戦後論 日本人に戦争をした「当事者意識」はあるのか : 伊東祐史






 
 
 
 伊東祐史 著(平凡社)
 
 
  
 
あらゆる社会意識には「抑圧されたものの回帰」が伴なう。そして抑圧されたものが回帰するとき、社会意識の表層にある自明性が脅かされ、「居心地の悪さ」が惹起される。日本の戦後社会もまた例外ではなかった。

日本の戦後社会は敗戦と占領とともに始まった。それは、戦後社会が建て前上は戦争を「悪」として一方的に断罪し、その戦争を引き起こした「戦前」をも否定しなければならないというカノンを作り出した。この点では保守派も左翼革新派もかわるところはない。とりあえずいえば保守派にとってこの「戦前」および戦争期と戦後の断絶を証明していたのは日米安保体制であった。これによって保守派は自立した日本国家の根拠を自ら放棄し暗黙の占領状態が続くことに同意したのであった。左翼革新派にとってその証となったのが日本国憲法であったことはいうまでもない。

だがこのカノンには奇妙なねじれが含まれており、しかもそのねじれを通して戦後社会が封印してきた抑圧されたものの回帰の所在を指し示すのである。それを象徴しているのが天皇制の問題に他ならない。保守派が日米安保体制を受け入れたのはそれが天皇制存続の条件だったからである。沖縄をアメリカに売り渡し日本全土を米軍基地として自由に使用させるという事実上の占領状態の継続を保守派が受け入れたのは、それが占領軍(アメリカ)の天皇制存続を認める唯一の条件だったからに他ならない。だがそうだとすればそこには奇妙なねじれが存在することになる。なぜなら天皇制は形式上日本社会が「戦前」から戦後へと連続していることの唯一の証だからである。左翼革新派が依拠する憲法にも奇妙なねじれが存在する。憲法の第一条から第八条までが規定している象徴天皇制の問題である。左翼革新派はこの象徴天皇制という形での天皇制の存続を認めた憲法を自らのよりどころとしているのである。ではなぜこのようなねじれが生じてしまうのか

保守派にとって天皇制の存続をかちとることは本音のレヴェルでは敗戦を認めないことの、言い換えれば「戦前」が戦後へと連続することの唯一の証だった。しかしそれは日米安保体制という代償抜きにはありえなかった。もはや保守派には再度の日米戦争を戦い抜き正面から「戦前」を取り戻すことは不可能だったからである。左翼革新派のほうはどうか。彼らは「戦前」に一度天皇制に全面敗北している。この敗北から左翼革新派が立ち直ることが出来たのは自らの力によってではなかった。敗戦と占領をもたらしたアメリカの力のおかげだった。そのアメリカが憲法によって天皇制の存続を認め日米安保体制を強いたとしても、左翼革新派には先験的にそれへ抵抗する力はなかった。逆にそれを自らの存立基盤にするというねじれを受け入れざるをえなかったのである。

日本の戦後社会において保守派も左翼革新派も、自らの本音の「義」を正面に立ててそのために戦う自立した力を持ち得なかった。そのため保守派も左翼革新派も究極のところで、自らの存在を自らが否定しようとしているところのものによって支えられるという逆説、ねじれにさらされ続けることになる。そしてこの逆説、ねじれが「抑圧されたものの回帰」を促すのである。では戦後社会に回帰してくる抑圧されたものとは何か。それは三つの相互に循環しあう要素からなる。ひとつは、戦争に負ける前の「正しい」日本国家の姿としての「戦前」である。ふたつ目は戦争の犠牲になった死者たちである。ただしこの死者は保守派にとっては靖国に祀られるべき「英霊」として、左翼革新派によっては無辜の犠牲者として認識される。さて三つ目は反米である。より端的にいえば敗れた戦争のリターンマッチとしての日米戦争である。ここでも保守派と左翼革新派は分岐する。保守派にとってそれは口にしてはならないタブーだった。アメリカに押しつけられた憲法を改正せよというスローガンを掲げるのがせいぜいだった。なるほど左翼革新派が公然と反米愛国を掲げたことがかつてあった。だがそれは日本の内部から出たというよりは冷戦下のソ連や中国の思惑、戦略にのっかって出てきた側面が強かった。しかも左翼革新派には反米がアメリカと天皇制を串刺しにして打倒する革命運動を通してしか実現されえないことへの自覚が欠落していた、その結果として上記の三つの抑圧されたものが回帰してきてもその行き場所はなかったのである。「戦前」はたんなるノスタルジーに堕し死者たちの処遇が定まることもなかった。とはいえそれらは執拗に回帰しながら戦後社会の基底から揺さぶり続けるのである。

このねじれ、逆説の根源にあるものとは何か。それは「転向」の問題である。保守派にとって転向は占領の受け入れとして現れた。そしてこの転向は戦後を通じて一貫して保守派を呪縛し続けたのである。安倍内閣がナショナリズムを正面に掲げ改憲を打ち出しながら脆くも崩壊したのは、ナショナリズム=改憲が必然的に日米安保体制と抵触し、ひいては戦後転向というタブー=パンドラの箱を開いてしまう危険に耐え得なかったからである。では左翼革新派はどうか。彼らの転向は二重であった。そこには戦前の「転向」と戦後の「再転向」という二回の転向がはらまれていたのだった。左翼革新派にとってもこの二度の転向体験はタブーだった。転向=再転向体験に触れることは左翼革新派の存立基盤を突き崩す結果を招くからである。このタブーに安住することを支えていたのが護憲の建て前に他ならない。だからこそ村山内閣において護憲、すなわち第九条死守のカノンに反して日米安保体制を認めたことが左翼革新派の中心であった総評=社会党体制の崩壊につながったのである。

 こうしたことから見えてくるのは日本の戦後社会における主体の壊乱状況である。戦後社会には語るにたる主体の存立状況が本質的に不在だったのである。そして絶えず回帰してくる抑圧されたものの影がこの主体の不在状況を脅かし続けてきたのである。なるほど高度成長はつかのまこの主体の壊乱と不在の状況を忘れさせてくれた。だがバブルの崩壊と冷戦の終焉が同時にやってきた90年代になって日本社会はふたたびこの危機的な状況に正面から向き合わざるをえなくなったのだった。

           
   その意味では戦後の意味を問い直そうとする加藤典洋の『敗戦後論』が90年代初頭に登場してきたのは必然的であったといわねばならない。論の当否は別に加藤がこの著作で上記のような日本の戦後社会のねじれを取りあげたことの意味は小さくない。したがって今回若い世代に属する伊東祐史がこの加藤の著作を手がかりにしながら戦後社会のねじれを問うべく、その著書『戦後論』(B6判・295頁・2600円・平凡社)を刊行したことに私は大きな関心をそそられ本書を読み始めたのだった。その結果私は今複雑な感慨にとらわれている。敗戦はおろか60年安保闘争も、いな60年代から70年代にかけての安保・沖縄・学園闘争さえもまったく知らない世代に属する伊東が敢然とこの難しい問題に取り組もうとした熱意と勇気にははばかることなく賞賛の意を伝えたいと思う。とはいえそのことは伊東の論そのものへの全面的賛意にはつながらない。残念ながらそこには致命的ともいえる錯誤や誤認が散見されるからである。

 まず指摘しておきたいのはやや逆説的に聞こえるかもしれないが伊東がこの著作における論の範囲を戦後に限定してしまっていることの問題である。すでに触れたように戦後社会のねじれの起源に位置していたのは主体の壊乱状況であり、それがもたらした主体の存立基盤の不在状況であった。そしてその真の起源は転向にあったのである。この転向において主体の当事者意識を超えたところで「戦前」と戦後はじつはすでに連続しているのである。転向を軸に見たとき問題なのはむしろこの無意識の連続性であって断絶は建て前にすぎなくなる。より精確に言えば、決して表立って口にしてはならない連続性がねじれた形で存在するからこそ建て前上は断絶が左右を問わない形で強調されねばならなかったのである。伊東は戦後のみを論の対象とすることによってこの転向問題を視野の外に置いてしまった。それによって伊東の論は前提において重大なずれをはらんでしまったのである。

 伊東は本書で、日本の戦後社会の最大の問題点が戦争を引き起こした「当事者意識」の欠落にあると主張する。「当事者意識」が欠落していたからこそねじれが生じたのだというのである。なるほど伊東が指摘するように日本の戦後社会には戦争を引き起こしたことに対する内在的な反省が欠落していた。それはあるいは「当事者意識」の欠如と形容される面を持っているかもしれない。だがこの問題の本質は決してそこにはないのだ。問題なのは保守派も左翼革新派も転向を経てすでに戦後の出発の時点でその存在の内部にねじれを抱えていたという事実である。私にとってふに落ちないのは、伊東が「当事者意識」という概念を持ち出すにあたってどうやら主体の連続性、持続性を素朴に信じているらしく思えることである。問題はまったく逆なのだ。ねじれが示しているのは戦後社会を根底から規定づけている主体の不可能性なのである。そしてその起源となっているのが転向問題なのだ。
 
このように見てくるとき、伊東が評価する伊丹万作や大岡昇平、吉田満についての見方も変わってこざるをえない。よく考えればわかるように彼らもまた隠れた転向者であった。一言で言えば彼らに共通しているのはモダニズム=リベラリズムからの転向という(トラウマ)である。そして彼らが誠実であったとすればそれはなにより彼ら自身のこの転向の傷に対して誠実であったということになるはずである。同じような問題は竹内好や吉本隆明の評価にも感じられる。一貫して伊東に見えていないのは、隠微な形で存在する「戦前」と戦後の連続性と一体的に結びついている左右を問わない転向体験の機微であったように思えてならない

おそらくそれは転向という問題を実感的に受けとめられる素地が80年代以降日本の社会から失われた結果なのだろうと思う。だが例えば丸山眞男のいう知識人の「悔恨共同体」が裏返して言えば転向者たちの傷の隠蔽のための 建て前上は反省のための 共同体であるということを、そして吉本が批判したのがなによりもこうした転向者たちの当事者意識の欠如とそこから生じたタブー、より精確に言えばタブーが生み出した思想的怠惰だったことを感じ取れる感性が戦後を論じる際には不可欠な要素なのではないだろうか。
繰り返しになるが若い世代に属する伊東がこの困難な問題にあえて取り組んだ姿勢には満腔の共感と賛意を覚える。だからこそ次作ではより本質的な洞察を示して欲しいと思う。(2011.3

 


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