テオドーア・W・アドルノ著
細見和之・河原理・高安啓介訳 (作品社)
作品社から順次公刊されているアドルノの第二期全集の翻訳のうち、もっとも刊行が待たれていた『否定弁証法講義』(B6判・375頁・3200円・作品社)の卷がついに出た。アドルノの哲学面における主著『否定弁証法』に関しては、1966年の原著公刊からしばらく後に奥山次良と生松敬三および木田元によってほぼ同時期に翻訳作業が着手されたが、そのあまりの難解さと翻訳者である奥山と生松の相次ぐ逝去のためいったん翻訳作業は中断されてしまった。その後木田が中心になって新たに翻訳チームが再編成されようやく1996年に作品社から翻訳が刊行されたのだが、通常のドイツ語文の理解の閾を超えてしまっている「アドルノ語」というべき原文の難解さが日本語になったからといっていささかでも軽減されたわけではない。例えば次の文章を見てほしい。「矛盾とは同一性が非真理であることの指標、つまり概念的に把握されたものを概念に化してしまうことが非真理であることの指標である」(『否定弁証法』序論10頁)。
何度かにわたる講義および演習はそれぞれの回が『否定弁証法』の各章ごとの内容に対応していると『アドルノ伝』の著者ミュラー=ドームは言っているが(同書553頁参照)、今回訳出された1965年/66年の講義の内容は編者および訳者あとがきにもあるように、明らかに『否定弁証法』の序論の内容と対応している。この序論でアドルノは、『否定弁証法』を執筆する上でつねに参照点と仮想敵の二重の役割を果たしていたヘーゲルの弁証法概念に対し彼の「否定弁証法」の概念をその起源となる根本的なモティーフおよび基礎経験をふまえて対置しようとしているが――ついでにいえば、本文全体の内容を包括するその構成・スタイルに加え本論執筆後に序論が書かれている事実からも、アドルノは明らかにヘーゲルの『精神現象学』の序論を念頭においてこの序論を執筆している――、それこそが『否定弁証法』の本質的なコアをなすものであり、序論に続く第一部「存在論との関係」、第二部「否定弁証法 概念とカテゴリー」と展開されてゆく『否定弁証法』の議論にとってのいわば骨組みとしての意義を有している。その内容を講義形式、正確に言えば講義のためのメモと講義録によって、著作としての『否定弁証法』に比べればはるかに取り付きやすい形で提示しているのが本書に他ならない。
ここで先ほど引用した『否定弁証法』序論の中の一文の内容に立ち帰ってみよう。アドルノの否定弁証法概念において核心をなすのが「否定」の契機であることはいうまでもない。ではアドルノにとって否定は何を意味するのか。否定は定式化するとすれば「~ではない」という判断の形となるが、そのとき重要なのは、否定が不動の判断主体によってあれこれの事象、事物に対して加えられる単純な意味での識別や認証という判断的行為ではないということである。あるものに対し「~ではない」と判断がくだされるとき、そこには主体と客体の関係が生じ、さらには判断の遂行過程の内部における事物と概念の関係もまた生じてくる。後者については若干説明が必要だろう。否定が事物に向けられるとき、普通その否定は他の事物との違いないしは同一性の確認の契機となる。そしてそれは最終的には個別態としての事物の個別性の契機・要素の否定の積み重ねを通して事物の概念としての同一性、より正確に言えば、事物が概念の普遍性・一般性へと包摂されるという形での概念形式を通した同一性の確立へと至りつく。個別的な直接性の否定の積み重ねのはてに媒介された同一性が概念として定立=肯定されると言い換えてもよいだろう。こうした概念の同一性の確立過程をヘーゲルは「否定の否定」と呼んだ。それは別な観点に立てば概念と事物のあいだの同一性の確立に他ならなかった。アドルノはこうしたヘーゲルの弁証法が「否定の否定」を核心とする「肯定的な否定性」の弁証法であるという。「否定の否定は肯定、肯定的なもの、是認的なものである、ということです。これは実際、ヘーゲル哲学の根底に存在している想定の一つです」(28頁)。
たしかにヘーゲルは、カント、あるいはフィヒテに存在したような主観の抽象的な同一性がある種の狭隘さに陥ってしまう事態を批判し、「この主観性は、自分自身の実体、形態、あり方を、社会の客観的な形態と客観的なあり方に負っている、ということ」(29頁)を闡明する。それは不動の主観性を前提とする判断的な否定性の行使という次元を超える、同一性の否定(媒介化)としての否定性の行使を意味する。だがヘーゲルはそうした否定性の行使を「自らの否定によって得られる肯定性〔実定性〕において、つまり社会や国家、客観的な精神、最終的には絶対的な精神の諸制度において、そのような主観性は自己自身を止揚する」(同)のである。この意味においてヘーゲルの弁証法は「肯定性の弁証法」なのである。
こうして先に引用した序論の文章の意味が明らかになる。アドルノは否定弁証法の論理が根本的に矛盾の上に成立することを確認した上で、それが主観的な思考内部の問題にとどまらずヘーゲル的意味での客観性の側の問題でもあることを明らかにする。「社会はそれが抱える矛盾とともに、あるいはそれが抱える矛盾にもかかわらず生き延びているのではなく、それが抱える矛盾をつうじてこそ生き延びる、ということです」(20頁)。このような否定弁証法の論理にはいかなるモティーフが隠されているのだろうか。
本書のキーワードの一つに「精神的経験」という言葉がある。アドルノは8回目の講義のタイトルにこの言葉をあてているが、そこに次のような印象深い文章がある。「みなさん、一方で無限な対象を支配していると自惚れもせず、他方で自分自身を有限なものともしない、そのような哲学は、概念による反省という媒体における、何一つ割り引かれることのない、まったき経験にほかならない、と言えるでしょう。あるいは、それこそ精神的経験である、とおそらく呼ぶこともできるでしょう」(141頁)。ここでアドルノがいう「精神的経験」は、主観性と客観性の契機のどちらにも一方的な還元を許さないという意味において、観念論と唯物論の伝統的な対立、二者択一を超えたところに成立するものである。そしてその経験の核心にあるのは、つねに矛盾を孕んだ「予定不調和」(143頁)へと向かう否定弁証法の永久思考運動としての性格に他ならない。
このような否定弁証法の核心をなすモティーフの背景には、アドルノがシェーンベルクの音楽に代表されるモダニズム芸術との出会い以来積み重ねてきた時代との格闘経験が存在する。とりわけ重要なのはナチズムの支配の時代における亡命経験であろう。2回目の講義の中でアドルノは、自らの亡命経験を踏まえ、亡命によって人間は「極端な社会的な圧力状況のもとに適応しなければなら」ないために、「積極的〔肯定的〕」になってゆくという事態を語っているが、そこには肯定性=同一性が一個の強制として支配連関の核心をなしてゆくメカニズム――それを解明しようとしたのが亡命期の著作『啓蒙の弁証法』だった――のもっとも極限的な形が現れている。そしてそのことは、『否定弁証法』の第三部において展開される「倫理」の問題、より限定していえばアウシュヴィッツ以降の倫理の可能性という課題とも共鳴しあっている。「概念に捉えこまれずに逃れて行くもののなかでも最も極端なものを基準にして自己を測ることをしないならば、思考は伴奏音楽に、親衛隊がみずから手にかける犠牲者の絶叫を聞こえないようにするために好んだあの伴奏音楽と同類のものに、はじめからなってしまうのだ」(『否定弁証法』444頁)。そして同時にこのモティーフは、「全体性は虚偽である」という『ミニマ・モラリア』の一句とも反響しあいながら、「非同一的なもの」についてのアドルノの思考の最深部からの発話となるのである。(2008.2)
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