哲学する日本 非分離・述語制・場所・非自己 :山本哲士 著







山本哲士 著(文化科学高等研究院出版局)



今月はたいへん難解だが重要な問題提起を行なっている本を取り上げようと思う。山本哲士の『哲学する日本 非分離・述語制・場所・非自己』B6変型判・418頁・3300円・文化科学高等研究院出版局)である。私は山本と1980年代から彼の主催する文化科学高等研究院や雑誌『季刊iichiko』などを通して、現在の近代産業社会のあり方をその設計原理のレヴェルから根本的に組み替えてゆくための研究協働を行なってきた。彼がその過程で提出してきた「コンヴィヴィアリティ(自律協働性)」「文化資本」「ホスピタリティ」「場所」「述語意志」などの概念は私に新鮮な驚きをもたらすとともに認識視角の転換を促してきた。また今年に入って私は『吉本隆明と親鸞』『吉本隆明と共同幻想』(ともに社会評論社)を刊行したが、その内容の基礎となったのはこの研究協働の重要な柱のひとつであった吉本研究(『吉本隆明が語る戦後55年』全13巻 三交社参照)の成果でもあった。昨年ドイツ滞在の折にはジュネーヴにいる山本を訪ね長時間にわたって議論を重ねたこともある。その際には本書の骨格となる内容についても話を聞くことが出来た。日本のアカデミー世界での山本の仕事に対する評価は率直に行ってあまりかんばしいものではない。それは山本の仕事の極端ともいえる脱領域性や文体の晦渋さ、既存の権威に対し挑発的ともいえる激しい批判の姿勢が専門のたこつぼに安住しがちな日本のアカデミー世界の反発をかきたてた結果といえるだろう。だが山本から受けた数々の学恩を思い返すとき、私は彼の仕事が提起しようとしている問題の持つ意味をそうした評価の低さのなかへと埋没させてしまってはならないと考える。そこには世界思想の最先端でもっともヴィヴィットに問われようとしている課題が独力で築かれた彼独自な思考および術語の体系を通してラディカルに考察されているからである。
                   
 さて本書は主題的にいえば「日本思想論」である。だがそれは常識的な日本思想(史)論とはまったくスタイルを異にしている。たとえば冒頭近く次のような文章がある。「本書は、日本が特有だと主張するようなありふれた書物ではない。むしろ「日本は無い」と断言してはばからない高邁な日本論である。日本が無いということから、もっともよく「日本」が表出されるからだ。つまり「日本は、<日本>がない」「日本は、<日本>ではない」ということを表出することで、ある本質的な普遍閾へいたろうとする書である。もう少し正確にいうならば、ナショナルな「民族国家」へ統合された画一で均質な<日本>は、多様な「日本」ではない、各地の多元的な場所の存在が「日本」であるということを、わたしは主張したい」(9頁 傍点筆者)。

「日本は無い」ことから出発する「日本論」とは何だろうか。それは山本によれば、日本を「主体=実体=主語」からではなく「述語」から、山本の用語を使えば「述語制」から捉えること、さらには「日本が無い」という「本質」を、「場所には本質的なものがある」という視点から捉えることを目ざす日本論ということである。そしてこのときその具体的な内容を解き明かす上での媒体となるのが「言葉(ランガージュ)」であり、さらには「場所文化の文化技術的な規定制」としての「非分離技術」「述語技術」「場所技術」である(12~3頁)。これだけでは山本の言わんとすることをすぐに理解するのは難しいだろう。だがじつはここにすでにたいへん重要な問題提起が含まれているのだ。
 
 ここで私は、先月のブックハンティングの三ツ木道夫の『翻訳の思想史』の書評のなかで示した「「ドイツ」という概念はじつは近代ヨーロッパという時空間における様々な相互交通関係のなかからいわば派生的・事後的に形成されたもの」にすぎないという視点を想い起す。「ドイツ」という概念はア・プリオリに立てられる「主語」としての実体ではなく、多くの文脈のなかから派生的・事後的に現れるいわば「述語」的な概念だということである。別な言い方をすれば、「ドイツ」という概念は主述関係のなかで主客分離的な判断命題を通して定立・規定されるべきものではなく、いかなる主語的位置をも述語化してしまうような実践的かつ流動的なコンテクストのなかでのみ現出しうるものなのである。この視点はそのまま山本がいう「日本」に当てはまるのではないかと思う。このことについて山本は次のように言う。「日常の言葉のプラチック〔実際行為〕に注意しながら、「主体」批判、「分離」批判、「社会」批判、さらに「自己・人間」批判の場をひらきつつ、述語制、非分離、場所意志、そして非自己の世界をさぐりあてていくことが、わたしの哲学論である。<非>の哲学といってもいい」(19頁 〔 〕内筆者)。
 
 「日本」がこうした「述語制、非分離、場所意志、非自己」の「哲学」からのみ、しかも「主体的実践」としてのプラクシスではなく、「日常の言葉のプラチック」の次元を通してのみ捉えられうるとするならば、「日本」とは「絶対無」ないしは「絶対矛盾的自己同一」(いずれも西田幾多郎の用語)としてしか現れえないことになる。それは、「日本」が主語と述語を截然と分離し、さらに主体と客体を分離し、その分離を前提とするかたちで認識論や存在論という論理体系を打ち立てようとする近代以降の西欧哲学の体系によっては捉えることが出来ないことを意味する。あるいは別な言い方をすれば、そのような把握不可能性のなかにしか「日本」はないということでもある。これについて山本は次のようにいう。「近代西欧論理は、<考える>ことを分離として徹底させた思考といえる。この思考形式の特徴は、フーコーがもっとも鮮明にしたように、至上主体を確立し、客体的なものへの綜合を図り、そのうえで思考しうるものと思考しえないものを区分し、先験的なものと経験的なものを相互作用させ、起源を追及し系統だて、有限性を確定していくものである。だがわたしたちは「思考」と言表するように、思うことと考えることを非分離においたまま「思考する」のだ。したがって、西欧的思考には不得手であるが、西欧的思考がなしえない「思考」を可能にすることができる。それが「非分離思考」である」(87頁)。本書で山本はしばしば「閾」という言葉を用いているが、この「閾」こそは非分離的に思考することが可能となる場、すなわち場所への意志の成立するフェーズに他ならない。別な言い方をすればそれは「述語制」が成立する場でもある。ではこのような言い方を通して山本はどのような「哲学する日本」の要諦を描き出そうとするのか。それは一言でいえば、非分離のかたちを通して自ずから表出される場所の述語的意志から存在本質を構成するということである。これは私流に言い換えれば、事後的に産出される実体を経験的=先験的に本質化する形而上学的論理によって隠蔽され、「見えないもの」「名づけえないもの」とされている根源的な力 山本が「表出」と呼んでいるもの の側から存在本質を、つまりは世界を再構成するということである。それが行われる場はもはや抽象的な空間ではありえない。空間は主述=主客関係のなかにしか成立しないからだ。だからこそそれは「自ずから」という自己産出性としての「意志 」― 「意識」ではない を含む「場所」でなければならないのだ。
 
 およそこんなふうに山本は「哲学する日本」の輪郭を描き出してゆく。繰り返しになるがここで描き出された「日本」は実体的な空間性としての日本ではない。まして民族国家=国民国家としての日本でもない。それは、山本が「哲学」という言葉に託した思考法のなかから浮かび上がる一個のコンテクスト、より正確に言えば制度や言表へと結実する要素をも含む「日常的なプラチック」の述語的展開の多様な束こそが「日本」という言葉の意味だということである。このような視点に立ちながら山本は、一方において日本語の実際の用法を丹念に検証することによって「哲学する日本」の具体的な肉付けを行おうとする。そこでは三上章、金谷武洋、佐久間鼎らの文法理論を媒介としながら、日本語の述語的構造に対する徹底したアプローチが行われる。そしてそこから次のような視点が導き出されてゆく。「日本の文化技術は、述語的な技術になっている。対象・相手にあわせていくという技術を現わしている。表現形式と技術様式は切り離せない。それぞれの文化を規制する。日本語は、まったくの述語言語表出であり、日本の伝統的な技術は述語技術である」(122頁)。たとえば「今日はそば屋がよかった」という文があるとき主語がいったいどう定義されるだろうか。この文はそもそも主語を必要としない述語表出の構造のなかで文として定礎されているのだ。強いてパラフレーズすれば「今日私は洋食屋よりそば屋のほうがよかった」ないしは「そば屋で食事がしたかった」となるだろうが通常の日本語感覚からいえばこのようなパラフレーズはまったく不要だし、十分最初の文で理解出来てしまうのである。ここでポイントになるのはいうまでもなく、そして三上章がすでに指摘しているように、「~は~が」という助詞の使い方である。「は」も「が」も日本語においては主語を提示する機能を持っていない。あるシチュエーション(場所)に向かって表出が行われようとするとき、その表出(発話)の過程を分節化し規定する働きしか持っていないのである。それは主語を定立する代わりに場所を述語的に現出せしめる役割を果たす、といってもよいかもしれない。
 
 さて山本はこうしたかたちで日本語の述語的構造から日本文化の本質を抽き出す一方で、このような「日本」に対する視点に至り得ない「凡庸な」な日本論、より端的にいえば日本における哲学的実践への容赦ない批判を展開する。その中でも和辻哲郎と小林秀雄に対する批判が際立っている。「和辻哲学は、人間存在、その主体的な倫理を哲学言説したものであって、間柄、<人・間>の存在哲学といえる。典型的な主語的・実践の言説である。いいかえれば、存在論の日本的変容の最悪のケースが和辻哲学である」(172頁)「持って生まれた自我という様なものは幻影である」とした小林は、「無常」から「無私」へと、非自己へと向かわずにさらなる擬制へとはいっていってしまう。虚構の近代自我に虚構の近代自我批判をみつけることしかできなかった小林のペテンは、現実界を観ることを回避する自己の技術を蔓延させた」(348頁)。その一方山本が彼の日本論を構成するにあたってつねに基盤としているのが西田哲学であり吉本の思想である。
 
 こうした山本の姿勢に対しては異論もあるだろう。しかし山本が考え抜こうとした「哲学する日本」という課題に私たちの思考を触発し促す重要な契機が含まれていることを誰も否定することは許されない。(2011.10)


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