである。
 そこで見えてきたのは、暴力と贈与の契機がからみあいながら対象化=実体化された社会的実定性を不断に揺さぶり続ける一種の永久運動(ペルペティーレ・モビーレ)のごとき層位に他ならなかった。社会のもっとも核心的な「内部」にありながら同時に社会が産み出す実定性のもっとも根源的な「外部=他者」としての意味を持つこの暴力と贈与の契機のからみあいの領域・層位を露わにさせることこそが今村の社会哲学の根本課題となっていったのである。そのことをはっきりと私たちに伝えているのが『社会性の哲学』に他ならない。

人間存在はある「過剰なもの」、あるいはその「過剰なもの」に起因する根本的な不均衡性を宿命的にはらんでいる。そしてこの「過剰なもの」とそれがもたらす不均衡性は、人間存在の根源的な層位に深い亀裂をもたらす。この亀裂はいわば人間存在に穿たれた裂け目といってよい。「過剰なもの」から絶えず備給される「なにものか」、さしあたりは「それes」としか呼びえないものが人間存在の根源的な層位に裂け目を穿つのである。
 この亀裂・裂け目は別な言い方をすれば、人間存在の不連続性の証しといってもよい。人間存在が宿命的に負う亀裂、裂け目、言い換えればその根源的な不連続性の契機が問題とされる次元は、世界や社会・歴史の存立以前の、決して哲学的・科学的な言説によっては対象化=実体化されえない次元、いわばそうした実定性の底を打ち破ることによって初めて浮上してくる次元なのである。この実定性が無底化される次元において露わになる人間存在の根源的な不連続性、不均衡性に促されて発動される人間の非対象的な存立機制を明らかにすることこそが、「なぜ社会は存在するのか」「いかにして社会は生成するのか」という問いにとっての出発点となる。
 
「過剰なもの」は極めて危険なものである。なぜなら「過剰なもの」はそれがそのまま放置されるとき、「過剰なもの」にさらされている存在の定常性・均衡性を脅かし、ついにはその存在そのものの破壊へと至りつくからである。社会性の次元を繰り込んでいえば、人間存在はこの危険な過剰性を解消し存在の定常性・均衡性を回復させるための様々な手段を生み出してきた。それらは共通して供儀や犠牲・いけにえの儀礼と呼ばれるものであった。そしてこの供儀や犠牲・いけにえの儀礼の基本的なファクターをなしているのが贈与と死の暴力なのである。神に捧げられる供物にせよいけにえにせよ、それらは対価を求めない贈与であり、同時に儀礼空間という日常の定常的な秩序を引き裂き、そこに不連続性をもたらす瞬間の顕現において、また犠牲・いけにえを殺戮する行為において暴力としての性格を帯びる。ではこの犠牲という形に凝縮する贈与と暴力の契機の持つ意味、その機制を、先に言及した社会性の生成以前のより根源的な人間存在の次元・層位に遡って解明しようとするときどういったことが見えてくるのか。それに対する答えを模索しようとしているのが『社会性の哲学』の第一部第一篇「存在の贈与論的構造」である。以下その内容を追っていってみよう。
 
まず「はじめに」のところで今村は「社会性とは、さしあたり友好と闘争のあらゆる関係づけの集合である」と言った上で、それは「客観的観察の立場からいえる」(『社会性の哲学』5頁。以下本書からの引用は頁数のみを記す)ことに過ぎないと記す。ここで今村がいう「客観的観察の立場」が、社会をすでに記述可能なものとして自明化している立場を意味することはいうまでもない。今村はそれに対して次のようにいう。「当事者の個人の立場に立っていえば、個人とは社会性を拒否し、外部に対して閉じた宇宙を作り上げていると感じている」(同)。ここで今村は、個人としての人間存在の持つ「存在感情」(8頁)がいわば社会性の成立以前の段階に属しているという認識を示している。
 
さてではこの社会性以前の個人の次元において贈与と暴力の契機はどのように問われ、かつ、それがどのような形で社会性の形成へと結びついてゆくのだろうか。「個人間には飛び越し不可能な深淵があることを、人間に内在する原理的な交通不可能性とよぶことにしよう。原理的に、すなわち「生得的に」あるいは本性的に、個人間の交通(関係)が不可能であるなら、社会なるもの、および社会から派生するあらゆる現象はありえない。にもかかわらず、経験が教えるように、社会は事実的に存在しているし、家族と市民社会を統制する国家なるものも事実的に存在している。社会や国家は、どのようにして原理的不可能性を乗り越えたのか。あるいは何が原理的不可能性を飛び越すことを許したのか。これこそが社会哲学の本来の課題である」(67頁)。
 この問いに対し今村は贈与と暴力の契機をはらんだ犠牲の論理とメカニズムを社会性の平面・次元の形成の原動力であるという答えを示す。「交通の原理的不可能性は、複数の「人間」が社会以前的な「群れ」をなして生きている状態のなかで、突如として特定の個人または少数者を排除し犠牲にするとき、乗り越えられる。社会的交通の原理的不可能性という深淵は、犠牲形成をもって跳び越すことができるようになる。犠牲とは、抑圧や差別に関わるすべての現象を包括する行為であり、それは究極的に殺害に至る。この意味での犠牲を作ることが社会なるものを成立させるのである。要するに、犠牲制作が社会性を可能にするのである」(7頁)。
 
犠牲の論理はすでに言及したように「過剰なもの」の解消の論理である。だがそこには「過剰なもの」を解消しようとして新たに「過剰なもの」の契機を呼び込んでしまうという逆説が含まれる。それは、「過剰なもの」の暴力性・危険性を解消しようとしてあらためて異質な暴力性を生み出してしまうという逆説に他ならない。犠牲の論理が社会性の平面を形成する論理でありうるのは、犠牲の論理のうちにそうした逆説が含まれるからである。言い換えれば、犠牲の論理とは人間存在の根源に横たわる「過剰なもの」の暴力性を社会性の平で動き出す暴力性へと転轍させるメカニズムに他ならない。つまり犠牲の論理は暴力の反復と累乗の論理でもあるのだ。その中核をなしているのが、一者ないしは少数者をいけにえとする「全員一致の暴力」(ルネ・ジラール)としての犠牲制作の暴力の行使なのである。あるいはここで犠牲の論理のうちに自己保存と自己破壊の循環を見通そうとした『啓蒙の弁証法』の「オデュセウス論」におけるアドルノの考察を想い起こしてみてもよいかもしれない。
 だが依然として問いはそこでは終わらない。「しかしなぜ人間は犠牲をつくることなしに社会または共同体をつくることができないのだろうか」(同)という問いがさらに生じるからである。今村はこの問いを究明するために、自ら「長い迂回路」と呼ぶ、「この原初的事実〔犠牲や排除の具体的事実〕の人間学的由来」(8頁)を明らかにするための考察へと進んでゆく。

今村がまず問おうとするのは、人間存在の原初的な「存在感情」(同)である。それは次のように捉えられる。「身体を媒介にした人と環境との関係は、なによりもまず「感じる」(感情)によって結ばれる。人のこの世への出現ないし到来は「生誕」とよばれるが、この到来としての生誕は「環境世界へ投げ入れられている」ともいえる。しかしこの投げ入れは、投入するものが存在しないところの投げ入れである」(同)。
 今村が社会性を無底化する個としての人間存在の存在感情の次元を問おうとするときいっさいの世界性をエポケーするまさに過剰性――根源的な他者=外部性――と呼ばれるべき存在論的層位が浮かび上がってくるのである。そしてこの過剰性のあり様を表現しているのが、「投入するものが存在しないところの投げ入れ」という今村の言葉に他ならない。
投げ入れる主体=主格が存在しない以上そこに現出しているのは、いかなる超越(論)的な能動-受動構造も構成されえない、あえていえば純粋な受動性の、つまり「純粋贈与」の境位なのである。                    
 
こうした純粋贈与にもとづく存在感情が社会的なものの形成に向けて一歩動き出す境位を、今村は二つの契機を通して解明しようとする。一つは「自己贈与」の契機であり、もう一つは「負い目」の契機である。その両者に関係について今村は次のように言っている。「原初の場面では、社会関係はまだ問題にならない。人は自己の存在を贈与または所与として情感的に「理解」している。与える働きを具現するもの(神であれ人であれ)はない。人はひたすら自己の存在を「与えられたもの」として感じ取るだけである。(……)これが原初的に存在するときの最初の側面であった。しかるに、人は存在を与えられたもの、すなわち贈与を受けたものとして感じるとき、不在的で不可視の「与える働き」に対して負い目の感じをもつ。存在を「与えられて-ある」と感じたときに、またそのときにのみ、「与える働き」は、あたえられたものの「意識」ないし「体験」のなかで、負い目を引き起こす。存在感情をもつ生命体だけが、負い目をもつことができる。(……)これが第二の側面である。第三に、負い目感情は必ず負い目を解消するように人を動かす。負い目感情はどうでもいいことではない。負い目は不完全性のしるしであり、マイナスの記号をつけられる。もし生存することを自己保存とよぶなら、自己保存は負い目という欠如を埋め続けなくてはならない。生きることは負い目を不断に返すことに等しい。(……)ともかく負い目感情によって、原初の存在場面において人は何かに向かって負い目を返す義務を感じ、またその義務感によって自己を贈与する。贈与の働きは個人の内部で同種の贈与行為を反復させるが、自己贈与もまた「与える働き」の個人における反復である」(478頁)。
 
与える主体なき純粋贈与の境位は、人間存在のうちにその贈与を反復しようとする動きを喚起する。この瞬間、純粋贈与のうちに痕跡として保存されていた生命体としてのリズム=循環が完全に終焉する。そしてそれを失った代償に人間存在は「自己贈与」の契機を獲得するのである。だが同時にそれは「負い目」というかたちで自己の「不完全性」、すなわち不均衡な過剰性、逸脱を自覚する瞬間でもある。それは、別なところで今村がいっている言葉を借りれば、人間存在が「自己の「ある」が「根源分割」であること」(18頁)を自覚する瞬間でもある。この「負い目」という過剰性がもたらす「根源分割」、すなわち亀裂・裂け目において、人間存在は純粋贈与の境位を脱して、いわば純粋贈与に対する対抗贈与としての、より正確に言えば対抗的なかたちでの贈与行為の反復としての「自己贈与」を発動するのである。そしてこの「自己贈与」は究極的には自己の身体や生命を投げ出し与える行為へと行き着くという意味で、犠牲の論理へと接合されてゆく。それは別な角度からいえば、「負い目」にもとづく「自己贈与」の発動の過程のなかに、自己の生命を何らかの理由・目的で破壊するという死の暴力の契機が隠されていることを意味する。
 
「負い目」とは人間存在のただ中に現れた一種の空隙である。あるいはそうした空隙をもたらす根源分割線、ずれといってもよい。この空隙からあふれ出る過剰なものが、負い目-自己贈与-犠牲の論理を通してもっとも原初的な意味での社会的なものの平面形成へと向かうのである。そしてこの負い目-自己贈与-犠牲の論理は暴力と贈与の契機を一つに結び合わせながら社会性の平面の下層において不断に蠢動し続ける。それが社会形成のアルカイックな根源、力動性に他ならない。そしてそれは、つねに事後的にしか、言い換えれば「不在的現前・現前的不在」という形でしか捉ええないものであるがゆえに、客観的記述の準位を超え出る「社会哲学」的認識と言説が必要とされるのである。そしていかなる社会的実定性のレヴェルにおいても不在であるこの層位ぬきには社会は生成しえないことを今村は本書で明かそうとしているのである。(2007

新音楽の哲学   :Th.W.アドルノ著




Th.W.アドルノ著
龍村あや子 訳(平凡社)



アドルノの音楽学者としての仕事のうちもっとも重要なものが『新音楽の哲学』であることは衆目の一致するところであろう。周知のようにアドルノはフランクフルト大学で哲学を学び1924年に学位を取得した後、翌1925年にウィーンへ赴き、アルバン・ベルクの下で作曲法を学んでいる。もともとオペラ歌手だった母やピアニストだった叔母の影響で音楽に早くから親しんでいたアドルノにとって音楽は彼の人生にとって不可欠なものだったが、このベルクとの出会いはアドルノのその後の生涯において思想の問題と音楽の問題が不可分な形で一体化する直接的な契機となった。ベルクは、20世紀の初頭のウィーンにおいて近代ヨーロッパ音楽の歴史を根底から覆す「新音楽」の創造にたずさわっていたA・シェーンベルクの弟子であり、そのベルクを通してこの「新音楽」に出会ったアドルノはたちまちそのもっとも熱烈かつ戦闘的な支持者となったのである。アドルノはベルクの下で学ぶかたわらウィーンで発刊されていた「新音楽」の理論誌『アンブルッフ』の編集スタッフに加わり、その誌面を通じて音楽学者としての本格的な活動を始めたのであった。
 
 ここで「新音楽die neue Musik」という言葉について触れておこう。アドルノは20世紀に現れた音楽を表すのに使われる「現代音楽」という一般的用語を避け、その代わりに「新音楽」という言葉を用いる。その背景には一つの明確な態度決定がひそんでいるように思われる。20世紀の音楽といってもそこには多様な傾向が含まれるが、その中でも中心的な存在といえるのがシェーンベルク、I・ストラヴィンスキー、そしてB・バルトークだったことはおおかた異論のないところであろう。「現代音楽」という言葉は、この三人の存在を軸に多様に展開される20世紀の音楽状況全体を客観的な形で総称する言葉であるといってよい。だがアドルノはこうしたニュートラルな見方を厳しく斥ける。20世紀の音楽状況において真に「新しい」(=創造的)といいうるのはシェーンベルクによって創設された傾向のみであり、ストラヴィンスキーやバルトークの音楽によって代表される傾向はむしろある種の退歩をしか意味していないとアドルノは考えるのである。すなわち20世紀の音楽の全体が新しい=現代的なのではなく、唯一シェーンベルクの音楽のみが真の意味で「新しい」のである。したがってアドルノの用いる「新音楽」という言葉は、20世紀の現代音楽全般を表す言葉というよりも、20世紀の音楽状況に対するアドルノの価値判断を含む言葉、より端的にいえば、20世紀の音楽はシェーンベルクに始まる「新音楽」の流れにおいてのみその歴史的、時代的本質を明らかにしうるというアドルノの明確な立場を示す言葉ということが出来る。
 
 こうしたアドルノの音楽学者としての立場がもっとも明確かつ原理的に示されているのが本書『新音楽の哲学』(B6判・349頁・3200円・平凡社)に他ならない。もし本書に現代音楽全体の概観やその背景についての解説を求める読者がいたとすればただちに失望するであろう。本書において取り上げられているのはシェーンベルクとストラヴィンスキーだけであり、しかもストラヴィンスキーは批判と否定の対象としてのみ取り上げられているにすぎないからである。さらにいえば本書は通常の意味での音楽書ではない。本書では、アドルノがベルクとの出会い以来温めてきた20世紀音楽のあり方、その本質にをめぐる認識と思考が、その源泉というべきシェーンベルクの音楽にそくして原理的に展開されているが、その認識と思考には音楽という領域をはるかにはみ出す諸要素が同時に含まれている。本書が最初に刊行された1949年という年に注目してほしい。この本書の刊行年は、本書の執筆された時期がナチズムと戦争の脅威から逃れてアメリカに亡命していた時期であること、それゆえに本書の執筆時期が亡命期の体験をスプリングボードとして産み出されたあのホルクハイマーとの共著『啓蒙の弁証法』やアドルノの思考のもっとも純粋な結晶体というべき断章集『ミニマ・モラリア』の執筆時期とほぼ重なることを指し示している。本書において展開されている認識と思考には明らかに『啓蒙の弁証法』や『ミニマ・モラリア』の内容と通底する要素、すなわち後期産業社会の現実とファシズムの暴力が時代に対してのしかかってくる状況の中で何が人間存在の、そしてそのもっとも重要な要素としての文化・芸術の存在の証しの最後の拠り所となるのかをめぐるぎりぎりの臨界的な思考要素が含まれているのである。こうした意味でも本書は稀有な音楽的思考の書、より正確に言えば「音楽を哲学する」書というべきであろう。
                   
本書は初訳ではない。本書の最初の翻訳はすでに1973年渡辺健の手で音楽之友社から刊行されている。ちなみこの時期アドルノの音楽書が、同じ音楽之友社から『不協和音』(三光長治・高辻友義訳)、『音楽社会学序説』(高辻・渡辺訳)、さらには白水社から『楽興の時』(三光・川村二郎訳)、法政大学出版局から『マーラー』(竹内豊治訳)と立て続けに刊行されている。今から振り返るとちょっとしたアドルノの音楽書の翻訳ブームだったのだがその割に反響は少なかったように思う。まだ十分にアドルノの受容のための基盤が出来ていなかったせいだろう。それには翻訳自体の問題もあった。訳者から分かるようにこの時期のアドルノの音楽書の翻訳にあたっていたのはおおむね独文学者たちだった。なかには優れた翻訳もあった――とくに『不協和音』と『楽興の時』――が、音楽の専門的な知識の不足と難解をもってなるアドルノのドイツ語の壁のために残念ながら日本語としては到底読むに耐えないものも見受けられた。今回本書を翻訳した龍村はドイツに留学し、戦後ドイツ最高の音楽学者の一人であるカール・ダールハウスの下で学んだ経歴を持つ優れた音楽学の専門家であり、ドイツ本国でアドルノ音楽哲学論によって学位を取得している。その意味で龍村は本書の訳者として望みうる最高の適材といえるだろう。龍村はすでに『マーラー』の改訳を刊行しており高い評価を得ているが、やはり本書の翻訳が彼女のアドルノの音楽思想への取り組みにおいて重要な里程標になるであろうことは想像に難くない。

 ここで具体的に旧訳と新訳を比較してみよう。本書の序論でアドルノの視座として目に付くのがヘーゲルの『美学』への言及である。それは直接的にヘーゲルの思惟の内容そのものへの関心というよりは、例の「芸術の終焉」やロマンティクへの批判に現れているヘーゲルの時代(歴史)意識に対する関心によっていると考えられる、そしてそれが、アドルノにおけるシェーンベルクによって代表される「新音楽」の歴史的意味の解明にとっての大きな示唆となっていたのである。それに関連する箇所をまず渡辺の旧訳で見てみよう。「新音楽の硬直は、絶望的な非真理になりはしないかという形成物の不安である。形成物は自己の法則への沈潜によって非真理を逃れようと懸命に努めるが、この沈潜が同時にまた非真理をも確実に増大させる。たしかに、今日の偉大な絶対音楽、つまりシェーンベルク派のそれは、ヘーゲルが、おそらくは当時はじめて解きはなたれた器楽の名人芸を横目で見やりながらおそれた、あの「無思想かつ無感情なもの」の反対である。しかしそのかわり、一種の、より高い秩序の空無を告知している。それは、「だがこの自己はその空虚さによって内容を逃してしまった」とヘーゲルが言う「不幸な意識」に似ていなくもない」(31頁)。
 
 これに対して龍村の新訳は以下のようになっている。「新音楽の硬化したありさまは、絶望的な非真理に対する形象自身の不安である。その形象はおのれの法則に沈潜することによって非真理から死に物狂いで逃れようとするのだが、そのことはまた同時に、整合性をとることによって非真理を増殖させてしまうことにもなる。/たしかに、今日の偉大な絶対音楽であるシェーンベルクの楽派の作品は、ヘーゲルが、おそらくは当時初めて解き放たれた器楽の名人芸を横目で見ながら心配したところのあの「思想や感情を欠くもの」とは正反対である。しかしながら、そのかわりに、一種のより高次の秩序の空虚さが存在を告げていて、それはヘーゲルの語るところの「不幸な意識」に似ていなくもない。――「しかし、その自己は、空虚さによって内容を手放してしまった。」(本書36頁)。
 
 両者を比較すると、龍村の新訳がより深くアドルノの思考文脈を踏まえたものになっているのが感じられる。例えば渡辺がそっけなく「確実に」と訳している箇所は、原語では「mit der Konsistenz」となっているが、龍村は「整合性をとることによって」と訳している。アドルノの思考においては、同一性へと帰着する整合的な思考はそれ自体本質的な虚偽性をはらむという認識が重要な意味をもつが、渡辺はこの表現の背後に潜むそうした問題を十分に認識していなかったというべきではないだろうか。つまり龍村のように「Konsistennz整合性」という言葉をたんなる修辞表現の要素としてではなく内容を伴った言葉として捉えるとするならば、首尾一貫した形で自己固有な法則にそくしながら自らを同一的な形象=作品へともたらそうとする努力そのものが、作品の非真理の源泉となってしまうという事態がここで問題とされていることが明らかになるのである。これは19世紀ヨーロッパの作品美学の最大の問題に他ならなかった。アドルノは『美学理論』の中で、ボードレールを引き合いに出しながら、作品そのものに刻み付けられた時代(社会)の傷(非同一性)こそが作品の真理の証しの重要な一端であるという認識を示しているが、このくだりはまさにその問題を想起させる。とするならば、古い作品美学に対置されるシェーンベルク派の作品は何においてその真理性を告げるのか。ここでも解釈上微妙な表現が問題になる。すなわち原語では「eine Art Leere höherer Ordnung」という表現である。渡辺は「より高い秩序の空無」と訳し、龍村は「一種のより高次な秩序の空虚さ」と訳している。この「Leere」は端的に高次な秩序の不在を意味するのではないだろうか。ここでアドルノがヘーゲルの「不幸な意識」を引き合いに出していることからもそれが窺える。自らのうちに分裂(アンチノミー)を抱え、たえず高次な統一を望みながらそこから追放されている状態が「不幸な意識」の意味するところだからである。それはまさにアドルノの見立てるモダニズム以降の芸術の本質に他ならない。
 
 いずれにせよアドルノの主著である『新音楽の哲学』が優れた新訳で刊行されたことの意義は大きい。同時期に刊行された若きアドルノの研究者竹峰義和の力作『アドルノ、複製技術へのまなざし』(青弓社)などとともに、70年代のアドルノ翻訳の時期やその後の現代思想ブームの時期に十分な形で果たされなかった本格的なアドルノの受容・研究がいよいよ始まったのを強く感じさせる。(2007.9)