シリーズ・哲学のエッセンス スピノザ : 上野 修



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
上野 修 著(NHK出版)
 
 
 
 
 
 
 
 
このNHK出版の「シリーズ・哲学のエッセンス」もすでに20冊を超えた。約100頁というコンパクトな分量の中で、それぞれの著者が、たんなる解説や概論では終わらない個性に富んだ問題意識を提示し展開しているこのシリーズは、岩波書店の「思考のフロンティア」シリーズとともに、現在もっとも触発的な議論に会える場の一つといってよいだろう。そのシリーズの最新刊が上野修による『スピノザ』(B6版・107頁・1000円・NHK出版)である。

  一読して感じられたのは、本書における上野のスピノザへのアプローチのユニークさである。それはこのシリーズの中でも抜きん出ているように思われる。上野は本書でスピノザの『神学・政治論』だけを扱っている。本書とは別に『スピノザの世界―神あるいは自然』(講談社現代新書)を最近公刊しているとはいえ、本書にはスピノザの主著である『エチカ』をめぐる議論はまったく登場しない。つまり本書で上野は事実上スピノザの思想全体に対する見通しをあらかじめ放棄したところから議論を始めているのである。これはどういうことか。

 昨今のスピノザへの関心の高まりは今さらいうまでもないことであろう。だがスピノザが何を考えていたのか、いや、より正確に言えば、スピノザはそもそも何を問題にしようとしていたのか、ということ、つまりスピノザのプロブレマティクということなのだが、それに関してどれほど理解が、とりわけわが国において深まったといえるだろうか。この点に関してスピノザは依然として極めて難解な思想家であるといわねばならない。この難解さがどこから来るのか、じつはスピノザの思想について考えようとするときこの問いこそがまず最初に踏まえられねばならない。そしてそこから出発してスピノザの思想へアプローチしようとするとき、少なくとも私にとっては、その難解さの本質的な部分が『神学・政治論』というテクストに由来しているように思われる。 

 主著『エチカ』執筆を中断して書き上げたこの『神学・政治論』全篇を貫いているのは、本書執筆の2年後に起こるスピノザの最大の庇護者ヤン・デ・ウィットの虐殺をまるで予感していたかのようなある種の深刻な危機意識である。例えばそれは、『神学・政治論』の序文にある次のような言葉に現れている。「私は知っている。敬虔の名の下に心に抱かれた諸々の偏見は精神のうちにきわめて頑固に固着しているということを、また民衆から迷信を取り去ることは恐れを取り去ることと同等に不可能であること、そして民衆のかわらなさは頑迷さであって理性の導きなどおかまいなく、ものごとを衝動のままに賞賛したり非難したりするということも知っている。ゆえに、民衆ならびに民衆とともにこうした感情にとらわれている人々にはだれもこの本を読んでもらいたいと私は思わない」(本書21頁より引用)。

ここから読み取れるのは、スピノザの、むしろ絶望といったほうがよいような危機意識の深さである。そしてその核心にあるのは、スピノザの思想の根幹をなすといってよい「民衆」への絶望感に他ならない。この民衆への絶望とディスコミュニケーションの意識の延長線上に見えてくるのは、信仰と理性の激しい葛藤に彩られたヨーロッパ最初の共和国オランダの当時の状況であり、さらにはそれを通して浮かび上がってくる「正しさ」――信仰上のものであれ、政治上のものであれ――の基準、尺度の深刻なぶれである。いや、ぶれという言い方は正確さを欠くかもしれない。それはむしろ基準や尺度をめぐる決定不能性、ないしは原因や要因から一義的な結果(決定)を導く根拠づけの論理に潜む本質的なパラドクスというべきかもしれない。しかもそれはスピノザの中で、民衆の存在こそが「正しさ」の絶対的基盤であるという認識と決して矛盾しないのだ。「正しさ」の基準としての民衆存在と、それを裏切る現実の民衆存在のあいだのずれ・分裂――、スピノザのいう「偏見」「頑迷さ」とは、この分裂を強いる決定不能性・パラドクスを決して認識しようとしない、いやそれどころかそうした決定不能性やパラドクスを認識することそのものを信仰や理性への敵対行為として無視・排除しようとするような態度を意味している。スピノザの絶望的な危機意識は当時のオランダにおけるこうした態度の跋扈に由来している。
                 

上野が『神学・政治論』というテクストにおいて徹底的に読み抜こうとするのは、スピノザのこうした「正しさ」の決定不能性、パラドクスに関する認識のかたちであり意味である。上野のスピノザへのアプローチが群を抜いてユニークなのは、そうした『神学・政治論』の読み方がこれまでほとんど――とくにわが国では――なされてこなかったからであり、さらにはそうしたアプローチによって『神学・政治論』という、内容の次元よりもむしろ読解に向けたスタンスや入射角の次元において異様な難解さを帯びてしまうテクストへの入り口が初めて見えてくるからである。ついでにいえば、この上野のアプローチによって私たちは、現在のスピノザ読解にもっとも決定的な影響を与えたドゥルーズのスピノザ解釈への、あるいはそこから導かれるドゥルーズの思想の根幹への導路を得ることが出来る。というのもスピノザにおける「正しさ」の決定不能性・パラドクスの問題は、ドゥルーズがなぜ「固有性」ではなく「個体性」ないしは「特異性」を問題にしなければならなかったという問題と深く関わるからである。「正しさ」を一義的に、つまり無媒介な決定性において扱おうとする態度に「固有性」は依存しており、それを否定するかたちで、すなわち決定不能性・パラドクスにおいて「正しさ」の問題を扱おうとするとき「個体性」「特異性」という視点が現れてくるからである。

上野は、スピノザの同時代のオランダには「正しさ」の一義性を疑わない二つの立場があったことを指摘する。一つは、政治的には君主制の復活を志向する「総督派」と呼ばれる正統派の聖職者や神学者のグループである。彼らは、聖書に書かれた言葉を無条件の真理として受け入れることを主張する。すなわち聖書に現れる超自然的な奇蹟や恩寵をそのまま真理として丸ごと肯定することを求めるのである。したがって彼らにおいて真理は信仰に従属することになる。それに対して政治的には「共和派」に近い立場にあったデカルト派のグループは、聖書の真理を出来るだけ合理的に解釈しようとする。その背景にあるのは「神学と哲学の分離」という立場である。哲学が体現する理性にこそ聖書の真理は帰属するのであり、神学がつかさどる信仰は真理とは無関係であると彼らは主張するのである。この二つのグループの対立は哲学・神学論争にとどまらず、共和派の総帥であったウィットの虐殺に示されるように深刻な政治的対立をも惹起していたのだった。そしてその虐殺を実行したのは総督派の聖職者に使嗾された民衆だったのである。

共和国が体現する自由の本質的な担い手であるはずの民衆自身が、君主制を志向する総督派によって共和国への攻撃に駆り立てられてゆくという矛盾とそれがもたらした絶望感こそスピノザが『神学・政治論』を書いた最大の動機であったに違いない。と同時にもう一点見落としてはならないのは、そうした矛盾に対して「哲学と神学の分離」をいうデカルト派が決定的に無力であったこと、そして彼らがスピノザの問題意識に対して総督派に劣らず激しい攻撃を仕掛けているという事実である。裏返して言えば、スピノザは『神学・政治論』というテクストを通じて、総督派と共和派の、正統神学派とデカルト派の対立の外部に立とうとしていたのであり、外部に立つことによってこの両者の対立の基盤そのものを決定的に脱臼させようとしたのである。だからこそスピノザは、その対立に巻き込まれて「頑迷さ」のとりことなってしまっている民衆も含め、全オランダを敵に回してしまったのだった。
                  

ではスピノザはどうこの対立・矛盾の外に立とうとしたのか。上野は次のようにいう。「スピノザは問う。この最初の前提、聖書は全体が真理であるという盲目的な前提がそもそも間違っているのじゃないか」(36頁)。

スピノザにとって聖書は、数千年の長い歴史の中で異なる時代の異なる多くの人々によって集積されてきた伝承断片の「コーパス(資料体)」を意味していた。そのような聖書が、そのうちに様々な矛盾や欠陥を含んでいるのは当たり前なことではないか。それを無理やり首尾一貫した真理の体系として解釈することこそおかしな話ではないか。

ではもし聖書が真理の体系でないとすればどうなるのか。スピノザは主張する。「聖書は哲学的な事柄を教えているのではなくてただ敬虔だけを教えているのであり、また聖書の全内容は民衆の把握力、民衆の先入的意見に順応させられている」(本書40頁より引用)。

聖書が教えているのは「真理」ではなく「敬虔」である。これは何を意味するのか。ここから上野は本書におけるもっとも重要な創見を抽き出してゆく。聖書が敬虔だけを教えていること、裏返して言えば真理を教えているわけではないことは、別な角度から言えば、聖書において問われるべきなのが「語りの意味」、上野の言い方に従えば語りの「主張可能条件」であるということを意味する。そしてさらに言えば、聖書の中で語られたことが、なぜ「預言的確実性」を帯び得たかということこそが、聖書に対して問われるべき核心となるのである。そしてそこに「敬虔」が結びついてゆくのである。それを上野は次のように述べている。「自分の側に根拠のない、証明不可能で倫理的な確信、これ預言的確実性のすべてなのである。(……)預言者は自分の「正しいこと・よいことのみに向けられた心」を担保に、その心情を絶対的な他者の査定に委ねるようにしてでなければ、民の前でどんな確信も語れなかった。神は敬虔な者を欺かれるはずがない」(49頁)。

このようにして敬虔を通じた預言的確実性の、「正しさ」の真理条件から解放されたかたちでの、言い換えれば語りというかたちでの成立のうちに、スピノザは、民衆と神のあいだの、語りを通じたふれあいによって可能になる語の真の意味での「民主国家」のあり様を、そしてそれを基礎づける「敬虔の文法」を見通すのである。それが『神学・政治論』の核心に他ならない。だからこそ上野の、本書における議論の核心ともいうべき次のような叙述が、『神学・政治論』の読解として極めて重要な意味を持ってくる。「〔ヘブライの神政国家が失われた後の〕わがオランダ共和国では、聖書がなんと言おうと、何が正義で何が不正義か、何が敬虔で何が不敬虔かを決定する権限はまっさらな形で共和国の最高権力にある。だから、いまさら宗教的権威を持ち出して市民政府の決定に不敬虔だとかなんとか文句をつけるのは統治権を奪おうとすることであり、まさに敬虔の文法によって「反逆的な意見」といわねばならない」(7172頁)。
絶対的な「正しさ」は何も宗教だけの占有物ではない。哲学も国家も「正しさ」の怪物(リヴァイアサン)として宗教以上に危険な存在というべきである。「正しさ」が決定不能であることの中で「固有性」を絶えず解体しながら、民衆の/への語りの水位において現れる「敬虔」、すなわち絶えざるリゾーム状の変化のうちにある決定不能な特異性へと依拠する「倫理」だけが、「正しさ」の怪物性に対抗出来るのかもしれない。本書を読みながらそんな思いにかられた。2006.9


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