「読者」の誕生 活字文化はどのように定着したか :香内三郎





香内三郎 著(晶文社)

今月取り上げるのは、長く東大新聞研究所の教授としてすでに1960年代から日本のメディア・ジャーナリズム研究の第一線で活動を行ってきた香内三郎の浩瀚な新著(A5判・534頁・4200円・晶文社)である。たいへん読み応えのある雄篇といえよう。
                   
16世紀から17世紀にかけてのルネサンスからバロックへの推移期――それは同時に初期近代市民社会形成期でもあった――は、メディア技術およびその流通形態が、あるいはその前提となる世界知覚および表象の構造が劇的に転換した時代であった。その中心に位置しているのが、グーテンベルクによる活版印刷技術の発明であることはいうまでもないが、変化の要素はそれだけにはとどまらない。ガリレイの望遠鏡の発明に代表されるレンズ技術の発展、デカルトを嚆矢とする世界を幾何学と代数学の方法を通じて数量的に形式化する数学的方法の創設、経験知をカノンとする実験的自然学の方法の展開などの近代自然科学の形成に基礎づけられた世界認識の方法の急速な発展もまたそうした劇的な転換と無関係ではない。また一見こうした科学の世界と無縁に見える、今日ならばオカルトサイエンスに分類されるであろうような錬金術、占星術などの世界、さらにそうした世界の基底をなしているアリストテレス主義やプラトン主義における自然・存在観のあり様、あるいはその変容などもじつはこの問題に深く関わってくる。このような幅広い問題の射程を含む初期近代のメディア・世界知覚=表象の構造転換に関しては、これまでも数多くの研究・考察が行われてきた。その中心に位置してきたのがM・マクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』(邦訳 みすず書房)であることはいうまでもない。

だがメディアの問題そのものは取り上げてはいなくても、例えばM・フーコーの『言葉と物』の、とくに第二章と第三章におけるルネサンスから17世紀「古典時代」にかけての世界像の変遷をめぐる考察、科学史家であるA・コイレの『有限宇宙から無限宇宙へ』やF・イェイツの『ジョルダーノ・ブルーノと魔術的伝統』などにおけるプラトン主義と近代科学の錯綜した関係をめぐる研究、さらには今や古典的とも言えるあのE・カッシーラーの『シンボル形式の哲学』や『認識問題』における神話的思考や象徴-記号操作の哲学的・思想史的研究、そしてそのカッシーラーと因縁浅からぬ関係にあったヴァールブルク研究所から生まれたF・ザクスルの『シンボルの遺産』や『視覚芸術の意味』『イコノロジー研究』におけるイコノロジー(図像解釈学)の方法の創始によって知られるE・パノフスキーの研究――この系譜はウィーンで生まれたM・ドヴォルジャックやA・リーグルらによる精神史的美術史学の潮流、あるいはフランスのG・バシュラールやA・フォションらの仕事とも共振しながら、A・ゴンブリッチ、E・ヴィント、J・セズネック、P・フランカステル、A・シャステルなどに代表される20世紀人文科学の精華といってよい綜合人間科学としての美術史学の土台を形づくった――などもまた、すべて直接間接にこの問題と関連づけて考えることが出来る。
ここでこの問題を考える上で機軸となるモティーフについて、本書と同じ晶文社からかつて刊行されたアーサー・ラヴジョイの古典的名著『存在の大いなる連鎖』(内藤健二訳)のプロブレマティクを参考にしながら考えてみよう。この本における筆者ラヴジョイの視点は、第二講の冒頭に引かれたホワイトヘッドの有名な言葉「ヨーロッパの哲学的伝統の歴史を一番無難に総体的に特徴づければそれはプラトンにつけられた一連の脚注であるということだ」によって示されている。すなわち「存在の大いなる連鎖」というプラトンに由来する基本観念の様々なヴァリエーションとしてヨーロッパ精神史をトータルに描き出すというのがラヴジョイの本書に基本構想である。このときラヴジョイが「存在の大いなる連鎖」という基本観念を抽き出す上で根拠としているのは、プラトンの最後の大著『ティマイオス』において展開されている宇宙創成論(コスモゴーニア)の構想あったラヴジョイはその核心を次のように言っている。「「最も善き魂」〔イデアもしくはその担い手としての造物主デミウルゴス〕はおよそ存在し得るには決して存在の与え惜しみはせず「すべてのものができるだけ自分に似ることを望んだ」」。宇宙=世界がこのように創成されたとするならば、そこからはプラトン、より正確にはその後の歴史的展開・変様を含む意味でのプラトン主義の宇宙=世界観に関して、まったく相反する二つの解釈が可能になる。問題の核心はここにある。
もしイデア(デミウルゴス)という「最も善き魂」の全能性に着目するならば、この宇宙=世界の存在の本質は挙げてこの全能なイデアの絶対性に還元されるはずである。実際通常のイデア主義的なプラトン解釈は基本的にこのラインに即して行われる。このことを少し視点をずらして考えるならばこうなる。すなわち宇宙=世界の生成においては、イデア(=造物主)という目に見えない本質とそれを可視化=表象化する被造物としての宇宙=世界という、ちょうど言語、あるいは記号における「意味するもの」と「意味されるもの」の二重性と同一の構造がそこには現出している。そしてその二重性の構造において絶対的優位に立つのは「意味されるもの」の側である。それは言い換えれば、言語=記号の発現構造においてはつねに「意味するもの」が「意味されるもの」へと解消されるということである。これは、例えばはデリダがプラトン以来のヨーロッパ形而上学について「音声中心主義」という言葉で呼んだ内面の声の絶対的な直接性の優位という事態――間接的な媒体(メディア)の徹底的な忌避――や、ユダヤ=キリスト教・イスラム教の伝統に根強く残る「偶像(=図像)禁止」の発想の根底にあるイデア的な超越性の構図の原基をなすものである。間接性や図像性を堕落として捉え、常に透明な直接性として現出する絶対的なイデアを志向する思考はたしかにプラトンの宇宙創成論に由来しているといえる。
だがじつは全く反対の解釈も可能なのである。もう一度先に引用したラヴジョイの文章を見てほしい。そこでは「最も善き魂」が「存在の与え惜しみをせず」といわれている。これこそが後にプロティノスらのネオプラトニズムにおける「流出説」の発端となった「充満の論理」(ラヴジョイ)の原基に他ならない。ラヴジョイの「存在の大いなる連鎖」という概念もこれに由来する。この論理に従うならば宇宙=世界はイデアの完全無欠な似像であることになる。即ちイデア(意味されるもの)は余すところなく宇宙=世界(意味するもの)へと転化され、そのうちに充満しているのである。とするならばプラトンの宇宙創成論は、先ほどとは逆に「意味されるもの」(本質)が「意味するもの」(現象)に還元される論理として解釈されうることになる。これが神話言語や象徴表現によって開示される言語=記号表象の世界の構造を指し示していることは言を俟たない。あるいはこういう言い方も出来るだろう、前者は「声」の直接性・透明性に依拠する思考であるのに対して、後者は「文字(記号=図像)」の間接性・媒介性に依拠する思考であると。さらには前者が偶像破壊主義(イコノクラスム)であり、後者が図像=イメージ的思考であるともいえるだろう。そしてこのプラトンの相反する二つの解釈のあいだには、二つの極のそれぞれの契機・要素を含みながら現実の言語=記号表現として具体化される上での多様な形態が、メディアのあり方までも含めて存在するのである。修辞学、トポス論、弁論術などがそれにあたるが、占星術や音楽、骨相学なども実はその形態の一部と見なすことができる。
                
近代という時代の始まりは、このような文脈から見るならば大筋として偶像破壊主義へと推移してゆく過程と見ることが出来るだろう。例えば数学的方法はその典型である。この意味で香内が本書を「イコン」「イメージ」論争から始めたのは極めて示唆的であるといえよう。とくにM・ウェーバーをまつまでもなくヨーロッパの近代化に大きく寄与したと考えられるピューリタニズム(プロテスタンティズム)が偶像破壊主義の立場に立ってイコン=イメージによる表象を激しく攻撃したことは――もちろんプロテスタント内部でも差はあるにせよ――大いに納得のいくところである。
ただ歴史はそんなに単線的には進行しない。本書の最大のポイントは、初期近代の活字文化を中心とする広義の意味でのメディアの構造やその流通形態が極めて輻輳していることを、ときには歴史が後戻りしたり先取りされたりしながら進行することを、とくに17世紀ピューリタン革命のさなかのイギリスを例にとりながら極めて詳細に跡づけたところにある。例えば近代的なテクスト読解がどのように成立したのかという問題に関して、聖書解釈のあり様かたアプローチした〔Ⅰ〕の2章はたいへん興味深かった。というのも「字義通りの読み」という通常近代的な「読み方」の典型とみなされている読みの形態が、むしろ譬喩(メタファー)を介した読みによってはじめて可能になってゆくことが明らかにされているからである。あるいは「手書き」と「活字」の関係についても、一直線に活字へいってしまうのではなく、ある局面では活字が優位に立ち、ある局面では依然として手書きの方が有効であるというような状況があったことを香内は指摘している。
香内は本書の基本モティーフを「はじめに」の冒頭で次のように言っている。「「視覚文化(“visual culture”)と「活字文化」(“printed culture”)との関係を探る一環として、ホイジンガがのいう中世末の「シンボル的思考」から近代にかけての移行過程、またそのなかでピュ―リタニズムと一緒に出現してくる、新様式の「読み方」形成について、若干のコメントをしておきたい・・・」(14頁)。この言から読みとれる興味深いポイントは、香内が「シンボル的思考」、つまり図像=イメージ的思考のプロセスに関心を払っている点である。ルネサンスとバロックが図像=イメージ的思考の最後の輝きの時代であったこと、このステップを通ることなしに、あるいはそれと同時並行的な進行過程を経ることなしに近代のイコノクラスム文化は決して始まらなかったことに、香内も強い関心を抱いていることが窺える。あまり触れることが出来なくなってしまったが、本書のもう一つの重要な貢献は「読み方」の分析を通して初期近代の読者共同体の構造を明らかにしようとしたことである。このことはハーバーマスの「文芸的公共性」の概念を俟つまでもなく初期近代市民社会の歴史を探る上で重要なポイントとなる。(2005.6

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