ヴァーグナーのドイツ 超政治とナショナル・アイデンティティのゆくえ : 吉田寛


 


 
 
吉田寛著(青弓社


 
本書(A6判・394頁・4000円・青弓社)が行おうとしているのは、19世紀ドイツを代表する作曲家リヒャルト・ヴァーグナーについての主として思想史的側面からする考察である。あとがきによれば、本書は吉田の2200枚を超える長大な博士論文『近代ドイツのナショナル・アイデンティティと音楽――≪音楽の国ドイツ≫の表象をめぐる思想史的考察』の第六章「ヴァーグナーと「ドイツ的なもの」」がもとになっている。つまり本書の背景となっているのは、「ドイツ」というナショナル・アイデンティティの形成の過程において音楽がどのような役割、機能を果たしてきたという問題なのである。こうした音楽に対する政治的・社会的コンテクストをも含んだ思想史的アプローチはわが国ではとてもまれなケースに属する。一つは音楽への接近が専門的な学習や修練ぬきには難しいという事情がある。日本においては音楽は何といっても専門文化としての性格が強いからである。そしてこの専門文化を担う日本の音楽家集団はわずかな例外を除いて音楽以外の分野への関心が極度に希薄である。その一方音楽受容の側から見てもそこにはある種の棲み分けが堅固な形で存在する。とくにクラシック音楽を聴くことは音楽受容のなかでやはりある種の専門文化的な実践とみなされており、クラシック音楽を聴く人間もまた専門家集団の狭い枠組みの中に生息しているのである。それに抵抗しようとしてもせいぜいがディレッタントないしはスノッブにしかならない。いまだに音楽が真の意味で社会化されていない現実の中で、日本における音楽をめぐる言説は専門文化のたこつぼに陥るか、ディレッタントやスノッブの「能書き」に陥るかしかなかったのである。

 しかしどうやら少し変化の兆しが見えてきたようだ。3年前に書評した宮本直美の『教養の歴史社会学』などもそうだし、本書もまたそうした変化の明瞭な指標になりうるであろう。ここで私事にわたるのをお許し願いたいのだが、今から十数年前私は本書と同じ青弓社から『響きと思考のあいだ』という思想史的アプローチを含むヴァーグナー論を出したことがある。だがこのヴァーグナー論は思想界からも音楽界からもほぼ完璧に黙殺された。二、三の書評に加え、長原豊氏がジジェクの『いまだ妖怪は徘徊している』の翻訳の中で言及してくれたのと小宮正安氏が『オペラ楽園紀行』の中で参考文献として挙げてくれたのをのぞけば反響はほとんど皆無だった。たぶんヴァーグナーとマルクスを同時代人として重ね合わせながら19世紀近代の根源史を明らかにするという私の思想史的アプローチのモティーフそのものがほとんど理解されなかったせいだと思う。ところが今回吉田は本書を通して、私が自分のヴァーグナー論でやろうとしたこと、正確に言えばやりたかったにもかかわらず十分にやりきれなかったことを、私などよりもはるかに精緻に多くの一次資料を駆使して堂々と論じきっているのである。おまけに私のヴァーグナー論にもあとがきで大変好意的に言及してくれている。私は瞠目せざるをえなかった。そして少なくとも吉田寛という読者を得ることが出来ただけでもあのヴァーグナー論を書いた意味はあったのではないかという感慨を覚えた。書評の客観性という点からいえばルール違反かもしれないが、まず吉田に対してそう思うことが出来たことについて一言感謝の念を表わしておきたいと思う。そして若い気鋭の世代からこうした仕事が出てきたことに大いなる期待と希望を託したいとも思う。
                   
 さて本書の内容である。先ほど述べたように吉田が本書で目ざしているのは、「ドイツ」のナショナル・アイデンティティの形成に対して音楽が果たした役割という大きなテーマの枠組みの中で、とりわけこの問題に深い関わりを持っていたヴァーグナーの思想史的位置を明らかにすることである。1813年に生まれ1883年に亡くなったヴァーグナーは――ちなみにマルクスは18年に生まれ同じ83年に亡くなっている――、文字通り「19世紀人」であった。産業資本主義と国民国家という二つのシステムによって形成されていった19世紀近代をヴァーグナーはまさに一身をもって生き抜いたのである。しかもヴァーグナーはヘーゲル左派と若きドイツ派の思想家や文学者、さらにはバクーニンのような革命家とさえも深い関わりを持ち――自ら1849年のドレスデン武装蜂起に参加している――、音楽家というだけでなく思想家、革命家としての側面も持ち合わせていた。こうしたヴァーグナーの音楽家の枠を超えた巨大性は、ヴァーグナーの代表作であり、マルクスの『資本論』に拮抗するといってよい資本をめぐる神話的オペラ(楽劇)『ニーベルングの指環』に結実している。私のヴァーグナー論は、ヴァーグナーのこうしたトータルな19世紀人としての性格を通して「19世紀近代(モデルネ)」のパースペクティヴを明らかにしようとしたのだが、吉田はヴァーグナーのそうした19世紀近代のパースペクティヴへの関わりをヴァーグナーにおける「ドイツ的なもの」のあり様、その変遷を通じて解明しようとする。その焦点となるのが「国民」概念および「民族=民衆」概念である。「本書の目的はむしろ、ヴァーグナーにとっての「ドイツ」が一体どのようなものであったかを、いくつかの歴史的転換を明るみに出しながらつぶさに検証することを通じて、最終的には、19世紀ドイツとヨーロッパにおける国民(ナチオン)民族=民衆(フォルク)の理念、そして衆=民族主義(ナツィオナリスムス)の運動それ自体を新たな視点から捉え直すことにある」(13頁)。

 まず本書において新たな知見というか視点として評価されなければならないのは、ヴァーグナーにおいて「ドイツ的なもの」が最初から一義的なものとして捉えられていたわけではないことを明らかにしている点である。この視点は、ヴァーグナーの1848年革命(翌年のドレスデン蜂起も含む)への関わりをどう捉えるかという問題、さらには後半生のヴァーグナーの基本的な立脚点であった「芸術革命」の理念をどのように理解すべきかという問題に関わるとともに、本書における吉田のもうひとつの重要なキーワードである「超政治(メタポリティーク)」の中身の問題にも深い関わりを持っている。ヴァーグナーが1837年に書いた「ドイツのオペラ」に関連して吉田は次のようにいっている。「「ドイツのオペラ」を締め括るこの一節〔吉田は、この引用箇所のすぐ前で、一面的にイタリア的でもフランス的でもドイツ的でもないような作曲家が未来の大家になるだろうというヴァーグナーの言葉を引用している〕は、当時のヴァーグナーが「ドイツ的なもの」から一定の距離をとりながら、イタリアやフランスの音楽的伝統をも吸収して、現代という時代の要請に応じた新しいオペラを作ろうとしていたことを示している。それは言い換えるならば、コスモポリタニズムに立脚したモダニズム(近代主義)の芸術観である。そして国民性(ナチオナリテート)を「真に人間的なもの」を限定するものとして否定的に捉えることは、これ以後、『オペラとドラマ』にまでつながる、ヴァーグナーの一貫した姿勢となる」(48頁)。

 こうしたヴァーグナーの基底にあるコスモポリタニズムこそがヴァーグナーの革命への志向の原動力となっていたこと、しかもその革命が決して政治的な意味の革命だけに限定されえず、むしろ現実の政治を超えた普遍性を志向する超政治的な革命であること――この普遍的な超政治の担い手が芸術(家)である――を吉田は明確な形で私たちに示してくれる。とはいえそのことはヴァーグナーにおいて「ドイツ的なもの」がこのコスモポリタニズムに解消されることを意味するわけではない。このときヴァーグナーの中で極めて重要な意味を持ってくるのが「民衆=民族」の観念である。ヴァーグナーは49年のドレスデン蜂起の失敗後チューリヒへと亡命するが、この亡命時代にヴァーグナーの思想的立場を理解する上で重要な意味を持ついくつかの論文、著作を執筆している。とくに亡命直前に書かれた「芸術と革命」、亡命後最初に書かれた「未来の芸術作品」、そして質量ともに亡命期のヴァーグナーの代表的著作といってよい『オペラとドラマ』は、吉田自身三部作といっているように相互に深く関連しあった内容を持ち、その後のヴァーグナーの「芸術革命」の理念、あるいはその媒体としての「総合芸術作品」の理念に確立に大きく寄与した。そしてこの三部作における議論の推移のうちにヴァーグナーにおける「ドイツ的なもの」の意味を探り当てるための最大の鍵がひそんでいるといってよいだろう。その焦点となるのが、「未来の芸術作品」において登場する「民衆=民族(Volk)」の理念なのである。

 ヴァーグナーにとって「民衆=民族」は何よりも狭い「国民性」を超える「普遍人間的なもの」の体現者である。それは革命がそうであるように、上からの強制的な力や利害関心などではなく、あくまでも自らの内部にある必然(Noth)によって行動する存在である。その一方で「民衆=民族」は抽象的なコスモポリタンではない。一個の明確な民族=国民共同体を前提とする存在である。吉田はこうした「民衆=民族」の意味を次のように概括する。「民衆の理念を独自の歴史哲学に組み込み、さらにそれを――『オペラとドラマ』以後により明確になるように――芸術における「ドイツ的なもの」の根拠に据えたのは、ひとりヴァーグナーだけであった」(121頁)。こうして「民衆=民族」概念がヴァーグナーにおける「普遍的なもの=コスモポリタニズム」と「ドイツ的なもの」をつなぐ環として、より積極的にいえば「普遍的なもの=コスモポリタニズム」を「ドイツ的なもの」へと転轍させる媒介項として位置づけられることになる。

 ところでこうした「民衆=民族」の理念と一見矛盾するように、革命期に書かれた論文「共和主義の運動は王権にたいしていかなる関係にたつか」においてヴァーグナーは、真に民衆的なもの、言い換えれば共和主義的な政体は「最も高貴で最も品位ある王」(85頁)によってのみ実現されうるという、いわば「共和主義的君主制」とも言うべき主張も行っている。このこともまたヴァーグナーの中にある普遍的なものと民衆=民族的なものとしての「ドイツ的なもの」のあいだの両義的な関係を示しているといってよいだろう。下からの民衆革命と上からの君主革命がひとつに合流する地点にこそヴァーグナーの夢想する「美しく自由なドイツ」(86頁)が具現されるのである。

 ここまで書いてきて全10章からなる本書のまだ半分にも達していないことに気づき愕然としている。どうやら私自身のヴァーグナー論に拘泥しすぎて――私のヴァーグナー論の内容は吉田の本でいうと前半の5章に対応している――本書のむしろ本領とも言うべき後半5章の内容紹介の余裕がほとんどなくなってしまった。前半生のヴァーグナーが夢想的な革命家であったとすれば、後半生においてはルートヴィヒ二世との出会いから始まる総合芸術作品の具体化としての楽劇の創造(『指環』『トリスタン』『マイスタージンガー』『パルジファル』)、自らの作品のみを上演するバイロイト祝祭劇場の建設、それを政治的・社会的にバックアップしてくれるための支持者づくりなどに邁進する実行家としてのヴァーグナーが前面に出てくる。そしてその過程は同時にヴァーグナーがドイツの国民的芸術家としてカリスマ的な崇拝や讃美の対象になってゆく過程でもあった。おりしもそれはプロイセン主導によるドイツ帝国の成立期と重なる。そして皮肉なことに、出来上がりつつあったドイツ国民国家のシンボルとしてヴァーグナーが位置づけられてゆくのである。ヴァーグナー自身もそうしたドイツ帝国への接近を図ろうとする。ここにおいてヴァーグナーのドイツは民衆=民族的なものから国民的なものへと変質する。
 とはいえ最後までヴァーグナーが通俗的な意味でのドイツ〔ゲルマン〕・ナショナリズムに完全に身を屈したことはなかった。吉田が本書でもっとも強調したかったのはこのことだったのではないだろうか。「ヴァーグナーのドイツ」はあくまで「超政治的」な理念性に定位されなければならないのである。(2010.3

政治の約束 : ハンナ・アレント







ハンナ・アレント著/高橋勇夫訳(筑摩書房)


今私たちの社会において、諸個人の存在はその根底に至るまで掘り崩されてしまったように見える。ほとんどの個人にとって「生きる」という事実は、自らの存在の内奥から発現するものによってではなく、社会のすみずみまで張り巡らされた情報や映像のネットワークを通して与えられる「像(イメージ)」によってかろうじて確証されているに過ぎないのではないだろうか。この「像」は実体も意味も持たない空虚な浮遊体のようなものである。諸個人にとって今「世界」は、そうした浮遊体としての「像」が切れ切れに現れては消えてゆくれの中にしか存在していない。

だが同時にもう一つ確認しておかなければならないのは、この「像」が決して自然物でもたんなる虚構でもなく、まぎれもない人為の産物であり、実体を欠くにもかかわらずある「力」として作用しているという事実である。というのもこの浮遊体としての「像」は、ある明瞭な「意志」にもとづいて、諸個人の存在の根底を、その固有性を解体に追いやるべく極めて戦略的に生み出され流布されているからである。ではその「意志」の核心にあるものは何か。それは、諸個人に自らの身体を徹底的に外在物として、つまり「もの」そのものとして感受させることを、裏返していえば決して自分の身体としては実感させないことを、さらには一切の思考や判断が停止し、自分自身の感情や感性が失われ、他者への共感や友愛の意識も失われてしまっている状態へと諸個人を追いやることを、そして生きる場としての「世界」が無機的な断片の集積に向かって解体し尽されてしまうことを目指す一種の「悪意」である。ただしこの「悪意」が、実態的には「善意」によって形成されていることを見落としてはならない。社会を安全な場にしたい、そのためには治安確保のための管理・監視のシステムが必要だ、という「善意」、従業員に給料を払わねばならない、株主には配当を行わなければならない、そのためには消費性向を出来るだけ効率よくかきたてて商品を売りさばき儲けなければならない、という「善意」、うちの子供には将来安定した生活を送って欲しい、そのためにはキャリアアップのための質のよい教育を受けさせたい、という「善意」、学校は安全で居心地のいい場所でなければならない、そのために秩序を乱すような不良分子は徹底的に排除するか厳重に管理する必要がある、という「善意」――、こうした「善意」が、じつは上記のような「悪意」の核心をなしているのである。

ではなぜこうした「善意」が、諸個人の存在を根絶やしにしてしまうような「悪意」へとつながってゆくのか。それは、個人の存在と社会との関係のうちに極めて逆説的なメカニズムが潜んでいるからである。このメカニズムの一つの側面は、個々人が有する「私的領域(オイコス)」と社会の関係のあり方として現れる。すなわち私的領域に根ざした欲求の相互調整の領域として社会が成立することに伴なって作動し始めるメカニズムの問題である。「自己保存」と呼ばれてきたこのメカニズムは私的領域の相互調整を名目として作動しながら、最終的には私的領域をも含む形で個々人の存在を蹂躙し自らの支配下に包摂してしまう。このとき社会はレヴァイアサンとして個々人の存在に対して絶対的な権能を帯びつつ君臨することになる。個々人の存在と社会のあいだにこうした関係が存在する限り、社会が個々人の存在を完全に蹂躙する全体主義的な体制へと向かうことは必然的な運命であるといわねばならない。

ところでこうした事態はもう一つの側面を持っている。それは、社会が自律化しながら膨張し個々人の存在をのみこんでしまうとき、個々人の側においては「世界」を失うという事態が生起するということである。ここでいう「世界」は客観的意味での環境世界のことではない。ここでいう「世界」は、個々人が自らの生を通して外に向かって自己を開き、他者と交わりながら表現やコミュニケーションを行う場を意味している。その中心に言語活動があることはいうまでもない。そして何より重要なのは、こうした「世界」の存在、あるいは「世界」という場において展開される自己と他者の相互関係を通して初めて個々人は自らの存在の根拠を、そのかけがえのなさ、唯一性を確証することが出来るということである。つまり人間存在の複数性と唯一性は相互的なものであるということである。真の意味での感情も感性も、思考も判断も、そして自らが自らの身体と精神を通してこの世界に帰属し、そこにおいて意味あるものとして屹立しているという存在感情も、すべてこの「世界」のうちにあることにおいて生成するのである。
こうした「世界」が失われることは、個々人の存在がその生もろとも存立根拠を失うことを意味する。それは、社会の膨張と自走化の中で個々人の存在がそのかけがえのなさを失い、匿名化された「もの」になるという事態として現出する。ジョルジョ・アガンベンの言葉に従えばそれは、人間の生が「ビオス」としての固有性を失って「ゾーエー(動物的生)」化されるということに他ならない。冒頭で言及した浮遊体としての「像」の切れ切れの点滅に対応するのはこうした「ゾーエー」としての生の様相なのである。
                 
『責任と判断』に続き筑摩書房から刊行されたハンナ・アレントの未公刊草稿の翻訳『政治の約束』(A5判・278頁・3000円・筑摩書房)を読みながら私は今ある社会の危機の深さにあらためて思いをめぐらさざるをえなかった。本書で展開されている議論は、この間に刊行された『思索日記』Ⅰ・Ⅱ(法政大学出版局)や『カール・マルクスと西欧政治思想の伝統』(大月書店)などのほぼ本書と同時期のテクストを読んでいるものにはある意味でおなじみの議論といえるだろう。アレントは、プラトンとともに成立した政治哲学の伝統が、哲学という内閉的な思索行為(テオリア)の名において、実践を通した外部への開け(プラクシス)としての政治という領域を卑しめ、その結果として公的領域――この言葉は先ほどの「世界」とほぼ同義であるといってよい――の根幹としての政治が西欧政治思想の伝統のなかで衰滅の道を辿ってきたことを、またマルクスによって決定的な形で人間の集団生活におけるヘゲモニーが「政治的なもの」から「社会的なもの」へと移しかえられ、それによって公的領域の根幹をなす政治の伝統が完全に根絶やしにされたことを指摘する。マルクスの理解に関して、時代的な制約はあるにせよ、アレントがマルクス理論の持っている「社会的なもの」の根源的批判としての側面、すなわち物象化批判の側面を見落としていることは残念なのだが――同じことはスピノザの理解についてもいえる――、アレントがホメーロスに遡る形で公的領域としての「世界」の意義を繰り返し強調していることの意味は小さくない。アレントにこうした問題意識を喚起したのは、いうまでもなく20世紀における全体主義の体験であったが、ナチスが斃れて60年を超える今日、アレントが全体主義体験を通して深刻に憂慮した「世界を失う」という事態はナチスの時代以上に根深く私たちの世界に浸透しつつあるように見える。安全(セキュリティ)の名において、個々人の存在(生)に対してミクロレヴェルに至るまで監視と管理のネットワークと触手を届かせようとする現代社会の「善意の名における悪意」は今や極限にまで達しつつあるといってよい。私たちの五感や、ひょっとすると「私」という意識までもがこうしたネットワークによって捏造されたものかもしれないのだ。このことに関連してアレントのほとんど予言的ともいえる本書の一節を引用しておこう。
現代(モダン)における無世界性(worldlessness)の拡大、人間と人間のにある、ありとあらゆる事柄の衰退は、砂漠の拡がりと言うこともできる。私たちが砂漠の世界に生きて行動していることを最初に認識したのはニーチェであったが、その診断に際して最初の決定的な過ちを犯したのもまたニーチェであった。彼の後を継いだほとんどの者たちと同じように、彼は、砂漠は私たち自身の内にあると信じていた。その結果、彼は最初期の意識的な砂漠の居住者の一人としてだけではなく、さらにそのもっともひどい錯覚の犠牲者としても、登場することになったのである」(本書233頁)。

世界を失うことは断じて心理学の問題でも、ましてや精神医学の問題でもない。それは文字通り「世界を失う」こととして認識されねばならないのである。もしそうでないとすれば、私たちは世界を失うことを心理過程に還元し、それを個人の内部の出来事として受容してしまうからである。それは同時に「砂漠のほんとうの住人になること」(234頁)を意味する。そのときひとは世界を失うことの傷みに対して不感症になってしまうのである。あの「自己責任」という新自由主義が布した悪魔の言葉が恐ろしいのはまさにこの点である。貧困も悲惨も悲しみもすべてが個人内部の「病気」にされてしまうからである。「<病>を治して<競争>という名の戦場に戻ってくることだけが生きる道なのだ」という居丈高な「自己責任」の脅迫の裏側で、生はますますゾーエー化され「もの」と化してゆく。

ニーチェの読み方についても異論がないわけではない。おそらくアレントが終生どうしても理解できなかったのはスピノザからマルクス、ニーチェへと至る思考の系譜に潜在していた「自然の自己産出性」の契機なのであろう。マルクスの労働概念にせよ、ニーチェの「力への意志」概念にせよ、その根幹をなしていたのは対象化に代わる受動性の認識であった。そしてこのことはアレントが提示する「世界」概念にとってじつはたいへん重要な意味を持つのである。アレントの「世界」概念が真の意味で具体化されるためには、ほんとうはスピノザ、マルクス、ニーチェのなかにあった自然の自己産出性に根ざした受動性(被贈与存在としての認識)の契機を組み込むことがどうしても必要であったはずなのだ。正統的なヨーロッパ思想の継承者としてのアレントにはそれは難しかったのだろうか。
 
いずれにせよアレントが指摘する「世界が失われること」の危機はいっそう深刻さを増している。言葉が完全に無力となり人と人の間が完全に切断されてしまうとき、事態はもはや取り返しのつかないものとなる。「つねに世界の潜在的不死性は、世界を築いた人々の死すべき運命と、世界で生きるために誕生してくる人々の出生を、条件としている」(236頁)というアレントの言葉の意味を今深く噛みしめてみる必要がある。(2008.6)

「物質」の蜂起をめざして レーニン、〈力〉の思想:白井 聡








白井聡 著(作品社)




数年前に『未完のレーニン』(講談社選書メチエ)で鮮烈なデビューを果たした白井聡の、より本格的なレーニンについての論考『「物質」の蜂起をめざして』が刊行された(B6判・366頁・2600円・作品社)。もう少し早く書評したいと思っていたのだが、柄谷行人にS・ジジェクと、ここのところ大きな思想的射程を含んだ大著に取り組んできたせいもあって取りあげるのが遅くなってしまった。しかし今回読んでみて、それらのスケールの大きな、そして長年にわたる蓄積を一挙に開花させたそれぞれの著者にとっての快心作ともいえる著作と並べて、白井の新著が決して見劣りしないのには瞠目させられた。たしかに若書きを思わせる箇所がないわけではない(この頃の若い世代に共通する文体上の欠陥だと思うのだが、理由を表す接続表現には機械的に「ゆえに」「よって」を使うだけでなく、「したがって」とか「その結果として」とかもっと多様で柔軟な言い回しを使うべきである。そうしないニュアンスの欠如が読むものの神経を逆なでする)が、全体としてレーニンに取り組む問題意識とその内的必然性の論証、それを裏づける客観的な認識の提示、間接直接にレーニンと関わる多様な言説のサーベイとその解釈等、じつに周到に組立てられており、「今更なんでレーニンなのか」と思いながら本書を手に取るであろう多くの読者に、「今こそレーニンなのではないか」と思わせてしまう強い説得力を持っている。

 それにしてもやはり1989年の事態以後「死せる犬」として扱われるのがつねであったレーニンを白井は今なぜ取り上げなければならなかったのか。じつはそこで、先々月の柄谷、先月のジジェクに共通して現れていた問題が、この白井の著作においてあらためて浮上してくるのだ。それはコミュニズムの再帰の問題である。白井自身も本書のエピローグを「「モノ」のざわめきから新たなるコミュニズムへ」と名づけている。白井の新著もまた、今や「亡霊が徘徊している」段階をはるかに超えて、私たちの世界がどこへ向かおうとしているのか、向かうべきなのかを考える上での中心的な課題としての位置へと再帰しつつあるコミュニズム問題の文脈と結びつくのである。コミュニストであるレーニンを扱っているのだから当然といえば当然なのだが。

 思えば89年の事態によって資本主義=自由主義は、社会主義はもとより、いっさいの「外部」の存在を滅却することによって、完全に内部化された自同的な世界を実現させるとともに、この完全に内部しか存在しない世界においてはすべての抗争が消滅するという幻想を生み出した。その幻想は「グローバリゼーション」という形で具体化された。抗争なき内部世界の自同性の実現としての「グローバリゼーション」は歴史に内在する葛藤や矛盾の契機を根絶してくれるはずだった。しかし現実はそうではなかった。それを露わにしたのが2001911日の「事態」であり、さらには2008年の恐慌だった。比喩的な言い方をすれば、911において「グランドゼロ」に穿たれた巨大な穴は、「グローバリゼーション」という閉じた内部へとふたたび「外部」が荒々しく再帰してくる入口だったのではないだろうか。あるいはリーマン・ブラザーズのクラッシュもまた、マネーゲームが永久運動のように自同的に続くという幻想の上に成立した純粋な内部世界としての金融秩序に巨大な裂け目が穿たれたことを告げる出来事だったのではなかったか。だが翻って考えれば、白井が「二度目の幻滅」(17頁)と呼ぶこの事態は、かつてレーニンによって創りだされたソ連社会主義という巨大な「外部」がいったん消滅し、「外部」の存在しない内部世界が再度築かれた後で、その内部世界がふたたび崩壊に追いやられたことを意味しているのではないだろうか。とするならばこの「二度目の幻滅」は、レーニンによる「外部」の創設をいわば反復する「亡霊」的事態と考えることが出来るはずである。つまり今私たちの前にはっきり姿を現しつつある「外部」とは、レーニンの「亡霊」的な再帰だということになる。逆にいえば、今再帰しつつある「外部」とは何かを明らかにするためには、「亡霊」的に再帰しつつあるレーニンとは何であるのかを明らかにする必要があるということなのだ。

 もちろんこのレーニンは「亡霊」である以上、一度目のレーニンとは違った形で現れる。だが重要なのは再帰してくるのがレーニンであることなのだ。それは、再帰してくる「外部」がレーニンの創設した「外部」だということを意味する。いや、この言い方は正確ではない、再帰してくるのはレーニンだけではないからだ。ちょうどレーニンが十月革命によってソ連という「外部」を創出したように、レーニンに先行する時代から同時代にかけて、多くの思想家や芸術家たちが「外部」を創出した。なによりもマルクスがそうだった。ニーチェもそうだった。レーニンと同時代に「外部」を創出したもっとも重要な思想家はフロイトだった。その焦点が「無意識」であったことはいうまでもない。ロシア・スプレマティズムの創始者だったマレーヴィチもまた、対象や主題を欠いた絵画という「外部」を創出した。白井は直接触れていないが、亡命中のレーニンのチューリヒの寓居近くにカフェ・ヴォルテールを開いたダダイスト、フーゴー・バルもまた「外部」の創出者だった。逆に言えばレーニンは、多くの思想家や芸術家たちとともに、19世紀から20世紀にかけて資本主義が帝国主義的な海外侵略と国内独占への志向を強めていた「内部化」の時代に、反転的な形で資本主義の秩序を根幹からラディカルに揺るがすコミュニズムという荒々しい「外部」の創出へと向かったのだった。レーニンがそのための武器にしようとしたのが「唯物論」という思想に他ならなかった。

 ではこの「唯物論」という思想はどのようなものだったのか。白井はそれを「〈力〉の思想」と呼ぶ。この「力」という言葉はただちにニーチェの「力への意志」を、あるいはフロイトの「欲動」を想起させる。白井のレーニン認識のもっともユニークな点はレーニンをフロイトと結びつけたところにある。フロイトの欲動のように、意識の秩序の根底で蠢く不気味な、そして不定形な何ものか、たえず意識の自明性を深層から脅かす異形なエネルギー 、それがここでいう「力」に他ならない。ただここで一点注意しておかねばらないのは、このように捉えられる「力」が、しばしば誤解されるように起源や根源、祖型ではないことである。つまり「力」の発見とは「起源=根源への回帰」ではないのだ。フロイトの「無意識」を想い起こしてみよう。フロイトは「無意識」を決して実体化しなかった。それは、フロイトが「無意識」を意識の起源として捉えたわけではないことを同時に意味する。フロイトは「無意識」を、意識が負う外傷から事後的に発見されるべきものとして捉えた。つまり意識の外傷が「無意識」を生むのである。それは「抑圧されたものの回帰」に他ならない。このフロイトの考え方には明らかにニーチェの「系譜学」の考え方が影を落としている。ニーチェもまた「原因=起源」は「結果」から派生的に発見されるべきものとして捉えようとした。与えられているのは結果だけなのだ。ニーチェの場合、この結果とは「遠近法」が作動している事態を意味している。すなわち複数のまなざし(パースペクティヴ)が中心をめぐって互いに抗争しあっている事態である。このような視点から「力」を捉えようとするとき、「力」もまたすでにそこにある結果から事後的に発見されるべき何かであり、決して起源や根源・祖型でないことは明らかであろう。レーニンはその「力」を「物質」と呼んだ。『唯物論と経験批判論』はそのマニュフェストに他ならなかった。

では「力」はどのように見出されるのか。それはすでに明らかなように現にある意識の「外傷」や「遠近法」におけるまなざしの抗争を通して見出されるものである。より端的にいえば、ここでいう「力」とは、現に存在する抗争の過程の内部で働いている、その抗争の「原因」でありながら、決して「原因」そのものとしては取り出すことの出来ない何かとして、言い換えれば「不在的現前・現前的不在」(今村仁司『暴力のオントロギー』)という形でのみ存在しうるものなのだ。ようするにこの「力」は、抗争の過程のなかに実体として分離されえない「結果にして原因」として組み入れられているものなのである。

レーニンに話を戻せば、こうした抗争の過程において不在的現前として働く「力」を、たえず制度や秩序をラディカルな形で揺さぶる力として明確に現前させることが「唯物論」の立場となる。この抗争の過程において働く「力」は、何かこの抗争の外側に位置する第三者的な座標軸から静態的に認識されるべきものではなく、この抗争の過程自身によってしか、つまり行為遂行的な過程そのものとしてしか捉えられえないものだからだ。それが唯物論的であるということなのだ。抗争の原因であり結果であるこの「力」は、端的に言うならば抗争の過程においてある遠近法の位置を実践的に占めること、より単純にいえばこの抗争に勝利することのなかでしか「力」そのものとしては現われ出ることはないのである。つまりそれは「物質的」な力である。ここでさきほどから「抗争」というややあいまいな言葉を使って表わしてきたもの 「抗争」という言葉を使ってきたのはひとえにそれがレーニン以外の思想家や芸術家にもあてはまるということを示したかったからである が「階級闘争」であることが明らかになる。レーニンにとって「力」とは、「階級闘争」を通して発見されるべきもの、そして「階級闘争」の実践とその勝利という形で物質化されるべきものなのである。ここに白井のいう、レーニンの唯物論が「「物質」の蜂起」である理由が存在する。

レーニンの「力」の思想としての唯物論は、「階級闘争」の思想として、より精確にいえば階級闘争を物質的な意味で勝ち抜くための実践的思想として具体化されることになる。この「物質的」な勝利は「物理的勝利」だけを意味するわけではない。「力」が「物質の蜂起」として再帰してくること、それによって「外部」が再帰してくることを意味しているからだ。白井はいう。「資本主義の〈外部〉がこの世界から消滅したと思われる瞬間に、いかにして〈外部〉を発見し、それをこの世界に導き入れることができたのか、いかなる思想的境位がそれを可能にしたのか―ここにレーニンの思想と実践の意義を今日問う際に、対象化されるべき焦点がある。〈外部〉が消滅したかに見える瞬間に〈外部〉を切り拓く〈力〉の思想、これが本書において筆者が描写しようと試みるものである」(19頁)。
白井の力強くみずみずしい問題提起に促されて、白井の論の自分なりの再構成にそくした読後感のようになってしまったが、本書には私たちが今日避けて通ることの出来ないもっとも重要な課題としてのコミュニズムの問題について、極めて本質的な思考を促す問題提起が含まれている。誰もこの問題提起に背を向けることは許されない。(2010.12)

聖パウロ 普遍主義の基礎 :アラン・バディウ 







アラン・バディウ著/長原豊・松本潤一郎訳
(河出書房新社)



1970年代から80年代にかけて言語・記号論やポスト構造主義理論がある種の行現象となるなかで、現代フランスの思想家たちが次々と日本に紹介された。レヴィ=ストロース、ロラン・バルト、ジャック・ラカン、ルイ・アルチュセール、ミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズ、ジャック・デリダという「マイスターデンカー」はもとより、リュシアン・ゴルドマン、ジャン=フランソワ・リオタール、モーリス・ゴドリエ、ピエール・マシュレ、ジョルジュ・バランディエ、ピエール・クラストル、ジャン・ボードリヤールといった人たちまで、その顔ぶれはじつに多彩である。だがそうしたなか、一部ではその名前が囁かれながら一向に翻訳紹介が行われない一人の思想家がいた。それが今回取り上げるアラン・バディウである。

 1937年モロッコで生まれたバディウは、1969年からヴァンセンヌで哲学を講じている大学教師であると同時に、68年を頂点とする形で噴出した青年・学生叛乱の季節のなかで最もラディカルな毛沢東派(マオイスト)マルクス主義者の集団フランス共産主義者同盟を創設したのであった。そしてバディウ思想的な急進性は、70.歳近くなった現在においてもいささかも衰えを見せていない。特筆すべきなのは、多くの「左翼」が89年のベルリンの壁崩壊後の東欧社会主義体制の解体以降、マルクス主義は終ったという雰囲気にのみこまれて批判意識を失っていった中で、バディウはまったくといっていいほどマルクス主義者として出発したその基本的な立場を揺るがすことがなかったという事実である。それどころかバディウは、さらに一層先鋭なかたちでその批判の(やいば)を磨いていったのである。

こうしたバディウの思想の持つ順応や屈服を知らない急進性は、「変化」や「フレキシビリティ」というような口実のもとでエスタブリッシュされた支配体制を結局は肯定してゆくようになったかつての「左翼」たちにとって、とりわけ「新しい社会民主主義」という名によって擬似的に「左派」を標榜しつつ社会主義崩壊以後の支配イデオロギーである新自由主義的なグローバリズムにすりよっていったイギリスのブレア労働党政権に象徴されるような傾向にとってはひどく煙たいものであったろうことは容易に想像しうる。これは、「ポストモダン」気分の中で急速に脱批判的な非政治化へとひた走っていたバブル直前の日本の論壇・思想界においても同様であった――そうしたれを正当化するものとして「現代思想」ブームが生み出されたともいえるのではないかとさえ思う――。こうした状況が、バディウの翻訳紹介の著しい遅れを招いたといってよいだろう。そのあたりはもう一人の急進主義者アントニオ・ネグリを取り巻いていた事情とよく似ている。
 
だが明らかに状況は変化してきた。今一足先に訪れたネグリの集中的な翻訳紹介に続く形でバディウの著作が次々に翻訳されつつある。そして、藤原書店から刊行された『哲学宣言』を例外としてバディウの翻訳は河出書房新社からすべて刊行されているが、その翻訳作業の中心にいるのが現在の日本において最もユニークなマルクス主義者――あえてそう呼ばせてもらってよいだろう――の一人といってよい長原豊であり、さらには長原よりも一世代若い、ドゥルーズについての犀利な論文を『情況』誌に発表する一方、あのデリダの『マルクスの息子たち』(岩波書店)の翻訳を行った松本潤一郎である。長原は農業経済学から出発しながら、ラカン派精神分析の世界へと分け入り、その文脈にたってスラヴォイ・ジジェクの理論を視野に収めつつ、さらにネグリ、そしてバディウの思想にまで触手を伸ばしてゆくという驚異的ともいえるような思想的容量の大きさを私たちに提示しているのだが、大切なのはそうした翻訳を中心とする作業――それを支えている長原の英仏にわたる卓抜な語学力を見落としてはならない――の根底に潜む長原のラディカルで非順応的(ノンコンフォーミスティック)姿勢である。長原と松本のチームで最初に刊行されたバディウの著作『倫理 <悪>の意識についての試論』に付されている訳者たちによる解説対談のなかで、長原は次のように言っている。「率直にいっちゃうとね、こんな人〔バディウのこと〕が身近にいたら僕はあまり好きになれないだろうとか感じます。嫌いというんではなくてね。でも不思議なことに、近しい感じを同時に持つ。・・・」。

 この長原のバディウへの共感の基底にあるのは、例えばネグリのなかにもあったある種の異例性(アノマリー)の感覚なのではないかと思う。2001911日以降ますます加速されつつある、世界大の強制的画一化(グライヒシャルトゥング)を暴力的に推し進める「帝国」グローバリズムは、異例な存在の場所を奪うというところにいちばん大きな特色を持っていた。すべてを均質な透過性のもとにおくという窮極的ともいえるような支配=権力欲望が現実になりつつあるのである。だからこそというべきか、にもかかわらずというべきか、そうした状況と真っ向から対決しようとする「異例な」思想への切実な関心が高まっている。だがそれはたんなる行ではない。繰り返しになるが、長原の言葉に現れているようにこれは好き嫌いの次元を超えるある種の「責任―応答可能性」の問題、すなわちこの「帝国」グローバリズムの支配する世界のなかで異例であることを強いられる存在からの微かな声に耳を傾け、誠実に応答責任を果たすという「倫理」的課題なのである。
                    
 さて大分前置きが長くなったが、そのバディウの新しい翻訳が『聖パウロ 普遍主義の基礎』(A5判・210頁・2500円・河出書房新社)である。それにしてもなぜパウロなのだろうか?先頃ネグリ『ヨブ 奴隷の力』(仲正征樹訳 世界書院)が翻訳されたが、ネグリとバディウという二人のラディカルなマルクス主義者が旧約と新約という違いはあるにせよ、共通して聖書というユダヤ・キリスト教的な世界に分け入っていったことにある象徴的なものを感じる。ただネグリの『ヨブ』の場合、ヨブが神から被った理不尽ともいえるような苛酷な状況をイタリア政府から追求を受ける自分の身に重ね合わせながら、「受苦から反逆へ」の論理を紡ごうとするネグリのモティーフは比較的伝わりやすかったように思うが、パウロの場合だとそうはいかない。周知のようにキリスト教の歴史の中でもっとも重要な使徒であり実質的な教会の創始者でもあったパウロは、ある面において「権力」の側の存在であった。このことは60年代から70年代にかけての全共闘運動の歴史のなかで極めてユニークな位置を占めた東京神学大学や青山学院大学神学科などのキリスト教系大学・学科における闘争――地味ではあったが思想的には極めて深い意味を持ったこれらキリスト教系大学における闘争についてはきちんとした記憶と理解が必要である――のなかでも議論されてきた。とくに「律法への服従ではなく神の義への信仰によって人は救われる」としたいわゆるパウロ「義認論」の持つ意味についいては様々な批判や疑問が提示された。こうした論理は結局は奴隷の論理なのではないか、その受動性によって人は神への絶対的かつ無条件な服従を迫られるのではないか等々。とくにルターがこのパウロ義認論を、信仰の徹底した内面化を梃子にした世俗権力への迎合の口実に用いたことがこうした批判や疑念の大きな根拠となったのである。

 だがバディウはそうしたパウロの義認をおもいもかけない方向へと読み替える。バディウがパウロに着目する点は、その宣教の内容上のポイントが「主は復活した」という言表にあることと、宣教の対象をユダヤ人という閉ざされた共同体の枠を超えて異教徒である非ユダヤ人にも及ぼしたことである。前者についてバディウは、「主は復活した」という言表が途方もない「寓話=物語」であり、到底信じ得ないものであることを踏まえたうえで、イエスという一人の人間の生と死に潜む一個の異例な出来事性として復活の意味を牽き出す。「キリストが死ぬのは、端的に、死を発案できる〔死という発案を耐え凌ぐ〕人間が生を発案できる〔生という発案を耐え凌ぐ〕ということを証すためなのだ。〔……〕それ〔キリストの死〕は神自身と平等になるための手段なのだ」(1234頁)。

 死と復活の寓話はけっして神の存在証明とそこから導かれる義認の物語へと回収されてはならない。それは出来事であり、そのかぎりにおいて本質的に異例なものであり、その異例性のなかからこそ、人間の生=存在の根源的な異例性を捉えることが出来るようになるのだ。私はこのくだりを読みながらレーニン廟に朽ちないミイラとして保存されているレーニンのことを思い出した。あのレーニンの不死性はちょうどこのバディウのいうイエスの死と復活の出来事の異例性の対極にあるものである。ひょっとするとあのレーニンの不死性こそがロシア社会主義の崩壊を招いたのではないだろうか。とするならばバディウが異例性の視点からイエスの復活を捉えたことの意味が自ずと見えてくるような気がする。
 
さて後者の宣教の対象の拡大についてはどうか。バディウはこういっている。「パウロの未聞の挙措とは、人民、都市、帝国、領土、あるいは社会階級といったことを問題にする共同体主義(コミュニタリアニズム)の企てから真理を引き去ることである。真であること(あるいは正義…)は、その原因あるいは帰結(もくてき)によっては、いかなる客体的集合にも送り返されるがままに任されることなど決してないのである」(14頁)。
 ここでも問題は異例性にある。つまりこうである。異例なものとは共約不能なものであるが、それは決して特殊ではない。もしそれが特殊であるならば異例性は自らの内部にある同一性を生み出し、その同一性の論理に屈服してしまうだろう。むしろ逆に異例性を普遍に向かって開かねばならないのだ。どこにも「場所を割り当てられることのない」異例性は「特異的普遍性」(松本によるあとがき参照)となる。ここにバディウの思想の核心が見出される。「帝国」グローバリズムの強制的画一化と社民的「文化共同体主義(カルスタ・ポスコロ)」の差異という名の同一性礼賛の循環構造のなかで逼塞する異例性の真の救抜――バディウのこうした思想的モティーフを今後も注視していきたいと思う。(2005.4)

権力と抵抗 フーコー・ドゥルーズ・デリダ・アルチュセール :佐藤嘉幸










佐藤嘉幸 著(人文書院)





ある意味で「懐かしさ」が漂う四人の名前が副題についた著作が刊行された。佐藤嘉幸の『権力と抵抗』(B6判・329頁・3800円・人文書院)である。もっとも著者である佐藤は1971年生まれであり、まだ30代のかなり若い世代に属する研究者である。

いわゆる「ニューアカブーム」が起こった80年代前半には彼はまだ小学生か中学生にしかなっていなかったはずである。私が本書に興味を抱いた第一のポイントは、今や一つのサイクルが終わり完全に過去のものになってしまったと現在の日本ではみなされがちな「構造主義-ポスト構造主義」の思想に対して、それが「ブーム」という形で受容されていた時期よりはるか後の世代に属する著者がどのようなアプローチを行っているのかという点にあった。もちろん簡単にある思想を時代遅れになったとか、もうブームは終わったというように裁断して顧みようとしなくなるのは、日本のこれまでの外来思想受容史の悪しき習癖であった。本来思想の受容は、それが受容しようとする人間のまるごとの存在を賭けた対決を通して行われる限り、行などに左右されるはずはないし、まして衣装を脱ぎ捨てるように簡単に別な思想へと乗り換えることなど出来ないはずである。とはいえ日本の習癖というべき思想のモードからモードへのアクロバティックな乗り移りにもそれなりの理由がなかったわけではない。たとえばかつてのサルトルの実存主義の受容においても、あるいは様々なマルクス主義理論の受容においてすらもそうなのだが、思想の受容の主戦場がいつのまにか煩瑣な解釈学の競い合いに収斂してゆき――これは長い漢学の伝統のなかで育まれた訓古注釈の技法の名残ではないだろうか――、思想がその起源と生成の場において帯びていた語の真の意味における現実的な条件が見失しなわれてしまうという問題が、そこには潜んでいるよう思われる。煩瑣な解釈学の袋小路に迷い込んでしまった思想は、当然ながら社会の現実や人間が日々生活のなかで味わう喜怒哀楽を含んだ実感との接点を失っていわば思想の剥製となってしまう。そんな思想の剥製に魅力などあろうはずがない。したがってある思想の受容においてそうした解釈学化=剥製化が進んで魅力が失われると、その思想は容赦なく捨て去られ別な思想への乗り移りが行われることになる。それは思想の消費化と呼ぶことも出来るだろう。多くの外来思想がこうした思想の消費化の過程のなかで浮かんでは消え浮かんでは消えしてきたのが近代日本の思想受容史ではなかったか。

こんなことを今更おさらいするのも馬鹿馬鹿しいことだが、もう一点だけ、とくに「構造主義-ポスト構造主義」に関してこうした受容の問題との関連で触れておきたいことがある。それは、思想の解釈学化=剥製化が思想の「非政治化」を生んできたという問題である。わが国における「構造主義-ポスト構造主義」の受容には、マルクス主義理論と結びついた過剰なまでに「政治的」であった状況――もっともこの「政治的」についてもある種の留保が必要なのだが――に対する解毒剤の導入という傾向が強かった。フーコーにしても、デリダにしてもその思想の受容がまず「文学」の領域、さらには言語-言説理論や記号論の領域において進行していったことはその証左である。その背景には、消費社会化のなかで社会的な決定審級の脱中心化・重層化が急速に進んでいったわが国の現実が、より正確に言えばそうした現実によってもたらされたある種の浮遊感(「差異の戯れ」)があったと思われる。このことが資本の力動化や動化として現れつつあった70年代以降のエコノミーのあり様に深く根ざしていたのはいうまでもない。やや乱暴にいえば、マルクス主義的な左翼的政治性が、「構造主義-ポスト構造主義」の持つ、差異性を通して脱構築された言説世界の布置を通して解体され、資本の新たなエコノミー運動と本質的に親和的な非政治的「サヨク」性へと置換されたということである。だが本来「構造主義-ポスト構造主義」と呼ばれた思想、とくに佐藤の本の副題に並ぶ四人の思想家たちの思想は、そうした非政治性とは根本的に異質なものであった。むしろそれは、たとえ通念上のマルクス主義的政治性・左翼的党派性とは異なるものであったにせよ、極めて本質的な意味で「政治的」であった。なによりも彼らの思想は「権力」への抵抗の思想であったからである。この点を脱色してしまったなら彼らの思想の本質的な意味が失われてしまうということに、わが国における彼らの思想の受容の仕方は驚くほど鈍感であったという気がしてならない。その意味で佐藤が本書に『権力と抵抗』というタイトルを付したことは、私の関心を強くそそってやまなかったのである。
                    
本書の序論で佐藤はまず、「構造主義的思考は主体を否定した」という周知のテーゼに対する反駁から議論を始める。佐藤によれば、構造主義的思考は「主体の依存」を、すなわち「真の意味で基本をなす何ものかに対する主体の依存」(9頁)を問おうとしたのであった。佐藤はその「何ものか」を、フロイト=ラカンの精神分析に文脈にそくして「シニフィアン」と呼ぶ。この「シニフィアン」は、主体にとって依存すべき何ものか、別な言い方をすれば主体にとって内面化されるべき何ものかでありつつ、主体が統御しえない何ものかでもある。この依存=内面化と統御不可能性(主体の脱中心化)の循環のなかに主体の位置が組み込まれるとき、主体の服従化のメカニズムが作動し始める。それは明らかに、フーコーの主体化=服従化の二重性として現れる「サブジェクション」に対応する。つまりこの主体化=服従化としての「サブジェクション」メカニズムにこそ主体に対して作用するミクロな権力作用の起源が存在するといってよいだろう。
ではこの「何ものか」としての「シニフィアン」、「サブジェクション」メカニズムを作動させる起源としてのそれは具体的にどのようなものなのだろうか。それはなによりも、主体を「経験的-超越的」に二重化(分化)するメカニズムの起源として捉えられなければならない。すなわち「サブジェクション」メカニズムは、自我の内部に「理想」と「現実」の乖離・ギャップを生み出し、その乖離・ギャップをてことしながら上位審級としての「超自我」(自我理想)による下位審級としての「自己」に対する暴力・非難・批判という形で、主体を「自己」に対応する経験的次元と「超自我」に対応する超越的次元に分化=二重化するのである。より正確にいえばこの二重性を前提として初めて可能となる倫理や道徳という形をとった自己内統整(自己の自己に対する服従)のメカニズムとして実現されるのである。

こうした「サブジェクション」メカニズムの核心をなしている「シニフィアン」とは、本質的にはフロイトのいう「タナトス」、つまり「死への欲動」である。だがここには「死への欲動」をめぐって、フロイト=ラカン的精神分析の文脈において生み出された一個の重大な意味組み換えのメカニズムの問題が同時に存在することを見落としてはならない。それは、なぜドゥルーズ=ガタリの『アンチ・エディプス』が精神分析批判を本質的課題としなければならなかったかという問題につながる。そしてそれは、精神分析理論を源泉としながら形成されつつも、精神分析理論と訣別しなければならなかった「構造主義―ポスト構造主義」的思考の本質的な意味、位置に関わる問題でもある。
ドゥルーズ=ガタリは、周知の通り『アンチ・エディプス』に「器官なき身体」というアントナン・アルトーに由来する奇妙な概念を登場させる。この「器官なき身体」は、ドゥルーズ=ガタリによれば「非生産的なもの、不毛なもの、消費しえないもの」である。言い換えればそれは、「死の本能」に他ならない。そして「器官なき身体」はこの「死の本能」に促されてたえず「死を欲望する」のである。それはちょうど「生の諸器官」(器官を持つ身体)が「生を欲望する」のと同様にである。このように「器官なき身体」を通して再生産される「死への欲動」は、いっさいの器官的な実定性を持たない、言い換えれば主体のなんらかの対象性には決して還元しえない非対象的な力動性として規定される。つまり「死への欲動」は、「快原理」と結びついた主体の実定的な存立に関わりえないものとして本来捉えられねばならないのである。

だがフロイト=ラカンの精神分析理論はこの「死への欲動」をエディプス・コンプレクスという装置を通して自我形成-主体形成(経験的-超越的主体の二重性)のプロセスへと接合し、「超自我」による「自己」の統制メカニズムに組み込むのである。このときフロイト=ラカンの精神分析の文脈における主体は、「死への欲動」を超越論的な起点としながら、生から死への軌跡を歩むことを宿命化された有機的・生物学的存在として、より正確にはそうした有機的・生物学的存在であることを基底に持つ自己統制的な存在として、「死への欲動」としての「シニフィアン」をめぐる「依存」と「統御不能性」のあいだの循環のうちに内属化されることになる。これが主体の服従化メカニズムに他ならない。
もし「構造主義-ポスト構造主義」的思考が権力への抵抗の思想でありうるとするならば、こうした精神分析理論の文脈のうちで定式化され根拠づけられている主体の服従化メカニズムを「開く」こと、つまり主体を服従の閉域から解き放つことが第一に求められるはずである。そのためにはまず「死への欲動」の核心である「シニフィアン」をエディプス・コンプレクスから切り離して外在化しなければならない。それは、主体をエディプス・コンプレクスによる有機化・器官化の回路から切断すること、あるいはエディプス・コンプレクスをへて主体へと向かうという回路に対する本質的なオルタナティヴを提起するという課題として捉えられる。『アンチ・エディプス』における「機械」という概念は、そうした抵抗の提起のひとつのケースと見なすことが出来よう。あるいは晩年のフーコー(いわゆる「最後のフーコー」)が、ドゥルーズと並行する形で見出した「魂」(意識、精神)という「牢獄」から解放された「身体」の特異性の位相もまたそうした提起のひとつのケースということが出来る。

時間がなかったために佐藤の犀利な議論を細部にわたって詳細にたどることが出来なかったのが残念だが、バリバールの指導のもとで執筆され、バリバール自身やジュディス・バトラー、ピエール・マシュレらの審査を受けて受理されたフランス語による博士論文がもとになっている本書は、若い世代がかつての日本における「ブーム」から完全に自由な立場で「構造主義-ポスト構造主義」の再政治化を、すなわち「構造主義-ポスト構造主義」の抵抗の理論としての読み換えを試みた文字通りの力作であることは間違いないといえよう。若い世代の研究者を取り巻く環境は劣悪さの度合いを増しているが、こうした仕事が今後も続くことを切に祈りたいと思う。(2008.12)

一九三〇年代のアジア社会論 「東亜協同体」論を中心とする言説空間の諸相 :石井知章・小林英夫・米谷匡史







石井知章・小林英夫・米谷匡史 編著(社会評論社)








「アジア社会論」という耳慣れない言葉が気になって本書(A6版・393頁・2800円・社会評論社)を読み始めたのだが、一読してその内容の多様さと問題の奥深さに圧倒される思いを感じた。ところで『情況』の20104月号は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』批判を軸に帝国主義戦争としての日露戦争の世界史的意味についての検討を行っている。私はこの特集に編集委員として関わったのだが、その際に中国の「アジア主義」研究者である李彩華氏へのインタビューを行い、日清・日露以来の近代日本の対アジア関係、さらにはそこで生まれた「アジア主義」と呼ばれる思想について李氏から多くのことを教えられた。不勉強なまま、「アジア主義」を日本帝国主義のアジア侵略正当化のための御用イデオロギーくらいにしか考えていなかった私に、李氏は、「アジア主義」が侵略イデオロギーの側面を持ちつつも同時に、とりわけその当事者の主観性においてはアジアとの連帯、さらにはアジア解放への志向をはらんでいたこと、また一言で「アジア主義」といってもいろいろな立場や視点がそこには含まれており、画一的に捉えることは不可能なことを懇切に教示してくれた。私は李氏の話を聞きながら、竹内好が「アジア主義」の再評価を提唱した理由がようやく分かった気がした。竹内はアジア・太平洋戦争というアジア侵略戦争の過程で客観的には侵略に加担した「アジア主義」のなかの「解放」の契機を救抜したかったのだ。この「アジア主義」のなかの「解放」の契機を救い出すこと抜きには、西欧近代化の模倣に終始した近代日本の歴史の根本的な転轍、言い換えれば真の意味での日本革命、さらにはアジアの根源的な解放と自立は不可能であると竹内は考えていたのだと思う。

本書を読むと、そうした竹内の思いを裏付けるように、「アジア主義」と重なりつつ、いわばその発展形態として登場する1930年代の「アジア社会論」がより複雑な、そして現在においても日本の対アジア関係を考える上で避けることの出来ない論点を含んでいることが明らかになる。1930年代の「アジア社会論」は、「アジアを侵略し、占領地を拡大しつつある日本が、同時にアジア諸民族の解放・共生を唱えるという総力戦期の巨大な矛盾の中で」(本書12頁)展開されていったのだった。
                  
こうした「アジア社会論」は、30年代後半の主として近衛内閣の時期に現れる「東亜同盟論」や「東亜協同体論」に凝縮してゆくが、その背景には、今までの日本における一国主義的かつ単眼的な30年代論や日本ファシズム研究などでは見えてこなかったより大きな世界史的枠組み(同時代性)の問題が潜んでいる。例えば本書第10章で、海軍をバックに設立された知識人たちの研究機関「海軍省綜合研究会」について考察している辛島理人は次のように述べている。「綜合研究会で一貫して議論されている主題は日本の帝国編成がどうあるべきかという問題である。(中略)大東亜共栄圏などの地域秩序は「植民地なき帝国主義」の一つの形態であった。第一次大戦以降の戦間期は植民地の新たな獲得が否定された時代であった。すでに植民地や従属国であった地域で反帝国主義闘争やナショナリズムが勃興し、アメリカとソビエトという新興の大国からそれを正当化するウィルソンやレーニンの民族自決原則が打ち出され、第一次大戦後の帝国に一つの問題を突きつけた。植民地主義が少なくとも公式には否定された時代にいかにして帝国を維持・編成するか、各帝国はポスト植民地主義時代の帝国像構築をせまられることになる。そして、1920年代後半の世界的な恐慌の対応策として、各帝国がニューディール・ファシズム・福祉国家・社会主義といった体制を選択するなか、第二次世界大戦には国民国家/ナショナリズムの超克と広域圏理論/広域秩序の模索が様々な学知で展開されるようになる」(376頁)。

こうした戦間期の世界史的動向をふまえ、トランスナショナルな枠組みの中で当時の日本国家・社会のあり方を考察してゆく視点が、これまでのこの時期をめぐる研究および議論には決定的に欠けていたように思われる。しかもそこには構造論的かつ純理論的な問題設定の射程をはるかに超えるダイナミックな葛藤・矛盾(構造変動)の契機が含まれている。その重要な要素の一つが、辛島の文章にもある「広域圏(広域秩序)」の問題である。例えば偽「満州国」建国とともに始まる日中戦争の過程は、単純な意味での侵略に留まらず、そうした「帝国」日本の側からする広域秩序形成の試みとしても捉えることが出来る。第4章で取り上げられている、三木清らの「東亜協同体論」とは異なる方向性――もちろん重なる部分もある――において「東亜協同体論」を展開した加田哲二などは、そうした広域秩序形成に関わる問題意識をもっとも強く抱いていた論者といえよう。この章の筆者石井知章によれば、加田は「英・仏・米・ソ連などが世界地図の現状維持を主張している」に対して、「新しい国家と国家、民族と民族の関係が設定されねばならない」(145頁)と考えていた。それは「英米本位の平和主義を排す」――この場合、「平和主義」のもとになる広域秩序は国際連盟になる――という加田の言葉に現れているように、欧米中心的な帝国主義的旧秩序に対する対抗を通して確立されるのである。このあたりの加田の議論はカール・シュミットを髣髴させるところがあるが、ともかくもこの延長線上に日中戦争を欧米列強からのアジア解放の戦いと位置づけるような発想も可能となってくるのである。しかもすでに触れたようにこの過程は静的に構造化された過程ではなく、とくに中国で燃え上がりつつあった抗日戦とそれを支える民族解放ナショナリズムのダイナミックな力が働く矛盾に満ちた動的な過程としてあった。

ここにもう一つの重要な契機が結びついてゆく。それは、日本のイニシアティヴによるアジアの新たな広域秩序の形成には、当のアジア(とくに中国)から民衆レヴェルにおける抗日の戦いを突きつけられている日本国家・社会自体の根本的な変革が求められるという問題である。そしてこの問題には従属国としての立場を強いられている中国自身の変革がどのように行われるべきかという問題が正確に照応する。この問題に関してもっとも鋭い考察を残したのが第1章で扱われている尾崎秀実であった。第1章の筆者米谷匡史によれば尾崎は、日中戦争が欧米やソ連を巻き込む世界戦争へと発展する中で、軍事的には敗
北した中国が「社会革命」へと向かい――尾崎によればその環は農業革命である――、一方の日本もまた長期戦による消耗過程の中でやはり不可避的に社会革命へと向かうことによって、総体として「日・中・ソ提携によって社会革命と民族解放をめざす「東亜新秩序」のヴィジョン」(56頁)が可能になる、という構想を抱いていた。それは、「アジア社会論」(東亜協同体論)が、客観的には日中戦争からアジア・太平洋戦争へと向かう過程における「総力戦体制」の形成を領導する帝国主義イデオロギーとしての役割を果たしながらも、その裏面にじつはきわどく危うい形で反帝国主義・民族解放を目ざす革命的イデオロギーとしての契機を密かに忍び込ませようとしていたことを意味するといってよいだろう。こうした「アジア社会論」の両義性をもっとも包括的な形で体現していたのが三木清であったことはいうまでもない。そして三木の議論、あるいは三木の協力者であった船山信一らの議論からは、「アジア社会論」のさらに錯綜した思想的背景が浮かび上がってくるのである。
                    
 本書を読み進める中で強い驚きを覚えたのは、「アジア社会論」の展開の過程に多くの転向(偽装転向)マルクス主義者たちが関わっていたことである。尾崎や中西功、平野義太郎らはもちろんだが、これまでほとんど無名であった、裏返して言えば本書によってほぼ初めて考察の俎上に載せられたといってよい満鉄調査部周辺の大上末廣、佐藤大四郎らもまた総力戦の思想としての「アジア社会論」に社会主義や民族解放を目ざす変革のモティーフを忍び込ませようとした人間たちだった。第5章の筆者大澤聡は、本書の編者である米谷の議論を紹介しつつ以下のような視座を提示する。「米谷は、従来「転向」として理解されがちだったその思想動向の意味を、国民国家の枠を越えた東アジア全体の構造変動・相互作用のなかに位置づけなおす。「日中関係の変容と国内の社会変革とを連動させ、立体的にとらえる視座」を構築することにより、一国内部に閉じた「協力/抵抗」という尺度では捉えきれない当時の社会変革構想を甦生させているのである」(171頁)。

 ここに本書のもっとも基本的な視点が現れている。大澤はこの後で米谷の文章を引用しているが、そこでは転向マルクス主義者たちを中心とする「アジア社会論」の展開、しかもたんに理論上の問題だけにとどまらずにすぐれて実践的な要素をも含んだその展開過程には、「あえて参戦をつうじて時局に介入し、戦時下の構造変動を変革にむけて転換させようと試みる」(172頁)モティーフがこめられていたのである。大上による、「半封建半植民地」的な中国の変革を農業協同組合運動による封建制打破の方向性に求めようとした発想にしても、佐藤の「合作社(協同組合)」運動にしても、まさに米谷の指摘するような変革のモティーフをうちに秘めた試みに他ならなかった。こうした問題圏に光をあてたという意味で、小林英夫が担当する本書第7章「満鉄調査部の思想」、福井紳一が担当する第8章「佐藤大四郎の協同組合思想と「満州」における合作社運動」は本書の中でも際立って印象的な部分といってよい。それとともに大上、佐藤がともに国家権力による弾圧を受けて獄死したことは――ゾルゲ事件に連座して処刑された尾崎や敗戦後まもなく獄死した三木を含め――、30年代から40年代への推移の過程で、こうした「アジア社会論」内部の変革のモティーフが当時の軍部を中心とする支配権力による苛烈な弾圧の中で急速にしぼんでゆき、代わりにそうした問題意識が希薄になった分だけいわゆる「総力戦の思想」としての性格を強めていった高山岩男、高坂正顕ら京都学派の「世界史の哲学」が提唱され、さらには「近代の超克」という痴呆めいたスローガンが呼号されるに至った事情を物語っている。このあたりをめぐっては昭和期知識人論ないしはこの時期の知識社会学な考察の問題としても捉えることが出来る。

 この過程において理論的には、「アジア的生産様式論争」、あるいは「アジア的停滞」の問題や講座派史観の問題が、さらにはK・ヴィットフォーゲルの「中国(支那)水利社会論(東洋的専制論)」などの問題が複雑に絡み合っている。そしてそれらの理論的諸問題の焦点は、三木の協同主義哲学における「革新」の二重性という考え方、すなわち封建制を脱する近代化の必要性と、同時に近代主義を超える原理の模索の必要性を重ね合わせて捉えようとする考え方に収斂するとともに、日本およびアジアにおける近代化の意味と方法の根本的な見直しへもつながってゆく。最後に、これは李氏へのインタビューでも教示されたことだが、こうした「アジア社会論」の展開において「忘れられた思想家」の一人である橘撲が非常に重要な役割を果たしたことをあらためて本書を通して確認することが出来たことをつけ加えておきたい。先にあげた大上や佐藤の立場は橘の影響抜きにはありえなかったからである。ともあれ多くの刺激と触発に富んだ好著である。(2010.4)

哲学のアクチュアリティ 初期論集 :テオドール・W・アドルノ 









テオドール・W・アドルノ著・細見和之訳
(みすず書房




20004月から担当してきた本ブックハンティング欄も今回が最後となった。足かけ11年にわたって一回あたり10枚という長文の書評を月一回のペースで続けなければならない本欄の仕事は正直いってきつかったが、多くの新刊本の中から一冊を選び、自分なりの読み方、解釈を踏まえて書評にまとめるという作業は大変貴重な勉強の機会でもあった。何より一冊の本を通してそのつどの世界や時代の状況を論じたり、その本が扱っている分野や主題に関して理論的・歴史的反省を行うとともに今後の展開を展望することは、自分自身の思想的道筋を確認するための大切な作業となった。

 私が本欄を担当するにあたって心がけたのは、まず第一にたんなる内容の要約にとどまらず、必ず一個その本から引き出すことの出来る論題を示し、それについての自分なりの議論を含めることであった。10枚という長文書評にはどうしてもそれが必要だと考えたからである。第二には、思想・哲学の分野を中心にしつつ出来るだけ多様な分野の本を取り上げることだった。とくに通常の書評では取り上げられる機会の少ない音楽関係の本を出来るだけ取り上げようと心がけてきた。第三には、とくに後半の時期においてそうだったのだが、若手の博士論文を中心とする業績を積極的に取り上げることだった。ここ5年あまり大学では若手研究者が博士論文を執筆するのはほとんど義務となってきている。言い換えれば若手研究者の優れた仕事は彼らの博士論文にこそもっとも凝縮されているはずなのだ。今若手研究者の仕事が世に出る媒体としても博士論文がもっとも重要となっているのは。出版事情の悪化もあって書き下ろし単行本や論文集でデビューすることがほとんど期待出来ない状況であることと深く関係している。

 今も少し触れたが私がブックハンティング欄を担当した10年は、出版事情が急速に悪化した時代だった。とくにそれは人文・社会科学書において顕著だった。だからこそこれから世に出ようとする若手研究者の業績を中心に、その分野における貴重な著作の紹介を行うことが本欄の重要な役割であった。もとよりそれは大河にそそぐ一滴のように微力なものではあったろう。ただ悪化しつつある出版事情の中であえて旗を立て続けようとする著者や出版社の志に共感と連帯の意志を示すことは本欄を担当する者の義務であったと確信する。
                   
 さて本欄の最後に取り上げるのは、詩人であり、アドルノ、ベンヤミンの優れた研究者として著作および訳書を次々に刊行してきた細見和之によるアドルノの新しい翻訳(B6判・193頁・3000円・みすず書房)である。アドルノの仕事は同じみすず書房から昨年刊行された『文学ノート』1・2を含め主要著作の翻訳がほぼ終わっているが、なぜかアドルノの思想を理解する上で極めて重要な意味を持つ初期の二つの講演「哲学のアクチュアリティ」「自然史の理念」は、雑誌に翻訳が掲載されたことはあるとはいえ単行本としては未刊だった。この二つの講演は、アドルノが教授資格論文「キルケゴール論」に取り組んでいた時期である1931年から31年にかけて行われ、その後のアドルノの、『啓蒙の弁証法』を経て『否定弁証法』や「美学理論」へと至りつく思想的軌跡の起点に位置するものである。そのことは細見自身が彼の著作『アドルノの場所』(みすず書房)で述べていた通りである。その意味で今回両講演と、それに加えて執筆時期が1924年頃と推定される極めて早い時期の草稿「哲学者の言語についてのテーゼ」、これまた1920年代後半から30年代にかけて書き継がれた「音楽アフォリズム」が細見の翻訳によって一書にまとめられたことは、今後の日本におけるアドルノ解釈にとって貴重な一里塚となるであろう。 
   
 「哲学のアクチュアリティ」においてアドルノは自らの哲学の出発点を極めて明快な形で述べている。冒頭の文章を引用しておこう。「こんにち哲学研究を職業として選択する者は、かつてさまざまな哲学的企ての出発点に位置していた幻想、すなわち、思考の力によって現実の総体を把握することができるという幻想を、放棄しなければなりません。現実の秩序と形態があらゆる理性の要求を打ち砕いているのですから、正当化をこととする理性がそのような現実のなかで自分自身を再発見することなど不可能でしょう。認識する者に対して理性がまったき現実として自らを提示するとすれば、それはひとえに論争的な仕方においてのみであって、自分がいつかは正しく公正な現実にゆきつくだろうという希望を、理性は痕跡と破片の姿でのみ認めることができるのです」(2頁)。

 少し大げさな言い方に聞こえるかもしれないが、引用した文章から私たちは、あらゆるアドルノのテクストを通して執拗に鳴り続けている彼の思想の基調低音(ゲネラルバス)ともいうべきものを聴き取ることが出来る。アドルノは大学の学位論文でフッサールの現象学を論じているが、この文章の背景にあるのも現象学の問題であるといってよい。というのも現象学はアドルノにとって最後の観念論ないしは形而上学だったからである。ここで観念論、形而上学という言葉は唯物論の対立項としての観念論を意味しているわけではない。それはむしろ伝統的な意味での哲学そのものを意味しているといってよいなぜならアドルノがいっているように哲学の問いはつねにその思考によって現実の総体、言い換えれば全体性を把握するという要求、つまり哲学的思考の根幹をなす理性によって存在の全体性を完全なかたちで捉えようとする要求に根ざしているからである。観念論、形而上学とはまさにこうした要求によって規定された哲学のあり方そのものに他ならないのだ。

 アドルノはそうした哲学の要求に対して敢然とその断念を要求する。もはやわれわれの哲学的思考の前には哲学をつかさどってきた理性とおあつらえ向きな形で対応するような全体性など存在しえないのだ。言い換えれば思考(理性)と現実(存在)の幸福な一致など今や不可能なのだ。アドルノはそう主張する。そしてアドルノが対案として提示するのは、もし哲学的思考にとって「正しく公正な現実にゆきつく」ことが可能であるとすれば、それは「理性は痕跡と破片の姿でのみ認める」という形でしかないという考え方である。
 「痕跡や破片」という言い方に後年のアドルノにおける「非同一的なもの」の契機の現われを看て取ることはある意味容易い。とはいえ問題はこの時点でアドルノがなぜ、またどのようにこうした思考へと至りついたかという点にある。恐らくその背景にあるのは、一つは先輩であるベンヤミンからの影響である。「痕跡や破片」という言い方には明らかにベンヤミンの『ドイツ悲劇の根源』の「認識批判的序論」における言葉づかいが影を落としている。初期アドルノの思考圏はベンヤミンのいわゆる「アレゴリー」的思考の圏域に属しているといってもよいだろう。そのベンヤミンの思考圏が第一次大戦後の「ヨーロッパ文明の没落・終焉」ともいうべき時代状況と深く関連していることを思い返すならば、初期アドルノの思考圏もまたこうした時代状況との関連の中で形成されていったと考えてよいだろう。

 このときそれとの関わりでもう一つの問題が浮上する。それは、この時代状況をやはり引き受けながらベンヤミンやアドルノとはまったく対蹠的な方向へと向かった一人の思想家との対決という問題である。その思想家が現象学から存在論へと向かったハイデガーであることはいうまでもない。このハイデガーとの対決というモティーフは「哲学のアクチュアリティ」においてもつねに明滅しているが、より明確な形で展開されているのが「自然史の理念」においてである。
ここでアドルノは「自然」と「歴史」という二つの概念を結合して「自然史」という「理念」を作り出す。このときアドルノの念頭にあったのは恐らくこの「自然史」という言葉をすでに用いている二人の先行者、すなわちマルクスとニーチェであったに違いない。そしてこの二人の先行者が、この言葉を通して理性による全体性の要求を観念論という究極的な認識の倒錯形態として厳しく斥けようとしたこともまた思い浮かべていたに違いない。つまり「自然史」という「理念」は、自然(=存在)を全体性という名の倒錯的な物象性にではなく、個別性だけがあたかも「痕跡や破片」のように配置されている歴史に向かって解き放つことを表す理念なのである。それは存在と存在者の区別から出発しながら最終的には存在をふたたび神秘的な全体性へと回収し、あまつさえその全体性をナチス的な国家=民族共同体の全体性へとすりかえっていったハイデガーに対するラディカルなアンチテーゼとしての意味を持つ。

 と同時に私たちが見ておかねばならないのは、アドルノがこうした非同一的なものへの志向を通して歴史の「アレゴリー」的配置へと入ってゆこうとすることが、たんに認識論的モティーフからのみ行われているだけではなく、哲学と並んでアドルノの思考の重要なもう一つの柱である音楽によって象徴される芸術(=美)の問題と深く結びついていることである。それは自然という概念を「神話」として捉え返そうとする志向にはっきりと現れている。この場合芸術(=美)の問題は具体的には「仮象」の問題となるのだが、それを「神話」の文脈に置き換えると、神話的思考に底する存在と理性の根源的な和解・宥和への志向の問題になる。それは後のアドルノの用語を使うならば「ミメーシス」の問題である。それが後年アドルノの遺著となる『美学理論』の中心課題の一つとなるのは周知の通りである。こうした点からも両講演がアドルノの思想的軌跡を考える上で極めて重要な意味を持つことは明らかであろう。

 「哲学者の言語についてのテーゼ」と「音楽アフォリズム」に触れるスペースが少なくなってしまったが、前者に関していえば「哲学のアクチュアリティ」でも言及されているアドルノの「エッセイ」への志向の問題が重要となろう。形式と内容が、理念と事象が、つまりは自然と歴史がつねに「痕跡や破片」という非同一的な境位のなかで交錯する地点において思考することが「エッセイ」的思考の神髄であるとするならば、アドルノの思考はつねに「エッセイ」への志向に貫かれていたといってよいだろう。また後者に関しては、個々の作品や楽節の微細な要素から思いがけない洞察を引き出すアドルノの後年の音楽社会学におけるミクロロギーの手法が早くも現れていることに注目すべきである。リゴリスティックな認識批判者としてのアドルノと繊細なエステートとしてのアドルノの二重性がここにも現れている。(2011.12)