ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統 : フランセス・イエイツ

      フランセス・イエイツ著・前野佳彦訳(工作舎)

2011年3月末にドイツから日本へ戻りふたたび本欄を日本で執筆することになった。東日本大震災が起きた3月11日はまだドイツにいてそろそろ帰国準備にかかろうとしていたときだったが、ドイツのメディアを通して伝わってくる被災地の惨状には強い衝撃を受けた。この重い衝撃と悲傷の思いは帰国してもなお続いている。本来ならばこの問題に関連する著作を取り上げるべきところだが、まだ個別問題を超えるレヴェルでの本格的な考察や議論は出ていないように思われるのと、私自身の中で渦巻いている様々な思いのために現在のところ冷静にこの問題を考えることが出来そうにもない。もう少し時間を置いて取り組んでみたいと思う。
 
 ところで一年間の留守のあいだに届いていた本の中にフランセツ・イエイツの『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』(A6判・877頁・10000円・工作舎)があった。私にとってはたいへん懐かしい本である。学生時代卒論のテーマとしてリルケにおける文学と神話の関連を選んだことから、当時私は神話学や人類学の世界に入れこんでいた。きっかけは林達夫と久野収の対談『思想のドラマトゥルギー』(平凡社)を読んでルネサンス精神史に強い関心を抱いたことだった。とくにキリスト教という正系に対する異教的な深層伝統としての新プラトン主義やヘルメス思想、グノーシス主義が中世においても途絶えることなく受け継がれルネサンス精神へ、とりわけフィレンツェのアカデミア・プラトニカにおけるマルシリオ・フィチーノやピコ・デッラ・ミランドラらに主導されたプラトニズム復興へとつながっていったことには大きな衝撃を受けた。それまでのヨーロッパ精神史の常識が覆されるのを感じたからだった。そうしたなかで出会ったのがヨーロッパ精神史におけるプラトニズムの伝統の意味を究明しようとしたアーサー・ラヴジョイの古典的名著『存在の大いなる連鎖』(邦訳晶文社)であり、当時はまだ翻訳のなかったイエイツの本書だった。その後イエイツの著作では『世界劇場』(晶文社)や『記憶術』(水声社)が邦訳されたが、精神史学者としてのイエイツの名を一挙に高めた本書の翻訳はなかなか出なかった。だが私がドイツへいっているあいだについに本書の翻訳刊行が実現した。日本におけるヨーロッパ精神史研究にとって本書の刊行はひとつの事件であるといってよい。なぜなら林達夫、あるいは澁澤龍彦、種村季弘、山口昌男らの努力にもかかわらず日本のヨーロッパ精神史理解においてイエイツが扱っている分野は依然として十分に掘り下げられているとはいえないからである。逆に言えば本書は日本のヨーロッパ理解の根本的な歪みを正すためにどうしても翻訳が必要だった極めて重要な著作だったということである。現時点では必ずしも新刊とはいえないがその重要さに鑑みてぜひ本欄で取り上げたいと思う。
 
                  
 本書でイエイツが扱おうとしているのはヨーロッパ精神史、とりわけ中世末からルネサンスにかけての時期における「魔術的なもの」の伝統である。ここでいう「魔術的なもの」とは、宇宙に煌めく星辰の世界と地上世界のあいだの照応関係に感応することが出来る「霊的能力」を意味する。「共感魔術の方法は地上に向かって絶えず流出してくるものがあってそれが感応霊力を持っているということを前提とし、『アスクレピウス』の著者もそのことに言及している。必要な知識を備えたオペレーター術者ならば、この流出とその官能霊力を導き用いることができると信じられていたのである」(訳書80頁)。
 
 この短い記述のなかには本書を理解する上での重要な鍵がいくつか含まれている。まず「流出」という概念である。プラトンは晩年の対話篇『ティマイオス』において、造物神デミウルゴスが自らに備わる至高善をあますことなく被造物へと注ぎ込み世界を創造したと述べている。世界は創造神のもつ絶対的な善が注ぎ込まれることによって創造されたのである。この考え方を発展させ、「一なるもの」としての神=絶対善の「流出(エマナチオ)による世界創造説を集大成したのが新プラトン主義の創始者であり、『エネアデス』の著者であるプロティノスであった。一方東方世界で誕生したグノーシス主義においては神による世界創造の秘密の霊的な認識(グノーシス)が求められていた。これらの古代末期の異教的な思考や教義がエジプトに由来するヘルメス神(ヘルメス・トリスメギトス=三倍偉大なヘルメス)の教えに仮託されてまとめ上げられたのが「ヘルメス文書(ヘルメティカ)」であった。『アスクレピウス』はこのヘルメス文書に含まれるテクストのひとつである。また後にフィチーノがヘルメス文書の翻訳を行なったとき、全体に付されたタイトルが、ヘルメス文書の冒頭を飾る『ポイマンドレース』であった(なお本書の訳者はイエイツに従い「ピマンデル」と表記している)。そしてヘルメス文書の思想の基底にあったのが「魔術的なもの」に他ならなかった。
 
 すでに触れたようにローマ帝国における国教化以降ヨーロッパ世界の精神的正系となったのはキリスト教であった。そこでヘルメス文書に盛り込まれた古代異教的な教義、とくに魔術的要素とキリスト教の教義のすり合わせが必要となってくる。その際にギリシア哲学、とくにプラトンの概念とキリスト教の概念の結合が方法的に問題となった。初期キリスト教においてその作業を担ったのが「教父」と呼ばれる神学者たちだった。教父たちのあいだではこの問題をめぐって対立が存在した。イエイツが指摘しているように古代末期最大の教父アウグスティヌスはヘルメス文書に含まれる魔術的要素を否定した。その一方教父ラクタンティウスは、ヘルメス・トリスメギストス(メルクリウス)をキリスト教よりはるかに古いエジプトの神とし、後に現れるヘルメスとモーゼの連関という発想に、より端的にいえばヘルメスこそがモーゼ=ユダヤ・キリスト教の始祖の信仰及び教義の源泉であったという発想に道を開いたのである。1945年にエジプトで発見されたヘルメス文書やグノーシス主義の文献、さらには聖書の外典である『トマス福音書』を含むナグ・ハマディ文書はそれを証明している。このヘルメスの古代エジプト神としての位置づけは、ヘルメス思想こそがキリスト教教義の起源であり源泉であるという認識も含め、人類の最大最高の知恵の源であるという考え方へとつながってゆく。そしてそれはたんなる思想、知恵というだけにとどまらず世界の奥義としても、さらには奥義に達するための術、すなわち魔術としても受け止められるようになってゆく。聖パウロと出会ったことのあるアテナイの聖人で、「九層を成す天使たちの位階を幻視した」(188頁)といわれるディオニュシウス・アレオパギタ(アレオパゴスのディオニュシウス)に著者が仮託されている「偽ディオニシウス文書」、その「偽ディオニュシウス文書」をラテン語に訳した9世紀のカロリング・ルネサンス時代のヨハンネス・スコトゥス・エリウゲナ、ライムンドゥス・ルルスの『アルス・マグナ(大いなる術)』などはそうした傾向の代表例であった。ここから錬金術が生まれたことはいうまでもない。
 
 とはいえ魔術的伝統とキリスト教の伝統のあいだの齟齬、緊張関係は決して消えたわけではない。その関係が頂点に達するのがルネサンス期であった。本書の主題でもあるジョルダーノ・ブルーノはまさにその対立の頂点に立ち火刑に処された人物だった。とはいえイエイツの描くブルーノは私たちが抱いてきた初期ルネサンス期における暗黒裁判の犠牲になった科学的思考の先駆者としてのイメージとは合致しない。むしろ異貌の魔術師として描かれているといってよい。イエイツが次のようにいっているのは、まさしくイエイツの描こうとしたブルーノ像に当てはまであろう。「<マグス魔術師>は、魔術的ないし護符的な彫像を記憶の彫像として用いることで想像力を魔術的に組織し、いわばコスモスの諸力と波長の合った、絶倫の魔術的人格を手に入れ、それによって宇宙的な知と力を獲得しようと望むのである」(289頁)。
 
 ここには後にイエイツの仕事の主要な焦点となる記憶術の問題も登場している。すでに私たちは『記憶術』によって、記憶が古代以来宇宙の奥義に参入するための重要な術として捉えられていることを知っているが、それはまさしく魔術的なものの持つ性格とあい通じるものなのである。そして問題の基底をなしているのは依然として宇宙と地上の関係、とりわけ地上の被造物のうちもっとも特権的な存在である人間の照応関係に他ならないのである。したがって記憶における宇宙と人間の精神の照応も、音楽における天体の調和と響きの調和の照応も、宇宙(マクロコスモス)と人体(ミクロコスモス)の照応も、すべてこの魔術的なものに最終的には帰着するということが出来る。
 ルネサンスはいうまでもなく近代の始まりとしての側面を持っている。そして古代復興としてのルネサンスが結果的には近代という時代の開始に向けた強力な推進力となったという事態は、ルネサンスにおける魔術的なものの要素が持つ両犠牲を示しているといってよい。たとえばブルーノがニコウラウス・クザーヌスの受け継ぐかたちで無限宇宙論を主張したことはよく知られている。そしてそれがコペルニクスの地動説とつながることも。だがそれが決して経験科学の次元で主張されたものではなく、むしろ魔術的なものの次元で主張されたものであることを私たちは知ろうとしなかった。ルネサンス期から17世紀の科学革命の時期にかけての「偉大な」科学者・哲学者たちの精神が魔術的なものに由来する宇宙感覚を依然として帯びていたことは、科学に象徴される近代という時代の精神に底流する深層を掘り当てるための重要な端緒となるはずである。ケインズが収集したケインズ文書で知られるニュートンと錬金術の関係にしても、たんにニュートンに「気の迷い」と片付けてしまってはならないのである。
 
 ともあれ本書が明晰な日本語と驚くべき詳細な訳註、日本最初の本格的なイエイツ論というべき解説論文とともに訳出されたことの意義は大きい。訳者前野佳彦の払ったであろう筆舌に尽くしがたい翻訳上の労に深く感謝したいと思う。(2011.4)

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