文学者たちの大逆事件と韓国併合 : 高澤秀次著








高澤秀次 著(平凡社)

これまで中上健次の文学を中心にユニークな考察を行ってきた文芸批評家高澤秀次の新著『文学者たちの大逆事件と韓国併合』(新書判・234頁・760円・平凡社)が刊行された。本書が刊行された2010年はこのふたつの事件からちょうど100年にあたる。日本近代史の「闇」の部分、おぞましい暗部を象徴しているこのふたつの事件は、同時に日本近代史の本質的な認識にとって避けて通ることの出来ない大きな問題でもある。高澤は本書でこの問題にこれまでなかった斬新な切り口を通してアプローチすることにより、日本近代史の認識、さらにはその歴史的構図のなかに位置づけられる文学者たちの認識に重大な変更を迫ろうとする。率直にいってその問題提起は新書という限られたスペースで扱うには大きすぎて、議論が十分に深まらないままになっているところも存在する。だがそうだとしも本書が含む問題提起の重要性、本質性はいささかも揺らがない。
                   
 今や古典的な名作といって差し支えない中上健次の『千年の愉楽』のなかに次のような文章がある。周知のようにこの小説は、差別の対象とされてきた紀州熊野の「路地」に生きる産婆オリュウノオバの目から見た、この「路地」に生きるひとびとの生死をテーマとしているが、そのオリュウノオバの連れ合いだった礼如はある日突然出家して浄泉寺という寺の住職になる。ところでこの寺にはかつてひとりの僧がいた。「前の和尚は(……)、実のところ怖ろしい悪人だった者を他から呼び話をきかせ天子様に弓を引く計画をしたとして監獄に入れられ首をくくられたと聴いたが、その和尚なら路地の者たちがどうなったか心配で路地の周りをさまよいかねない、とオリュウノオバは考え、丁度、通りかかった半蔵を呼びとめ。「幽霊みた言うて、怖ろしいことないど」と言った」。
 この「前の和尚」が、大逆事件で捕縛され獄中で縊死した新宮の僧高木顕明をさしていることはいうまでもない。この『千年の愉楽』という作品にはじつは深く大逆事件が影を落としているのである。このことが中上の文学を理解する上で極めて重要な意味を持つことを高澤は本書で明らかにする。それがどのようなものであるかに立ち入る前に、まず本書で高澤が提示している、大逆事件と韓国併合が日本近代史の構図に与えた本質的な意味について概観しておこう。
                   
 「プロローグ」で高澤は次のような認識を示している。「この1910の出来事には、「大日本帝国」の自立のための犠牲という、象徴的な意味が重なっていた。神聖不可侵の統治者である天皇が、その「臣民」との間の不朽の絆を確認する上で、社会主義者・幸徳秋水を首謀者とする大逆の企てをフレームアップしたのは、近代国家の内部規律引き締めのためのいわば「通過儀礼」でもあった」(7頁)。大逆事件とは、「大日本帝国」が一個の閉じた内部として確立されるために必要であった外部、すなわち内部から排除されるべき「日本人ならざる者」という「ネガティヴな表象」を作り出すための企てだったのである。いうまでもなくこうした外部としての「日本人ならざる者」には、もうひとつの要素である「朝鮮」が対応する。だがそれは、大日本帝国が外部としての朝鮮を植民地としていわば内部化する過程を通して対応しているのだ。大逆事件と韓国併合はこのように大日本帝国という内部が外部を創出する過程において重なり合いながら、ベクトルとしてはちょうど反対を向く形で相補関係にあるのである(8~9頁)。高澤はこのふたつの出来事が持つこうした位相を踏まえながら、それが近代日本文学に与えた影を検証する。もちろんそれは文学の領域だけにとどまる問題では終らない。すでに述べたようにそこには近代日本史をどのように読み替え、どのように再構成し直すかという問題へとつながるからである。
                  
 すでに明らかなように高澤は本書の議論においてある種の人類学的・民俗学的な概念装置を踏まえている。それは、共同体が成立するために不可欠であった「聖」と「ケガレ」の二元論である。共同体は自らの内部を確立するために内部を超越論的に逆照射する外部を必要とする。その外部は通常ふたつの対照的な位置価を持つことになる。ひとつは文字通り超越的な位置価、言い換えれば「聖」の位置価である。それが「カミ」を意味することはいうまでもない。その一方この外部は共同体の負う「ケガレ」、禁忌や汚辱を一身に押し付けられて共同体から追放・排除されるべきものという位置価も持つ。被差別部落の起源にこのような問題が存在することは周知の通りである。遡れはそれは高天原を追放された「反逆者」スサノオのイメージへとゆき着くであろう。とするならば大逆事件において「聖」なる外部としての天皇の権威の確立と、「日本人ならざる者」という「ケガレ」を一身に背負わされた幸徳以下の「反逆者」たちの処刑が対応していたことはある意味では必然的だったといってよい。

 だがこの過程の持つ意味はそれだけにはとどまらない。「聖」と「ケガレ」を外部へと排除するメカニズムは儀礼という非日常的な場においてのみ可視的でなければならないからだ。逆に言えば、共同体の日常において内部はあくまで内部として完結していなければならないのだ。外部を超越論的に排除するメカニズムは日常においては絶対的に不可視でなければならない。そこには、外部へと排除されると同時に、外部である限りにおいてぎりぎり可能となる主体のアイデンティティさえも剥奪し擬似的に内部へと回収する力学が働く。それは外部としてマーキングされる存在そのものを根源的に否定する力学に他ならない。このことがはっきりと現れるのが、植民地朝鮮のひとびとの「大日本帝国」の「臣民=日本人化」であり、さらには沖縄・アイヌ・被差別部落のひとびとの「臣民=日本人化」であった。この怖るべき排除と内部化の二重の循環構造のなかではじめて「大日本帝国」という共同体の内部はあたかも永遠不朽の絶対秩序のごとき様相を確立するのである。
                   
 このように見てくるとき、高澤が引用している中上の次のような言葉が重要な意味を持つ。「柳田(ママ)男の「毛坊主考」に触発された中上健次は、「つまり毛坊主とは、共同体(ここでは被差別部落)が否応なくはらんでしまう触穢(しょくえ)と浄化の二つを一身に体現する人間である」(『紀州――木の国・根の国物語』)と、その本質を言い当てている」(121頁)。
 ここで中上が企てようとした文学の本質的な意味が明らかになる。ケガレ=触穢=排除と存在剥奪としての内部化の循環のなかで逼塞させられてきた日本近代史の影の部分を本質的な意味で復権させ再生させるためには、そこに「浄化」という新たなファクターを導入する必要があるのだ。この「浄化」が「ケガレのキヨメ」を意味することはいうまでもない。だがここで注意しなければならないのは、中上のなかでこの「キヨメ」が共同体の内部秩序への穢れた存在の回収を意味するのではなく、「戦争」を意味しているということである(第五章)。中上は大逆事件を「日本で起こった架空の南北戦争」(116頁)と形容する。紀州熊野の「路地」という場から見たとき大逆事件は、いわば外部が「大日本帝国」という内部と繰り広げた「戦争」に他ならなくなるのである。「キヨメ」とは、存在を奪われた者たちが自らの存在を取り戻すために排除と存在剥奪としての内部化の怖るべき循環構造に向けて企てる根源的な戦いを意味するのである。このとき高澤が次のようにいっていることに注目しなければならない。「大逆事件は中上にとって、ただの「市民戦争」ではなかった。何故なら「路地」の住人は悉く、近代の「市民」=「四民(士農工商)」の外部にあった「新平民」だったからだ。彼らは「眼から火が吹くような屈辱」(「六道の辻」、『千年の愉楽』)を潜って、「市民」の列に加わったのであり、それは大逆事件のはるか後年のことだったのである」(123頁)。

 この引用の後半が内部化の過程を意味することはいうまでもない。問題なのはそこに「眼から火が吹くような屈辱」が伴なっていたという事実である。それは直接には「新平民」を認めようとしない共同体の内部との軋轢に由来している。ただ問題はもっと深いところにある。この過程には繰り返しいうように外部であることを強いられる存在の側の存在剥奪が伴っているからである。それは裏返していえば、自らを失うことなしには内部化を果たしえない存在の屈辱に他ならない。この二重に設えられた怖るべき循環を脱しない限り外部化された存在の真の再生はありえないのだ。いうまでもなくこのことはもうひとつの極である朝鮮にもあてはまる。そしてそこにはもうひとつの重要な要素である「言葉」の問題が加わる。朝鮮の植民地化は朝鮮(韓国)語と日本語のはざまで苦しむ多くの在日世代を生み出した。そこでは言葉こそが内部と外部の「戦争」の苛烈な戦場とならざるをえなかったのである。本書でとりわけ印象的かつ衝撃的なのは、この言葉の戦場における戦いにもっとも深くコミットした在日詩人金時鐘の影響下から出発した梁石白が、『夜を賭けて』において一気にこの戦場に彼方にある、日本も朝鮮も沖縄も突き抜けたユートピアにまで至ったことに照応する「日本」側の文学の不在である。おそらくこの不在には、梁のユートピアのはらんでいる底知れない屈辱の深さと重さに拮抗するものの不在が対応しているのである。ただ本書で高澤はかろうじてそうした拮抗の可能性を垣間見せているひとりの作家を取り上げている。それは小林勝である。戦後共産党の武装闘争に参加し早くに亡くなった小林の文学は今ほぼ忘れられてしまっているが、高澤は小林の文学を、植民地朝鮮の側が味わった深い屈辱に拮抗する「日本」人の屈辱の深さを提示しえたほとんど唯一の存在として掘りおこす(第四章、第七章)。

 ところでもはや紙数がつきかけているので詳論することは出来ないが、じつは「日本」自身が「大日本帝国」への途上において言葉の戦場を体験しているのだ。それは「言文一致」運動、「国語」の創出においてであった。日本の近代化のもうひとつの指標というべきこの言葉の戦場において、じつは大逆事件と韓国併合が持った排除と内部化の屈辱に満ちた循環構造が最初に確立されたのである。そしてそこにこそ柳田國男の「新国学」も金田一京助の「アイヌ語研究」も位置づけられねばならないのである(第一章)。そして同時にそこには柄谷やジジェクの書評で触れた「抑圧されたものの回帰」というテーマが明滅している。夏目漱石の問題、三島由紀夫の問題などまだまだ触れねばならない問題があるがその余裕がなくなってしまった。私個人としては高澤が中上文学の新たな読み方を示してくれたことに深く感謝したい。高澤自身が今後このテーマをより本格的に展開してくれることを切望する。(2011.2)

フルトヴェングラー : 奥波一秀 著








奥波一秀 著(筑摩書房)



2001年、20世紀を代表するヴァーグナー指揮者の一人であり、1951年に再開された戦後のバイロイト音楽祭におけるゲーニウス・ロキともいうべきハンス・クナッパーツブッシュについて鮮烈に論じきった名著『クナッパーツブッシュ 音楽と政治』(みすず書房)を著した奥波一秀が10年後に今度は、クナッパーツブッシュとともに20世紀ドイツを代表する指揮者であり、一音楽家というだけにとどまらない歴史的意味をあのナチス・ドイツの時代に担わざるをえなかったフルトヴェングラーについて論じた新著を公刊した(B6判・350頁・1800円・筑摩書房)。

 クナッパーツブッシュと違いフルトヴェングラーにはすでに多くの先行研究が存在する。それらを通してフルトヴェングラーという「現象」に関しては否定・肯定を含めかなり強固な先入見が形成されている。その意味では前著に比べ論じるにあたってやりにくい部分が多々あったに違いない。にもかかわらず奥波は本書でこれまで十分に掘り起こされてこなかったフルトヴェングラーをめぐる諸問題へのアプローチに成功している。それは主としてふたつの作業によってであった。ひとつはフルトヴェングラー自身の残したテクストの綿密な読解作業である。とくに『日記』や『書簡』、さらには雑誌や新聞に投稿された文章の丹念な読解を通じてわたしたちはフルトヴェングラーの内面のかなり奥深いところまで入ってゆくことが出来る。例えば作曲家のプフィッツナーと音楽批評家ベッカーの論争に関してフルトヴェングラーが残している「ベッカーの問題は、多かれ少なかれ恣意的で主知主義的な芸術制作なのだ、ということ」(32頁)というような言葉にはフルトヴェングラーについて考える上で重要なヒントが隠されている。一言でいうならフルトヴェングラーは従来考えられていた19世紀教養市民文化を背景に持つ非政治的リベラルというポジションよりさらに、プフィッツナーに象徴されるドイツ至上主義的・アンチモダニズム的ポジションに近い政治性を帯びていたということである。
 
 このことをさらに詳細に究明するために奥波が行なっている第二の作業が、今挙げた例からも窺える同時代の多様な音楽家たちや思想家たちとの対質化の作業である。プフィッツナーやベッカーの他、クレンペラー、ヴァルター、R・シュトラウス、トスカニーニ、Th.マンらの著名人、さらにはクルシェネック、シェンカー、シュトゥッケンシュミット、シュローベルといったあまり日本では知られていない同時代の音楽家たち、さらにはナチスの側のゲッベルスまでも動員しながら、奥波はフルトヴェングラーの音楽思想の核心、さらにはその時代的・政治的意味に迫ろうとする。
 例えば先ほど引用した「恣意的で主知主義的な」という言い方の持つ意味についてもう少し立ち入って考えてみよう。この言い方には明らかにゲッベルスのようなナチのみならずより広汎な拡がりを持つドイツ保守派のモダニズムに対する嫌悪の感情が投影されている。それは、音楽的にいえば19世紀後半のマーラーから始まる新音楽の潮流、すなわち調性の否定にまでいたる無調音楽の潮流(シェーンベルク派)への反発として位置づけることが出来る。ゲッベルスの言葉にあるプフィッツナーを形容した「物静かで辛辣で浮き世離れしたドイツのマイスター」(39頁)というような言い方は「恣意的で主知主義的な」ものの対極にあるのがいかなるものかをよく示している。そしてそれはフルトヴェングラーがしばしば使う「魂の必然性」というような言いまわし(85頁以下)と深く通底しているのである。

 ここで問題が明瞭な形で浮かび上がってくる。フルトヴェングラーの音楽思想のあり方を批判したシュトゥッケンシュミット、クルシェネック、シュトローベルら新音楽の担い手たちとの対質化を通して見えてくるのは、この「恣意的で主知主義的な」という評価の表現をめぐって形づくられる調性秩序(伝統的ドイツ=ヨーロッパ至上主義)対無調音楽(新音楽=モダニズム)という対立線である。そしてこの対立線にはさらに重大なもうひとつの対立線が重ね合わされるのである。それはドイツ・ナショナリティ対ユダヤ性という対立線である。ハンナ・アーレントは『全体主義の起源』の中でドイツ・オーストリアの反ユダヤ主義がモダニズムへの嫌悪と重なり合っているという指摘を行なっているが、フルトヴェングラーの音楽思想とその批判者たちの対立(伝統主義対モダニズム)は、彼自身が十分に意識していたかいなかったかにかかわらず必然的に反ユダヤ主義という対立線分をめぐる構図へと回収されていかざるを得ないのである。そのことを証明しているのがフルトヴェングラーにおける「ドイツ的なもの」への忠誠であり「民族(フォルク)」とのつながりの強調に他ならない。「恣意的で主知主義的な」モダニズムが非ドイツ的であり「ユダヤ的」であると受け止められてしまう回路にフルトヴェングラーが骨絡みともいう形で呪縛されていたことを、本書において奥波が発掘した様々なテクストは証明している。それはフルトヴェングラーの主著『音と言葉』やプリーベルクの研究書などからは明確には伝わってこなかったフルトヴェングラー像といわねばならない。
 
 念のために付け加えておけば、本書からこのような形でフルトヴェングラー像を造形することにおそらく奥波は賛成しないだろうと思う。そのことに関して付け加えておきたい問題がある。ひとつはTh.マンの問題である。本来のメンタリティのあり様からいってマンはフルトヴェングラーとごく近い人間であった。第一次世界大戦中に書かれた『非政治的人間の考察』は、そのタイトルとは裏腹にそのままどこまでも延長してゆけば反ユダヤ主義を経由しながらナチズムに行き着きかねない極めて政治的な書物である。だがマンはワイマール共和制の下で劇的な立場の転換を行なった。彼は自らがワイマール憲法に忠実な共和主義者となることをハウプトマンに関する講演の際に明確にマニュフェストしたのである。フルトヴェングラーはこうした転換をサボタージュした。ここがマンとフルトヴェングラーを決定的に分けるポイントとなる。さらには戦後の西ドイツ初代大統領であるTh.ホイスの問題がある。本書で奥波はホイスに触れているが残念なことにもっとも重要な一点に言及していない。すでに触れたようにバイロイトのヴァーグナー音楽祭は1951年再開されるが、このときオープニングにベートーヴェンの「第九」を指揮したのがフルトヴェングラーだった。このバイロイト音楽祭にいうまでもなくホイスも招待されている。だがホイスはこの招待を拒否したのだった。マンの場合と同様、伝統的な教養主義者、芸術観の持ち主として本書においてフルトヴェングラーと近い存在に擬せられているホイスもまたフルトヴェングラーとは対照的にバイロイトに象徴される「ドイツ」をきっぱりと拒否したのである。「ドイツ」の拒否―これこそがフルトヴェングラーのついになし得なかったことに他ならない。そしてこの一点でフルトヴェングラーはナチズムと戦争に対する重大な責任を負わざるをえないのである。
 
 ところで本書を読みながら私は奥波の論脈から少し外れることを考えていた。本書には登場しないが同時代のドイツ系の名指揮者にk・ベームがいた。そしてベームはフルトヴェングラー、ナチス党員となったカラヤンやアーベントロートとはまた違った意味で大きな問題をはらんだ存在であった。一言で言えばベームはアイヒマンのように極めて凡庸なオポチュニストであった。そのときどきの権力者、支配者に阿諛追従しながら身の保全を図ろうとする人間だった。彼にはおよそフルトヴェングラーのような理念性などひとかけらも存在しなかった。ただの音楽屋に過ぎなかった。だがそのベームの作り出す音楽はときにその鋭い現代性においてフルトヴェングラーやクナッパーツブッシュをも凌駕するような瞬間があった(例えばベルクの「ヴォツェック」やヴァーグナーの「トリスタン」「指環」など)。あの時代ベームに限らず多くの音楽家たちが何らかの形でナチスに協力している。そこには「人間的」に見ても「思想的」「倫理的」に見てもいかがわしさ、疾しさを拭うことのできないケースが数限りなく見出される。難しいのは、にもかかわらず未だに彼らの音楽が戦後世代の音楽家たちによって乗り超えられない高さや魅力を示していることである。それはもちろんフルトヴェングラーやカラヤンの問題でもある。戦後のドイツにあって、もっとも峻烈にナチズムへとつながる「ドイツ」を批判し告発した思想家といってよいアドルノがフルトヴェングラーへの好意を隠そうとしなかったという「矛盾」の根もそこにある。そこにはフルトヴェングラーの音楽の魅力が彼の歴史的責任を免罪することにはつながらないというテーゼと、フルトヴェングラーの歴史的責任を告発することは彼の音楽の魅力を否定することにはつながらないというテーゼの自家撞着的な循環が避け難く現れてしまうのである。
 ただここで再び最初に引用したフルトヴェングラーの言葉にあった「恣意的で主知主義的な」という言葉に立ち戻りたい。この言葉が示唆している音楽のあり方とはいかなるものなのだろうか。それは、例えばシェーンベルクの音楽があれほど人々の感情を逆なでし激しい嫌悪をかきたてた理由はなんだったのかというような問題とどこかでつながっているような気がする。
 
 フルトヴェングラーは「魂の必然性」に根ざした作品の生成的で有機的な全体性を重んじようとした。それはそうした性格を体現することが出来る演奏がもっとも聴衆を「感動」させられるからだった。フルトヴェングラーのライヴァルだったカラヤンはとくに晩年レガート奏法の徹底化によって作品を「継ぎ目のない響き」の全体性に溶かし込もうとした。それがもっとも聴衆を「魅了」することが出来るからだった。ベームはややぶっきらぼうながら強い緊張感の中で作品の全体構造が聴衆にくっきりと意識される演奏を目指そうとした。立場は違うとはいえ彼らの音楽の高さはいずれも「全体性」に、より正確にいえ「全体性」への融合・没入体験に根ざしていたといえる。そしてそのような全体性が要求するのは否定し非同一化するような、言い換えれば作品を断片へと限りなく解体してゆくような知性の働きの停止なのである。逆に言えばシェーンベルクの音楽の本質は技法的な意味で無調云々というところにあるのではなく、まさに知性を覚醒させることによって音楽の経験を凡庸な「感動」体験から解放して真にものを思考する体験に根ざすものへと変えようとしたところにあったのではないかということである。これは音楽思想家としてのアドルノの目指したものだったといってよいと思う。そのアドルノはフルトヴェングラーが好きだったという矛盾が依然として残るのだが。(2011.8)


哲学する日本 非分離・述語制・場所・非自己 :山本哲士 著







山本哲士 著(文化科学高等研究院出版局)



今月はたいへん難解だが重要な問題提起を行なっている本を取り上げようと思う。山本哲士の『哲学する日本 非分離・述語制・場所・非自己』B6変型判・418頁・3300円・文化科学高等研究院出版局)である。私は山本と1980年代から彼の主催する文化科学高等研究院や雑誌『季刊iichiko』などを通して、現在の近代産業社会のあり方をその設計原理のレヴェルから根本的に組み替えてゆくための研究協働を行なってきた。彼がその過程で提出してきた「コンヴィヴィアリティ(自律協働性)」「文化資本」「ホスピタリティ」「場所」「述語意志」などの概念は私に新鮮な驚きをもたらすとともに認識視角の転換を促してきた。また今年に入って私は『吉本隆明と親鸞』『吉本隆明と共同幻想』(ともに社会評論社)を刊行したが、その内容の基礎となったのはこの研究協働の重要な柱のひとつであった吉本研究(『吉本隆明が語る戦後55年』全13巻 三交社参照)の成果でもあった。昨年ドイツ滞在の折にはジュネーヴにいる山本を訪ね長時間にわたって議論を重ねたこともある。その際には本書の骨格となる内容についても話を聞くことが出来た。日本のアカデミー世界での山本の仕事に対する評価は率直に行ってあまりかんばしいものではない。それは山本の仕事の極端ともいえる脱領域性や文体の晦渋さ、既存の権威に対し挑発的ともいえる激しい批判の姿勢が専門のたこつぼに安住しがちな日本のアカデミー世界の反発をかきたてた結果といえるだろう。だが山本から受けた数々の学恩を思い返すとき、私は彼の仕事が提起しようとしている問題の持つ意味をそうした評価の低さのなかへと埋没させてしまってはならないと考える。そこには世界思想の最先端でもっともヴィヴィットに問われようとしている課題が独力で築かれた彼独自な思考および術語の体系を通してラディカルに考察されているからである。
                   
 さて本書は主題的にいえば「日本思想論」である。だがそれは常識的な日本思想(史)論とはまったくスタイルを異にしている。たとえば冒頭近く次のような文章がある。「本書は、日本が特有だと主張するようなありふれた書物ではない。むしろ「日本は無い」と断言してはばからない高邁な日本論である。日本が無いということから、もっともよく「日本」が表出されるからだ。つまり「日本は、<日本>がない」「日本は、<日本>ではない」ということを表出することで、ある本質的な普遍閾へいたろうとする書である。もう少し正確にいうならば、ナショナルな「民族国家」へ統合された画一で均質な<日本>は、多様な「日本」ではない、各地の多元的な場所の存在が「日本」であるということを、わたしは主張したい」(9頁 傍点筆者)。

「日本は無い」ことから出発する「日本論」とは何だろうか。それは山本によれば、日本を「主体=実体=主語」からではなく「述語」から、山本の用語を使えば「述語制」から捉えること、さらには「日本が無い」という「本質」を、「場所には本質的なものがある」という視点から捉えることを目ざす日本論ということである。そしてこのときその具体的な内容を解き明かす上での媒体となるのが「言葉(ランガージュ)」であり、さらには「場所文化の文化技術的な規定制」としての「非分離技術」「述語技術」「場所技術」である(12~3頁)。これだけでは山本の言わんとすることをすぐに理解するのは難しいだろう。だがじつはここにすでにたいへん重要な問題提起が含まれているのだ。
 
 ここで私は、先月のブックハンティングの三ツ木道夫の『翻訳の思想史』の書評のなかで示した「「ドイツ」という概念はじつは近代ヨーロッパという時空間における様々な相互交通関係のなかからいわば派生的・事後的に形成されたもの」にすぎないという視点を想い起す。「ドイツ」という概念はア・プリオリに立てられる「主語」としての実体ではなく、多くの文脈のなかから派生的・事後的に現れるいわば「述語」的な概念だということである。別な言い方をすれば、「ドイツ」という概念は主述関係のなかで主客分離的な判断命題を通して定立・規定されるべきものではなく、いかなる主語的位置をも述語化してしまうような実践的かつ流動的なコンテクストのなかでのみ現出しうるものなのである。この視点はそのまま山本がいう「日本」に当てはまるのではないかと思う。このことについて山本は次のように言う。「日常の言葉のプラチック〔実際行為〕に注意しながら、「主体」批判、「分離」批判、「社会」批判、さらに「自己・人間」批判の場をひらきつつ、述語制、非分離、場所意志、そして非自己の世界をさぐりあてていくことが、わたしの哲学論である。<非>の哲学といってもいい」(19頁 〔 〕内筆者)。
 
 「日本」がこうした「述語制、非分離、場所意志、非自己」の「哲学」からのみ、しかも「主体的実践」としてのプラクシスではなく、「日常の言葉のプラチック」の次元を通してのみ捉えられうるとするならば、「日本」とは「絶対無」ないしは「絶対矛盾的自己同一」(いずれも西田幾多郎の用語)としてしか現れえないことになる。それは、「日本」が主語と述語を截然と分離し、さらに主体と客体を分離し、その分離を前提とするかたちで認識論や存在論という論理体系を打ち立てようとする近代以降の西欧哲学の体系によっては捉えることが出来ないことを意味する。あるいは別な言い方をすれば、そのような把握不可能性のなかにしか「日本」はないということでもある。これについて山本は次のようにいう。「近代西欧論理は、<考える>ことを分離として徹底させた思考といえる。この思考形式の特徴は、フーコーがもっとも鮮明にしたように、至上主体を確立し、客体的なものへの綜合を図り、そのうえで思考しうるものと思考しえないものを区分し、先験的なものと経験的なものを相互作用させ、起源を追及し系統だて、有限性を確定していくものである。だがわたしたちは「思考」と言表するように、思うことと考えることを非分離においたまま「思考する」のだ。したがって、西欧的思考には不得手であるが、西欧的思考がなしえない「思考」を可能にすることができる。それが「非分離思考」である」(87頁)。本書で山本はしばしば「閾」という言葉を用いているが、この「閾」こそは非分離的に思考することが可能となる場、すなわち場所への意志の成立するフェーズに他ならない。別な言い方をすればそれは「述語制」が成立する場でもある。ではこのような言い方を通して山本はどのような「哲学する日本」の要諦を描き出そうとするのか。それは一言でいえば、非分離のかたちを通して自ずから表出される場所の述語的意志から存在本質を構成するということである。これは私流に言い換えれば、事後的に産出される実体を経験的=先験的に本質化する形而上学的論理によって隠蔽され、「見えないもの」「名づけえないもの」とされている根源的な力 山本が「表出」と呼んでいるもの の側から存在本質を、つまりは世界を再構成するということである。それが行われる場はもはや抽象的な空間ではありえない。空間は主述=主客関係のなかにしか成立しないからだ。だからこそそれは「自ずから」という自己産出性としての「意志 」― 「意識」ではない を含む「場所」でなければならないのだ。
 
 およそこんなふうに山本は「哲学する日本」の輪郭を描き出してゆく。繰り返しになるがここで描き出された「日本」は実体的な空間性としての日本ではない。まして民族国家=国民国家としての日本でもない。それは、山本が「哲学」という言葉に託した思考法のなかから浮かび上がる一個のコンテクスト、より正確に言えば制度や言表へと結実する要素をも含む「日常的なプラチック」の述語的展開の多様な束こそが「日本」という言葉の意味だということである。このような視点に立ちながら山本は、一方において日本語の実際の用法を丹念に検証することによって「哲学する日本」の具体的な肉付けを行おうとする。そこでは三上章、金谷武洋、佐久間鼎らの文法理論を媒介としながら、日本語の述語的構造に対する徹底したアプローチが行われる。そしてそこから次のような視点が導き出されてゆく。「日本の文化技術は、述語的な技術になっている。対象・相手にあわせていくという技術を現わしている。表現形式と技術様式は切り離せない。それぞれの文化を規制する。日本語は、まったくの述語言語表出であり、日本の伝統的な技術は述語技術である」(122頁)。たとえば「今日はそば屋がよかった」という文があるとき主語がいったいどう定義されるだろうか。この文はそもそも主語を必要としない述語表出の構造のなかで文として定礎されているのだ。強いてパラフレーズすれば「今日私は洋食屋よりそば屋のほうがよかった」ないしは「そば屋で食事がしたかった」となるだろうが通常の日本語感覚からいえばこのようなパラフレーズはまったく不要だし、十分最初の文で理解出来てしまうのである。ここでポイントになるのはいうまでもなく、そして三上章がすでに指摘しているように、「~は~が」という助詞の使い方である。「は」も「が」も日本語においては主語を提示する機能を持っていない。あるシチュエーション(場所)に向かって表出が行われようとするとき、その表出(発話)の過程を分節化し規定する働きしか持っていないのである。それは主語を定立する代わりに場所を述語的に現出せしめる役割を果たす、といってもよいかもしれない。
 
 さて山本はこうしたかたちで日本語の述語的構造から日本文化の本質を抽き出す一方で、このような「日本」に対する視点に至り得ない「凡庸な」な日本論、より端的にいえば日本における哲学的実践への容赦ない批判を展開する。その中でも和辻哲郎と小林秀雄に対する批判が際立っている。「和辻哲学は、人間存在、その主体的な倫理を哲学言説したものであって、間柄、<人・間>の存在哲学といえる。典型的な主語的・実践の言説である。いいかえれば、存在論の日本的変容の最悪のケースが和辻哲学である」(172頁)「持って生まれた自我という様なものは幻影である」とした小林は、「無常」から「無私」へと、非自己へと向かわずにさらなる擬制へとはいっていってしまう。虚構の近代自我に虚構の近代自我批判をみつけることしかできなかった小林のペテンは、現実界を観ることを回避する自己の技術を蔓延させた」(348頁)。その一方山本が彼の日本論を構成するにあたってつねに基盤としているのが西田哲学であり吉本の思想である。
 
 こうした山本の姿勢に対しては異論もあるだろう。しかし山本が考え抜こうとした「哲学する日本」という課題に私たちの思考を触発し促す重要な契機が含まれていることを誰も否定することは許されない。(2011.10)


思想としての翻訳 ゲーテからベンヤミン、ブロッホまで :三ツ木道夫 編訳










三ツ木道夫 編訳(白水社)





ドイツ文学あるいは思想の歴史を考えるうえで、翻訳の問題がたいへん重要な意味を持つことはよく知られている。17世紀のドイツ・バロック文学においてもっとも重要な作家と見なされていたのはスペインのカルデロンであり、その後彼の作品はほとんど「ドイツ文学」として扱われてきた。またシェイクスピアもつねにドイツ文学におけるもっとも重要な存在として受け止められてきた。そもそも近代に入っていわゆる「ドイツ文学」と呼ばれるもの、すなわちドイツ語で書かれたドイツ固有の文学が誕生したのは18世紀になってからといってよいだろう。このようなドイツ文学の後発性は、ドイツ文学のあり方や存在根拠に対してつねに、先行する外国文学(外国文化)に対する関係の意識化を強いた。当然そこに翻訳の問題が介在してくる。少し乱暴な言い方になるが、ドイツ文学はそれ自身がある種の「翻訳文学」であったともいえるだろう。
 
 ただ翻訳が外国語で書かれたテクストのドイツ語への移し変え、あるいはテクストの内容の翻案と紹介に留まっているうちは、翻訳問題はさして大きな意味を持たなかった。それは、わが国における幕末期から明治初期にかけての開化の時代には翻訳問題が存在しなかったのと同じである。そこでは出来るだけ正確かつ迅速に「進んだ」文化を取り入れることだけが問題であった。もう少し具体的にいえば、翻訳は一種の記号にすぎず、固有な表現としての意味を持たなかったということである。だがドイツ文学がその固有性に目覚め始めると表現としての翻訳の問題が登場してくることになる。それはちょうどゲーテの時代のことであった。
                   

ゲーテとともに始まったドイツ文学および思想の歴史における表現としての翻訳をめぐる問題に関しては、これまでほとんど研究がなされてこなかったが最近相ついで二冊の著作が刊行された。一冊は、昨年2月にみすず書房から発刊されたアントワーヌ・ベルマンの『他者という試練 ロマン主義ドイツの文化と翻訳』(藤田省一訳)であり、もう一冊は昨年末刊行され、今回取り上げる『思想としての翻訳』(B6判・251頁・3400円・白水社)である。これまでの研究史の穴を埋めてくれるこうした著作の刊行は、今後のドイツ文学・思想の研究にとって大きな意義を持っているといえるだろう。
 
 本書は副題にもあるように、先ほど提示したゲーテとともに始まる表現としての翻訳の問題を真正面から取り上げている。「読書案内―編訳者あとがきに代えて」において編訳者の三ツ木は次のように述べている。「文学・思想で用いられる言語表現は、具体的な個物を単純に代理しているわけではない。詩の一節に代えて個物を提示するわけにはいかない。むしろシュライアーマハーも語るように、文学・思想においては言語表現が具体的個物との対応関係から解放され、それ自体として自律している。翻訳においても、こうした自律的表現を対象とする場合には、さまざまな方法が検討されねばならず、翻訳文自体も自律した表現でなければならない。文学・思想の翻訳者には、言語表現に関して、〔オリジナルの原文=外国語のテクストとしての自律性と、翻訳文=自国語のテクストとしての自律性という〕いわば自律性への配慮が二重に要求されていることになる」(242頁、〔 〕内書評者)。
 
 表現としてそれぞれ自律的であるところの二つの異なる言語表現間の出会い・交通が翻訳であるとするならば、三ツ木がいうように翻訳には、それぞれの言語表現の持つ自律性をどのように配慮すればよいのか、あるいはそれぞれの自律性を尊重しながらも表現としての翻訳自体の自律性の力点をどちらに置くのか、さらには言語表現を構成する二大要素といってよい個々の語と全体の文脈のどちらに即しながら翻訳を行うべきか、等々の「方法」の問題が必然的に生じてくる。本書は、そうした翻訳の「方法」の問題を軸にしながら、ゲーテの他、19世紀ドイツにおける解釈学の創始者フリードリヒ・シュライアーマハー、ベルリン大学の創立者であり政治家、言語学者だったヴィルヘルム・フォン・フンボルト、古典文献学の最高権威といわれたヴィラモーヴィッツ=メーレンドルフ、19世紀後半から20世紀前半にかけてのユダヤ系ドイツ人作家・翻訳家ルートヴィヒ・フルダ、若くして戦場に斃れたヘルダーリン研究の先駆者ノルベルト・ヘリングラート、後に挙げるベンヤミンの翻訳論にその名が引用されていることで知られる哲学者のルドルフ・パンヴィッツ、ゲオルゲ・クライスのメンバーだったカール・ヴォルフスケール、20世紀ドイツ最高の散文家といってよいヴァルター・ベンヤミン、『ヴェルギリウスの死』などの作品で知られるオーストリアの作家ヘルマン・ブロッホという10人の文人の翻訳論を収録し、最後に三ツ木の「あとがき」を加えた形で構成されている。
 
 まずゲーテから見てゆこう。ゲーテは翻訳には二つの原則があるという。一つは、「異国の作家を私たちの側へもたらすこと、しかもその作家を自国の作家と見なすことができる程に」という原則であり、もう一つは「私たちが自ら異質なものの側へ赴き、異質なものが置かれている状況やその言語用法、その特性に身を置くべきなのだ」(16頁)という原則である。早くもゲーテにおいて翻訳という言語表現、その自律性の力点が、原文の側にあるのか自国語の側にあるのかという本質的な問題が提示されている。これに対するゲーテの立場は、基本的に前者の原則の側にあったと考えてよいと思うが、同時に翻訳をめぐるさらに根源的な問題へとつながる言葉も残している。それは、「ギリシアとローマの言語こそが、今日に至るまで私たちに貴重な賜物を伝えてきたのだ」(17頁)という言葉である。このゲーテの言葉は、自国語か原文かという単純な二者択一を超える問題の圏域の所在を示唆している。
 
 シュライアーマハー、フンボルト、ヴィラモーヴィッツ=メーレンドルフ、そしてヘリングラートが取り上げているヘルダーリンらの例をまつまでもなく、ドイツにおける翻訳の中でとくに重要な意味を持っていたのがギリシア・ローマの古典の翻訳であったことはよく知られている。この古典翻訳はドイツの文学・思想のあり方にとって二重の、あえていえば相互に矛盾する課題を投げかけているように思われる。一つの課題はいうまでもなくギリシア・ローマの古典世界へのあくなき接近という課題である。ヴィンケルマン以来ドイツでは、ヨーロッパ文明の源流であり最高の範型であるギリシア・ローマ古典世界を正しく知ることはほとんど自明といってよい必須な課題であった。だがこの課題の持つ意味は見かけほど単純ではない。たとえばフンボルトは、彼の手になるアイスキュロスの悲劇『アガメムノーン』のドイツ語訳の序文で次のようにいっている。「近代語の中にあってただ一つドイツ語だけが、この〔古代ギリシア・ローマの韻文の〕リズムを模倣できるという長所を備えているように思える」(83頁)。
 
 このフンボルトの言葉は、ギリシア・ローマの古典世界への接近、その忠実な再現という課題が、その裏にもう一つの、それとは相反する認識と課題を潜ませていることを示している。すなわち、ギリシア・ローマの古典世界を正しく再現し継承できるのはドイツ語(ドイツ文学・思想)だけであるという認識であり、そこから導き出される、ドイツはギリシア・ローマの古典世界の唯一かつ最良の継承者である・あらねばならないという課題である。つまりドイツ語における言語表現、あるいはその背後に存在するドイツ文化の伝統が正統化されるのは、ドイツ語がもっともギリシア・ラテン語に近い言語であるという「事実」によってであり、だからこそドイツ人はギリシア・ラテン語によって体現される古典精神を正しく再現するためにこそドイツ語そのものをより一層彫琢し高次なものにしてゆかねばならないという自国語主義へと到りつくのである。こうして古典翻訳は、じつは単純に古典世界の忠実な再現という意味だけではなく、むしろ逆にドイツ語表現の自律化と正統化の根拠を提供するのである。しかもそこでは自国語であるドイツ語の優位性を主張するのに、ギリシア・ローマの古典世界はヨーロッパ文明全体の源流であり最高の範型であるがゆえに、その唯一の継承者であるドイツ語・ドイツ文化こそが現代におけるヨーロッパ文明の基軸であり範型であるという手の込んだ正統化と普遍化のメカニズムが働いているのである。
 
 こうした視点に立って見てゆくと、論旨にヴァリエーションはあるにせよ本書に収録された論考の多くがそうしたドイツ語表現の正統化と普遍化に組みしているのが感じられる。
 その中で例外となるのが、ヘリングラートの論考に登場するヘルダーリンの翻訳論と、ヘルダーリンから大きな影響を受けたと考えられるベンヤミンの翻訳論である。そして本書の翻訳論において真に創造的でありうるのはこの例外の側なのである。
ヘルダーリンとベンヤミンの翻訳論に共通しているのは「逐語訳」という「方法」意識である。では「逐語訳」とは翻訳にどのような問題をもたらしているのだろうか。ヘリングラートは。逐語訳のためほとんど理解不能であると揶揄されたヘルダーリンのピンダロスの翻訳について次のように言う。「偉大な詩人にとって言語とは創造すべきものであり、その言語と法則には限界がない。(……)かく形成された言語は一種の有機的統一体になる」(152頁)。ヘリングラートがいう「有機的統一体(コスモス)」の真の意味を捉えるためには、ベンヤミンの次のような言葉を踏まえる必要がある。「諸言語の歴史を超えた親和関係は次の点にある。すなわち諸言語が一つの全体をなしていると考えるなら、どの言語においても一つのこと、しかも同じことが言われているという点である。むろんこれには個別の言語は到達できない。到達できるのは純粋言語、相互に補完しあう諸種の志向性の総体なのである」(194頁)。
 
 ヘリングラートのいう「有機的統一体」の核心をなすのがベンヤミンのいう「純粋言語」に他ならない。そしてベンヤミンにおいては、純粋言語に個別の言語が不断に接近しようとする試みとして翻訳が位置づけられるのである。このとき翻訳において出会う二つの言語は、いわば純粋言語への志向性を内在させる断片、ベンヤミンの用語を借りれば暗号=割符(シンボロン)としての「アレゴリー」となる。翻訳とはこの暗号=割符としての諸言語、言い換えれば断片としての諸言語を、そこから純粋言語への志向性を掘り起こしながら組み合わせる作業に他ならない。これもベンヤミンに倣っていえばそれは、個々の星から天空に「星座(コンステラツィオーン)」を描き出す作業といってもよいだろう。「逐語訳」とは、こうした断片としての諸言語の組み合わせ作業である翻訳を通して純粋言語を「星座」として浮かび上がらせる方法を意味するのである。その背後にあるのがメシア論的ユートピアニズムを内包するベンヤミン固有の歴史哲学(「根源」をめぐる思考)であることはいうまでもない。
 
 原文の収集・選択、翻訳にいたる骨の折れる作業を続けてきた三ツ木の労苦は想像に余るものがある。きちんとした訳文の出来映えともども三ツ木の努力に読者として深く感謝したい。(2009.2)

日本政治思想史 :渡辺治






渡辺浩 著(東京大学出版会)




思想史、とくに日本思想史を考察の対象にしようとするとき、ある種の「比較」論的視点が必ずといってよいほど浮上してくる。より具体的にいえば、ヨーロッパ思想史を基準としてそれとの比較を通して日本思想史を記述するという態度である。明治維新以降の近代日本の歴史を、アジア的・封建的・近代的という歴史段階の進展の度合いに従って記述する「講座派」的な史観はその典型といってよい。だが少し考えみればわかる通り、日本の歴史は何もヨーロッパという歴史モデルをなぞるために存在しているわけではない。とくに、ヨーロッパという尺度に照らして個々の現象や人間に対して「進んでいる」「遅れている」という価値判断を下すことなど余計なお世話といわざるをえない。
 
  だがこの「比較」の視点は意外なほど頑強でありそこから逃れるのは難しい。わたしたちはどうしても日本の歴史をヨーロッパモデル従って扱う態度から逃れられないのである。逆のケースだが、小林秀雄がベルクソンについて、日本対ヨーロッパという比較の視点ぬきにあくまで日本の一読者の個人的な体験も根ざしながら論じようとして失敗したことがある(『感想』)。その反動から小林は純粋内在的なかたちで『本居宣長』を書くわけだが、今度は堂々巡りの悪無限に陥って議論そのものが沈没してしまったのだった。あるいは「日本」なるものをその完全な自生的歴史の枠組みのなかで論じようとした保田與重郎が無残なデマゴギーに陥ったことも想い起こされる。あるがままに日本という立場に即しながら日本を論じることの難しさはこの昭和期を代表するふたりの批評家の「失敗」によく現れている。比較の視点抜きには、言い換えればヨーロッパをモデルとする概念装置の枠組み抜きには記述が成り立たないにもかかわらず、いったんそこに依拠すれば必然的にヨーロッパモデルを尺度とする裁断に陥らざるをえない、というディレンマから逃れるのは難しい(丸山真男の『日本政治思想史研究』ですらそれを免れていない)。

 今回渡辺浩の『日本政治思想史』(B6判・476頁・3600円・東京大学出版会)を読んだまっさきに感じたのは、本書が全面的にとはいわないまでも相当程度こうした「比較」の呪縛から逃れることに成功しているというのではないかということだった。本書は、江戸時代から明治維新までの時期における日本の政治思想の歴史を扱っているのだが、著者の渡辺は当時の政治思想をいたずらに「遅れた」段階として指弾することも、昨今の「江戸」ブームのように手放しで礼賛することもなく極めて冷静に、かつあたうるかぎり内在的な態度で読み解いてゆくのである。もちろん「文芸の共和国」(8頁)というような概念も登場する。そもそも日本思想史なるものがヨーロッパ流の概念装置をまったく欠いたかたちでは成立し得ないことは、「思想史」(Ideengeschichte)という概念自体がヨーロッパ産である以上自明であるといってよい。そうした条件のなかで渡辺は江戸期に生まれた様々な思想について出来るだけ内在的に描写している。その描写の生き生きした力が読んでいて何とも快いのだ。

 渡辺が本書において江戸期の政治思想史を記述する上で設定した議論の枠組みは、「天」という普遍理念を軸とする儒学の思想体系と、「武」によって現実的な支配を行う徳川武家政権とのあいだの対立・葛藤であり、さらにはこうした二つの極のあいだで自生的・内発的に生まれた多様な思想的試みの諸相である。
 神という超越的理念を欠く儒学の体系において、現世世界の秩序の普遍性を支えるのは「父子・君臣・夫婦・長幼・朋友」の「五倫」(人倫関係)に支えられる「仁・義・礼・智・信」の「五常」(徳)である。この原理を人格的に代表する「天子」によって現世世界は統治され秩序化される。儒学の「天」とはかかる統治秩序の正統性と普遍性を体現する理念に他ならない。したがって儒学の考え方に立てば「天」の理念のもとにある社会(天下)は基本的に徳によって治められなければならない(徳治)。それに対して「武」、すなわち軍事力とその担い手である「武士」(軍人)によって戦国の世を終わらせ統治=支配体制を確立した徳川政権は、その統治の正統性をあくまで「武」に求めざるをえなかった。将軍を頂点に戴く幕府そのものが軍事機構であり、軍事力(武威)に根拠を置く軍事政権だったのである。したがってわたしたちの常識に反して儒学の徳治原理と徳川軍事政権の「武威」による統治は根本的に対立せざるをえない。にもかかわらず江戸期を通して儒学が大きな影響力を持ったのは、「武」による支配がもたらした安定と平和(御静謐)が皮肉なことに「武」の担い手である武士の存在理由を脅かさざるをえなくなったからである。戦乱なき世に軍人がなぜ必要なのか?この問いに対する答えとして儒学イデオロギーが求められたのだった。
 
 だがそれによって儒学の「天」と軍事政権の「武」の根本的矛盾が解決されたわけではない。しかもそこには江戸期社会の生産性の向上、とくに貨幣経済の拡大を通して次第に力を増していった町人層(初期ブルジョア市民階級)を背景に、この矛盾の間隙をぬうようにして社会や人間、支配の正統性をめぐる独自かつ多様な思想的試みが登場してくる。わたしたちはすでにテツオ・ナジタや子安宣邦らの先駆的研究によって、大阪に町人自身の手で設置された教育機関懐徳堂(富永仲基・山片蟠桃ら)について知っているが、渡辺の著作を読むとそうした動きが、それこそ「文芸の共和国」の広がりに支えられた全国的なものであったことをさらに知ることが出来る。これらの試みが「天」と「武」の矛盾の平面を、いわば自生的・内発的な思想形成の動きとして下から揺さぶり、ついには徳川政権そのものを崩壊へと追いやってゆくことになる。

 こうした動きの端緒となったのが伊藤仁斎・東涯親子による「古学」の創設であった。彼らは孔子を中心とする儒学の始祖たちの教えに立ち帰ることを通じて「天」の普遍原理(理)に代わる、古えの聖人たちの生の実践のかたちとしての「道」という原理を見出す。「道」は抽象的な原理や理念ではない。それは人間の自然な生活の営み(俗)をそのまま肯定する「情」に、「愛」に根ざした原理である。それは「天」とも「武」とも異なる現世肯定の倫理、言い換えれば市民社会的倫理に他ならない。伊藤親子の後に登場する、新井白石や荻生徂徠にしてもそれぞれ立場は異なるにせよ、儒学、とくに正統性の弁証の学としての朱子学の「天」の普遍性に対して、社会や諸個人が多様なかたちで生み出す「道」の個別性・具体性に着目している点では共通しているように見える。それは、別な言い方をすれば現実そのものを客観的・科学的に見ようとする立場といってもよいだろう(日本古代史の始祖が白石であることを想起せよ)。さらにはみちのくのはての八戸に住む一町医者の立場ながら、京都の版元から『自然真営道』や『統道真伝』を公刊した安藤昌益がいる。昌益が、ほぼ同時代人のルソーとともに――もちろんまったく没交渉ながら――自然状態を人間の理想状態とし、「直耕」と呼ばれる「農」の原理に立った一種のアナーキズム社会を構想したことや、昌益とはまったく立場としては正反対ながら、商業経済の振興・発展のための経済理論を、これまたほぼ同時代のA・スミスやJ・ステュアートら古典派経済学者と無関係に独力で生み出した海保青陵が、懐疑と反省を原理とする科学的精神の重要性を説き、経済の豊かさが実現する生活の快適さを社会存立の基盤に置こうとしたことなども、下からの自生的・内発的な思想形成のマグマが江戸期の日本社会にいかに旺盛なかたちで蓄積されていたかを物語っている。
 
 一方、「天」の正統性に代わる日本固有の正統性を弁証しようとする、いわば日本的名分論ともいうべきものも誕生する。いうまでもなく「国学」である。儒学の教義・論理を異国の「さかしら」として排撃し、「もののあはれ」の心情に根ざした「古への道」への回帰を主張した本居宣長がその集大成者であった。そして宣長の思想は江戸期の支配の正統性の構造に極めて重大なひび割れをもたらすことになる。それは、「武」による支配の正統性の上位に天照大神以来連綿と続く天皇の絶対性を置いたことによってであった。「古への道」とはまさしくこうした天皇の絶対性の弁証理念に他ならなかった。こうした、渡辺の言い方をふまえればほとんど「荒唐無稽」としか言いようのない論理が、宣長という当時の第一級の知性によって主張され、それが大きな広がりを持ったところに、逆説的ながら外国との「比較」のなかで自らのアイデンティティの弁証に明け暮れてきた古代以来の日本の歴史の悲喜劇の構図が透けてみえるような気がする。しかもこの悲喜劇はすでに触れたように小林や保田の問題にまでつながってゆくのである。国学運動が、幕末の尊皇攘夷運動を経て近代天皇制を軸とする明治国家の支配へとつながっていったことはあらためて言をまたないだろう。

さてわたしが本書を読んで最大の感銘と衝撃を受けたのは「思想問題としての「開国」」という章だった。ふつうわたしたちは、それまで西欧を知らなかった日本がペリー来航という「外圧」をきっかけとする「開国」によってはじめて西欧を知り、その衝撃によって幕府体制が崩壊し近代日本の歩みが始まった、というふうに認識している。だが渡辺は当時の資料に基づいて、そうした認識が誤りであることを指摘する。「西洋諸国への「開国」は「外圧」によって強いられたものだ。従来、しばしばそう語られてきた。一時声高に「攘夷」を叫んで徳川政権を苦しめ、その後一転して「開国」を容認した明治新政府の指導者にとっても、それが自己正当化しやすい物語だったからであろう。しかし、それは、歴史の一面でしかない。「開港」「開国」は、ペリー来航の遥か以前から、強弱や損得とは別に「道理」に適っているのかどうかという思想問題としてあった」(363頁)。
 
 徳川政権が、日本人漂流民の帰還のための外国船の来訪や国書の配信を「礼」の規範にのっとりつつ峻拒する一方で、そうした徳川政権のやりかたを「不仁」であり「失敬不遜」であるという批判も数多く存在した(司馬江漢・高野長英など)。つまり外国船の来訪を認める「開国」は、たんなる「外圧」問題にとどまらず、日本が示すべき「道理」の成否に関わる問題としても存在していたということである。このことは、すでに言及した日本思想史の内在的記述の可能性にひとつの重要な示唆を与えているように見える。蒸気機関は存在せず、トキが江戸城の濠を飛び回っていた江戸期の日本社会は同時に、工業技術抜きに最高度の産業文明や市場経済を生み出していた社会でもあった。そこに様々な自生的・内発的思想が存在したからこそ――それは江戸期が初期市民社会の時代であった証しでもある――、「開国」から「文明開化」へ至る近代化の歴史もすでに準備されていたと考えることが出来るだろう。本書はそうした江戸期の思想史の見直しを促す好著である。(2010.8)

スピノザの方法 : 國分功一郎







國分功一郎 著(みすず書房)


一年間にわたるドイツ・ライプツィヒの滞在ももうまもなく終わろうとしている。このブックハンティングの原稿をドイツから送るのも今回が最後である。
そういうわけで3月に入ると帰国が迫ってきていろいろあわただしくなってきた。帰国に備えての荷物の整理、書籍や資料の仕分け(今回ライプツィヒにもってきた和書はほとんどをライプツィヒ大学日本学科に寄贈してゆくことにした)などに追われる日々が始まった。ところがそんな最中に衝撃的なニュースが日本から飛び込んできたのである。いうまでもなく311日の東北太平洋沖大地震の発生である。ふだんほとんど日本のニュースを報じないドイツのテレビや新聞が連日地震とその後の津波の被害、さらに福島第一原発の災害についてトップで報道し続けた。伝わってくる情報、そして映像はいずれも目をおうようなものばかりだった。私事になるが私の生まれ故郷は宮城県の仙台市である。両親が早くに引越したので暮らしたことはほとんどないが、仙台が私にとって故郷であることはまぎれもない事実である。実際親戚はまだいるし、私自身子供のころからしょっちゅう仙台には帰省していた。その仙台をはじめ宮城県の各市町村が無残に破壊され多くの犠牲者を出したことに胸ふさがる思いがする。帰国したら私も私なりに故郷のためにやれることをやりたいと考えている。

てこの地震の問題に先立って、とくにヨーロッパで連日大きく報じられていたがアラブ・北アフリカ地域の民衆革命だった。チェニジアから始まりエジプト、リビア、イエメン等に及ぶこの民衆革命のうねりは、日本の地震とはまた別な意味で全世界に衝撃を与えている。今リビアへのNATO軍の介入が始まりふたたびいわゆる「中東」地域に戦争が勃発しつつある。連日地震のニュースとリビアのニュースを交互に報じるドイツのテレビを見ながら私は次第に奇妙な思いにとりつかれていった。このふたつの出来事にはむろん共通性はない。両方がほぼ同時に起きたのは偶然にすぎない。だが起こった出来事から事後的にみるならば、ふたつの出来事からある本質な類似性が見えてくるのではないか。そう思えてならなくなってきたのである。 

回の東北太平洋沖大地震は日本付近のプレートの接触面に巨大な圧力がかかってひずみが生じたため岩盤が崩落して発生したといわれている。地球という巨大なシステム内部の動き次第にひずみ(矛盾)を形成しある日突然巨大地震という破局に至ったということである。アラブ・北アフリカ世界はどうか。この地域はまず石油という現代でもっとも重要な戦略物資の生産地である。さらにはパレスティナ問題を軸とする「中東問題」の震源地である。またそうした政治状況との関連で冷戦時代、ポスト冷戦時代を通じてアメリカがサウディアラビアを始め宗主的な独裁国家を一貫して支援してきた地域でもある。かつてはソ連への対抗のためだったが、1979年のイラン革命以降はイスラム思想に主導されたアラブ・イスラム民衆革命が勃発するのを阻止するためだった。イスラム原理主義=テロリストという図式に基づく対テロ戦争はそうした民衆革命の抑圧のための口実に過ぎなかった。アラブ・イスラム民衆革命による宗主的独裁体制の崩壊は、まず第一にアメリカの石油戦略に致命的打撃を与えるからであり、第二にはこの地域におけるアメリカのエージェント「国家」であるイスラエルの存続を危機に陥れるからである。これらの地域でムスリム同胞団やハッマース、ヒッズボーラなどの民衆の支持を得た組織が選挙で多数派となっても、アメリカは宗主的独裁権力が武力で彼らを弾圧して政権に居直るのを容認してきた。アメリカン・デモクラシーなどというものは虚構にすぎないことは明白である。しかも近年では擁護されるべき利害は新自由主義のもとでアメリカ一国というよりグローバル化した世界市場経済そのものになっていた。伝えられる情報によるとエジプトのムバラクもリビアのガダフィも数兆円にもぼる蓄財をしていたそうだが、そうだとすればこれら宗主的独裁者もまたグローバル経済の恩恵を受ける利害当事者になっていたことになる。こうした利害共同体の圧力のしわ寄せの犠牲になってきたのがこの地域の民衆だった。独裁者の途方もない蓄財額からも明らかなようにグローバル経済のもたらした富が民衆までまわることはなかった。つまり民衆という社会の「プレート」には徐々に巨大なひずみ・矛盾が蓄積されつつあったのである。今回の民衆革命の勃発はまさにそうしたひずみ・矛盾によって社会の岩盤が崩落し強烈な反発力が働いた結果である。その意味ではアラブ・北アフリカの民衆革命はグローバル社会という「地球システム」で起こった「地震」に他ならない。 

北太平洋沖大地震に話を戻せば、すでに地震後10日以上がたっても孤立した地域や援助の行き届かない地区が解消されないという事実に突き当たる。小泉内閣とともに本格化した日本の新自由主義政策は、地域の拠点ともいうべき郵便局、行政の出先機関、銀行の支店等のネットワークをずたずたにしてしまった。グローバル化の波によって地域のコミュニティの保全力が著しく衰退し一元化された巨大物流に頼らないと生活できない情況が生み出されていたのである。原子力発電もその要素のひとつであることはいうまでもない。そのことが今回の地震後の惨状、窮状の大きな要因になっていることを私たちは見落としてはならない。その意味では今回の地震とともに生じた状況は、新自由主義的なグローバル経済がどれほど地域を中心とする生態ネットワークとしての「地球システム」にダメージを与えたかを如実に物語っているといえよう。地震の被災者とアラブ・北アフリカの民衆はグローバル経済の犠牲者という点で通底する。
あらためて私たちは今問わねばならない。真の民衆の自立、地域のコミュニティの自立はどうしたら可能となるのか、単一世界市場の支配に代わる遠心的・拡散的なコミュニティネットワークによる社会の再生をどうはたしてゆくのか、を。

311日以後私の精神状態は一変してしまった。ただただドイツから日本のすべての人たちが、とりわけ行政からも企業からも見放されて孤立する被災者の人たちがなんとか無事であってほしいと祈る日々が続いた。正直にいってとても書評の原稿を書くというような精神状況にはなかった。日本を離れている分だけ不安や焦りがつのるのだった。しばらく前に、昨年の夏偶然アムステルダムの国立美術館のショップで会った國分功一郎が『スピノザの方法』(A6判・359頁・5400円・みすず書房)を公刊したことを知ったので、日本の友人に頼んで送ってもらうことにした。そして読み始めるや否や、その精密で犀利極まりないスピノザのテクストの読解と解釈、今までほとんど誰も指摘してこなかったスピノザの「方法」に内在する諸問題の堀り起こしなど、たいへん優れたスピノザ論であることがすぐ分かったのでライプツィヒから送るブックハンティングの最後はこの本にすることを決めていた。そして帰国に備え早めに原稿をまとめようとした矢先に地震のニュースが飛び込んできたのである。胸にむらがり起こる様々な思いからとうてい平静な気持ちで書評の原稿を書く気にはなれなかった。したがって國分には申し訳ないが平素のようなスタイルの書評は今号では取ることができなかった。

だがその一方、すでに述べたような民衆の自立の問題、コミュニティの自立の問題はじつは本質的にはスピノザの問題ではなかったということに思い至った。私はスピノザの思想を考える上で中心となる問題、概念が三つあると考えている。すなわち「事後性」「受動性」「自己産出性」である。そしてこの三つの問題はいずれもたんに哲学的であるだけにとどまらずすぐれて政治的な問題でもあるのである。「事後性」は、第一原因や主体、自己意識といった根源=本質を起源として位置づけようとする発想を根本的に顛倒しようとする。すべては生じた結果から逆に思考しなければならないということである。「受動性」は今述べたこととも関連するが、主体=主語の能動性に、言い換えれば自己を起源として設定することに定位しようとする発想への反措定である。主体もまた何ものか自らを超えるものから受動的に贈り与えられるものとしてあるということである。以上のような問題を総合するとき見えてくるのが「自己産出性」に基づく世界存在論の構想である。人間と自然は対立するものではなく、むしろ人自然の自己産出性のトータルな作動過程に人間存在の創成の過程もまた含まれ位置づけられるのである。こうした「事後性」「受動性」「自己産出性」という三つの契機から見えてくるスピノザの思想は、およそデカルト主義を宗主とする近代ヨーロッパ思想の正系とは異質なものだった。そして重要なのは、その異質性によって私たちはスピノザの中に、近代ヨーロッパ思想の正系がついに見出すことのできなかったオルタナティヴの可能性を見出すことが出来るのではないかということである。とりわけ自然や人間を資源として搾取し蹂躙することを旨としてきた近代ヨーロッパ思想(その帰結が新自由主義であることはいうまでもない)に対抗し、自己産出性としての自然、あるいはその社会的現実態としての民衆に真の意味で根ざした世界を創造するためにはどうしてもスピノザの思想が踏まえられねばならないのである。

こうした問題意識を持って國分の本を読むとき、たとえば「事後性」の問題は、スピノザ思想の根幹に関わる「方法」に内包された「逆説」の問題として明らかにされている(第一部)。また「受動性」の問題は、デカルトの「神の存在証明」に対するスピノザの内在的読解をたどることによって浮かび上がってくるスピノザの「神=最高存在者」と存在の関係の問題として取り上げられている(第二部)。また「自己産出性」の問題は、そのデカルトとの格闘の末に見出されるスピノザ思想の核心というべき「自己原因」論として論じられる。これはそのままスピノザの主著『エチカ』の根本問題ともなる(第三部)。このように國分は本書でまさにスピノザ思想のもっとも根幹に関わる問題を鮮やかに抉り出すことによって私たちの前に今までなかったような鮮やかなスピノザ像を提示して見せるのである。そして繰り返しになるが、それはたんに哲学的な問題というだけにとどまらないすぐれてアクチュアルな課題を私たちに突きつけるのである。
おそらく本書が学問的にもっとも評価されるのは第二部のデカルト問題についての記述であろう。スピノザは単純にデカルトを批判したわけではなかった。それどころか國分によればスピノザはデカルト主義者でさえあった。ただしスピノザが一貫してデカルトの中に見ようとしたのは「あるべき」デカルト、「ありえたはずの」デカルトであった。だが現実のデカルトはそれを裏切ってしまったのである。先行思想をどのように乗り越えてゆくのかという問題についてもこのスピノザのデカルト読解は私たちに多くの示唆を与えているように思われる。(2011.3)

吉本隆明と共同幻想 : 高橋順一




高橋順一 著(社会評論社)


評者 小林敏明
(ドイツ・ライプツイヒ大学教授


高橋順一の頭の抽斗のなかには何でも入っている。大げさに言えば、そのなかにはただ「知らない」という言葉が入っていないだけである。だが、それがこれまで彼の書き物を不幸にしてきたことも確かな事実であると思う。しかし、本書はそういう博覧強記の高橋にしては例外的な著作と言わねばならない。なぜならここであつかわれる対象はそのまま彼の代替不可能な一生を左右した事柄であり、それゆえに彼はいやおうなく肉声で告白気味にも語らなければならなくなっているからである。あのがむしゃらに書かれた、二十数年前のほぼ処女作といえるヘーゲル論『市民社会の弁証法』(弘文堂)と並んで、私が本書を高橋の重要な著作に数え入れたいと思うゆえんである。
 旧友どうしであることからくる馴れ合いを避けて、忌憚のない感想を述べてみたい。共有した体験を含めて論じてみたいことはつぎつぎに湧いてくるが、ここでは本書に直結してもっとも重要と思われる二点だけにしぼって論ずることにする。

第一点は初期吉本のキーワードとも言うべき「関係の絶対性」という概念をめぐってである。私にはこの概念はかつてから一貫してわかりにくかったし、今でも相変わらずわかりにくい。あっさり言うと、なぜ吉本はこれをたんに「客観的現実」と表現しなかったのか、その「意図」が本人からも、また彼を解釈する者たちからも明確に説明されてこなかったからである。それは廣松渉の一見よく似たテーゼ「関係の一次性」に当初から著者による綿密な理由づけがなされていたのと対照的でさえある。本書のなかでも高橋はこの概念が自明であるかのようにあつかっているが、それは吉本ワールドの読者にしか通用しない「黙契」にすぎない。

では吉本はなぜ「現実」ではなく「関係」という表現を選んだのか。思想史のコンテクストから見ると、これはマルクスの有名なテーゼ「人間は社会的諸関係のアンサンブルである」に発していると思う。ただし、吉本はこれをたんに「社会」の次元だけにとどめることなく、そこに同等の重みをもって「自然」との関係を読もうとしたがゆえに、たんに「関係」と表現したのである。言い換えれば、彼にとって「人間疎外」という「関係の絶対性」は社会からの疎外だけではなく、自然からの疎外でもあらねばならなかった。じじつ若きマルクス自身がそういう論議をしている(『経済学哲学草稿』参照)。そして同時にそれは当時の硬直した唯物論の唱える「物質」「現実」「実践」といった概念に対するアンチ・テーゼでもあった。「客観性」を「絶対性」に置換したのもおそらく同じ動機に発している。

同様に当時の唯物論に対するプロテストは、もうひとつの吉本用語「逆立」にも如実に現れている。周知のように、唯物弁証法なるものにとっての動力源は「否定」ないし「矛盾」である。これがなければ、弁証法は動くことができない。だが、吉本はこの「否定」「矛盾」をあえて「逆立」と表現する。高橋の明快な説明によれば、「逆立」とは「一方の側に立つとき、他方が消去される関係のあり方」である。このかぎりではこの概念は論理的に「矛盾」と変わらない。注意されなければならないのは「消去」という表現である。関係としての現実が観念を「消去」する、というのは当時流布していた俗流唯物論の反映論の考え、すなわち現実としての「物質」こそが「観念」に先行し、後者は前者の「反映」にすぎないという素朴な考えと同じ方向のことを言っている。ところが吉本=高橋の「逆立」を一貫させれば、逆に観念もまた関係の側を「消去」できるのだ。ここには明らかに「観念」や「思想」はけっして「物質」に還元しきれるものではないという信念がはたらいている。その意味でそれは通俗唯物論への根本的なプロテストなのである。これは梅本克己など当時の「主体性」論者や吉本の「宿敵」だった丸山真男などにも共有されていた信念である。

この「関係の絶対性」に関連して高橋のおもしろい「持論」がこぼれ出た例外的に長い脚注がある。それは恋愛における「嫉妬」の解釈である。高橋はこう述べる。「吉本風にいうと嫉妬とは「観念の絶対性」が無媒介な「観念の恣意性」へと変容し、そのまま「関係の絶対性」に入り込んでいったとき生じる感情といえるだろう」。おもしろいというのはこの先である。高橋はここに自らの体験に基いて、「関係の絶対性」の側に立って嫉妬として現れる「観念の恣意性」を滅却することこそが「恋愛関係の理想形」だとつけくわえる。高橋はさらにこの論理をもとにして、かつての新左翼運動の負の遺産「内ゲバ」を説明しようとしていて、そのアレゴリーに従うかぎりでは納得できなくはない論理なのだが、しかし後に述べる「対幻想」の原点とも言える恋愛論としては、これはいささかお高くとまりすぎている。恋愛とは、むしろおたがいが「恣意性」にも陥ることのある「観念の絶対性」のなかで足掻き、悶えることのなかにしかありえないものだからである。「関係の絶対性」の側についた恋愛とは、ほかならぬ恋愛の消滅以外のものではなかろう。そもそも「逆立」はその対立項を「消去」するはずではなかったか。この関連で「絶対性」と「恣意性」はどのような関係にあるのかを物象化やイデオロギー化の文脈で論ずることもできるが、すでに言い古されている話なので、ここでは立ち入らない。
 第二点は本書の中心テーマ「共同幻想」をめぐってである。題名どおり本書の最大の力点もここに置かれている。吉本の有名な個体幻想、対幻想、共同幻想の幻想トリアーデは、もともとヘーゲルの家族、市民社会、国家に着想を得たものであろうことは、これまでにもよく指摘されてきた(ちなみにエンゲルスの家族、私有財産、国家も同列に加えてよい)。しかし日本には彼よりずっと以前に同じところから着想を得た者に「種の弁証法」を唱えた田辺元がいる。だからこの吉本のトリアーデが田辺の個、種、類を連想させるのは不思議ではない。つまり、吉本の共同幻想論の骨格は思われているほど特異なものではないということだ。

特異だったのは、吉本がこのトリアーデのもつダイナミズムの源泉を対幻想に求めたところにある。言い換えると、高橋も強調しているように、国家論の成立過程にフロイト的エロースないしリビドーの論理を持ち込んだところにある。それは当時画期的だった。とはいえ、この対幻想はたんなる男と女のペアないし夫婦をモデルにした対幻想ではない。吉本=高橋によれば、なかでも「兄弟姉妹」の対幻想こそがそのポイントになるという。この対幻想は「起源としての共同幻想」に外部に向けた空間的拡大をもたらすがゆえに、そこから「国家としての共同幻想」への移行を可能にする結節点となる。だから高橋はこの結節点に着眼して「共同幻想の解体と無化の戦略的ポイントは原理的には、この「兄弟姉妹」関係として現われる対幻想のベクトルを逆向きにすることにある」と言う。詳論はしないが、この観方はさまざまな観点を含んでいて、『共同幻想論』のなかでももっともおもしろいところかもしれない。高橋は言及していないが、これまで吉本のなかにこういう視点を読み込みえ、それをさらに展開しえたのは、おそらく小説家の中上健次ただひとりだけであっただろう(『枯木灘』『風景の向こうへ』参照)。
 
さらに高橋の共同幻想論の解釈で興味深いのは、「根源としての共同幻想」と「国家としての共同幻想」のさらなる「彼岸」に「像=イメージとしての共同幻想」を想定し、そこに後期吉本を位置づけしようとしている点である。この三段階は、ありていに言ってしまえば、原始共同体から国家の形成を経て、さらにそれを超えたマス・イメージの支配する時代へと変遷する時代変化に対応している。ある意味でこれは、吉本を含む日本人が戦前から今日にかけて歩んできた時代の変遷でもあり、そのプロセスの後追い的説明としてはそれなりの説得力があるだろう。だが、問題はこの先にある。吉本が一貫してその思想の拠点としてきた「大衆の原像」は、本当にこの浮遊した個からなるマス・イメージなるものに賭けられるものなのだろうか、また賭けてよいものだろうか。この問いは吉本のマス・イメージ論と並行して進んだ、いわゆるポスト・モダン論議を今日どう総括するかとも直結する問題と思われるが、本書を読むかぎり、この点に関する高橋の判断は保留になったままである。それはまた本書のあとがきが二〇一一年四月二八日の日付で書かれているにもかかわらず、私にはもはや判断停止としか思われない、この間の吉本の原発に対する発言について、高橋自身があえて自らの発言を封じていることにも象徴されている。その決断に踏み切ったとき、高橋はようやく自らの「自立の思想」を打ち立てることになるだろう。