思考のフロンティア 暴力 :上野成利









上野成利 著(岩波書店)





暴力の問題は私たちの世界に遍在している。現に今も、イスラエル軍によるパレスティナ・ガザ地区およびレバノン南部への苛烈な軍事攻撃というかたちで噴出した暴力現象に世界の耳目が集中している。
こうした暴力の現前を前にしておそらく誰もが――「正義」の暴力の行使は正当化されるとはなから信じ込んでいるブッシュやオルメルトのような唾棄すべき暴力亡者は除く――、なぜ人類は愚かしくも不毛な暴力の行使を繰り返すのか、なぜ幼児ですら明白に愚行であり悪であると分かるような暴力の行使を人類は止められないのか、と自問するであろう。だがたいていの人間は苦々しい諦念によってその問いを封印するか、「和平」「相互信頼」「寛容」といった決まりきったお題目にすがって自分を納得させることによって――暴力の当事者にはそうした要素が欠けているのだというわけである――、本来その自問のうちに潜んでいるはずの問題の核心を取り逃がしてしまう。本当に問われなければならないのは、愚かしかろうが、苦々しかろうが「人類は暴力の行使を決して止めようとしない」ことの意味なのだ。つまり私たちの世界に遍在する暴力とは、ありふれた日常のなかの個々人のレヴェルにおける暴力から国家が行う戦争行為に至るまで、人間の意志や心理の矯正、コントロールによっては克服することが出来ない制御不能な「暗部」のようなものであり、しかもこの「暗部」は人間がこの世界に個的にか、社会的にか存在することの根底へとまっすぐつながっているということを凝視しなければならないのだ。

 こうした暴力の意味は、20世紀という時代において異常なほど増幅された。かつて高橋哲哉と対談したとき、彼から20世紀に何らか政治的暴力(戦争、革命、民族虐殺、粛清など)の犠牲になって亡くなった死者の数が1億7千万人に上ると教えてもらったことがある。この数はおそらくそれ以前の人類史全体が同じ理由で生み出した死者の数の総計を上回るであろう。わずか100年の時間の中でこれだけの死者が生み出されたのが20世紀という時代の持つ核心的な意味であるとすれば、20世紀は何よりも「暴力の過剰充溢の時代」として性格づけられる。その頂点にナチズムやスターリン主義に象徴される全体主義の暴力があったことはいうまでもない。そしてこのことは、20世紀を生きた人間にとって暴力が、それと無縁であることを絶対的に許されない、言い換えれば誰に対しても等しく降りかかってくる運命となったことを意味している。言うまでもないことだが20世紀は一方において、科学技術の発展に象徴されるように人類の合理精神が最高度に発揮された時代であり、人権概念の拡張や福祉政策の進展に見られるように人間というものの価値が飛躍的に高まった「ヒューマニズム」の時代でもある。そんな20世紀がなぜ「暴力の過剰充溢の時代」となったのか、なりえたのか。この問いに何らかのかたちで応え得ない限り、20世紀という時代が突きつけた問題である「暴力の過剰充溢」から私たちが真の意味で解放されることはありえないであろう。
                    
 一般に暴力についての議論は恐ろしいほどにレヴェルが低いのが常である。だが20世紀という時代において異常なまでに拡張された暴力の意味について根源的に考え抜こうとした思想家が何人かいた。例えば「暴力批判論」を書いたヴァルター・ベンヤミンであり、『全体主義の起源』や『暴力について』を著したハンナ・アーレントであり、『暴力と聖なるもの』の著者であるルネ・ジラールらである。わが国ならば『暴力のオントロギー』の著者今村仁司を挙げることが出来る。だがこれらの暴力の意味についての解明作業の内容とも結びつきながら、もっとも核心的なかたちで20世紀の暴力の過剰充溢に対して考察を行ったのは何といってもマックス・ホルクハイマーとテオドーア・W・アドルノの共著『啓蒙の弁証法』である。なぜならこの著作によって私たちは初めて、先ほど言及した20世紀という時代の持つ二つの対蹠的な性格、すなわち暴力の過剰充溢の核心としての全体主義暴力の現出と、合理精神やヒューマニズムの発展という二つの現象によって示表される性格をトータルに包み込む暴力認識の原理的視点を得ることが出来たからである。一言で言えばそれは「理性暴力」――「理性暴力」ではない――という視点である。合理精神やヒューマニズムを支える近代人間理性の働きが、一見するとそれと対立するかに見える全体主義の「野蛮な」暴力と無縁であるどころか、むしろその起源としての、下支えとしての意味を持っているということを、この「理性の暴力」という視点は示している。20世紀における異常なまでの暴力の充溢は、17世紀とともに始まる近代合理主義(啓蒙)の時代とその歴史性の必然的な帰結であるというのが――もっともホルクハイマーとアドルノはその初源を古代ギリシアのホメーロスの時代にまで遡らせるのだが――「理性の暴力」という視点に込められた本質的な認識に他ならない。

 さてその『啓蒙の弁証法』の共著者の一人であるホルクハイマーの研究を出発点に、『ファシズムの想像力』(共著 人文書院)収録の論文、あるいはナチスによるユダヤ人虐殺という事実を「証言可能性」の観点から歴史の復元=表象の可能性(不可能性)のリミットにおいて問おうとした映画『ショアー』についてのショシャーナ・フェルマンの優れた論考『声の回帰』の翻訳(太田出版)、さらにはポール・ド・マンの極めて刺激的な問題作『美学イデオロギー』の翻訳(平凡社)の翻訳等を通じて着実に思考者・研究者としての地歩を固めてきた上野成利がこのたび岩波「思考のフロンティア」シリーズの一冊として『暴力』を刊行した(B6判・139頁・1300円・岩波書店)。20世紀における暴力の過剰充溢の根源へと分け入ろうとする意欲的な好著である。
                  
 「はじめに」のところで上野はまず暴力に「二重の相貌」があることを指摘する。一つは、「統御不可能で野放図な力」としての暴力のあり方である。そこに「無法」や「不当」という契機が結びつくことはいうまでもない。それはある意味で非理性的暴力といってよいだろう。上野はこうした暴力の相貌を「ヴァイオレンス」と呼ぶ。だが暴力はもう一つ別な相貌を有している。それは、「何らかの権限をもった主体が別な主体を支配・統御する」という意味での暴力である。この暴力には明らかに理性的なものが結びついている。上野はこの暴力の相貌を「ゲヴァルト」と呼ぶ。この暴力の相貌には「権力」、あるいは「秩序」「管理」といった契機が結びつく。こうした二つの暴力の相貌は明らかに対立・矛盾する関係にある。一方は制御不能なものであり、他方は制御・支配の媒体だからである。だが私たちの現実に帰属する暴力現象は明らかにこの矛盾する二つの契機の絡み合いの中においてしか現出しえないのだ。それは別な観点からいえば、私たちの現実の中でヴァイオレンスの要素とゲヴァルトの要素が不可分なかたちで、しかもときには二つのうちのどちらかが優位に立ちながらあたかも二つの顔を持つ「ヤヌス」のように現れるということである。そこに非理性(野蛮)と理性(文化・文明)の絡み合いが潜んでいることはいうまでもない。

 20世紀に目を向ければ、この二つの暴力の絡み合いが奇怪なまでに複雑な様相を呈しながら総体として暴力の過剰充溢をもたらしていることは明らかである。上野はまず20世紀の暴力の問題の核心ともいうべき「ホロコースト=ショアー」に言及しながら、そこに単なる野蛮として片付けるわけにはゆかないその「大量殺戮プロジェクト」としての性格、すなわちアイヒマンに象徴される「正常」な、というより限りなく「凡庸」な官吏タイプの人間のもつ「理性・分別」によって初めて可能となったその精緻で合理的な「プロジェクト」としての性格が現れていること、そしてそこにはすでにはっきりと理性と野蛮の本質的な共犯関係が見てとれることを指摘した上で、その淵源を19世紀において完成を見る「国民国家」に求める。そして国民国家はその本質的属性として閉じられた「領域性」を持つがゆえに、その領域性に囲い込まれている「国民」という名の主体に対して絶えず「強制的均質化」および「動員」という全体主義国家において全面開花する「ゲヴァルト」暴力をすでに強いていることを明らかにする(Ⅰ-第1章参照)。このことは視点をずらせば、国民国家の限定戦争と全体主義国家の絶対戦争の関係の問題にもなる。クラゼヴィッツの「戦争は別な手段による政治の継続である」という命題に示される限定ゲームとしての戦争のあり方、つまりゲヴァルト暴力の行使は、だがしかしそのゲームを成立させる限定された政治空間、すなわち国民国家間の対等な関係を保証する秩序空間を前提とする。それを上野はカール・シュミットを援用しながら「ヨーロッパ公法」の妥当領域としての「ヨーロッパ」と規定するのである。このことによって戦争が限定戦争というゲームになりうるとするならば、そこにはそれと表裏一体なかたちでゲームの規則の及ばない「非ヨーロッパ」という絶対的な暴力行使の許される領域が存在するはずである。この領域にはもちろん帝国列強によって植民地支配の対象となった空間的意味での非ヨーロッパが含まれるが、じつはそれだけではない。ゲームを成立させる規則を共有できないという判断をもたらす差別・排除の機制そのもののうちに「ヨーロッパ/非ヨーロッパ」という二分法の起源があるのであり、そこではむしろ「不気味さ・不快さ」への排除・攻撃衝動といった機制――これが反ユダヤ主義の起源であることはいうまでもない――が働いているというべきである。想いおこしてみよう。理性のいちばん大きな機能は理性の内と外を分けること、理性と非理性の分割である。この分割にこそ二分法の起源があり、そのことが限定された暴力のゲームとしての国民国家の限定戦争の外側で絶対的な暴力が乱舞するヴァイオレンスの空間が現出するのである。とするならば限定戦争の起源そのものうちに絶対戦争というかたちでの暴力の過剰充溢が宿されていると考えることが出来るのではないだろうか。そしてそれこそが理性と暴力の本質的な共犯関係の証左といえるだろう(Ⅰ-第23章参照)。
                    
本書の本領は理論的な面からいえばむしろⅡの諸章、すなわちベンヤミン、アーレント、デリダ、そして『啓蒙の弁証法』について論じた部分にあるといえるが、残念ながらそろそろ紙数が尽きようとしている。本書はある意味で反時代的な本である。これでもかといわんばかりに重い課題を次から次へと、しかも相当に抽象度の高い文体を通して繰り出される。たぶんチャート式の暴力論入門を期待する向きには失望感を与えるだろう。だがそれでよいのだ。暴力の問題は私たちがこの世界に生きている意味への問いと同じくらい重く根源的な課題であり、かつ極めて難しい課題なのだから。読者にはぜひ暴力問題の困難さとその根源的な意味を著者である上野とともに共有していただきたいと切に思う。
(2006.8)

知識人の時代 :ミシェル・ヴィノック著


   著:ミシェル・ヴィノック 訳:塚原史・立花英裕・築山和也・久保昭博(紀伊国屋書店)


[知識人」という言葉が死語に等しくなって久しい。とくに日本においてはそうである。知識人がもし自分の思考力や良心にもとづいてペンの力だけによって社会に向かって公的な発言を行い、それが一定の影響力を持ちうるような存在であるとすれば、今の日本にはほとんど知識人と呼びうるような人間は存在しない。今に日本に存在するのは、省庁や企業などの周辺で様々な審議会や研究会、シンクタンクなどに身を寄せながら、政策形成・推進、利潤追求に都合のいい情報や提言をとりまとめることを生業とするような「実用型知識人」(本書の言葉)か、テレヴィや新聞・雑誌などの頻繁に登場してほとんど専門的知識も本格的な思索も必要ない「コメント」と称する蕪雑な言葉を語ることだけを任務とする「メディア知識人」(同前)だけであるといってよい。こんなものが知識人の名に値しないことは言うまでもないだろう。

 日本の場合もともと言論を通して形成される市民的な公共圏が極めて微弱であったことが知識人の存在し難さの大きな要因として挙げられるが、同時にそこにはいくつか日本だけにとどまらないより普遍的な時代や社会の変移、推移があることも事実である。まず第一に挙げられるのは社会の複雑化である。高度に複雑化し分節化された現代の社会のあり方の中では、一個人が自分だけの力で社会全体の動きを俯瞰しながらそれについて普遍的な伝達力を持ちうる言説を語ることは極めて困難になっている。第二には社会と個人をつなぐ媒介項としての世論や論壇、メディアの構造の大きな変化である。とくにテレヴィに代表されるメディアの力の普及は、一部の特権的な知識人階層による大衆の啓蒙やリードという構図を突き崩し、極めて均質化された薄っぺらな情報言語や感覚・印象言語の流通を爆発的に増大させた。このことが知識人の存在を不要化したのである。第三には社会主義理論に代表される対抗・批判言説の解体という事態である。グローバリゼーションに象徴される単一化された均一な原理――例えば世界市場原理――の支配する冷戦崩壊後の世界においては、エスタブリッシュされた支配体制に対する異議申し立てや対抗はほとんど不可能に近くなっている。そのことが本来の意味での知識人の役割を無用化しつつあるのである。

 他にも要因は挙げられるであろうが、現在の状況が知識人の存在し難くなっている理由に事欠かないことだけははっきり確認することが出来る。それにしても私たちはこうした状況に手をこまねいている他ないのだろうか。「学問の有効性」という名目の下、政官財の世界との癒着を深めることを自身の手柄だと思っているような大学教員の連中や、毎日テレヴィや新聞などに登場しては訳知り顔に、専門的裏づけも、よく練られた思索の跡もまったく感じられない床屋政談・井戸端談義以下の放談を繰り返す「評論家」連中のかもし出すおぞましいまでの不快さに黙って耐えるしかないのだろうか。デリダやサイード、今村仁司の死後、世界について根源的かつ普遍的に、批判的スタンスに立ちながら語りうる知識人は死滅してしまったのだろうか。
 このとき想い起こされるのはフーコーの知識人終焉論である。よく知られているようにフーコーは、サルトルに代表されるすべての問題について神のごとき判定を下す「大知識人(=普遍的知識人)」の時代は終わり、これからは特定の専門知識や技能を通して社会に貢献する「エンジニア型の知識人」だけが必要とされるようになると言った。フーコーはその時点ではっきりと伝統的な知識人の時代の終わりを告知していたのである。もっともフーコー自身は彼の言葉に反してむしろ最後の大知識人を演じたのであるが。それにしてもこうした状況についてどう考えればよいのか。
                    
 そうした折り、フランスの社会・政治思想史家であるミシェル・ヴィノックの著作の翻訳が刊行された(A5判・834頁・6600円・紀伊国屋書店)。800頁を超える大著であるが訳文はよく練られており、題材の面白さもあって一気に読めてしまう。
 本書が扱っているのは、1894年に起きたドレフュス事件から1980年のサルトルの死にいたる時代の流れの中でのフランス知識人たちの生態と彼らが演じた多様なドラマである。それは文字通り多彩な万華鏡ともいうべき世界である。多数登場する知識人たちの個々の事跡、相互の関係、人脈や党派の実態が筆者であるヴィノックの歴史家としての驚くべき手腕でもって鮮やかに腑分けされ位置づけられていく様は壮観といってよい。私は本書によってこれまで知らなかった、あるいはあいまいなままだったフランス知識人をめぐる様々な事情や歴史について多くのことを教えられた。そしてそれを通してあらためて知識人とは何か、その役割とは何かについて考えるべき課題を指し示されたのである。

 そもそも知識人という言葉が一定の社会的意味を持つようになったのは本書の議論の発端となっているドレフュス事件であった。ユダヤ系のフランス陸軍軍人であったドレフュスにかけられた対ドイツ内通という嫌疑、その嫌疑にもとづくドレフュスの軍籍剥奪と反逆者としての断罪という事態から始まったこの事件は、二つの点で知識人の登場を促したのだった。一つは多くの学者や文学者を中心とする知識層がこの事件がきっかけとなって政治的・社会的な次元へといわば象牙の塔から出て介入することから、知識人と呼ばれる新たな階層が生まれたということである。逆に言えば、知識人とは自らの専門領域に閉じこもることなく公的次元における言説を発する知識階層の人間を指す概念として定義されるということである。第二には、この事件に際に二つの対蹠的な立場が明確に形成され、以後知識人のあり方をめぐって――とくにフランスにおいて――つねにこの二つの立場のあいだで対立・相克が繰り返されてきたということである。その二つの立場とは、ドレフュス事件の際にモーリス・バレスとエミール・ゾラにそれぞれ示されたものであった。すなわちフランス国家の正統性とその統合基盤をつねに最優先させる国家主義の立場と、フランス革命によって達成された自由・平等・友愛にもとづく人権原理をつねに優先させようとする個人主義の立場である。この二つの立場のあいだの対立は、共同体帰属型の情緒的・扇動的な言説のパターンと共同体離脱型の知的・論理的な言説のパターンのあいだの対立へと置き換えることも出来るだろう。バレスや、後に右翼王党派の機関紙として名をはせる『アクション・フランスセーズ』の中心であり第二次世界大戦後対ドイツ協力の廉で終身刑を言い渡されたシャルル・モーラスなどが前者の代表だとすれば、ゾラや1930年代に痛烈な知識人批判の書『知識人の裏切り』を著したジュリアン・バンダなどは後者の代表格といえる。ただし本書が伝えている重要な点と思われるのは、その二つの立場が各々の知識人の中で必ずしも固定的ではなく、ときには立場の移行や分類不能な「第三の道」の選択が登場するということである。バレス自身、出発的においてむしろ極めて個人主義的であった。そのバレスを国家主義を代表する知識人へと押し上げていったのがドレフュス事件に他ならなかった。『アクション・フランセーズ』に近いカソリック系の文学者ジョルジュ・ベルナノスが、共和派とフランコ派の内戦下にあったスペインにおいて当初はカソリック王党派と通ずるフランコ派を支持していながら、フランコ派による民衆虐殺の実態を見て立場を転換し、フランコ派やそれと通じるカソリック教会を激しく糾弾する書『月下の大墓地』によって反ファシズムに転じてゆくのもそうした例の一つといえるだろう。

 うかつな話しだが私は19世紀末から第二次世界大戦期にいたるフランスにおいてこのように激しい知識人の闘いが繰り広げられていたことをきちんとした形で認識してこなかったので、正直なところ本書の内容には驚きを禁じえなかった。それを踏まえてフランス知識人たちの群像から感じたことを記しておこう。一つは、どのような立場であれ彼らが自分自身に対し基本的に強い自負と責任を感じているということである。本書は全体を三部に分け、第一部が「バレスの時代」、第二部が「ジッドの時代」、第三部が「サルトルの時代」と銘打たれているが、1930年代から戦中期という困難な時代にあってときに逡巡や怯堕を示しながらも、基本的に支配層への協力を拒否し続けたジッドの態度には、そうしたフランス知識人のある種の強靭さを強く感じる。それはまた同時に、「仲良しクラブ」で群れたがる日本人とは異なり、意見の相違によってじつにあっさりとそれまでの人間関係を絶ってしまう彼らの「強さ」とも関係しているように思われる。第二に感じるのは、やや逆説的な言い方になるが、フランス革命によってもたらされた近代化とフランスの共同体意識のあいだの深刻な相克関係である、別な言い方をすれば、フランス革命は本質的な意味ではこの共同体意識を変え得なかったのではないかということである。その核心にあるのはフランス固有な信仰体系としてのカソリックの影響力の根深さである。そのことから派生する世俗権力と教会権力の、世俗知識人と教会聖職者およびそれにつらなる宗教系の知識人のあいだの激しい闘いが、フランス知識人の歴史の重要な要素であることをあらためて本書を通して確認することが出来た。

 本書でもっとも興味深いのは、第一部におけるバレスを軸としたシャルル・ペギーやアナトール・フランス、ジュール・ルメートルらの人物群像の活写と、第二部の次第にファシズムへと傾斜してゆく時代の危機のなかでも知識人たちの足掻きにも似た模索の描写であろう。前者では期せずして先ほど述べた近代化の底に埋もれたフランス社会の深層があぶり出され、フランス社会自身の中にナチズムへと向かいかねない因子が埋め込まれていたことが明らかになる。とはいえそれを押しとどめた要因もまたフランス社会の中に存在したのだが。A・フランスの存在はそれを示唆している。また後者では平和主義に立つ知識人たちの決定的な無力が後知恵とはいえその後の歴史状況とのからみで深く考えさせられる。先月書評したアーレントの『責任と判断』の中にも戦間期の「著名な知識人」たちの無力が描かれていたが、この問題は現在の私たちにも、例えばイラク戦争の問題などにおいて重くのしかかってくるのである。第三部の記述にやや図式主義的な単純化が見られた――それは左翼に対する辛辣な視点に由来する――のは残念である。ともあれフランス知識人の歴史を知ろうとするのにこの百科全書的な内容を持つ著作ほど好適なものはないだろう。同時にそうした知識人の時代の終焉も本書は告知している。その先は私たち自身の問題というべきかもしれない。(2007.7)


リヒャルト・ワーグナーの妻 コジマの日記1 : コジマ・ワーグナー著


コジマ・ワーグナー 著
三光長冶・池上純一・池上弘子 訳
(東海大学出版会)


 
待望の翻訳である。1976年、リヒャルト・ワーグナー(注記:私はふだん「ヴァーグナー」と表記するが、本書の表記を尊重し今回に限り「ワーグナー」と表記する)がバイロイトに祝祭劇場を建立してから100周年にあたる年に、多くの記念行事や企画が挙行されたが、その柱の一つが本書の原本となった『コジマの日記』の、1930年に彼女が亡くなって以来46年ぶりとなる刊行だった(ドイツ・ピーパー社刊)。そして刊行されるやいなや『日記』は、ワーグナーを研究するにあたって最高最大の一等資料としての地位と評価をたちまち獲得したのであった。このたび原書の刊行以来待ち望まれていた翻訳が、『ワーグナー著作集』(第三文明社)や『ニーベルングの指環』他のワーグナー作品の翻訳刊行(白水社)の中心となり、さらに『エルザの夢』(法政大学出版局)などの自身のワーグナーに関する著作も公刊している日本のワーグナー研究の第一人者三光長治、そして今挙げたワーグナーの翻訳と研究に三光とともに長く関わってきた池上純一、その妻である池上弘子という最良の訳者を得て刊行の運びにいたったことはまことに慶賀の念にたえない(B6判・639頁・6800円・東海大学出版会)。今回刊行された第一巻は600頁を越える大冊だが、驚くことにそれでも日記が書き始められた18691月から1870年の4月までの分のみであり、1883年のワーグナーの死去まで続く日記全体の10分の一に過ぎない。今後10巻編成で刊行が続けられるということだが、ぜひ最後までつつがなく刊行されることを切に祈念したい。



 コジマは、ピアニストであり作曲家でもあったフランツ・リストとマリー・ダグー伯爵夫人とのあいだに生まれた。父母の不倫関係の結果として生まれた彼女は、家庭にも両親の愛情にも恵まれなかったために、神経質でメランコリックな資質を持った難しい性格の人間となっていったが、反面父の音楽家としての才能と、文筆家としての母の才能を継承した芸術的天分と稀にみる鋭敏な知性に富んだ女性でもあった。彼女は、ワーグナーの『トリスタン』の初演を手がけ、後にベルリン・フィルの初代常任指揮者となる「近代指揮法の父」といわれたハンス・フォン・ビューローの妻となるが、いわば夫の師であったワーグナーとの運命的な出会いを通して、子どもも夫も捨てる形でワーグナーのもとに走ったのだった。1870年ビューローとの離婚を経て正式にワーグナーの妻となったコジマは、一貫してワーグナーの最良の伴侶として夫の活動を献身的に支え、とりわけ1876年の第一回バイロイト祝祭以降、ワーグナーの死の後も続くことになったこの祝祭事業を中心となって遂行していったのである。ワーグナーの作品はたしかにワーグナー自身のものだが、その作品のほとんどすべてが現在でも世界のオペラハウスの主要レパートリーとなっており、バイロイトの丘にそびえたつ祝祭劇場では現在も毎年多くの聴衆を得て祝祭が挙行され、そこで行われる上演に関して多くの議論がなされるという「ワーグナー現象」ともいうべき稀有な状況が存在することに、ワーグナー以上に寄与したのがコジマだった。「ワーグナー」とはワーグナーとコジマの共同作品であるとさえいえるであろう。もちろんそこには影の部分もある。極め付きの保守主義者であった「女帝」コジマの君臨するバイロイトは、政治的・イデオロギー的意味におけるワーグナー聖化の拠点でもあった。後のナチズムに道を開く反ユダヤ主義の宣伝紙『バイロイター・ブレッター』の刊行、ゴビノーやチェンバレンからヒトラーにいたる人種主義者やファシストとバイロイトとの親密なつながりなどはコジマ自身が敷いたバイロイトの路線の産物に他ならなかった。演出家のアドルフ・アッピアらの革新的なアイデアを封じ、コジマの作り出したワーグナー像を墨守し続けたバイロイトは、いつしかプレファシズム的なドイツ・ナショナリズムの聖地となっていったのである。そして熱狂的なワグネリアンだったヒトラーはワーグナーとコジマの子ジークフリートの妻ヴィニフレート――コジマとジークフリートの死後バイロイトの総帥となった――と親しくなり、バイロイトのワーグナー家の館ヴァーンフリートに個人的賓客として迎えられて家族同様の扱いを受けることになる。夏の祝祭時のバイロイトはヒトラーが長期滞在していたのでナチス・ドイツの臨時首都の観さえ呈したのである。戦後西ドイツの初代大統領に就任したテオドーア・ホイスは絶対にバイロイトには足を踏み入れないと誓言したが、ナチズムのおぞましい惨禍に対して重大な共犯責任を負うこのようなバイロイトを作ったのがコジマであったことはぜひ記憶されておかれるべきである。

                      

さて『日記』だが、1869年の1月から始められた。コジマはミュンヘンのビューローの家を出て、4人いた子どものうち2人だけを連れてスイスのルツェルン近郊のフィーアヴァルトシュテッター湖に面するトリープシェンのワーグナーの家にきていた。この時期ワーグナーは、バイエルン王ルートヴィヒ二世の庇護と援助を得て、いよいよ畢生の大作『ニーベルングの指環』四部作の完成とそれを理想的な形で上演する祝祭劇場建設の事業に向かおうとしていた。そのさなかに起こったこの「スキャンダル」が世間に知られれば、それでなくとも莫大な出費に疑惑の目を向けていた王室内の批判派を勢いづかせるとともに、王自身の信頼も失いかねず、ワーグナーとコジマは運命のなりゆきとはいえ極めて苦しい状況にあった。形式上はまだビューローの妻であるコジマはトリープシェンの家をほとんど出ることが出来ず、世間の目を逃れるように蟄居していたのである。

 そうしたコジマの苦悩の表現が日記の主調音となっているといってよい。「不安のために動揺する心は、思わず知らずのうちにあたりの不動の自然に救いと助けを求める。自然は身じろぎもせずにおし黙っているが、そのとき胸の奥底に響きわたる声を聞く。「自分の心や運命と折り合いをつけるがよい。心を制御し、運命を耐え忍ぶことだ。結局のところおまえの身にふりかかってくることは、おまえの耐えられる範囲を超えることはないのだから」。それで心のやすらぎを得て家の中に入った」(本書31頁)。



 こうした記述から見えてくるこの日記の基調的な性格としてさらに二つのことが挙げられると思われる。一つはコジマの性格である。冒頭の三光による「序に代えて」にあるように、コジマは「犠牲による献身」という意識に貫かれていた女性であった。こう書くとワーグナーを知る読者はただちに、それはワーグナーの作品の基本イデーではないかと思うであろう。たしかにワーグナーの作品には、『オランダ人』のゼンタ、『タンホイザー』のエリーザベト、『指環』のブリュンヒルデ、『パルジファル』のクンドリなど「犠牲による献身」のモティーフに貫かれたヒロインが多く登場する。だが日記を読む限りではコジマのうちにあるこのモティーフはワーグナーの影響ではなく、コジマ自身の資質であったようだ。それはビューローとの結婚においても発揮されていたからである。「ワーグナーの逆境を見かねて、救いようのない彼を救おうとして彼のもとへ走ったコジマを突き動かしていたのは――ビューローの場合と同じく――彼女の「内なるゼンタ」だったのである」(三光「序に代えて」ⅹ頁)。



 そしてそのことは第二の、この日記全体の最も重要な性格につながってゆく。すなわちあえて夫を裏切った不倫の妻という立場を引き受けてでもワーグナーに尽くし、ワーグナーとともに、彼が夢見る芸術の王国の建設に邁進しようとするコジマにとって、この日記は、そして日記が書かれた場としてのトリープシェンはまさに二人だけの内面の城であり寄り添う二つの魂の通い合う、何人の容喙も許さない神聖な精神の殿堂であったということである。これも三光が指摘していることだが、19世紀の日記文学は、近代とともに生み出された人間=主体の新たな生成場としての「内面」の表現媒体に他ならなかった。もちろんそれはおあつらえ向きに自足し調和する安定した世界ではない。むしろ近代性が強いる自我と世界の相剋や分裂が生々しく現れる場というべきである。だからこそ「内面」は同時に、そうした相剋や分裂に抗して自己が自己であることを保守する最後の砦として重要な意味を持ったのだった。コジマの日記にも明らかにそうした性格を看てとることが出来る。

 

そうした基本性格を踏まえて日記を読み進めてゆくと、じつに興味深いエピソードや事実にいたるところで遭遇する。さきほどバイロイトの影の部分に触れたが、そのもっとも重要な要素である反ユダヤ主義の問題の起源は、ワーグナーが1850年に執筆した「音楽におけるユダヤ性」という論文であった。日記の中でこの論文の再刊がしきりに話題となっている。そしてこの論文をめぐって引き起こされたワーグナーをめぐる毀誉褒貶がコジマによって逐一報告されているのである。今回日記を読んで、当時のドイツにおける反ユダヤ主義の風潮の高まり――ただしそれと反資本主義的な気分や親社会主義的な傾向が結びついていたことは、オイゲン・デューリングなどの場合を含め留意しておく必要があろう――はもちろんだが、ユダヤ社会からのそれへの批判、あるいはG・ヘルヴェークのような親しい友人との離反などの影響ももたらしていたことを初めて知った。当時のドイツ語圏社会がこの問題で一枚岩ではなかったことの証明として興味深かった。またカソリックとプロテスタントの問題がコジマの離婚問題とからんでしきり話題にされているのも面白い。ワーグナーが根っからのプロテスタントでカソリックに対して批判的であるのに対し、フランス生まれのコジマが暗にワーグナーのカソリックへの改宗を望んでいたことはワーグナーの晩年の作品、とくに『パルジファル』の主題をどう理解するかに関わってくるように思える。微笑を禁じえないのは、若干25歳でバーゼル大学文献学教授となったニーチェをめぐる記述である。孤立し批判にさらされていたワーグナーとコジマにとってニーチェの登場がいかに心強い援軍となったのかがそこから読み取れることはもちろんだが、親子ほど年の違うワーグナーたちが若いニーチェを、あれこれの買い物や印刷所との交渉などでこきつかっている様は、ワーグナーたちのいい気さ加減とともにニーチェの無類の人のよさを思わせ思わず笑ってしまう。ただ後年の離反を思うとき、そしてそれでもニーチェがトリープシェンの時代をしきりに懐かしがっているのを思い返すとき、その笑いにはある種の悲哀感が混じってくるのであるが。(2007.3)

応答する力 来るべき言葉たちへ : 鵜飼 哲 著






鵜飼 哲 著(青土社)




3月19日から学生たちとポーランドのアウシュヴィッツへ行くことになったためこの原稿も出発前の慌しさのなかでまとめなければならない羽目になった。明日の出発を控えて今まさに悪戦苦闘中である。
それはさておきアウシュヴィッツ、現在のポーランド語名では「オシュフェンチウム」と呼ばれているこの地にかつてナチス・ドイツがユダヤ人の集団殺戮を組織的に行うための「絶滅収容所(フェアニヒトゥングスラーガー)」を作ったことは周知のとおりである。ある記録によれば、第二次大戦前ヨーロッパには約900万人のユダヤ人が生活していたが、ナチス・ドイツはそのうちの600万人を殺戮した。そしてさらにそのうちの約150万人がこのアウシュヴィッツ絶滅収容所で殺されたのである。この数字が語っているものを正確に表現することは難しいが、一人ひとり何らかのかたちで自らの感情や意識を、家族・友人関係を、過去の記憶と未来への希望を持っていたであろう600万人の、アウシュヴィッツに限っていえば150万人の人間がまるで物か虫けらのように無機的なかたちで「処理」――ナチスは公式文書のなかで一貫して「殺害」という言葉を使わずこの「処理(マスナーメ)」という言葉を使っていた――されたという事実の途方もない重さにはたじろがざるをえない。それとともにこれをやってのけたナチス・ドイツの「悪」の凄まじさと徹底性にもまた慄きを感じざるをえない。「アウシュヴィッツ以後詩を書くことは野蛮である」といったのはTh.W.アドルノだが、20世紀の中庸に生じたこのアウシュヴィッツという「出来事」は、人類史を決定的なかたちで「アウシュヴィッツ以前」と「アウシュヴィッツ以後」に分けてしまったといってよいだろう。私たちはまさにアウシュヴィッツ以後の世界の中で生き考えねばならないのだ。

 こうしたアウシュヴィッツの歴史的意味を私にはっきりと教えてくれたのはクロード・ランズマン監督の製作した映画『ショアー』であった。9時間にも及ぶこの大作のなかでランズマンは生き残った収容所体験者やナチスの元看守の証言によりながら、最大の当事者が死者そのものであったがゆえにほとんど表象=証言不能な、あるいは伝達不能とさえいえるこのアウシュヴィッツ、すなわちユダヤ民族の虐殺という「出来事」を再現し、その意味を復元すべく執拗に映像をつむぎ続けるのである。ところで、いろいろな事情から長い間日本で上映される機会のなかったこの映画が、有志によって組織された上映実行委員会の熱意あふるる活動のおかげで上映にまでこぎつけたのは1995年、戦後50周年の年であった。私もささやかではあったが上映運動の一端にかかわり、私の勤務する早稲田大学で上映会を催すことが出来た。ランズマン自身が早稲田大学に来て学生たちとの討論に応じてくれたのも懐かしい思い出である。そしてこのとき上映実行委員会の中心的な存在として私たちの早稲田大学での上映会も含め全国での上映運動を支えていたのが、今回取り上げる『応答する力』(A5判・361頁・2600円・青土社)の著者、鵜飼哲である。上映会の前後打ち合わせのため鵜飼と何度か会い話を交わしたが、硬質で透明な知性に裏打ちされた明晰な問題意識、謙虚さの中に秘められた強靭な意志と実行力、オルガナイザーとしての高度な実務能力などその人となりには強い印象を禁じえなかった。わけてもその折に鵜飼が語ったフィヒテ哲学と日本における明治・大正以降の文部省に主導されたフィヒテ受容のあり方の問題、とりわけ代表的なフィヒテ主義者南原繁と戦後日本国家構想の関わりという問題をめぐる議論――これらの議論の一端はフィヒテとルナンの「国民(ネーション)」をめぐるテクストを収めた『国民とは何か』(河出書房新社)のなかの鵜飼の解説「国民人間主義のリミット」で知ることが出来る――は大きな触発となり、そこから芽生えたモティーフが結局昨年公刊した拙著『戦争と暴力の系譜学』(実践社)へと結実したのであった。このような鵜飼の新著である。大きな期待を持って読み始めたのは当然の仕儀であった。

                   
率直に言って大変難解な本である。その難解さは、鵜飼が89年の東欧社会主義崩壊、あるいは91年の湾岸戦争――その延長線上に「9・11」の事態とその後のアフガン・イラク戦争があることはいうまでもない――、また金白順さんの告白後日本の戦争および戦後責任について根底から問い直される契機となった従軍慰安婦問題といった現実の様々な問題や課題と向き合いながら、一方でそれを単純な時務情勢論の枠組みに委ねるのではなく、周到なテクスト読解戦略に裏打ちされた歴史=論理的な――これはもちろんヘーゲル的な意味で理解されてはならない――視座から文字通りラディカルに捉え返そうとしていることによると思われる。もう少し具体的にいえば鵜飼はここで、カント、ニーチェ、ハイデガー、レヴィナス、ドゥルーズ、デリダといったモダンの時代と社会にラディカルに切り込んでいった思想家たちのテクスト・言説を、いかなる概説的な切り縮めも行わずに、そこにひそむ問題の最深奥にまで一気に沈潜しながら読み直し、その成果を私たちの直面する状況に対するこれまた一切の図式化・既知化なき認識、ということはある種の決定不能性や不可知性に陥る危険をあえて冒すということなのだが、そうした決定不能な状況に身を委ねることによってしか見えなくなっている問題の次元や領域を抉り出そうとしているといえるのではないかと思う。そうした鵜飼の構えからは、最近の通俗的な世界情勢論に見られるような「わかりやすさ」――じつは「わかりやすさ」を口実とする思考停止――など生まれるはずがない。

そうした点を踏まえて私が本書の中でまず関心をそそられたのは第一部「「ヨーロッパ」の脱構築」のなかの諸論文、とりわけ「ニーチェ明日?」であった。とりわけ難解を極めるこの論文の論旨・主題を短くまとめるのは容易なことではないが、少なくともここで鵜飼が20世紀のニーチェ解釈史の転回点となった1964年のロワヨモン・ニーチェコロック――ここではドゥルーズが『ニーチェと哲学』の原型となる報告を行い、フーコーが「ニーチェ・フロイト・マルクス」という報告を行っている――、そして本論文の糸口となっている1972年の「ニーチェ今日?」というコロックの後に現れたニーチェ読解(レクチュール)新たな水準に定位しながらニーチェ問題を扱おうとしていること、そしてその際に鵜飼が見出したのが、そうした20世紀ニーチェ解釈史の転回を促すもっとも巨大な一撃となったハイデガーの『ニーチェ』において、ニーチェのアナクシマンドロスのテクスト解釈をめぐるかたちで提起された「正義」の問題であったことは、少なくとも確認できるであろう。ただすでに述べたこととも関連するが、鵜飼が問題として見出したものは決して書誌学や解釈学の範囲に留まるものではない。一言で言うならば鵜飼は、正義というものが一義的な同一性、あるいは同一化の機制から解放されたモデルのなかで再思考されねばならないといっているのだと私は思う――これはデリダの『法の力』の主題と重なる――。アナクシマンドロスにおいて正義を表す言葉「ディケー」と不義を表す言葉「アディキア」の対蹠性をめぐるニーチェの解釈への批判に基づいて、ハイデガーは、「復讐の精神」から解放された正義のあり様を「真理としての正義」と規定し、そのことを捉え切れなかったニーチェがヨーロッパ哲学最後の形而上学者と断じるのであるが、はたしてこれは正当な判断といえるのだろうか。鵜飼は次のようにいう。「『ニーチェ』でハイデッガー(ママ)は、ニーチェの形而上学の基本語のうち、「力への意志」よりも「正義」を優位に置く可能性を検討している。ハイデッガーのニーチェ講義がナチスによる「生物学的」解釈からニーチェを救済する可能性の探求でもあり、彼はニーチェの根本思想が「力への意志」である限りナチス的解釈も許容されうると考えていたことを考慮するなら、この作業にはきわめて大きな政治的意味が付与されていたことになる。そしてハイデッガーは、ニーチェが「正義」をなお同化、一致、適応としての真理から理解していたかぎりで、「正義」を「力への意志」より優位に置くことは不可能だったという結論に達したわけである」(28頁)。鵜飼はハイデガーの「正義」をめぐる視角について今引用した箇所の前でさらに次のようにいっている。「〔デリダは〕ハイデッガーの「正義」が、「非=整合」の耐え抜きを通してであれ結局のところ調和へ一者の結集へ、最終的には現前性へともたらされることを指摘する」(27頁)。

このデリダの視点を踏まえればニーチェを最後の形而上学者と批判したハイデガー自身がやはり同一性と現前性の論理に深く縛られていたということになる。そのデリダの問題をめぐって後半の議論が「友愛」を主題としながら展開される。そこでの問題の焦点を表す引用句がある。「このような「行為遂行性と事実確認性の、固有の身体なしの、共同的かつ同時的接ぎ木による生殖」をデリダは<テレイオポエティック>と呼ぶ」(33頁)。この「テレイオポエティック」のうちに鵜飼は、「近さ」と「遠さ」のパラドクシカルな関係をはらむ「自己への、友への、そして敵への友愛」(同)の契機が予め含まれているとするのである。

このことはこのニーチェ論に続く「美しい危険たち レヴィナス、デリダ、日本国憲法」という論文――もともとは鵜飼がフランスのコロックで行った講演がもとになっている――におけるレヴィナスの思想をめぐる次のような指摘に明らかに対応している。「レヴィナスにとっての接近、いわく「接近することをやめることなき接近」とは、じつは「<無限>の無限化」に他なりません。そのおかげで「応答すればするほど、私はより大きな責任を負う」、あるいは「隣人に対して責任を負いつつ、隣人に近づけば近づくほど、私は隣人から遠ざかる」のです」(50~51頁)。こうした問題の立て方の背景にあるのは、例えばこの論文の冒頭にある「安全」概念と「平和」概念の弁別というすぐれて実践的な課題への鵜飼の鋭敏な反応なのではないだろうか。鵜飼によれば、「安全」とは、「あらゆる可能な危険を否定し、排除し、ひいては破壊する」ことであるのに対し、「平和とは、不確定であるからこそ、いくつかの特定の危険なかで、というか、それと共同に生きることを、危険といっしょに生きることを知っている、ということ」(47頁)なのである。このことはさらに本書全体の序論「愚かさの寓話」のなかにある「愚かさ」の問題に帰着する。そこで鵜飼はブッシュに象徴されるような世界を明快に裁断する「賢人」たちの「愚かさ」に、思考が個体化するとともに分離してきた「無限低で未分化な奥底」(9頁)に引きずられるもう一つの「愚かさ」を対置する。この「愚かさ」はまさにデリダの言葉を借りれば「テレイオポエティックなもの」なのではないか。こうした「愚」の捉え方には同じ箇所で引かれている魯迅が色濃く影を落としている気がするが、本書の後半には竹内好の『魯迅』についての論考も収録されている。そこで鵜飼は、竹内の「彼〔魯迅〕の文章をよむときまって影のようなものにぶつかる」という言葉を引いた上で次のように言っている。「この「影」は(…)、あらゆる存在、あらゆる光がそこから生じてそこに消えてゆく暗黒であり深遠である」(287頁)。この「影」がもたらす決定不能性の境位――それはけっして相対主義につながるものでもないし逃避でもない。むしろ声高に白黒、善悪を断定する怠惰な決定論者たちへの果敢な抵抗、批判の拠り所と見るべきである。本書で鵜飼はまさにそうした営為の場を紡いでいるのだと思う。(2004.4)

正戦と内戦 カール・シュミットの国際秩序思想 : 大竹弘二著






大竹弘二著(以文社)




私はこれまでカール・シュミットのよい読者ではなかった。ずいぶん昔に橋川文三の訳した『政治的ロマン主義』(未来社)を読んだことがあるが、そこから特別な刺激を受けた記憶は残念ながらない。ただ私が長年自分の中心的な課題として追ってきたW・ベンヤミンの『暴力批判論』、あるいは『ドイツ悲劇の根源』にはシュミットの影響が見られること、とくに日常的な法秩序に停止状をもたらす「例外状態」をめぐるシュミットの議論とベンヤミンの「神的暴力」のあいだには深いつながりが存在することは、ベンヤミンが『暴力批判論』において抉り出そうとして革命の根源的な意味や、今までの法状態を一挙に破壊する憲法制定権力の行使の意味などの問題との関連も含めて気にはなっていた。とはいいながらナチスに自ら協力し、戦後、起訴されなかったとはいえニュルンベルク裁判の被疑者として取調べも受けたシュミットの著作を到底素直な気持ちで読む気にはならなかった。それは、わが国において昭和超国家主義と戦争遂行に加担した芳賀壇、平泉澄、紀平正美、高坂正顕などの著作をどうしても読む気になれなかったのと同じだった。気にはなるがシュミットのような呪われた禍々しい存在には近づかないに越したことはない、というのが正直なところだった。

 今私はそうした自分のシュミットに対する怯懦を激しく後悔している。ガルシア・デュットマンの優れた翻訳で知られる俊英大竹弘二の新著『正戦と内戦 カール・シュミットの国際秩序思想』(B6判・482頁・4600円・以文社)を読んだからだ。本書は大竹の博士論文として書かれた。今博士論文を書くことが若手研究者にとってオブリゲーションとなっているため博士論文の水準には相当ばらつきがあるが、本書は凡百の博士論文の水準をはるかに抜く驚嘆すべき成果といってよいと思う。私は、シュミットの思想が持つアクチュアリティを見事に描出している本書によって、シュミットがたんなるナチス御用学者というような凡庸なレッテルによって悪魔祓い出来るような存在ではないことを、より正確に言えば悪魔祓いしてはならない存在であることをはっきりと教えられた。

 話題が飛ぶが、私は最近重田園江他による『フーコーの後で』(慶応義塾大学出版会)を読み、フーコーの中で1970年代後半から登場する「統治性」という概念をめぐる最新の議論に触れることが出来た。とくに「生政治」論の文脈の中で、国家における統治性の配置図や機能が、「主権国家」から「規律国家」への、さらには「安全国家」への推移を通して、近代から現代へといたる世界空間=秩序、とりわけ新自由主義が登場しつつあった状況の中でどのように変容していったかをフーコーがつぶさに追っていたことを教示され、大いに触発された。そこでフーコーの統治性概念を土台にしながらグローバル世界の統治構造の解明を試みている土佐弘之の『アナーキカル・ガヴァナンス』(御茶の水書房)や『ミシェル・フーコー講義集成』(筑摩書房)を読み始めた。フーコーの生政治論の文脈と統治性の概念が交差する地点に、現代における国家及び権力の布置を考える上でもっとも重要な問題圏域が出現するはずだと思ったからである。ちょうどそんな中で本書を手に取ったのだが、驚くべきことにシュミットの議論はそうしたフーコーの統治性をめぐる議論と完全に通底する問題意識が早くから先取りしているのである。例えば大竹が引いている、シュミットが1958年に記した次のような言葉はどうだろうか。「生存配慮の行政国家への不可避的発展」(本書425頁)。ここには明らかに、現代において国家が生政治的文脈において行政=統治技術へと自らを収斂させつつ、その権力の触手を個々人の生(命)へと伸ばしてゆこうとしている、という認識が現れている。しかも本書を通読した上で振り返ってみると、あらためてこうしたシュミットの驚くような現代的認識が様々な場面で登場することに、しかもそれが普遍化へと向かおうとする世界および歴史の動向と、それに抗おうとするように現れる歴史的一回性の場のあいだの相剋的な関係、言い換えれば「抗争」――そこにシュミットのいう「例外状態」の起源もあると考えられる――に裏付けられて登場していることに気づかされる。世界(歴史)を普遍化された同一性の秩序からではなく、その平面に穿たれる無数の亀裂や逸脱、矛盾、抗争の個別的な具体性から捉えようとしたのがフーコーではなかったか。とするならば今まで思いもかけなかったシュミット―フーコーという思想系譜がそこには浮上してくることになる。しかも大竹の論述に従うならば、そこへは現代世界を考える上で喫緊かつ重大なポイントとなる問題が結びついてゆくのである。

                   

本書において私がもっとも関心をそそられるとともに多くを教えられたのは、第二章「国際連盟とヨーロッパ秩序」と第三章「広域秩序構想」であった。大竹はここで先ほど挙げたフーコーによる国家(統治性)の変容の問題を、よりグローバルな規模における世界秩序の変容の問題につなげつつ、すぐれて現代的かつアクチュアルなシュミット読解の可能性の地平を開示している。

 そこで問われているのは、第一次世界大戦およびその後の国際連盟の結成によって劃された世界秩序の変容の意味である。その具体的な媒介項となるのが「戦争」概念の変容であった。第一次大戦という未曾有の世界戦争=総力戦は、シュミットによって「差別戦争観」と名づけられた主権国家という単位にもとづく古典的な戦争観(ヴェストファリア条約によって確立された主権国家を前提とするヨーロッパ公法秩序内部の戦争とその外部の戦争との差別)を無効化した。そして第一次大戦後に戦争抑止のため新たに創設されたのが国際連盟であった。この過程で戦争の意味が大きく変容したのである。国際連盟が前提としていたのは、「自由民主主義」という普遍主義的イデオロギーを無差別な形で世界全体に適用されるという認識である。それはさらに、このイデオロギーが実現されている状態(実現しうる国家)を正常な「合法性」(合法国家)として規定し、それを実現しえない不法国家が引き起こす「攻撃戦争」をそうした合法性に違反する行為(侵略)として「犯罪化」するという認識へと結びついてゆく。つまり国際連盟によって「戦争の違法化」(113頁)への道が開かれたのである。そしてこのことは、そうした違法行為に対抗する合法国家の戦争が正義のための戦争、すなわち「正戦」として規定されるという事態をも導く。こうして主権国家の関係の中に合法/不法という境界線が引かれるととともに、国家行為としての戦争に対しても合法/不法という線引きが行われるようになるのである。

 このことは同時に、戦争(正戦)が限定された政治的目的の実現手段ではなく、違法な「敵」を「道徳的に犯罪化」したうえで断罪し罰するという性格を帯びることを意味する。戦争はもはや主権国家間の対等な関係に基づく政治的行為ではありえなくなる。代わりに登場するのは戦争の持つ意味の道徳化とそれに伴なう治安=警察化である。世界はいわば普遍主義的イデオロギーによって無差別な形で束ねられた内世界的な秩序となり、戦争は、あるいは戦争を引き起こす国家(不法国家)はこの内世界的な秩序を紊乱する犯罪として取り締まりの対象となるのである。このとき犯罪としての戦争とそれを取り締まる道徳的かつ治安=警察行為としての正戦との間の対抗関係は、内世界秩序を前提とする「世界内戦」というべき様相を呈することになる。このように第一次大戦と国際連盟の結成は、戦争を正戦へ、さらには世界内戦へと変容せしめたのだった。この世界内戦の状況は、第二次世界大戦、冷戦、冷戦の終焉を経て、現在のアフガン・イラク戦争にまで及んでいる。この点を取っても本書で大竹が抉り出したシュミットの問題意識の持つおそるべきアクチュアリティは明らかであろう。

 こうした正戦=世界内戦の思想(特定の場所を持たない普遍主義的イデオロギーと道徳的正当性に裏打ちされた発想)に対してシュミットは、歴史的一回性に彩られた場所の固有性によって立ち向かおうとする。より正確に言えば、そうした場所どうしの相互関係、すなわちそうした場所相互が「友誼線」(194頁)内部における「「保障」と「同質性」」(119頁)を含んだ真の「連邦」的関係を通して対抗しようとするのである。これがシュミットの「広域秩序構想」(ライヒ)の核心となるが、それはある面においてもっとも先駆的な(アンチ)グローバリズムとしての意味を有していると考えることが出来るだろう。

 もちろんこうした広域秩序構想に込められた英米主導型の普遍的世界秩序、あるいはそこから導かれる正戦=世界内戦状況に対する対抗を具体化するための媒体として、ナチス総統国家に希望を託したこと、さらにはその前提としてヨーロッパ公法秩序(友誼線の内部)とその外部としての植民地(友誼線の外部)をつねに分断しながら思考していたことが、シュミットの思想の中の致命的ともいえる負の要素であることは間違いないだろう。あくまでそれを踏まえた上でだが、もう一点本書によって喚起された重要な視点について言及しておきたい。それは、戦後のシュミットが、普遍主義という「敵」の持つ性格を産業-技術的なものに見定めようとしたことである。正戦=世界内戦は、戦後世界においてはこの産業-技術的なものの世界秩序への浸透へと形を変えるのである。この過程で国家はこの産業-技術的なものを効率的に稼動させるための行政=統治技術の束へと変容する。なるほどそれは表面的には正戦=世界内戦の担い手としての戦争国家とは対照的である。だが正戦=世界内戦状況の前提となっている普遍主義的な世界秩序をより一層拡大・深化させるという意味で、産業-技術的なものは本質的に正戦=世界内戦の思想の延長線上にあるというべきである。

 このことの帰結として大竹は大変興味深い事例を最終章で挙げている。それはドイツ連邦共和国における憲法体制の問題である。戦前のワイマール憲法体制の脆弱さがナチスの台頭を招いた反省から、連邦共和国は憲法擁護と例外状態の出現阻止のための手段を強化した。それは議会や行政の上に立つ憲法裁判所の存在や反憲法的ディスクルスおよび実践に対する事実上の禁止措置といった形で具体化された。だがこうした連邦共和国の憲法体制は「正常」/「逸脱」という二分法に基づく行政当局の反民主主義・反人権的措置を事実上容認するのである。その例証が72年の「過激派条令」であった(429頁)。行政=統治技術と正常性の循環関係の中で「生存配慮」型の統治国家は極めて逆説的な形でおそるべき「リヴァイアサン」と化すのである。

 まだまだ「パルチザン」の問題やベンヤミンの問題など、本書において取り上げるべきテーマは数多くあるがどうやら紙数も尽きたようだ。本書のより詳細な読解は他日を期すことにして、とりあえずは大竹弘二という若き才能の登場を心から祝福したいと思う。(2010.2)

文学者たちの大逆事件と韓国併合 : 高澤秀次著








高澤秀次 著(平凡社)

これまで中上健次の文学を中心にユニークな考察を行ってきた文芸批評家高澤秀次の新著『文学者たちの大逆事件と韓国併合』(新書判・234頁・760円・平凡社)が刊行された。本書が刊行された2010年はこのふたつの事件からちょうど100年にあたる。日本近代史の「闇」の部分、おぞましい暗部を象徴しているこのふたつの事件は、同時に日本近代史の本質的な認識にとって避けて通ることの出来ない大きな問題でもある。高澤は本書でこの問題にこれまでなかった斬新な切り口を通してアプローチすることにより、日本近代史の認識、さらにはその歴史的構図のなかに位置づけられる文学者たちの認識に重大な変更を迫ろうとする。率直にいってその問題提起は新書という限られたスペースで扱うには大きすぎて、議論が十分に深まらないままになっているところも存在する。だがそうだとしも本書が含む問題提起の重要性、本質性はいささかも揺らがない。
                   
 今や古典的な名作といって差し支えない中上健次の『千年の愉楽』のなかに次のような文章がある。周知のようにこの小説は、差別の対象とされてきた紀州熊野の「路地」に生きる産婆オリュウノオバの目から見た、この「路地」に生きるひとびとの生死をテーマとしているが、そのオリュウノオバの連れ合いだった礼如はある日突然出家して浄泉寺という寺の住職になる。ところでこの寺にはかつてひとりの僧がいた。「前の和尚は(……)、実のところ怖ろしい悪人だった者を他から呼び話をきかせ天子様に弓を引く計画をしたとして監獄に入れられ首をくくられたと聴いたが、その和尚なら路地の者たちがどうなったか心配で路地の周りをさまよいかねない、とオリュウノオバは考え、丁度、通りかかった半蔵を呼びとめ。「幽霊みた言うて、怖ろしいことないど」と言った」。
 この「前の和尚」が、大逆事件で捕縛され獄中で縊死した新宮の僧高木顕明をさしていることはいうまでもない。この『千年の愉楽』という作品にはじつは深く大逆事件が影を落としているのである。このことが中上の文学を理解する上で極めて重要な意味を持つことを高澤は本書で明らかにする。それがどのようなものであるかに立ち入る前に、まず本書で高澤が提示している、大逆事件と韓国併合が日本近代史の構図に与えた本質的な意味について概観しておこう。
                   
 「プロローグ」で高澤は次のような認識を示している。「この1910の出来事には、「大日本帝国」の自立のための犠牲という、象徴的な意味が重なっていた。神聖不可侵の統治者である天皇が、その「臣民」との間の不朽の絆を確認する上で、社会主義者・幸徳秋水を首謀者とする大逆の企てをフレームアップしたのは、近代国家の内部規律引き締めのためのいわば「通過儀礼」でもあった」(7頁)。大逆事件とは、「大日本帝国」が一個の閉じた内部として確立されるために必要であった外部、すなわち内部から排除されるべき「日本人ならざる者」という「ネガティヴな表象」を作り出すための企てだったのである。いうまでもなくこうした外部としての「日本人ならざる者」には、もうひとつの要素である「朝鮮」が対応する。だがそれは、大日本帝国が外部としての朝鮮を植民地としていわば内部化する過程を通して対応しているのだ。大逆事件と韓国併合はこのように大日本帝国という内部が外部を創出する過程において重なり合いながら、ベクトルとしてはちょうど反対を向く形で相補関係にあるのである(8~9頁)。高澤はこのふたつの出来事が持つこうした位相を踏まえながら、それが近代日本文学に与えた影を検証する。もちろんそれは文学の領域だけにとどまる問題では終らない。すでに述べたようにそこには近代日本史をどのように読み替え、どのように再構成し直すかという問題へとつながるからである。
                  
 すでに明らかなように高澤は本書の議論においてある種の人類学的・民俗学的な概念装置を踏まえている。それは、共同体が成立するために不可欠であった「聖」と「ケガレ」の二元論である。共同体は自らの内部を確立するために内部を超越論的に逆照射する外部を必要とする。その外部は通常ふたつの対照的な位置価を持つことになる。ひとつは文字通り超越的な位置価、言い換えれば「聖」の位置価である。それが「カミ」を意味することはいうまでもない。その一方この外部は共同体の負う「ケガレ」、禁忌や汚辱を一身に押し付けられて共同体から追放・排除されるべきものという位置価も持つ。被差別部落の起源にこのような問題が存在することは周知の通りである。遡れはそれは高天原を追放された「反逆者」スサノオのイメージへとゆき着くであろう。とするならば大逆事件において「聖」なる外部としての天皇の権威の確立と、「日本人ならざる者」という「ケガレ」を一身に背負わされた幸徳以下の「反逆者」たちの処刑が対応していたことはある意味では必然的だったといってよい。

 だがこの過程の持つ意味はそれだけにはとどまらない。「聖」と「ケガレ」を外部へと排除するメカニズムは儀礼という非日常的な場においてのみ可視的でなければならないからだ。逆に言えば、共同体の日常において内部はあくまで内部として完結していなければならないのだ。外部を超越論的に排除するメカニズムは日常においては絶対的に不可視でなければならない。そこには、外部へと排除されると同時に、外部である限りにおいてぎりぎり可能となる主体のアイデンティティさえも剥奪し擬似的に内部へと回収する力学が働く。それは外部としてマーキングされる存在そのものを根源的に否定する力学に他ならない。このことがはっきりと現れるのが、植民地朝鮮のひとびとの「大日本帝国」の「臣民=日本人化」であり、さらには沖縄・アイヌ・被差別部落のひとびとの「臣民=日本人化」であった。この怖るべき排除と内部化の二重の循環構造のなかではじめて「大日本帝国」という共同体の内部はあたかも永遠不朽の絶対秩序のごとき様相を確立するのである。
                   
 このように見てくるとき、高澤が引用している中上の次のような言葉が重要な意味を持つ。「柳田(ママ)男の「毛坊主考」に触発された中上健次は、「つまり毛坊主とは、共同体(ここでは被差別部落)が否応なくはらんでしまう触穢(しょくえ)と浄化の二つを一身に体現する人間である」(『紀州――木の国・根の国物語』)と、その本質を言い当てている」(121頁)。
 ここで中上が企てようとした文学の本質的な意味が明らかになる。ケガレ=触穢=排除と存在剥奪としての内部化の循環のなかで逼塞させられてきた日本近代史の影の部分を本質的な意味で復権させ再生させるためには、そこに「浄化」という新たなファクターを導入する必要があるのだ。この「浄化」が「ケガレのキヨメ」を意味することはいうまでもない。だがここで注意しなければならないのは、中上のなかでこの「キヨメ」が共同体の内部秩序への穢れた存在の回収を意味するのではなく、「戦争」を意味しているということである(第五章)。中上は大逆事件を「日本で起こった架空の南北戦争」(116頁)と形容する。紀州熊野の「路地」という場から見たとき大逆事件は、いわば外部が「大日本帝国」という内部と繰り広げた「戦争」に他ならなくなるのである。「キヨメ」とは、存在を奪われた者たちが自らの存在を取り戻すために排除と存在剥奪としての内部化の怖るべき循環構造に向けて企てる根源的な戦いを意味するのである。このとき高澤が次のようにいっていることに注目しなければならない。「大逆事件は中上にとって、ただの「市民戦争」ではなかった。何故なら「路地」の住人は悉く、近代の「市民」=「四民(士農工商)」の外部にあった「新平民」だったからだ。彼らは「眼から火が吹くような屈辱」(「六道の辻」、『千年の愉楽』)を潜って、「市民」の列に加わったのであり、それは大逆事件のはるか後年のことだったのである」(123頁)。

 この引用の後半が内部化の過程を意味することはいうまでもない。問題なのはそこに「眼から火が吹くような屈辱」が伴なっていたという事実である。それは直接には「新平民」を認めようとしない共同体の内部との軋轢に由来している。ただ問題はもっと深いところにある。この過程には繰り返しいうように外部であることを強いられる存在の側の存在剥奪が伴っているからである。それは裏返していえば、自らを失うことなしには内部化を果たしえない存在の屈辱に他ならない。この二重に設えられた怖るべき循環を脱しない限り外部化された存在の真の再生はありえないのだ。いうまでもなくこのことはもうひとつの極である朝鮮にもあてはまる。そしてそこにはもうひとつの重要な要素である「言葉」の問題が加わる。朝鮮の植民地化は朝鮮(韓国)語と日本語のはざまで苦しむ多くの在日世代を生み出した。そこでは言葉こそが内部と外部の「戦争」の苛烈な戦場とならざるをえなかったのである。本書でとりわけ印象的かつ衝撃的なのは、この言葉の戦場における戦いにもっとも深くコミットした在日詩人金時鐘の影響下から出発した梁石白が、『夜を賭けて』において一気にこの戦場に彼方にある、日本も朝鮮も沖縄も突き抜けたユートピアにまで至ったことに照応する「日本」側の文学の不在である。おそらくこの不在には、梁のユートピアのはらんでいる底知れない屈辱の深さと重さに拮抗するものの不在が対応しているのである。ただ本書で高澤はかろうじてそうした拮抗の可能性を垣間見せているひとりの作家を取り上げている。それは小林勝である。戦後共産党の武装闘争に参加し早くに亡くなった小林の文学は今ほぼ忘れられてしまっているが、高澤は小林の文学を、植民地朝鮮の側が味わった深い屈辱に拮抗する「日本」人の屈辱の深さを提示しえたほとんど唯一の存在として掘りおこす(第四章、第七章)。

 ところでもはや紙数がつきかけているので詳論することは出来ないが、じつは「日本」自身が「大日本帝国」への途上において言葉の戦場を体験しているのだ。それは「言文一致」運動、「国語」の創出においてであった。日本の近代化のもうひとつの指標というべきこの言葉の戦場において、じつは大逆事件と韓国併合が持った排除と内部化の屈辱に満ちた循環構造が最初に確立されたのである。そしてそこにこそ柳田國男の「新国学」も金田一京助の「アイヌ語研究」も位置づけられねばならないのである(第一章)。そして同時にそこには柄谷やジジェクの書評で触れた「抑圧されたものの回帰」というテーマが明滅している。夏目漱石の問題、三島由紀夫の問題などまだまだ触れねばならない問題があるがその余裕がなくなってしまった。私個人としては高澤が中上文学の新たな読み方を示してくれたことに深く感謝したい。高澤自身が今後このテーマをより本格的に展開してくれることを切望する。(2011.2)

フルトヴェングラー : 奥波一秀 著








奥波一秀 著(筑摩書房)



2001年、20世紀を代表するヴァーグナー指揮者の一人であり、1951年に再開された戦後のバイロイト音楽祭におけるゲーニウス・ロキともいうべきハンス・クナッパーツブッシュについて鮮烈に論じきった名著『クナッパーツブッシュ 音楽と政治』(みすず書房)を著した奥波一秀が10年後に今度は、クナッパーツブッシュとともに20世紀ドイツを代表する指揮者であり、一音楽家というだけにとどまらない歴史的意味をあのナチス・ドイツの時代に担わざるをえなかったフルトヴェングラーについて論じた新著を公刊した(B6判・350頁・1800円・筑摩書房)。

 クナッパーツブッシュと違いフルトヴェングラーにはすでに多くの先行研究が存在する。それらを通してフルトヴェングラーという「現象」に関しては否定・肯定を含めかなり強固な先入見が形成されている。その意味では前著に比べ論じるにあたってやりにくい部分が多々あったに違いない。にもかかわらず奥波は本書でこれまで十分に掘り起こされてこなかったフルトヴェングラーをめぐる諸問題へのアプローチに成功している。それは主としてふたつの作業によってであった。ひとつはフルトヴェングラー自身の残したテクストの綿密な読解作業である。とくに『日記』や『書簡』、さらには雑誌や新聞に投稿された文章の丹念な読解を通じてわたしたちはフルトヴェングラーの内面のかなり奥深いところまで入ってゆくことが出来る。例えば作曲家のプフィッツナーと音楽批評家ベッカーの論争に関してフルトヴェングラーが残している「ベッカーの問題は、多かれ少なかれ恣意的で主知主義的な芸術制作なのだ、ということ」(32頁)というような言葉にはフルトヴェングラーについて考える上で重要なヒントが隠されている。一言でいうならフルトヴェングラーは従来考えられていた19世紀教養市民文化を背景に持つ非政治的リベラルというポジションよりさらに、プフィッツナーに象徴されるドイツ至上主義的・アンチモダニズム的ポジションに近い政治性を帯びていたということである。
 
 このことをさらに詳細に究明するために奥波が行なっている第二の作業が、今挙げた例からも窺える同時代の多様な音楽家たちや思想家たちとの対質化の作業である。プフィッツナーやベッカーの他、クレンペラー、ヴァルター、R・シュトラウス、トスカニーニ、Th.マンらの著名人、さらにはクルシェネック、シェンカー、シュトゥッケンシュミット、シュローベルといったあまり日本では知られていない同時代の音楽家たち、さらにはナチスの側のゲッベルスまでも動員しながら、奥波はフルトヴェングラーの音楽思想の核心、さらにはその時代的・政治的意味に迫ろうとする。
 例えば先ほど引用した「恣意的で主知主義的な」という言い方の持つ意味についてもう少し立ち入って考えてみよう。この言い方には明らかにゲッベルスのようなナチのみならずより広汎な拡がりを持つドイツ保守派のモダニズムに対する嫌悪の感情が投影されている。それは、音楽的にいえば19世紀後半のマーラーから始まる新音楽の潮流、すなわち調性の否定にまでいたる無調音楽の潮流(シェーンベルク派)への反発として位置づけることが出来る。ゲッベルスの言葉にあるプフィッツナーを形容した「物静かで辛辣で浮き世離れしたドイツのマイスター」(39頁)というような言い方は「恣意的で主知主義的な」ものの対極にあるのがいかなるものかをよく示している。そしてそれはフルトヴェングラーがしばしば使う「魂の必然性」というような言いまわし(85頁以下)と深く通底しているのである。

 ここで問題が明瞭な形で浮かび上がってくる。フルトヴェングラーの音楽思想のあり方を批判したシュトゥッケンシュミット、クルシェネック、シュトローベルら新音楽の担い手たちとの対質化を通して見えてくるのは、この「恣意的で主知主義的な」という評価の表現をめぐって形づくられる調性秩序(伝統的ドイツ=ヨーロッパ至上主義)対無調音楽(新音楽=モダニズム)という対立線である。そしてこの対立線にはさらに重大なもうひとつの対立線が重ね合わされるのである。それはドイツ・ナショナリティ対ユダヤ性という対立線である。ハンナ・アーレントは『全体主義の起源』の中でドイツ・オーストリアの反ユダヤ主義がモダニズムへの嫌悪と重なり合っているという指摘を行なっているが、フルトヴェングラーの音楽思想とその批判者たちの対立(伝統主義対モダニズム)は、彼自身が十分に意識していたかいなかったかにかかわらず必然的に反ユダヤ主義という対立線分をめぐる構図へと回収されていかざるを得ないのである。そのことを証明しているのがフルトヴェングラーにおける「ドイツ的なもの」への忠誠であり「民族(フォルク)」とのつながりの強調に他ならない。「恣意的で主知主義的な」モダニズムが非ドイツ的であり「ユダヤ的」であると受け止められてしまう回路にフルトヴェングラーが骨絡みともいう形で呪縛されていたことを、本書において奥波が発掘した様々なテクストは証明している。それはフルトヴェングラーの主著『音と言葉』やプリーベルクの研究書などからは明確には伝わってこなかったフルトヴェングラー像といわねばならない。
 
 念のために付け加えておけば、本書からこのような形でフルトヴェングラー像を造形することにおそらく奥波は賛成しないだろうと思う。そのことに関して付け加えておきたい問題がある。ひとつはTh.マンの問題である。本来のメンタリティのあり様からいってマンはフルトヴェングラーとごく近い人間であった。第一次世界大戦中に書かれた『非政治的人間の考察』は、そのタイトルとは裏腹にそのままどこまでも延長してゆけば反ユダヤ主義を経由しながらナチズムに行き着きかねない極めて政治的な書物である。だがマンはワイマール共和制の下で劇的な立場の転換を行なった。彼は自らがワイマール憲法に忠実な共和主義者となることをハウプトマンに関する講演の際に明確にマニュフェストしたのである。フルトヴェングラーはこうした転換をサボタージュした。ここがマンとフルトヴェングラーを決定的に分けるポイントとなる。さらには戦後の西ドイツ初代大統領であるTh.ホイスの問題がある。本書で奥波はホイスに触れているが残念なことにもっとも重要な一点に言及していない。すでに触れたようにバイロイトのヴァーグナー音楽祭は1951年再開されるが、このときオープニングにベートーヴェンの「第九」を指揮したのがフルトヴェングラーだった。このバイロイト音楽祭にいうまでもなくホイスも招待されている。だがホイスはこの招待を拒否したのだった。マンの場合と同様、伝統的な教養主義者、芸術観の持ち主として本書においてフルトヴェングラーと近い存在に擬せられているホイスもまたフルトヴェングラーとは対照的にバイロイトに象徴される「ドイツ」をきっぱりと拒否したのである。「ドイツ」の拒否―これこそがフルトヴェングラーのついになし得なかったことに他ならない。そしてこの一点でフルトヴェングラーはナチズムと戦争に対する重大な責任を負わざるをえないのである。
 
 ところで本書を読みながら私は奥波の論脈から少し外れることを考えていた。本書には登場しないが同時代のドイツ系の名指揮者にk・ベームがいた。そしてベームはフルトヴェングラー、ナチス党員となったカラヤンやアーベントロートとはまた違った意味で大きな問題をはらんだ存在であった。一言で言えばベームはアイヒマンのように極めて凡庸なオポチュニストであった。そのときどきの権力者、支配者に阿諛追従しながら身の保全を図ろうとする人間だった。彼にはおよそフルトヴェングラーのような理念性などひとかけらも存在しなかった。ただの音楽屋に過ぎなかった。だがそのベームの作り出す音楽はときにその鋭い現代性においてフルトヴェングラーやクナッパーツブッシュをも凌駕するような瞬間があった(例えばベルクの「ヴォツェック」やヴァーグナーの「トリスタン」「指環」など)。あの時代ベームに限らず多くの音楽家たちが何らかの形でナチスに協力している。そこには「人間的」に見ても「思想的」「倫理的」に見てもいかがわしさ、疾しさを拭うことのできないケースが数限りなく見出される。難しいのは、にもかかわらず未だに彼らの音楽が戦後世代の音楽家たちによって乗り超えられない高さや魅力を示していることである。それはもちろんフルトヴェングラーやカラヤンの問題でもある。戦後のドイツにあって、もっとも峻烈にナチズムへとつながる「ドイツ」を批判し告発した思想家といってよいアドルノがフルトヴェングラーへの好意を隠そうとしなかったという「矛盾」の根もそこにある。そこにはフルトヴェングラーの音楽の魅力が彼の歴史的責任を免罪することにはつながらないというテーゼと、フルトヴェングラーの歴史的責任を告発することは彼の音楽の魅力を否定することにはつながらないというテーゼの自家撞着的な循環が避け難く現れてしまうのである。
 ただここで再び最初に引用したフルトヴェングラーの言葉にあった「恣意的で主知主義的な」という言葉に立ち戻りたい。この言葉が示唆している音楽のあり方とはいかなるものなのだろうか。それは、例えばシェーンベルクの音楽があれほど人々の感情を逆なでし激しい嫌悪をかきたてた理由はなんだったのかというような問題とどこかでつながっているような気がする。
 
 フルトヴェングラーは「魂の必然性」に根ざした作品の生成的で有機的な全体性を重んじようとした。それはそうした性格を体現することが出来る演奏がもっとも聴衆を「感動」させられるからだった。フルトヴェングラーのライヴァルだったカラヤンはとくに晩年レガート奏法の徹底化によって作品を「継ぎ目のない響き」の全体性に溶かし込もうとした。それがもっとも聴衆を「魅了」することが出来るからだった。ベームはややぶっきらぼうながら強い緊張感の中で作品の全体構造が聴衆にくっきりと意識される演奏を目指そうとした。立場は違うとはいえ彼らの音楽の高さはいずれも「全体性」に、より正確にいえ「全体性」への融合・没入体験に根ざしていたといえる。そしてそのような全体性が要求するのは否定し非同一化するような、言い換えれば作品を断片へと限りなく解体してゆくような知性の働きの停止なのである。逆に言えばシェーンベルクの音楽の本質は技法的な意味で無調云々というところにあるのではなく、まさに知性を覚醒させることによって音楽の経験を凡庸な「感動」体験から解放して真にものを思考する体験に根ざすものへと変えようとしたところにあったのではないかということである。これは音楽思想家としてのアドルノの目指したものだったといってよいと思う。そのアドルノはフルトヴェングラーが好きだったという矛盾が依然として残るのだが。(2011.8)