三宅新三 著(青弓社)
2011年2月ひさしぶりにウィーンの国立歌劇場で「フィガロの結婚」を見ながら、モーツァルトのオペラに接するとき感じるからだ全体が律動感に満ちた陶酔へと誘われるような感覚はいったいどこからくるのだろうかと考えた。そこには覚醒と陶酔の両犠牲がつねに危うい形で隣合せになっているような気がする。おそらくそれは、モーツァルトというオペラに関する空前絶後の天才にのみ実現し得た奇跡的ともいうべき境地なのだろう。ただそうしたモーツァルトのオペラの境地の淵源をモーツァルト個人の天才にのみ帰着させるのは間違いである。「フィガロの結婚」や「ドン・ジョヴァンニ」を俟つまでもなく、モーツァルトのオペラには時代や社会との生々しいまでの対決の痕跡がいたるところで見出せるからだ。今そうしたモーツァルトのオペラの性格をモーツァルトのなかの政治的要素と考えるならば、モーツァルトのオペラは音楽的であると同時に強く政治的でもあるということになる。モーツァルトのオペラのポリティクス―、これはモーツァルトのオペラの世界を解読するうえで重要な視点となるのではないだろうか。そんな折三宅新三の新著『モーツァルトとオペラの政治学」(B6判・246頁・2000円・青弓社)が刊行された。さっそく読み始めたところモーツァルトのオペラに漠然と感じてきた政治的要素に様々な角度から光があてられており裨益されるところ大だった。本書でも引用されているスラヴォイ・ジジェクとムラデン・トラーのとびっきり挑発的な著書『オペラは二度死ぬ』(邦訳青土社)や、あの水林章の驚くべき名著『≪フィガロの結婚≫解読』(みすず書房)及び『ドン・ジュアンの埋葬』(山川出版社)などによって示されてきたモーツァルト・オペラの政治的解読の成果を受け継ぐ好著といってよいだろう(それにしても本書で水林の業績への言及がないのは理解に苦しむ)。
まずモーツァルトの数少ないオペラ・セリアの代表作といってよい「イドメネオ」である。ホメーロスが描いたトロイア戦争が題材となっているこのオペラは、例えばゲーテの「タウリスのイフィゲーニエ」(グルックがオペラ化している)などとともにギリシア古典をカノンとする古典主義的美学にのっとったオペラ・セリアの典型とみなすことも出来る。だが三宅はモーツァルトがザルツブルクを出奔する直前に書かれたこの作品のなかに早くもオペラ・セリアの規範的枠組みを打破しようとするモーツァルトの政治性を見ようとする。
ここで三宅が指摘しているのは、オペラ・セリアの規範と宮廷社会の規範の重なりが「イドメネオ」においてはふたつの方向から打ち破られようとしていることである。ひとつはオペラ・セリアにおいて通常あまり用いられる重唱(アンサンブル)が用いられていることである。このアンサンブルの多用はその後の「フィガロ」や「ドン・ジョヴァンニ」にも見出されるモーツァルトのオペラの重要な特性である。
アンサンブルの多用には音楽的なだけにとどまらない政治的意味が込められている。三宅はつぎのようにいっている。「モーツァルトのアンサンブルでは、登場人物それぞれが特殊性を持ち続けながら、全体的調和を維持する共同体が形成されている。それは、ひとりひとりの自立的な人間が同じ地平に対等に立つ近代市民社会の比喩であり、神と人間、君主と臣下のあいだに垂直的関係を築くオペラ・セリアには本来異質であるアンサンブルを、モーツァルトは『イドメネオ』のなかに積極的に導入している」(24頁)。近代市民社会の比喩としてのアンサンブルにはおそらく調和だけでなく矛盾や対立を含んだダイナミックな「交通=交換」の要素が含まれているはずである。交通=交換における異質なもの・対立するものどうしの異化結合もまたモーツァルトのアンサンブルの意味になるのではないだろうか。
さて二点目は今述べたことと深く関連するのだが「イドメネオ」における直截的な感情表現の問題である。三宅はそれを登場人物のひとりであるエレットラ(エレクトラ)に見出す。アッティカ悲劇の中心ともいうべきアイスキュロスの「オレステイア」三部作に登場するエレットラは父アガメムノーンを殺した母クリュタイムネストーラとその愛人アイギストゥスを弟オレステスとともに殺戮する苛烈極まりない女性だった。「イドメネオ」におけるエレットラの存在が示唆しているのは、モーツァルトにおける一見階調に満ちた古典的な形式美の深層に横たわるエロスとタナトスの不定形なエネルギーではないだろうか。それはおそらくブリジット・ブローフィらが指摘してきたモーツァルトにおける神話的な下意識の所在につながるであろう。
こうして三宅はモーツァルトの諸作品を、とくに登場人物の特性分析を中心にすえながら丹念に解読してゆく。「後宮からの逃走」では、市民的恋愛の規範としての「愛と結婚の一致」(56頁)が称揚される一方、トルコの太守セリムという「高貴な野蛮人」の人物像に同時代の啓蒙主義のなかから生まれたオリエンタリズムの様相が刻印される。ここでも社会的規範や身分秩序とエロス的原理としての愛と結婚の一致が真っ向からぶつかり合うのである。
さて最後はいうまでもなく「皇帝ティートの慈悲」と「魔笛(魔法の笛)」である。モーツァルト最後のセリアである「ティート」について論じた章に、三宅は文字通り「オペラ・セリアの終焉」というタイトルを付している。ドラマの大団円において王の慈悲が示され秩序が予定調和的に回復されるというセリアの常套的成り行きが、このオペラではむしろそうした秩序から自立し解放された諸個人(市民)のエロスによる解決に道をゆずのである。
ところで問題なのはこのザラストロの対角線上に位置するのが誰かということである。それこそが「魔笛」の真の主人公に他ならない。ちょうど「フィガロ」の真の主人公がケルビーノであるように。「魔笛」においてケルビーノの位置を占めるのはいうまでもなくパパゲーノである(『ユリイカ』「モーツァルト」特集号1991年の拙論参照)。パパゲーノはザラストロと夜の女王の対立、言い換えれば「理性」と「エロス」、「啓蒙」と「神話」、「男性」と「女性」などの対立項をすべて脱臼させ無効にさせるトリックスター、神話的始源児としてのモーツァルトの自画像そのものである。モーツァルトの風貌をケルビーノとパパゲーノから探り当てられないようなモーツァルト解釈はすべて無意味である。
本書における三宅の議論は、十分にそのことに気づいていながらモーツァルトの神話性を掘り下げられなかった憾みが残る気がする。とはいえ本書がモーツァルトのオペラのポリティクスを探ろうとする上で極めて有益な好著であることは間違いない。(2011.7)
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