いいだ もも 著(藤原書店)
本書が家へ送付されてきたのは昨年の11月の終わりか12月の初めだったと思う。包みを開けてみてたまげた。今回取り上げるⅠ(A5判・883頁・8400円・藤原書店)だけで800頁を越えており、続巻であるⅡ、Ⅲをあわせると全巻で2655頁の超弩級の大冊なのである。今年80歳を迎えるという年齢に加え最近は病気がちだと聞いていたので、ももさん――あえてここだけは、いつもの呼び方を使わせてもらいたい(以下は敬称略)――がこのような大部の著作を完成させたということに衝撃に似た畏敬の念を禁じえなかった。
さて本書の書評を行おう、絶対やらねばならないと決意は固めたのだが、この2600頁を越える大冊を詳細に読みきった上で全体を書評するには下手をすれば1年くらいかかりそうな気がした。そこで著者であるいいだに対する無礼を承知で、今回はⅠだけを、それも正確にいうとそのⅠ部の、ウィットゲンシュタインとメルロ=ポンティを対比的に扱った部分のみを中心にして――もっともこの部分だけでも6600頁を優に越えている――書評を行うこととした。寛恕あらんことを!
さて本書におけるいいだの基本視座は、次のような文章から読みとれる。「グローバルな現代資本主義世界システム=パクス・アメリカーナ世界秩序にたいするそのような根底からの批判的分析と主体的変革がなされなければ、チョムスキーが警鐘を乱打しているごとく、この地球上でこれまで10万年を閲してきた人類の自己開発による自滅は避けられないといわなければならない」(20頁)。
いいだを本書執筆へと駆り立てたのは、「9・11」以降顕在化したアメリカ=グローバル「帝国」支配体制による野蛮きわまる軍事・治安プレゼンスのもとで、あるいはそのイデオロギー的裏づけとしてのネオ自由主義=市場原理主義による世界の徹底的な分断と差別化の進行のもとで、人類のみならず地球環境総体が崩壊と湮滅の危機にさらされているという人類=地球文明史的な次元での強い危機感である。逆に言えば、人類⇔地球という相互関係を視野に入れ、その複合的かつトータルな様相・構造・システム全体を歴史的に踏まえたかたちで「批判的分析と主体的変革」を遂行することが、今必須の課題となっているという認識が、いいだを突き動かしているのである。
この問題意識は、マルクス没後のマルクス主義者たることを自認するいいだの思考にとって重要な鍵となる弁証法の捉え方にも関わってくる。いいだは次のようにいう。「人間の歴史は、わたしのいわゆる階層性の弁証法によって貫かれている。地球上に共在・共存ずる自然史と人間社会史とが階層を成して(天・地・人三才の徳)重層的に相渉っているばかりではなく、そこにおいて下位の階層体系は自己自身だけの自己完結的・内閉的システム内においては自己解決が不可能な自己矛盾を必ず抱えこんでおり、そのような内部矛盾は階層より上位に立つ階層体系からのアトラクターの導入によってはじめてその矛盾性を解決しうるのである」(41頁)。
この弁証法理解は、従来あったエンゲルス流の自然弁証法とルカーチ流の主体的弁証法の対立を止揚しようとするものである。それは、客観=対象と主観=主体が分離的に成立する場のより手前にあって「自己創発的・自己言及的構造」(同)のもとに現出する、しかも歴史的に規定されている存在と意味の生成の場にそくして、弁証法を「歴史をして世界から世界へとつねに普遍的・体系的統一を保ちつつ動態的に自己革新をとげてゆく」(同)ところの、「ロゴス」と「プラグマ」の統合論理として打ち出してゆくという視点につながる。この視座は、同時に自然科学的認識と人文・社会科学的認識、あるいは西洋と東洋のあいだにあった壁を毀し、両者を自在に往還する本書におけるいいだの叙述スタイルの基底をもなしている。
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さてこうした歴史のダイナミズム・動態性と主体的変革の課題とを結び付けつつ、人類八千年の歴史を閲しようとする本書の壮大な企図にとって、そのとば口に位置するのが、私たちの同時代性の根源としての20世紀が帯びていた時代性をあらためて問い直すという課題である。そしてその課題の中心的なモティーフとして、いいだが抽出するのが、「言語論的転回」の概念に他ならない。本書における議論は、やや大げさに言えば、この「言語論的転回」という概念、あるいはそれによってもたらされた歴史的な事態を、この概念が通常依拠する言語学的・記号論的・論理学的文脈だけに限定することなく、表象対実体、論理形式対経験内容、認識論的アプローチ対存在論的アプローチ、顕在言語対潜在言語等々の二項対立の枠組みから思い切って解き放ち、歴史そのもののダイナミズムのなかで先ほど言及した主体的変革の方向性へとつなげてゆくという課題の周りを一貫して巡歴しているとさえいえるだろう。そしてその巡歴の過程でたえず基本的な参照点となるのが、すでに述べたウィトゲンシュタイントメルロ=ポンティという20世紀を代表する二人の思想家の残した仕事に他ならない。
その内容について検討する前に、もう二点だけ本書におけるいいだの叙述の特徴について言及しておこう。一点目は、いいだの、勝義の意味での啓蒙主義者としての姿勢、立場である。いいだは、これまでもつねに危機的な状況にある私たちの世界について、とりわけ社会主義イデオロギーと運動が少なくとも失墜したかに見える状況について語る際にも、いい意味での向日性を失うことは決してなかった。そのことは本書の叙述にも当てはまる。そしてそれが、本書におけるいいだの啓蒙主義者としての立場につながるのである。例えば、カントの啓蒙理念をめぐっていいだは次のように語っている。「わたしの立場は、いぜんとして、「敢えて賢こけれ!(……)」「自分自身の悟性を使用する勇気をもて!」を啓蒙(Aufklärung)の標語としたイマニュエル・カントの『啓蒙とは何か、という問いに対する答え』(1784年)の批判的文脈の延長線上にある」(417頁)。蒙を啓き、それを通して歴史を前へとポジティヴに進めんとする姿勢へのいいだのゆるぎない確信が、ここから読み取れよう。
二点目は、途方もない博識を駆使して繰り出されるいいだの一種の「饒舌体」ともいえる叙述文体についてである。この文体はおそらく、『斥候よ夜はまだ長きや』(1961年)でデビューした作家いいだももの文学的位置と関わる。端的にいうなら、やや先ほど述べたことと矛盾するように聞こえるかもしれないが、先行する第一次戦後派の文学者たちに共通して見られた戦後啓蒙への楽観的な信頼、より端的にいえば「理性的なものへの信頼」に対して距離を置こうとした「第三の新人」の文学的位置といいだのそれが重なるということである。それが本書に引き付けていえば、感性的な次元とも結びつく実践的な要素・契機を重視しようとするいいだの立場とつながっている。その戦略として、一見脱線気味ともいえる調子で古今東西のあらゆる分野を遊弋しながら展開する、講談調ともいえるような饒舌体が用いられているように思う。その限りではいいだは、むしろ「仮装せる啓蒙主義者」というべきなのかもしれない。
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さてウィトゲンシュタインとメルロ=ポンティの対比に関していいだは次のようにいう。「ウィトゲンシュタインの言語批判を介する「論理的原子論」「言語ゲーム」の独我論的極北化による主客の共滅、それに対するに、メルロ・ポンティの同じく言語批判を介する<見えないもの(潜勢)>の<見えるもの(顕勢)>としての現前化、といった形で、およそ正反対な対照的なものであるが、その問い方は――ともに反哲学であるから、現代思想と呼んだ方がより適切であるかもしれないが――いずれも言語批判を媒介にした哲学的問いであって、要するに、きわめて先駆的に尖鋭な20世紀初頭以来の言語論的転回(ルビ略)を先駆け、そのターンを深く潜っているのである。それが現象学以来のかれらのヨーロッパ現代哲学の探究を、現代世界にとって普遍的な主題たらしめてきた思想方法的根拠にほかならないのだ」(101~2頁)。
この前提を踏まえて展開される議論において特徴的なのは、いいだのウィトゲンシュタインに対する辛辣とさえいえるような厳しい評価である。いいだによれば、ウィトゲンシュタインは、たしかに「言語論的転回」を通して旧い形而上学的哲学に引導は渡したかもしれないが、そのとき同時に言語=論理に対応する経験世界までをも消滅させてしまったのである(Ⅰ部第二章Ⅰ参照)。その結果世界はどこまで言っても経験に出会うことのない不毛な論理原子の集合体にすぎなくなる。この点は、前期の論理原子論から一種の経験主義へ転じたといわれる後期ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論にも当てはまるといいだはいう。ここには、いいだの、先ほどいった「仮装せる啓蒙主義者」の面目がよく現れている。たんなる理性主義、あるいはそこから派生する形式的な論理的整合性こそは、もっとも唾棄すべきものなのだ。ついでにいえばこのいいだの視座は、さらにM・ウェーバーへの厳しい批判にもつながる。ウェーバーの普遍史的な世界宗教史理解に根ざす西洋的合理性生成をめぐる議論は、その合理性理解にひそむ盲点ゆえにある種の両義性を孕まざるをえなかったといいだは指摘する(Ⅰ部第四章Ⅰ参照)。
これに対してメルロ=ポンティは、「見えるもの」と「見えないもの」、言語以前と言語以後のあいだに横たわる越えがたい亀裂・裂けめにあえて身をおきながら、「黙せるコギト」に根ざす野生の存在論の構想を推し進めたがゆえに、いいだによって高い評価を受ける。とはいえ、この未成なるものの存在論というべき立場も、E・レヴィナスやM・アンリに見られるようなそうした未成それ自体の形而上化によって、生成の野生状態が持つダイナミズムからたやすく脱落してしまう危険を孕んでいるのだが(253頁以下参照)。もっともこういたレヴィナスやアンリの評価には議論があるだろう。
こうしたウィトゲンシュタインとメルロ=ポンティの対比から見えてくる問題は、そのまま20世紀初頭の物理学革命、とりわけ相対論と量子論の登場によって劃された自然科学の側における認識=方法の転換の問題と照応する(118頁以下参照)。あるいは20世紀数学における「集合論のパラドクス」以降の、とくにゲーデル定理によって明らかにされた無矛盾的体系の不能性の問題にも(265頁以下参照9)。さらにはソシュール言語学から始まる構造主義的思考の問題もそこに関わってくる(103頁以下参照)。そこにはからは一貫して、論理形式的な顕在態へと向かうことによって消えてしまう、経験と実践への促しの原基としての生成的潜勢態へとパラドクシカルににじりよろうとする思想だけが、主体的変革への道を準備してくれるのだといいいいだの確信が現れている。
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