「私の好きな演奏家」 渡辺和彦 著(河出書房新社)
「マエストロ 第1巻」 ヘレナ・マテオプーロス 著・石原俊 訳(アルファベータ)
8月も終わろうとしているが、この季節になると6年前オーストリアに住んでいた頃行ったザルツブルク音楽祭のことを思い出す。モーツァルトの生誕地として名高いザルツブルクでは毎夏7月から8月にかけて、ホーフマンスタールの象徴劇『イェーダーマン』を皮切りに数多くのコンサート、オペラ、演劇公演が行われる。これがヨーロッパ最大の音楽祭であるザルツブルク音楽祭である――この音楽祭はホーフマンスタールの発案で始まった――。私は初めてこの音楽祭を観に8月の終わり、友人のYとともにウィーンからやってきたのだった。ザルツブルクは夢のように可愛らしく美しい町だった。歩いているだけで甘美な陶酔感がつのってくるような街の雰囲気に魅惑されながら、私たちはお目当てである音楽祭の演奏会場に毎日向かったものだった。
このとき私が観たのは、オペラではモーツァルトの『後宮からの誘拐』、ベートーヴェンの『フィデリオ』、ヴァーグナーの『パルジファル』、ヴァイル/ブレヒトの『マハゴニー市の興亡』、メシアンの『アシジの聖フランチェスコ』の5本、それからリッカルド・シャイーの指揮するアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団によるマーラーの交響曲第5番の演奏会だった。なかでも強く印象に残っているのはヴァーグナーとメシアンとマーラーである。『パルジファル』は演奏会形式で上演され、タイトルロールをプラシド・ドミンゴが歌った――1995年のバイロイトでドミンゴのパルジファルは一度聴いている――。それにクンドリー役がヴァルトラウト・マイヤー、ヴァシーリー・ゲオルギーエフ指揮のウィーン・フィルといった顔ぶれであった。この演奏会で記憶に残っているのは、ゲオルギーエフの指揮ぶりとそこから紡ぎだされる音楽の独特な性格である。奇妙な格好でからだをくねらせながら指揮棒を持たない手の指を駆使して行われるゲオルギーエフの指揮からは、ふつう私たちがイメージするヴァーグナー、とくにクナッパーツブッシュやクリュイタンス、ブーレースの指揮でおなじみの『パルジファル』の音楽とは極めて異質な、細部が顕微鏡で拡大されたような印象を感じる粘着質でマニエリスティックな音楽が現出する。音楽の全体が見えてくる代わりに個々の細部があるニュアンスを帯びながら際立つのである。それは違和感を禁じえない演奏ではあったがけっして否定的なものではなかった。一方『アシジの聖フランチェスコ』を指揮したのは日系アメリカ人のケント・ナガノ、オーケストラは彼が常任を務めるイギリスのハルレ管弦楽団だった。このおそらくオペラ史上最長の約5時間の演奏時間を要するオペラ上演にあたってナガノが示した音楽の全体構造と流れを精確かつ透明に把握する能力の高さは、初演以来難役中の難役であるタイトルロールを歌い続けているベルギー生まれのバリトン、ヨセ・ファン・ダムの歌唱とともに特筆すべきものであった。フェルゼンライトシューレでの上演が終ったときもう11時をまわっていたが観客の拍手はいつまでも鳴り止まなかった。さてもう一つ、マーラーの演奏会だが、これは1年あまりいたヨーロッパで体験した最上の音楽、最上の演奏であったといってよいだろう。じつはシャイーとコンセルトヘボウのマーラー「5番」の演奏はその年の5月のウィーン芸術週間でも聴いていた。ちなみにこの年の芸術週間の目玉はオーケストラ競演で、地元のウィーン・フィル、ウィーン交響楽団の他、ベルリン・フィル(クラウディオ・アバード指揮)、バイエルン放送交響楽団(ロリン・マゼール指揮)とコンセルトヘボウが参加した。そしてこれらのオーケストラのなかでナンバーワンがコンセルトヘボウであった。厚みと透明性を兼ね備えた弦楽パートのソノリティ、昔から名人芸で知られた木管、金管の光彩陸離たる演奏――中でも凄かったのはトランペットのトップとホルンだった――がかもすオーケストラの響きを土台に、シャイーはマーラーのなかでもとりわけ多様な楽想と音響を持つ5番をこの上もなく明晰に、しかし優雅な官能性を込めて造型し抜いたのである。マゼールがバイエルンとやったシューマンの1番も、アバードがベルリンとやったマーラーの3番も優れた演奏だったが、シャイーとコンセルトヘボウには及ばなかった。その演奏を3ヶ月後にふたたびザルツブルクでも聴いたのであるが、驚いたことに、音響的にはウィーンのムジークフェラインザールに劣るはずの祝祭劇場での演奏のほうが一段とよかったのである。友人のYも同じ感想を洩らした。恐らくこの日の演奏でシャイーたちは、明晰さや構造的な透明性――それはケント・ナガノにもあった――と、演奏という一回的行為がもたらすラプソディックな感興や思いもかけない細部の表現の面白さ――それはゲオルギーエフにあった――のあいだの奇蹟的ともいえる調和を実現したのだ。それは本当にめったにないことである――私自身は今から30年前カール・ベームがウィーン・フィルといっしょにやったシューベルトの7番と8番のときにそれを経験したきりである――。だが演奏という音楽にとって不可欠でありながら作曲行為やその具体的表現としての総譜に比べ十分な形で考察されているとはいえない、というよりも浅薄な印象批評に委ねられがちな演奏という行為の持つ意味を考えるとき、こうした経験は重要な手がかりになるはずである。
こんなことを考え始めたのも今月2冊の演奏をめぐる著作に出会ったからだ。一冊目は渡辺和彦の新著『私の好きな演奏家』(235頁・1600円・河出書房新社)である。あらかじめ断っておくが渡辺は大学のときの同級生で友人である。だが本書はそうした個人的事情を超えて書評に値すると私は信じる。渡辺は長年第一線でレコード批評や演奏会批評に関わってきた現場の批評家である。そして彼は処女作『クラシック辛口ノート』(洋泉社)以来愚直なくらい演奏批評にこだわってきた。それはとくに渡辺の得意とする弦楽器演奏の批評の分野で顕著である。恐らく現在日本で渡辺ほど総譜にまで遡って音楽を検討しながら演奏そのものについての厳密な批評を試みようとしている批評家はいないのではないだろうか。例えば本書のなかのチェリスト論(Ⅰ参照)を見てみよう。渡辺の批評の特徴のひとつは演奏家本人への豊富なインタビューの内容が踏まえられていることなのだが、ここでは現代を代表するヤーノシュ・シュタルケルから引き出した興味深い話をもとに、やや神話化されたきらいのあるロストロポーヴィッチへの「辛口」の批評や、人気ナンバーワンといってよいヨーヨー・マへの温かみに満ちた、しかし厳格な批評が展開されている。日本の音楽批評に楽譜の引用というスタイルを最初に導入したのは周知のように吉田秀和だが、渡辺は譜そのものは引用しないにせよ、私たちが日頃何気なく聞いている演奏の元になる総譜の版の厳密な比較校訂作業をも行いながら演奏の本質に迫ろうとする。といって渡辺はいわゆる原典忠実派ではない。古楽器ブームのいかがわしさへの批判や、忘れ去られようとする往年の「巨匠」たちの演奏への賛嘆――とくに指揮者のピエール・モントゥ論とオイゲン・ヨッフム論には感銘を受けた――などは、渡辺がそのつどの時代に相応しい演奏を通して音楽の喜びをじつに素直なかたちで享受していることを、そしてそれをこそ追求していることをよく示している。演奏というのは一回一回が消えてゆくたまゆらの営みに他ならないが、しかし音楽はそれを通してしか音楽にはならないのだ。そしてその指針となるのが総譜の語る音楽の客観的構造とそれを解釈する演奏家の人間性に他ならない。それらはときには相反する要素になるが、優れた演奏家であればあるほど矛盾する要素の奇蹟的な一致が可能となるのである。日本できちんと評価されることの少ないマゼールについての渡辺の「演奏という行為が・・・再創造でもあることを実感させる」(217頁)という言葉は、ウィーンで何度となくマゼールの実演に触れ感動した立場からおもわず膝を叩きたくなるくらい共感を覚えた。「再創造」の瞬間こそ総譜の客観性と演奏家の人間性が一つになる瞬間なのだ。
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