不安な経済/漂流する個人 新しい資本主義の労働・消費文化 : リチャード・セネット


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
リチャード・セネット著/森田典正訳(大月書店)
 
 
 
 
サブプライムローン問題に端を発したアメリカを中心とする全世界的な金融危機は、不良債権の額が120兆円にも及ぶ可能性が出てきていることもあり、深厚な様相を呈しつつある。アメリカ連邦制度準備理事会の前議長であったグリーンスパンが、今回の危機が戦後最大のものになるかもしれないと警告を発していることは、そうした危機の深刻さを裏書するものだといえよう。

 それにしても今回の金融危機はなぜ起こったのだろうか。もちろん事実的にいえば、低所得者向け住宅ローンであるサブプライムローンにおいて、土地・住宅バブルの崩壊に伴なう住宅価格の低下のために返済不能者が急増し、その結果負債が急速に拡大してしまったことがきっかけになっているのは明らかである。サブプライムローンの不良債権化に伴ない、サブプライムローンを組み込んだ様々なファンドや債権も不良化し、しかもそれがリスク分散のために小口化されて全世界に幅広く販売されていたために、アメリカ一国にとどまらない世界的な金融危機へとつながっていったのだととりあえずは説明する事は出来る。だが本当に問題の本質はそこにあるのだろうか。
                   
 市場原理主義と戦争経済の組み合わせによって進められてきた2001911以降のアメリカ・ブッシュ政権の新自由主義+新保守主義政策は、イラク戦争の正統性に対する疑問の全世界的な噴出によってすでに大きく躓いていた。端的にいえばイラク戦争の正体が、ブッシュのバックにある南部石油資本および軍需産業「ハリバートン」の実質的なオーナーであるチェイニー・ラムズフェルド一派の私益のための戦争でしかなかったことが露呈してしまったということである。さらにいえば、ブッシュ政権の新自由主義的経済運営の要となっていた、アメリカ国民の数パーセントを占めるにすぎない富裕層に手厚く利益を誘導するためのミニバブルの連続的な演出の繰り返しの手法(ITバブル、土地・住宅バブル等々)――その演出者がグリーンスパンだった――が、今回のサブプライムローン破綻によってついに行き詰ってしまったこともある。つまり今回の金融危機によって見えてきたこととは、新自由主義が鼓舞する市場原理主義によってたえず構造的に再生産される富裕層と貧困層のあいだの極端な経済的・社会的格差を、貧困層向けサブプライムローンと、貧困層に対する就業機会の提供という性格を持つ戦争という二つの回路を通じて糊塗し、それによって国民全体を再び国家(ロイヤリティ)の側へと回収し統合する――その過程がじつは、政権当事者と富裕層からなるエスタブリッシュメント層にとってのもう一つの私益確保の手段ともなっていた――というブッシュ政権のやり方が、その二つの回路の破綻によって完全に機能不全に陥ってしまったというのが今回の事態の本質だったといえよう。2年前ニューオリンズを襲ったハリケーン「カトリーナ」による災害の際の、とても先進国とは思えない国のずさんかつ稚拙な対応がおそらく破綻の始まりだったのだと思う。このときアメリカ国民は、黒人貧困層を中心とするハリケーン被害者たちがブッシュ政権によってほとんど棄民同然の扱いを受け、何らのサポートも受けられなかった事実を見て、ようやくブッシュ政権の進めてきた新自由主義+新保守主義政策の本質に気づいたのだった。あれから2年、ブッシュの「ポチ」役を買って出た、イギリスのブレア、日本の小泉・安倍、オーストラリアのハワードを始めとする新自由主義+新保守主義の「盟友」たちはほとんど政治の舞台を去った。世界は明らかに新自由主義+新保守主義に対して疑いを抱き、そこから距離を取り始めている。そしてそのことは、あらためて89年の東欧社会主義崩壊とともにグローバル化の波に乗って一気の世界の政治・経済の主潮へとのし上がっていった新自由主義+新保守主義路線に対する見直し、問い直しへとつながってきている。

                   
 今回取り上げるリチャード・セネットの著作(B6判・207頁・2300円・大月書店)は、その問い直しに対して絶好の手がかりを与えてくれる。とくに新自由主義が、資本主義社会の形成を軸を推し進められてきた近代化のプロセスの中で、ある特異な位置を占めていることに目を開かせてくれるのが本書の大きな意義となっている。

  新自由主義の特異な位置は、それが19世紀に本格的に始まる資本主義的近代の実定性に対する一種の革命としての意味を持つことに由来する。かつて絓秀実はその著書『1968年』(ちくま新書)で、1968年の「革命」によってもたらされた様々な結果が次第に社会全体へと定着してゆく過程としてその後の時代の流れを捉えていたが、じつは新自由主義、あるいはそれと雁行して登場した新保守主義にしても68年にピークを迎える60年代の急進的な革命の逆説的な「成果」としての性格を持っている。そのことをセネットは本書の「序」の部分で次のように言っている。「半世紀前の一九六〇年代(……)真剣な若き急進派たちはさまざまな既存組織を、とりわけ、大きさと複雑さと硬直性によって、人々を鉄の鎖につないでいるようにみえる巨大企業や巨大政府を批判の標的にしていた。ニューレフトの設立記録ともいえる一九六二年のポート・ヒューロン声明は、国家社会主義にも多国籍企業にも等しく手厳しかった。彼らには両体制とも官僚的牢獄にみえていたのだ。ポート・ヒューロン声明の起草者の望みの一部は、のちの歴史によってかなえられることになった。五カ年計画や中央による経済支配という社会主義の原則が消滅したからである。被雇用者に終身雇用を提供し、毎年、おなじ製品とサービスを提供し続けてきた資本主義企業も同様に消滅した。医療保険や教育のような制度もかたちが多様化し、規模が縮小された。五〇年前の急進派同様、今日の支配者の目標も硬直的官僚制度の解体にある」(本書2頁)。

 
   問題は60年代の革命によって既存の硬直した官僚的な体制が消滅した後に何が来たかである。セネットは、やや皮肉な調子でニューレフトの望みは「歪んだかたちで」かなえられたという。ニューレフトが望んでいたのは、セネットの言い方に従えば、「顔のみえる信頼と連帯の関係や、常に調整され、更新される関係や、それぞれが他者の欲求に敏感な共同体的領域が生まれる」(3頁)ことだったのだが、じっさいに誕生したのは「巨大組織の断片化によって、多数の人々の生活も断片化される状況」(同)だったのだ。つまり「組織が解体されても、結局、多くの共同体は生まれなかった」(同)のである。

 この冒頭の認識が、セネットの本書における位置をよく示している。近代社会は1848年の革命を経て本格的な産業社会への道を歩み始める。それは、むき出しの弱肉強食原理によって動いていた初期の資本主義が次第に整除された組織・体制として確立されてゆく過程でもあった。「一八六〇年代から一九七〇年代までの一〇〇年間で、企業は安定化の術を学び、事業の寿命を延ばし、労働者数を拡大した。こうした安定をもたらすに至った変化は(……)事業の内部における、組織編成の方法」(26頁)によって生じたのである。セネットはその組織編成のモデルを、M・ウェーバーを援用しながら「軍隊的モデル」(同)に求める。それは要約すれば、組織への帰属過程の中に自らの人生総体の設計のためのモチヴェーションを見出すような人材によって企業が形づくられるようなモデルである。そこに雇用の保証、専門性の保証、企業の側による勤務外の保養や社会保障の提供などの要素が対応することはいうまでもない。それによって、とりわけ第二次世界大戦後の先進国における巨大企業は比類ない安定性を獲得したのである。
 

 反面、こうした企業のあり方は組織の官僚的な硬直化も招いた。意思決定過程の緩慢さ、責任の分散にともなう事なかれ主義の蔓延といった事態がそこには生じる。セネットは、その典型例を戦後巨大企業の代表格といってよいIBMのケースに見ている(39頁参照)。六〇年代の革命は、こうした巨大企業組織に生じた官僚的硬直化によって象徴される近代社会のあり方への叛乱として起こった。それは組織によって逼塞させられたフレキシビリティの回復への志向に貫かれていた。だが皮肉なことにじっさいに実現したのは、組織のもたらす安定を失って企業を含む社会全体が個人も含めいっせいに液状化し標流し始めるという事態であった。その行き着く先が新自由主義的な市場原理主義であったことはいうまでもないだろう。セネットはそうした事態を「MP3プレーヤー」によって寓意的に説明する。それは、コンピュータプログラムと同様に、いつでも課題や活動領域、それに伴なう人材を入れ替えることの出来るような柔軟な組織のあり方が実現したということである。このことには企業の決定権が短期における利潤を目指す株主に移ったことや、組織への帰属ではなく自己決定を志向するシリコンバレーのコンピュータプログラマーのような人材が登場してきたことが対応する。ではそれは社会的に何を意味したのだろうか。セネットはこうした事態がもたらした「三つの社会的損失」に言及する。すなわち「組織への「帰属心(ロイヤリティ)」の低下、労働者間のインフォーマルな相互信頼の消滅、組織についての知識の減少」(65頁)である。このことによって社会の液状化と個人の不安定な漂流状態が加速されることになる。新自由主義のもとでの非正規雇用の増大、格差の拡大といった現象がまさにここに起因しているといえるだろう。セネットはその焦点を、個人が社会に中に安定した自らの位置を見出させなくなる事態、つまり「自分が不要な存在なのではないか」という不安に絶えずさらされている事態のうちに見出している。そこには同時に、社会と個人の接点が、熟成された知識や思考、技能によってではなく、せつな的な消費選好によって形成されるという事態、セネットの言い方に従えば社会の劇場化という事態を伴なっている。
 

 こうしてみてくるとき、ブッシュ政権の行った政策の背景にあるもの、そして今明らかになりつつあるその破綻の本質的な根拠が何処にあるのかが次第に明瞭になってくる。一言で言えば新自由主義+新保守主義政策は、社会の解体・破壊をもたらし、個人の存在基盤を掘り崩してしまったのである。セネットは最後に「社会資本主義」という概念を提示し、社会を解体しつつある新自由主義に対抗するため、規範なき暴走を続ける企業に対する「並行組織」の形成、ワークシェアリング、そして近年注目されつつある「ベーシック・インカム」(社会による生活基本所得の保障)の三つの方向性を提言している。いずれにせよ新自由主義+新保守主義に対する最終戦争が今喫緊の課題となってきていることを、このセネットの本は私たちに教えてくれる。(2008.4

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